美しき神官は戦神の宝珠となる

朏猫(ミカヅキネコ)

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13 予兆

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 将軍が屋敷を不在にした七日間、神官に成り立てのときのようにひたすら女神に祈った。おかげで身を焦がすような欲もなんとか収まり、体の昂ぶりもようやく感じなくなった。そのことにホッとしたものの、今度はヨシュアの眼差しが気になっていた。

(寝室に籠もっていたのを訝しがられたか)

 いや、そんなことを気にするとは思えない。そもそもヨシュア自身いつも寝室に籠もりきりで、居間にいる自分のことを気にする素振りを見せることすらなかった。今日も七日ぶりの将軍の呼び出しだというのに寝室から出てくることすらない。

(それでも気をつけたほうがいいか)

 そんなことを考えながら空を仰ぎ見た。七日ぶりの中庭はいつもより少しだけ空気を熱い。将軍の話ではそろそろ夏の走りだということだが、アトレテスの夏はどんな感じなのだろうか。
 メレキアの夏は湿度が高く雨もよく降っていた。北方は雨が少ないと聞いていたが、たしかにメレキアより乾燥しているように感じる。これなら夏場でも外で鍛錬できそうだ。メレキアでは堂々と外で剣を持つことができなかったのを考えると、少しだけ浮き足立つような気分になる。

(……と思っていたのだが)

 いざ手合わせが終わると思っていたより汗がひどい。そうなることを予想していたのか将軍に手渡された手拭いは三枚で、そのうち一枚は顔を拭っただけですっかり濡れてしまっていた。

「ふぅ」

 小屋の前の日陰に入っても汗が流れ落ちる。

「アトレテスの夏はこれからですよ」

 そう言いながらエルドがコップを差し出した。中を見ると透明な液体が入っている。水かと思ったが、パチパチと何かが弾けるような音がしていることに気がついた。

「これは?」
「炭酸水です」
「これが炭酸水か」


 聞いたことはあったが目にしたのは初めてだ。「我が国ではあちこちで炭酸水が湧き出していましてね」という言葉に、「へぇ」と改めてコップの中身を見る。
 見た目は水と変わらないが、底のほうから気泡が上がってきてパチパチと小さな音を立てている。口を近づけると弾けた気泡が唇に当たった。口に含むと舌がピリッとして一瞬驚いたが、喉を通過するときの爽快感はなんともいえず心地いい。

「日差しの下で飲む炭酸水はなかなかのものでしょう? 真夏になればさらに気分爽快になりますよ。そうそう、夏になると酒を炭酸水で割って飲むやつもいるくらいです」
「おいしそうだな」
「言っておきますが、ただ単に混ぜただけじゃあおいしくありません。夏になったらとっておきの炭酸割りをご馳走して差し上げますよ」
「それは楽しみだ」

 そう答えながら「はたして夏までこの首は繋がっているのだろうか」と考えた。祖国とアトレテス王国との戦争は暖かな風が吹き始めた頃に終わった。それからすでに四十日以上は経っているはずだ。

(メレキアは今どうなっているだろうか)

 女神に祈りながら思いを馳せることはあったものの、いつの間にか一番に考えるのは将軍のことばかりになっていた。「なんて薄情な神官だろうか」と我ながら情けなくなる。

(陛下と王太子はどうなったのだろうか)

 幽閉されたという話を聞いたのは囚われの身になったときで、その後どうなったかわからないままだ。将軍なら知っているだろうが、不用意に尋ねればよからぬことを考えているのではと疑われかねない。

(まだ命があるとよいのだが……いや、あったとしても二人もいずれ首をはねられるだろう)

 どこまで併合が進んでいるかわからないが、メレキアが完全にアトレテスの支配下に置かれたときが自分の最期だ。国王と王太子が生かされていたとしても併合が見通せた段階で首をはねられるだろう。アトレテスに従うなら命だけは長らえるかもしれないが、あの二人がそうするとは思えなかった。「それはわたしも同じか」と口元が歪む。

(祖国を守れなかったわたしがのうのうと生き続けるのは許されないことだ。……いや、そうじゃない。このまま生きていくのが怖いんだ)

 祖国への気持ちが薄れ、いずれ将軍のことばかり考えてしまうようになるに違いない。それは女神の愛し子と呼ばれる自分には許されないことだ。祖国が滅んだ今すべてを投げ捨てたいと思うこともあるが、二十年間積み重ねてきた神官としての思いは容易に消せるものではない。

(それなのに、一方では将軍のことだけ考えたいと思う自分がいる)

 自分はいったいどうしたいのだろう。まるで昔に戻ったみたいだ。神官の道を歩みながら武人への夢を捨てることができず、それなのに下心で近づいてくる者たちは“元王子”としての自分を重ねる。そうかと思えば女神の愛し子だと祭り上げ、ついには誉れ高き女神の左手へーニアとまで呼ばれるようになった。

(わたしはずっと流され続けてきた)

 その結果がこれだ。残っていた炭酸水を飲み干すべくコップを煽った。痛みさえ感じる喉ごしに苦い気持ちがわき上がる。

「そういえば殿下の剣筋、すっかりディオ仕込みになってきましたね」

 どういう意味だろうか。エルドを見るとニヤッと笑っている。

「気づいていませんでした? 使う剣種は違いますけど、構え方だとか扱い方だとかそっくりになってきていますよ。それに武人としての雰囲気も似てきています」
「雰囲気……?」
「剣気ってやつですかね。剣を持ったときの殿下のすべてがディオそっくりになってきてるんですよ」
「それは……気づかなかった」
「ま、本人はそうでしょうね。ですがディオは気づいていると思いますよ? むしろわかっていて仕込んでいるんじゃないでしょうかね」
「え?」

 今のはどういう意味だろうか。視線を向けるが答える気はないらしくエルドは笑ったままだ。だが、緑色の目は笑っていない。

(そういえばエルドもたまにこうした目でわたしを見るな)

 ヨシュアとは違うが、見透かすような眼差しがどことなく似ている気がした。おそらくディエイガー将軍の副官として自分を疑っているのだろうか。「そういえばお目付役だと言っていたか」と手合わせを始めた頃の言葉を思い出し、なんとも言えない気持ちになった。

(すっかり打ち解けたと思っていたのはわたしだけだったのか)

 捕虜を見張るのは当然のことだ。それなのに自分は何を勘違いしていたのだろう。

「ははは、こりゃ失礼しました。やっぱりあんないかつい男に似てきているなんて言われたら嫌ですよねぇ」
「……いや」
「気を遣わなくていいですって。殿下の気持ちはさて置いて、ディオの本気を見るのは久しぶりなんで俺も楽しませてもらっています」
「それはどういう……?」
「口には出しませんが、ディオは殿下のことを相当気に入っていますよ」
「まさか、」
「そうでなけりゃ、わざわざこうして手合わせだの手ほどきだのするわけがありません。ああ見えてディオもそれなりに忙しい身ですからね。それでも殿下との時間を作るってことは相当強い思い入れがあるってことです」
「……そうか」

 思ってもみなかった内容に胸がくすぐったくなった。それほど将軍に思われていたのかと思うと頬まで熱くなる。

(それはつまり、武人として認めてくれたということだろうか)

 もしそうだとしたら、これほど嬉しいことはなかった。長年憧れ続けてきた相手に認められた……そう考えるだけでこみ上げるものがある。
 恋情を伝えることはできなくても武人としての思いなら告げることができる。それだけで十分じゃないか。頬が緩むのが自分でもわかった。

「マジか」

 驚いているような、しかしそれとは少し違うような声がした。どうしたのだろうとエルドを見ると、なぜかギョッとしたような表情に変わる。

「どうかしたのか?」

 首を傾げると「いやいやいや、その顔はディオ以外に見せないでくださいって!」と言われて眉間に皺が寄った。

「どういう意味だ?」
「あぁ~! だからそうした顔はディオの前だけで」
「俺がどうかしたのか?」

 エルドの慌てたような声に将軍の声が重なった。すぐに「ひえっ!」とエルドが悲鳴を上げた。くるりと振り返ると「何もしてないからな!」と言いながらなぜか距離を空ける。

「なんだ、俺の悪口でも言っていたのか?」
「そんなこと言いませんって」
「さて、どうだかな。おまえは余計なことばかり殿下の耳に吹き込んでいるだろう」
「いやいやいや、俺はいたって普通のことしか言ってませんよ。それに今だっておまえさんがいかに殿下に」
「エルド」

 将軍の声にエルドがぴたりと口を閉じた。じっと見合っている二人からはなんとも言えない雰囲気が漂っている。

「まったく、おまえは段々口が達者になっていくな」
「そりゃあ仕えている上官が口下手ですからね」
「それなら会議のときに発揮すればいいだろう」
「俺が言わなくてもおまえさんの表情だけでみんな悟りますって。今回の件もそうだったでしょうが」

 また二人が黙った。険悪という感じはしないが何か諍いでもあったのだろうか。エルドがニヤッと笑った。そうして降参したように両手を小さく上げながら「俺はいつだって味方ですよ」と口にする。

「我が将軍はどんなときも勝利を掴む戦神の剣クフォースですからね」

 エルドがこちらを見た。

「それに、そろそろ戦神にも大事な存在が必要なんじゃないかと思っていたところですし。それがまさか女神だとは思いませんでしたが、戦神を抑える宝珠と思えばなるほどと納得できます」
「まだ無駄口を叩くのか?」
「おっと、これ以上ここにいたら命が危ない」
「馬鹿なことを言っていないで、先に訓練場に戻っていろ」
「はいはい。じゃあ殿下、また」

 そう言って頭を下げるとコップを受け取って去って行った。後ろ姿を見送りながら、最後に言っていた宝珠という言葉がやけに引っかかる。

(南方の国にそういう宝物ほうもつがあると聞いたことがあるが……)

 たしか南方の神が持つ神器をそう呼んでいたはずだ。知恵や恵みを与えてくれる神器で、大地の女神エレツィーアが左手につけている豊穣をもたらす腕輪と似ている。ただ、国によっては力と支配を示す神器だとも聞いた。一種の力の象徴としての意味合いが強いのだろう。

「エルドの言葉は聞き流してください。あいつはどうもおしゃべりが過ぎるようで、殿下のお耳を汚していないとよいのですが」
「いえ、いつも楽しませてもらっています」

 これは本心だ。エルドのように気さくに話しかけてくる者がいなかったため最初は戸惑うこともあったが、今ではすっかり親しみを覚えている。

「殿下、こちらへ」
「え?」

 急に声を潜めてどうしたのだろうか。視線を向けると腕を掴まれて驚いた。将軍の顔はいつになく真剣な様子で、気のせいでなければ少し険しくも見える。戸惑いながらも促されるまま小屋と塀の隙間に入った。

「どうかしたのですか?」

 いつもと違う将軍の雰囲気に緊張が走った。何かよくないことでもあったのだろうか。立ち止まった将軍がくるりと振り返り、大きな手が懐から何かを取り出した。

「こちらをお預けします」
「これは……」

 差し出されたのは装飾品が一切ついていない実用的な短剣だった。ただ一カ所、鞘の中央に澄んだ空のような色をした石がはめ込まれている。忘れ物を取りに行くと部屋に戻っていたが、まさかこれを取りに行っていたのだろうか。

「本来、囚われの身である殿下にこのようなものを渡すことは固く禁じられています。ですが、それを押してでもお預けしておきたい」

 短剣の鞘が鈍く光ったような気がした。

「こんなことをしては将軍の立場を危うくするのでは……」
「ですので、誰の目にも触れないようにくれぐれもご注意を。そして肌身離さずお持ちください。もちろん寝所にもお持ちいただくように」

 囁く声はいつもより低く、自分を見るはしばみ色の目は真剣そのものだ。

(何かが起きている……もしくは起きようとしているのか?)

 そうでなければいくら国王の信頼厚い将軍とはいえ、こんなことをするはずがない。短剣を受け取り、しっかりと頷き返した。するとわずかに将軍の表情が緩む。

「殿下と添い寝できる短剣には嫉妬を覚えてしまいますが、どうか常に身に着けておられるように」

 緊張しているのを感じ取り、あえてそんなふうに口にしたのだろう。わかっているのに不安とは別の意味で鼓動がトクンと跳ねた。
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