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36 新たな日常のスタート2

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「驚かせてしまったようで、申し訳ありませんでした」
「いえ……、あの、驚きはしましたが」
「わたしも少し驚いています。自分以外にも男性のΩがいるとは思っていませんでしたから」

 それには僕も大きく頷いた。
 リュネイル様の話では、これまで男性のΩに出会ったことは一度もなかったそうだ。そこに珍しいΩが王太子の後宮にやって来たという噂を聞いた。漏れ聞く話で僕が男のΩだとわかり、さらにノアール殿下の妃になるということで会いたくなったのだという。
 それにしても、まさかこんな身近に同じ存在がいるとは思わなかった。殿下からも聞いたことがなかったから本当に驚いている。
 さらに驚いたのは、いま国王の後宮には王妃とリュネイル様しかいないということだった。殿下からは三十二人の妃が、という話を聞いたばかりだったけれど、他は全員家や国に帰されたのだという。

「では、陛下の後宮には王妃殿下がお一人で住まわれていて、リュネイル様はこちらに一人で住んでいらっしゃるのですか?」
「最後の妃が後宮を去ったのは、もう二十年以上前になります。それ以降、新しい妃が迎え入れられたことはありません」

 殿下の話では、国王と王太子は多くのΩを妃にして子を作ることが努めだということだったが、なぜ国王は二人以外の妃を帰したのだろうか。もし他に子があれば、殿下が一人で背負わなくてもいいことがたくさんあったはずだ。
 僕が訝しんでいることに気づいたのか、リュネイル様が「いろいろ難しいですね」と微笑んだ。

「わたしに子ができれば、少しは陛下や王太子殿下のお心も安らいだのかもしれませんが」
「それは……」
「子ができなかったというのに、こうして月桃宮に住み続けてしまっています」

 そう言いながら微笑む顔はとても美しく、まさに女神のようだと思った。それなのに、どこか少しだけ憂いを含んでいるように見えるのは気のせいだろうか。

(……そうか、首飾りをしていないということは)

 Ωであるリュネイル様は、αである国王に首を噛まれているのだ。だから、子ができなくても後宮から出られないのだろう。ということは、家や国に帰された妃たちは噛まれていなかったということか。

(殿下の後宮にいる姫君たちも、皆お揃いの首飾りをしたままだったな)

 いまならわかる。それは平等のように見えて本当は残酷なことだ。
 首飾りをつけているということは、誰もが最初の妃になれる可能性があるということだ。それと同時に妃なっていない証拠でもある。
 姫君たちは誰も選ばれていないことに安堵しながら、誰が最初に選ばれるか常に気にしなくてはいけない。家や国を背負い、自分こそが最初の一人になることを望み、自分以外の姫君たちが消えることを願い続ける。それを後宮という場所は姫君たちに強いていた。
 そんな姫君たちの姿が首飾りに象徴されているような気がして、何とも複雑な気持ちになる。

「後宮のことは陛下も思い悩んでいらっしゃいました。その結果、集められた大勢の妃たちが帰されたのです。噛まれていなかった彼女たちは、その後全員他のαに嫁いだと聞いています」
「そうでしたか」
「そういう経験をしたというのに、ご自身もノアール殿下に同じことを強いようとしている。これでは嫌われたとしてもしょうがないと言うのに」

 リュネイル様の言葉に「え?」と思った。もしかして、国王と殿下は仲がよくないのだろうか。

(そういえば、王妃のことは母上と呼ぶのに、国王のことは陛下と呼んでいたか)

 いままで気にしたことがなかったが、仲違いしている上でそう呼んでいるのだとしたら……。もしかして、いまだに僕の国王への拝謁が叶わないのは、そのあたりが原因だったりするのかもしれない。

(そうなると、僕もよく思われていないかもしれないってことか)

 殿下の妃に決まったいま、どこかで必ず国王に拝謁しなくてはいけなくなる。もしかしたら、そこで何かしら言われるのではないかと思った。たとえば「つぎの妃は誰か」だとか、「子はまだか」だとかは十分に考えられる。

(それを王太子であるノアール殿下が断ることは難しいだろうな)

 殿下に新しい妃を……想像しただけで胸がちくちく痛んだ。殿下は僕以外に妃を迎えるつもりはないと話していたが、子ができなければそうも言っていられなくなる。発情のときにαとΩが閨を共にすれば懐妊するものだと聞いているが、男のΩが本当に懐妊できるのかもわからないままだ。

(……それに、リュネイル様には子ができなかった)

 それが答えだとしたら……。

「大丈夫ですよ」

 優しい声に視線を向けると、柔らかい笑みを浮かべたリュネイル様が僕を見ていた。その表情があまりに素晴らしくて、不躾なほど見つめてしまった。
 僕はこれまで多くの肖像画を描いてきたが、こんなに美しい人を描いたことはない。一度でいいから、こんな美しい人を描いてみたいと画家の欲望がわき上がってくる。
 黄金の髪が映えるのは青空だろうか。海のように濃い碧眼と空の対比は見惚れるほど美しいだろう。もしくは優美な庭園を背景にしても映えそうだ。あぁ、窓の向こうに広がる庭など、女神のようなリュネイル様にぴったりじゃないか。

「心配しなくても大丈夫ですよ」

 リュネイル様の声にハッとした。話の途中だったのに、僕の頭の中はすっかり絵を描くことでいっぱいになってしまっていた。絵について一方的に語るよりかはいいかもしれないが、話の途中で思い耽ってしまうのはよくないことだ。
 改めて「我慢、我慢」と自分に言い聞かせながらリュネイル様を見る。

「あの、大丈夫とおっしゃるのは……?」
「ノアール殿下は、間違いなくランシュ殿下を大事にされるでしょう。お小さい頃から見てきましたが、そういう気質の殿下でいらっしゃいます」
「それは、なんとなくわかります」

 殿下は真面目な方だ。しかし考え方は柔軟で、僕が絵を描くことにも賛成してくれている。首飾りのデザインという新しいことにも挑戦させてくれた。それらすべてが僕を思ってくれてのことだというのは、ちゃんとわかっている。

「それに、先手を打つのも早くていらっしゃる。それだけランシュ殿下のことを真剣に思っているということでしょうね」
「先手を打つ……?」
「陛下が何かおっしゃったとしても、気にされないことです」
「はい」

 よくはわからないが、どうやら僕を気遣ってくださっているらしい。

(もしかして、同じ男のΩだから気にかけてくださったんだろうか)

 だから、こうして月桃宮に招いたのかもしれない。それも、おそらく国王には内緒でだ。……なるほど、それなら他の手紙に紛れ込んで届いたのも頷ける。

(しかし、それほど陛下と殿下の仲がかんばしくないのであれば、殿下に言わずにここに来たのはまずかったかな)

 そう考えた僕に、何もかもお見通しらしいリュネイル様がにこりと微笑んだ。

「ノアール殿下には先ほど使いを出しましたから、ランシュ殿下がここにいらっしゃることはご存知です。ただ、いらっしゃる前に知られると止められたでしょうから“殿下には内緒で”と書かせていただきました」
「そうでしたか」

 理由はわかったが、同じ男のΩだからと正直に話せば止められることはなかったような気がする。そう思い、もしかしてと考えた。

(もしかして、殿下はリュネイル様が男のΩだと知らないのか……?)

 というよりも、王宮の誰も知らないのではないだろうか。そうでなければ、僕を珍獣のように珍しがったりはしないはずだ。
 よくわからないが、リュネイル様が男のΩだということは秘密に違いない。それなら僕も余計なことは言わないほうがいい。よその国から来た僕が口を出して後宮で揉め事が起きては大変だし、そうなってはますます殿下と国王の仲が拗れてしまいかねない。

(それに、こういう配慮もよその国から嫁ぐ妃の心構えだそうだからな)

 閨教育の本で学んでおいてよかった。あの本にはそういう苦労をする妃たちを労ることも大事だと書かれていたが、まさか自分が妃の立場になって実感することになるとは思わなかった。

「もしノアール殿下にお叱りを受けるようなことがあれば、わたしのせいにしてください」
「いえ、殿下はこのくらいで叱ったりはされないと思います」
「ふふっ、たしかに」

 あぁ、やっぱりリュネイル様の微笑みは女神のようだ。いつか絵に描くためにもと、失礼にならない程度に見つめながらしっかりと目に焼きつける。

「男性のΩは発情が不安定になりやすいと言われています。普段から気持ちを和らげ、あまり考えすぎないほうがいいでしょう。ランシュ殿下も心安らかに過ごされてください。そうだ、お嫌いでなければハーブティーやポプリを使われるのもよいかもしれませんね」
「なるほど……よいことを教えていただきました。ありがとうございます」
「子どものことは、周囲がうるさく言っても思い悩まれないことです。お二人はまだお若いのですし、ご結婚され、落ち着いてからでよいと思いますよ」
「そうですね」

 リュネイル様の言うとおりだ。思い悩んだところで子ができるわけでもないし、いまは婚姻に向けてしっかり準備するほうが大事だ。それに発情が安定すれば子もできやすくなるに違いない。
 リュネイル様と話すことで、案じていたことが少し晴れたような気がした。

 月桃宮でしばらくリュネイル様と話をしたあと、部屋に帰る前にアールエッティ王国から届いた荷物を取りに行くことにした。すっかり帰国する気でいたから多くの画材を送り返してしまったが、この先ずっとビジュオール王国にいるとなると再び大量の画材が必要になる。
 そこで、父上に定期的に画材を送ってもらうようにお願いした。もちろん到着時にきちんと代金を支払う手続きも済ませてある。支払うのは僕で、ビジュオール王国で売れた絵画の代金を当てることにした。

「少しでもアールエッティ王国の収益になればいいんだが……」

 そう思ってはいるものの、残念ながら画材代だけでは大した金額にはならない。今後ずっと支払うとしても、送ってもらう手間を考えるとよい方法だとは思えない。

「やはり、根本的な部分をどうにかしないとなぁ」

 本来、こういうことは王子である僕が考えることではないかもしれない。しかし国の財政難をどうにかするためにビジュオール王国に嫁ぐのだし、両国にとってよい形の取引ができないか考えるのも僕の役目だ。

「何にしても、一度じっくり考える必要がありそうだ」

 そんなことを思いながら、今し方受け取った画材を見た。今回はキャンバスを多めに送ってもらったが、やはりビジュオール王国のものとは質がまったく違う。この質のキャンバスを求めるなら、アールエッティ王国から運んでもらうしかないのだが……。
 何枚も重なったキャンバスを見ながら、後宮の出入り口に近い自分の部屋へと向かった。長い廊下に僕が歩くトントンという足音が響く。

(やけに静かだな……)

 これまでなら、そろそろ姫君たちの集団に出会うところだ。久しぶりに会うのにキャンバスを抱えている姿では、何を言われても仕方がないなとため息が漏れる。

(婚姻が決まったのに、まだ画家のようなことをしてとか言われそうだ)

 それも仕方がないと覚悟をしながら足を進めたが、一向に姫君たちは現れない。

「そういえば、月桃宮に行くときも誰にも会わなかったな」

 少なくとも一度は姫君たちの集団に出くわしそうなものなのに、珍しいこともあるものだ。「まぁ、会わなくて済むのならそれに越したことはないか」と思い、かさばるキャンバスを抱え直して廊下を歩いた。
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