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3 女神の愛し子1
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その日は砦のような屋敷で一夜を過ごすことになった。湯浴みをするように言われて案内された浴場は捕虜が使うには豪華な様子で、戸惑いながらも湯を使って身支度を整える。新たに用意された服はアトレテス風のものだったが、見た目や手触りから貴族が着るものだとわかった。たしかに生まれは王族だが今は敗戦の将、ただの捕虜なのにと思わずにはいられない。
(それとも、これだけの扱いをするのだから役に立てということだろうか)
流されるままこうして生きている自分に嫌気が差した。しかし今さらどうにかなるわけでもない。
(心を落ち着かせよう)
床に両膝をつき、背筋を伸ばしてから右手を胸に当てる。そうして目を閉じ恵み深き女神に祈った。戦場でも欠かさず祈りを捧げてきたが、内容は神官兵たちへの加護とアトレテス王国への謝罪がほとんどだった。そこに今夜は散っていった兵や民たちが安らかに眠れるようにという祈りも加える。
ゆっくりと目を開け、窓を見た。王都にあった神殿と違い窓の外は真っ暗だ。深い闇を見つめながら「どうか願う最期を迎えられますように」とつぶやく。こうして捕虜一日目の夜は過ぎた。
翌朝、簡単な朝食を食べていると男が一人、アトレテスの武人に連れられて部屋にやって来た。男を見た瞬間驚きのあまり目を見開いた。
「ヨシュア」
漏れた声にヨシュアがわずかに眉を寄せた。それも一瞬で、すぐにいつものように頭を下げる。
ヨシュアは自分の副官で、王都を発つときからもっとも身近にいた存在だ。いつの間にか姿が見えなくなり捕まったものだとばかり思っていたが、首をはねられていなかったことにホッとする。
「無事でよかった」
思わずそう声をかけたが、ヨシュアのほうは思うところがあるのか複雑そうな表情を浮かべた。
ヨシュアを連れてきた武人が「貴殿の世話係だ」と告げた。
「世話係?」
「陛下より格別の温情だとお考えいただくように」
それだけ言うと武人は部屋を出て行った。残されたヨシュアはぐるりと部屋を見回すと、近くにあった椅子に手を伸ばしたかと思えば壁際に置いて腰かける。その様子に「相変わらずだな」と苦笑にも似たため息が漏れた。
(ヨシュアはわたしの副官に選ばれたことを快く思っていないのだろう)
王都を発って十カ月以上寝食を共にしてきたが、いまだにヨシュアが何を考えているのかわからない。はじめの頃は少しでも距離を縮めようと積極的に話しかけたりしたが、返ってくるのは「お気遣いいただきませんように」という言葉ばかりで、今もどことなく拒絶するような雰囲気を漂わせていた。
(これまでどうしていたのか、陛下や王太子が捕らえられたことを知っていたのか聞きたいことはたくさんあるが……いや、今は無事だったことを喜ぶべきだな)
そもそも尋ねても答えてくれるかわからない。戦場では毎日が必死だったため気にすることはなかったが、改めてヨシュアとの関係を思い返すと情けない気持ちになった。
(わたしは副官と心を通わせることすらできないままだったのか)
それでもこうして生き残った者同士、多少は気持ちを慰め合いたい。そう思って何度か視線を向けるもののヨシュアがこちらを見ることはなかった。窓を見つめるその目には、はたして何が映っているのだろうか。そんなことを思いながら無言で食事を進めた。
その後ヨシュアとともに馬車に乗せられ、半日ほどかけて向かったのはディエイガー将軍の屋敷だった。てっきり牢部屋なりに入れられるのだと思っていたが、連れて行かれたのは広々とした部屋で窓からは日の光が差し込んでいる。どういうことだと戸惑いながら案内してくれた執事風の男を見るが、男はただ頭を下げただけで何も告げることなく部屋を出て行ってしまった。
(ここは将軍の屋敷だと聞いたが、もしかして別邸なのだろうか)
別邸を丸ごと牢屋敷にする、ということだろうか。それにしては普通の部屋のように見える。屋敷自体も街にほど近い場所にあり、先ほどの男も武人ではなく明らかに使用人といった雰囲気だった。牢屋敷に使用人を置くのはおかしな話で、これが本邸ならわかるが……そこまで考え「まさか」と男が出て行った扉を見た。
(まさかここは将軍が暮らしている屋敷……なのか?)
それなら執事らしき男がいるのもわかる。だが自分たちは捕虜のはずで本邸に住まわせるのはおかしな話だ。仮にそうするしかないのだとしても、こんな普通の部屋に案内するはずがない。それもただの使用人に案内させるとは、いくら武器を持っていないとはいえ逃亡されるとは思わなかったのだろうか。
(そんなことをする人間じゃないと思ったということか……?)
まるで捕虜の自分を信頼しているようじゃないか……思わず頬が緩みそうになった。言葉すら交わしていないのに本当に信頼してくれているのだとしたらこんなにも嬉しいことはない。ほんの少し鼓動が速まったところで「殿下」と呼びかけられてハッとした。
「くれぐれもご自身のお立場をお忘れなきように」
まるで咎めるように茶色の目がじっとこちらを見ている。
「わかっている」
「殿下は将軍である前に大地の女神の愛し子でいらっしゃいます。女神の愛し子が存命している限りメレキア神官軍が、メレキア王国が消滅することはありません。そのことを決してお忘れなきように」
抑揚のない声に神殿にいたときのような息苦しさを感じた。ヨシュアが何を考えているかわからないが、我らの身は女神のためにあるのだと言いたいのだろう。
(ヨシュアは神官の鑑だな)
詳しいことはわからないが、ヨシュアはもとは家格の低い貴族の出だと聞いている。自分と同じくらいの歳から神殿にいるという話だが、きっと昔から信心深い人間だったのだろう。だから二十八歳という若さで副官の一人に選ばれたに違いない。
(わたしに付かなければこんな目に遭うこともなかっただろうに)
ヨシュア・ダーキンは三十代、四十代が多い副官の中では若いほうだ。だから二十五歳の自分の副官に任命された。二十五の自分が将軍に命じられたのは肩書きや王太子の思惑のためだろうが、ヨシュアは敬虔で優秀な神官だったから選ばれたのだろう。そんなヨシュアから見れば自分は不甲斐ない神官にしか見えないに違いない。
「わかっている」
「それならばよろしいのですが」
そう告げるとスッと頭を下げ、出入り口近くの部屋に入ってしまった。扉が閉まる小さな音に壁のようなものを感じてため息が漏れる。
(ヨシュアはわたしが本当に女神の愛し子と呼ばれるに値する存在か疑っているのだろうな)
一部の神官たちから煙たがられているのは知っている。第二王子という身分を捨ててまで神官になったことに不満や不快感を持っている神官がいることもわかっていた。自分から願って神殿に入ったわけではないが、そう思われても仕方がないのもわかっている。
家格の低い貴族の中には食い扶持を減らすために神官になる者もいると聞いた。ヨシュアがそうなのか聞いたことはないが、もしそうだとしたら王子という恵まれた地位にありながら神殿に入り、神殿でも大事にされる様子は目障りに感じたことだろう。
(しかも捕虜になってもわたしの世話係などと言われれば怒るのも当然だ)
ふと、自分の世話係をさせるためにヨシュアを捕まえたのではという考えがよぎった。半年前にこの状況になることを予想していたのなら十分考えられる。
「わたしにそんな価値はないのにな」
思わずそんな言葉が漏れた。王妃と王太子には疎まれ、父王には道具として期待され、神殿や民たちからは女神の愛し子と祭り上げられる。だが、それだけだ。そんな自分は武人になる夢を諦め切れず剣の腕を磨いてきたが、結局武人になることはできなかった。
「わたしはいったい何者なのだろう」
情けない声に笑いたくなった。「こんなことでは駄目だ」とあえて口に出して正面を見る。
あとどのくらい生きられるかわからないが、この命もそう長くはないはずだ。それなら残りの時間を自分の好きなように生きても女神は咎めたりはしないだろう。もちろん神官としての務めを放棄しようとは思わないが、神官であることに縛られたくはない。「できれば武人として最期を迎えたかったが」と思ったものの、それは過ぎたる望みだ。
(ここが最後を過ごす部屋か)
改めて部屋を見回した。廊下に繋がる扉を入ってすぐのこの部屋は、いわゆる日常を過ごす居間のようなものだろう。貴族の部屋として広いかどうかわからないが神殿の自室よりはずっと広い。
ヨシュアが消えた部屋にはベッドや小さなテーブルがあった。チラッとしか見えなかったが寝室として使うぶんには十分だった。その部屋の向かい側にも扉がある。開けると手桶や水瓶、それに大甕のような容器が置いてあった。大甕は湯浴み用の湯を入れるものに違いない。
奥にもう一つ扉があった。取っ手を押したり引いたりしたが鍵が掛かっているのか動かない。使用人専用の扉だろうか。
水回りの部屋を出て居間の奥にある部屋を覗く。中にはベッドと小さなテーブル、それに椅子やクローゼットらしきものがあった。クローゼットを開くとアトレテスの服の中にメレキア風の服がある。
「神官服に似ているな」
戦争前は毎日着ていた服だというのにやけに懐かしく感じられた。
どの部屋に置かれている調度品も派手ではないが質が良く、掃除も行き届いている。窓から見える庭に可憐な花々はないようだが木々はよく手入れをされていた。これなら窓から外を眺めるだけで気分転換になりそうだ。
(それにしても格子のない部屋を牢部屋に使うとは……)
それさえも将軍に信頼されている証のような気がして胸がポッと温かくなる。そんなふうに考えてしまう自分に呆れてしまった。苦笑しながら丘の上で見た人影を思い浮かべた。そうして王の前で見た大きな足を思い出し、それから部屋を見渡す。
(将軍は剣の腕前だけでなく心持ちもすばらしいのだな)
今まで知る術のなかった将軍の一面に触れられたような気がして胸が熱くなった。
(こうして最後のときを将軍の近くで過ごせるとは……まるで女神からの祝福のようだ)
生まれたときから母の姿はなく父王と触れ合うこともなく、義理の母となった王妃には疎まれ異母兄には煙たがられた。それがただただ悲しくて寂しくて、そんなときに目にしたのがディエイガー将軍だった。
(堂々としていて眼差しは凛々しく、それにメレキアでは見たことがない雄々しい体にわたしは神を見たのだ)
将軍こそが自分を救ってくれる神に違いないと感じた。神官になってもその気持ちは変わらなかった。よりどころとすべき女神より余程熱心に思っていた気がする。そのことに後ろめたい気持ちを抱いたのは一度や二度ではない。
(そんなわたしに女神が最後にこのような祝福を与えてくれた)
それなら最後くらい心のままに生きようじゃないか。そう思ったからかメレキアにいたときよりも体が軽くなったような気がした。そんなふうに思える状況ではないのにと苦笑しながら窓に視線を向ける。
空には薄雲がかかっているのか、メレキア王国の青々とした色とは違ってくすんで見えた。それでも戦場で見た空よりずっと明るい。
(さて、これからどう過ごしていこうか)
おそらく部屋から出ることはできないだろう。そうなると祈ることくらいしかできることはないが、それでは時間を持て余してしまいそうだ。神殿に入ってから二十年近く、自由に使える時間はすべて剣の鍛錬に充てていたからか途方もない日々のように思えた。同時にそうした時間すべてを将軍の近くで過ごせるのだと思うと心躍るような気分になる。
(あぁいや、浮かれては駄目だ。そんなことでは命を落とした者たちにもメレキアにも顔向けができない)
フーッと細く長く息を吐く。民のため、祖国のために祈ろうというのも本心だ。
(祈るのも将軍のことを思うのも、心のままにすればいい)
この先どうなるかわからない。それでも流されるだけの人生よりずっと価値があるような気がした。「よし」と小さく気合いを入れ、捕虜としての日々を自分らしく生きるのだと決意した。
(それとも、これだけの扱いをするのだから役に立てということだろうか)
流されるままこうして生きている自分に嫌気が差した。しかし今さらどうにかなるわけでもない。
(心を落ち着かせよう)
床に両膝をつき、背筋を伸ばしてから右手を胸に当てる。そうして目を閉じ恵み深き女神に祈った。戦場でも欠かさず祈りを捧げてきたが、内容は神官兵たちへの加護とアトレテス王国への謝罪がほとんどだった。そこに今夜は散っていった兵や民たちが安らかに眠れるようにという祈りも加える。
ゆっくりと目を開け、窓を見た。王都にあった神殿と違い窓の外は真っ暗だ。深い闇を見つめながら「どうか願う最期を迎えられますように」とつぶやく。こうして捕虜一日目の夜は過ぎた。
翌朝、簡単な朝食を食べていると男が一人、アトレテスの武人に連れられて部屋にやって来た。男を見た瞬間驚きのあまり目を見開いた。
「ヨシュア」
漏れた声にヨシュアがわずかに眉を寄せた。それも一瞬で、すぐにいつものように頭を下げる。
ヨシュアは自分の副官で、王都を発つときからもっとも身近にいた存在だ。いつの間にか姿が見えなくなり捕まったものだとばかり思っていたが、首をはねられていなかったことにホッとする。
「無事でよかった」
思わずそう声をかけたが、ヨシュアのほうは思うところがあるのか複雑そうな表情を浮かべた。
ヨシュアを連れてきた武人が「貴殿の世話係だ」と告げた。
「世話係?」
「陛下より格別の温情だとお考えいただくように」
それだけ言うと武人は部屋を出て行った。残されたヨシュアはぐるりと部屋を見回すと、近くにあった椅子に手を伸ばしたかと思えば壁際に置いて腰かける。その様子に「相変わらずだな」と苦笑にも似たため息が漏れた。
(ヨシュアはわたしの副官に選ばれたことを快く思っていないのだろう)
王都を発って十カ月以上寝食を共にしてきたが、いまだにヨシュアが何を考えているのかわからない。はじめの頃は少しでも距離を縮めようと積極的に話しかけたりしたが、返ってくるのは「お気遣いいただきませんように」という言葉ばかりで、今もどことなく拒絶するような雰囲気を漂わせていた。
(これまでどうしていたのか、陛下や王太子が捕らえられたことを知っていたのか聞きたいことはたくさんあるが……いや、今は無事だったことを喜ぶべきだな)
そもそも尋ねても答えてくれるかわからない。戦場では毎日が必死だったため気にすることはなかったが、改めてヨシュアとの関係を思い返すと情けない気持ちになった。
(わたしは副官と心を通わせることすらできないままだったのか)
それでもこうして生き残った者同士、多少は気持ちを慰め合いたい。そう思って何度か視線を向けるもののヨシュアがこちらを見ることはなかった。窓を見つめるその目には、はたして何が映っているのだろうか。そんなことを思いながら無言で食事を進めた。
その後ヨシュアとともに馬車に乗せられ、半日ほどかけて向かったのはディエイガー将軍の屋敷だった。てっきり牢部屋なりに入れられるのだと思っていたが、連れて行かれたのは広々とした部屋で窓からは日の光が差し込んでいる。どういうことだと戸惑いながら案内してくれた執事風の男を見るが、男はただ頭を下げただけで何も告げることなく部屋を出て行ってしまった。
(ここは将軍の屋敷だと聞いたが、もしかして別邸なのだろうか)
別邸を丸ごと牢屋敷にする、ということだろうか。それにしては普通の部屋のように見える。屋敷自体も街にほど近い場所にあり、先ほどの男も武人ではなく明らかに使用人といった雰囲気だった。牢屋敷に使用人を置くのはおかしな話で、これが本邸ならわかるが……そこまで考え「まさか」と男が出て行った扉を見た。
(まさかここは将軍が暮らしている屋敷……なのか?)
それなら執事らしき男がいるのもわかる。だが自分たちは捕虜のはずで本邸に住まわせるのはおかしな話だ。仮にそうするしかないのだとしても、こんな普通の部屋に案内するはずがない。それもただの使用人に案内させるとは、いくら武器を持っていないとはいえ逃亡されるとは思わなかったのだろうか。
(そんなことをする人間じゃないと思ったということか……?)
まるで捕虜の自分を信頼しているようじゃないか……思わず頬が緩みそうになった。言葉すら交わしていないのに本当に信頼してくれているのだとしたらこんなにも嬉しいことはない。ほんの少し鼓動が速まったところで「殿下」と呼びかけられてハッとした。
「くれぐれもご自身のお立場をお忘れなきように」
まるで咎めるように茶色の目がじっとこちらを見ている。
「わかっている」
「殿下は将軍である前に大地の女神の愛し子でいらっしゃいます。女神の愛し子が存命している限りメレキア神官軍が、メレキア王国が消滅することはありません。そのことを決してお忘れなきように」
抑揚のない声に神殿にいたときのような息苦しさを感じた。ヨシュアが何を考えているかわからないが、我らの身は女神のためにあるのだと言いたいのだろう。
(ヨシュアは神官の鑑だな)
詳しいことはわからないが、ヨシュアはもとは家格の低い貴族の出だと聞いている。自分と同じくらいの歳から神殿にいるという話だが、きっと昔から信心深い人間だったのだろう。だから二十八歳という若さで副官の一人に選ばれたに違いない。
(わたしに付かなければこんな目に遭うこともなかっただろうに)
ヨシュア・ダーキンは三十代、四十代が多い副官の中では若いほうだ。だから二十五歳の自分の副官に任命された。二十五の自分が将軍に命じられたのは肩書きや王太子の思惑のためだろうが、ヨシュアは敬虔で優秀な神官だったから選ばれたのだろう。そんなヨシュアから見れば自分は不甲斐ない神官にしか見えないに違いない。
「わかっている」
「それならばよろしいのですが」
そう告げるとスッと頭を下げ、出入り口近くの部屋に入ってしまった。扉が閉まる小さな音に壁のようなものを感じてため息が漏れる。
(ヨシュアはわたしが本当に女神の愛し子と呼ばれるに値する存在か疑っているのだろうな)
一部の神官たちから煙たがられているのは知っている。第二王子という身分を捨ててまで神官になったことに不満や不快感を持っている神官がいることもわかっていた。自分から願って神殿に入ったわけではないが、そう思われても仕方がないのもわかっている。
家格の低い貴族の中には食い扶持を減らすために神官になる者もいると聞いた。ヨシュアがそうなのか聞いたことはないが、もしそうだとしたら王子という恵まれた地位にありながら神殿に入り、神殿でも大事にされる様子は目障りに感じたことだろう。
(しかも捕虜になってもわたしの世話係などと言われれば怒るのも当然だ)
ふと、自分の世話係をさせるためにヨシュアを捕まえたのではという考えがよぎった。半年前にこの状況になることを予想していたのなら十分考えられる。
「わたしにそんな価値はないのにな」
思わずそんな言葉が漏れた。王妃と王太子には疎まれ、父王には道具として期待され、神殿や民たちからは女神の愛し子と祭り上げられる。だが、それだけだ。そんな自分は武人になる夢を諦め切れず剣の腕を磨いてきたが、結局武人になることはできなかった。
「わたしはいったい何者なのだろう」
情けない声に笑いたくなった。「こんなことでは駄目だ」とあえて口に出して正面を見る。
あとどのくらい生きられるかわからないが、この命もそう長くはないはずだ。それなら残りの時間を自分の好きなように生きても女神は咎めたりはしないだろう。もちろん神官としての務めを放棄しようとは思わないが、神官であることに縛られたくはない。「できれば武人として最期を迎えたかったが」と思ったものの、それは過ぎたる望みだ。
(ここが最後を過ごす部屋か)
改めて部屋を見回した。廊下に繋がる扉を入ってすぐのこの部屋は、いわゆる日常を過ごす居間のようなものだろう。貴族の部屋として広いかどうかわからないが神殿の自室よりはずっと広い。
ヨシュアが消えた部屋にはベッドや小さなテーブルがあった。チラッとしか見えなかったが寝室として使うぶんには十分だった。その部屋の向かい側にも扉がある。開けると手桶や水瓶、それに大甕のような容器が置いてあった。大甕は湯浴み用の湯を入れるものに違いない。
奥にもう一つ扉があった。取っ手を押したり引いたりしたが鍵が掛かっているのか動かない。使用人専用の扉だろうか。
水回りの部屋を出て居間の奥にある部屋を覗く。中にはベッドと小さなテーブル、それに椅子やクローゼットらしきものがあった。クローゼットを開くとアトレテスの服の中にメレキア風の服がある。
「神官服に似ているな」
戦争前は毎日着ていた服だというのにやけに懐かしく感じられた。
どの部屋に置かれている調度品も派手ではないが質が良く、掃除も行き届いている。窓から見える庭に可憐な花々はないようだが木々はよく手入れをされていた。これなら窓から外を眺めるだけで気分転換になりそうだ。
(それにしても格子のない部屋を牢部屋に使うとは……)
それさえも将軍に信頼されている証のような気がして胸がポッと温かくなる。そんなふうに考えてしまう自分に呆れてしまった。苦笑しながら丘の上で見た人影を思い浮かべた。そうして王の前で見た大きな足を思い出し、それから部屋を見渡す。
(将軍は剣の腕前だけでなく心持ちもすばらしいのだな)
今まで知る術のなかった将軍の一面に触れられたような気がして胸が熱くなった。
(こうして最後のときを将軍の近くで過ごせるとは……まるで女神からの祝福のようだ)
生まれたときから母の姿はなく父王と触れ合うこともなく、義理の母となった王妃には疎まれ異母兄には煙たがられた。それがただただ悲しくて寂しくて、そんなときに目にしたのがディエイガー将軍だった。
(堂々としていて眼差しは凛々しく、それにメレキアでは見たことがない雄々しい体にわたしは神を見たのだ)
将軍こそが自分を救ってくれる神に違いないと感じた。神官になってもその気持ちは変わらなかった。よりどころとすべき女神より余程熱心に思っていた気がする。そのことに後ろめたい気持ちを抱いたのは一度や二度ではない。
(そんなわたしに女神が最後にこのような祝福を与えてくれた)
それなら最後くらい心のままに生きようじゃないか。そう思ったからかメレキアにいたときよりも体が軽くなったような気がした。そんなふうに思える状況ではないのにと苦笑しながら窓に視線を向ける。
空には薄雲がかかっているのか、メレキア王国の青々とした色とは違ってくすんで見えた。それでも戦場で見た空よりずっと明るい。
(さて、これからどう過ごしていこうか)
おそらく部屋から出ることはできないだろう。そうなると祈ることくらいしかできることはないが、それでは時間を持て余してしまいそうだ。神殿に入ってから二十年近く、自由に使える時間はすべて剣の鍛錬に充てていたからか途方もない日々のように思えた。同時にそうした時間すべてを将軍の近くで過ごせるのだと思うと心躍るような気分になる。
(あぁいや、浮かれては駄目だ。そんなことでは命を落とした者たちにもメレキアにも顔向けができない)
フーッと細く長く息を吐く。民のため、祖国のために祈ろうというのも本心だ。
(祈るのも将軍のことを思うのも、心のままにすればいい)
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