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15 一通の手紙
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(どうすればよかったのだろうか)
ヨシュアに将軍との手合わせを知られて以降、そのことばかり考えるようになった。それでも将軍に呼ばれれば拒むことができない。
(違うな。拒みたくないのだ)
いまだに執事が呼びに来るのを心待ちにしている自分がいた。そんな自分をヨシュアが快く思うはずがなく、執事がやって来るとすぐに寝室から姿を現す。そうして部屋を出て行く自分を睨むように鋭く見つめた。
(わかっている。だが、わたしは……)
手ほどきを受けながらも思い浮かぶのはヨシュアの言葉ばかりだ。
「殿下」
「え? あ……、」
剣の構えを将軍に指南されている最中だというのにぼんやりしてしまった。あれほど心沸き立っていた気持ちも今では重苦しく心の底から喜びを感じることができない。
「どうかしましたか?」
「少し考え事をしてしまって……申し訳ありません」
「鍛錬用の剣とはいえ上の空で扱うのは危ない。今日はここまでにしましょう」
「いえ、大丈夫です」
「万が一殿下に怪我をさせてはわたしが後悔します」
「……重ね重ね申し訳ありません」
せっかくの機会を無駄にしてしまった。あと何回こうした手ほどきを受けられるかわからないと考えると少しでも長く教わりたい気持ちがわき上がる。しかしこうした気持ちこそが祖国への裏切りだと思うと苦しかった。
(そう思っていても呼ばれればこうして出向いてしまう)
捕虜の身なのだから断ることはできない。……いや、そんなふうに考えるのはただの言い訳だ。
(恋というものがこんなにも苦しいものだとは知らなかった)
仇に恋をするとは、まるで民たちが熱心に読んでいた悲恋の物語のようじゃないか。ついそんなことを思ってしまった自分に苦笑したくなった。
自分は悲劇の王女ではない。悲観しても物語のように誰かがどうにかしてくれるはずもなく、首をはねられる未来が変わることもない。残り少ない命をどう使うべきか考えて決めるのは自分自身だ。
「屋敷に来て随分と経ちます。疲れが出ているのでしょう。しばらく手合わせを休みますか?」
「それは、」
嫌だと口にしかけた言葉を呑み込んだ。いっそ将軍に呼ばれなければ乱れた気持ちも落ち着くかもしれない。それに心を決めるための時間にもなる。
「そうですね」
そこまでは言えたものの「そうします」とは続けられなかった。未練がましい自分に呆れながら渡された手拭いを握り締める。
「汗をそのままにするのはよくありませんよ」
そう言って将軍の手が伸びてきた。避けられない距離ではなかったのに、そうしたくなくておとなしく受け入れる。
「髪が伸びましたね。組紐をお渡ししておいてよかった」
「お気遣い感謝します」
「殿下に健やかに過ごしていただくのがわたしの望みですので」
「ありがとう、ございます」
気遣いと呼ぶには優しすぎる言葉に胸が締めつけられる思いがした。「もしや将軍もわたしのことを……」と身勝手な妄想を抱いてしまうのは不安の表れだろうか。
(あれから短剣の話題に触れることもない)
だが、返すようにとも言われていない。つまりまだ何かしらが起きようとしているということだ。将軍のこと、短剣のこと、ヨシュアの言葉、自分の立場、そうしたものがグルグルと頭の中を巡り気分が重くなる。
「おいおい、あまりグイグイいくと嫌われるぞ?」
エルドの言葉に将軍の手が止まった。沈んだ表情を誤解されたのだと思い、慌てて「嫌ったりなどしません」と将軍を見る。するとはしばみ色の目がわずかに大きくなった。今の態度はおかしかっただろうか。勢いよく上げた顔を下げながら「いえ、あの」と言葉を続ける。
「こうしたことを将軍にさせているわたしのほうこそ……」
言いながら「今さら何を言っているんだ」と呆れてしまった。手合わせの後にこうして汗を拭われるのはもう何度目になるだろう。はじめは困惑するばかりだったのに、気がつけば触れられるのを心待ちにしていた。
今も断らなくてはいけないとわかっているのに、止まってしまった将軍の手に寂しさを感じてしまう。こんな状態でヨシュアに気づかれていないと思っていた自分はなんと愚かだったのだろうか。
「悩み事がおありですか?」
「え……?」
「囚われの身で何もないということはないでしょうが、以前より考え事をされている表情をお見かけするようになりました」
「それは……」
「わたしでよければお聞きしますが」
諭すような低い声が耳に心地いい。優しく汗を拭う手つきもまるで慰めてくれているように感じられた。
「人に話せば気が楽になることもあります」
あぁ、将軍はなんて優しいのだろう。たとえ利用価値があるから気遣ってくれているのだとしても嬉しかった。髪を結ぶ組紐や惜しみなく見せてくれる剣技、それに短剣のことを思うと抑えがたい衝動に駆られそうになる。
「お気遣い感謝します。ですがこれ以上将軍の手を煩わせることはできません」
「そこは気にされなくてよいかと思いますよ? ディオは好きで世話を焼いているんですから」
口を挟んだのはエルドだった。将軍がちろっと視線を向けたからか「おっと、つい口を挟んでしまいました」と降参したように両手を少し上げる。
「いえ、こうしたことをしてもらうのはあまりに失礼でした。申し訳ありません」
まだ首筋に触れている手にそっと触れた。自分から将軍の手に触れたのはこれが初めてだ。大きく熱い手に鼓動が跳ねるのを感じながら、「もういいのだ」と伝えるように少しだけ押し返す。
「捕虜の身には過ぎたる状況に不満も悩みもありません。そんなことを思えば女神に叱られてしまいます」
離れていく手に寂しさより切なさを感じながら、それでも微笑みを浮かべて将軍を見上げた。すると驚いたようにはしばみ色の目がパッと大きくなる。あぁ、そうした表情もなんて好ましいのだろう。駄目だと思えば思うほど焦がれる気持ちがわき上がってどうしようもなかった。
「これまで気を遣っていただき感謝しています」
この言葉にすぐに反応したのはエルドだった。
「いやぁ、殿下はお強い。ですが少しくらい我が儘を言ってもいいのでは?」
「エルドは将軍の副官なのだろう? そんなことを言ってもいいのか?」
気持ちを誤魔化すようにあえて冗談めかせばエルドが「ははは」と笑った。
「我が儘かどうかは別として、何か気になることがあるのならディオに話をすることをお勧めしますよ。殿下のためならどんなことでも解決してくれますから」
にこりと笑い「では、また」と去って行った。
「エルドの言うとおりです。なんでもおっしゃってください」
見送っていた視線を将軍に戻すと「愚痴でもなんでも伺いますよ」と言って微笑んだ。その顔に胸が高鳴るのを感じながら、それでもこれ以上は駄目だと曖昧に微笑み返す。
(いよいよ覚悟を決めなくてはいけない)
手合わせから戻り、一息ついてから思うのはそのことばかりだ。覚悟といってもどの覚悟かと問われると難しい。それでもこれまでのような生活を送るわけにはいかないことだけはわかっている。
(将軍への想いを断ち切る覚悟、神官として祖国に身を捧げる覚悟、元王子として生きる覚悟……いずれも難しいことばかりだ)
いつの間に自分はこんなにも弱くなってしまったのだろうか。神殿にいた頃も悩むことは多かったが、それでも迷いはなかった。
(いや、違うな。迷ったところで流されるままにしか生きられないと諦めていた)
諦めるという意味では今も似たようなものだ。だが諦めるだけでは足りない。少なくともヨシュアはそれ以上のことを自分に求めている。そしてそれが祖国の、民たちの意志なのだとすれば目を逸らすことは許されなかった。
(わたしは何者なのだろうな)
こんなときでもそう思ってしまう自分が嫌になった。
この日から将軍に呼ばれることがなくなった。朝食のときに執事が伝えるのは「本日も健やかに過ごされますようにとのことでございます」という決まり文句だけで、朝以外で執事が姿を現すこともない。
そうなることを願っていたはずなのに胸がチクチクと痛んだ。誤魔化すように寝室で体を動かしたりするものの気分が晴れることはない。気がつけば自分もヨシュアのように寝室に籠もりがちになっていた。「それもいいか」と思うのはヨシュアの気配を感じるのが苦痛になっていたからだろうか。
(向こうもわたしの顔など見たくないだろうし……と思っていたんだが、珍しいな)
朝食後、侍女たちが片付けを終えてもヨシュアは寝室に戻らなかった。それどころか何かを訴えるようにこちらをじっと見ている。
「どうかしたのか?」
そう声をかけられるのを待っていたのか、ゆっくりと近づいてきた。
「こちらを」
差し出されたのは一通の手紙だった。囚われの身でなぜ手紙など持っているのだろうか。そう思いながら受け取り、裏側を見てギョッとした。
「……まさか」
そこにあった封蝋の印はメレキア王家のものだった。思わず指でなぞるが、若葉の王冠と中央に鳥の羽があしらわれた模様は王家のもので間違いない。もし王宮にいたなら自分も使っていただろう封蝋印を撫でていた指が震えた。
何度も「まさか、そんなはずは」と思いながら中身を取り出した。最初に確認したのは最後に書かれているはずの名前で、それを見て再び「まさか」と声が漏れる。
「なぜ兄上からの手紙が……」
最後に記されていた名は“アレクィード”、王太子である異母兄の名前だった。
「何をそんなに驚いておいでなのです」
「これをどうやって手に入れた」
「以前申し上げたはずですが?」
「以前……?」
「わたしはこの屋敷に連れて来られたときから祖国のために動いていました。まず一番に行うのは王太子殿下の安否を確認すること。当然ではありませんか?」
ヨシュアが呆れたように笑った。
「殿下が仇に心を奪われている間も、祖国奪還をと考えていた王太子殿下は密かに動かれていたのですよ? それに比べて殿下のほうはこの有り様……いえ、過ぎたことはもういいでしょう。ですが、これからは恋などにうつつを抜かしている時間はないとお考えください」
ギラリと光る茶色の目に思わず半歩後ずさってしまった。
「今こそ我が国を取り戻すときです。王太子殿下は自ら動かれ、幽閉の地より王宮へ戻る手はずを整えられました」
「……それは本当なのか?」
「本当です。ですからこうして手紙が届いたのです。それに比べて殿下は今まで何をなさっておいででしたか?」
「そ、れは……」
返す言葉がなく口をつぐむと、「やれやれ」と言わんばかりにヨシュアが大きなため息をついた。
「王太子殿下が王宮へ戻れば自ずと民や神官たちは王太子殿下のもとに集まるでしょう。神官軍もすぐに再編成されます。いかにアトレテスといえど全土に広がる神殿をすべて抑えることはできません。多くの高位神官たちは、すでに王太子殿下の号令にはせ参じると表明しています」
「まさか、再び戦争を仕掛けようというのか?」
「いいえ、これは祖国奪還のための戦いです。奪われたものは取り戻す。美しき女神の大地はアトレテスのような野蛮人に蹂躙されたままでよいはずがありません。そのために再び立ち上がるのです」
震える手で再び手紙に目を通した。内容はヨシュアが話したものと同じで、間違いなく王太子の筆跡で書かれている。「まさか本当なのか?」と思いながら読み進めた最後の文章に手紙を持つ手が大きく震えた。
「そんなこと、できるはずがない」
思わず漏れたつぶやきをヨシュアが「いいえ」と力強く否定した。
「それは殿下に与えられたお役目です。我が国を蹂躙したアトレテスから祖国を解放するため、ディエイガー・グレモンティ将軍をその手で殺すのです」
「……将軍を、わたしが……」
掠れたつぶやき声が重苦しい部屋に静かに響いた。
ヨシュアに将軍との手合わせを知られて以降、そのことばかり考えるようになった。それでも将軍に呼ばれれば拒むことができない。
(違うな。拒みたくないのだ)
いまだに執事が呼びに来るのを心待ちにしている自分がいた。そんな自分をヨシュアが快く思うはずがなく、執事がやって来るとすぐに寝室から姿を現す。そうして部屋を出て行く自分を睨むように鋭く見つめた。
(わかっている。だが、わたしは……)
手ほどきを受けながらも思い浮かぶのはヨシュアの言葉ばかりだ。
「殿下」
「え? あ……、」
剣の構えを将軍に指南されている最中だというのにぼんやりしてしまった。あれほど心沸き立っていた気持ちも今では重苦しく心の底から喜びを感じることができない。
「どうかしましたか?」
「少し考え事をしてしまって……申し訳ありません」
「鍛錬用の剣とはいえ上の空で扱うのは危ない。今日はここまでにしましょう」
「いえ、大丈夫です」
「万が一殿下に怪我をさせてはわたしが後悔します」
「……重ね重ね申し訳ありません」
せっかくの機会を無駄にしてしまった。あと何回こうした手ほどきを受けられるかわからないと考えると少しでも長く教わりたい気持ちがわき上がる。しかしこうした気持ちこそが祖国への裏切りだと思うと苦しかった。
(そう思っていても呼ばれればこうして出向いてしまう)
捕虜の身なのだから断ることはできない。……いや、そんなふうに考えるのはただの言い訳だ。
(恋というものがこんなにも苦しいものだとは知らなかった)
仇に恋をするとは、まるで民たちが熱心に読んでいた悲恋の物語のようじゃないか。ついそんなことを思ってしまった自分に苦笑したくなった。
自分は悲劇の王女ではない。悲観しても物語のように誰かがどうにかしてくれるはずもなく、首をはねられる未来が変わることもない。残り少ない命をどう使うべきか考えて決めるのは自分自身だ。
「屋敷に来て随分と経ちます。疲れが出ているのでしょう。しばらく手合わせを休みますか?」
「それは、」
嫌だと口にしかけた言葉を呑み込んだ。いっそ将軍に呼ばれなければ乱れた気持ちも落ち着くかもしれない。それに心を決めるための時間にもなる。
「そうですね」
そこまでは言えたものの「そうします」とは続けられなかった。未練がましい自分に呆れながら渡された手拭いを握り締める。
「汗をそのままにするのはよくありませんよ」
そう言って将軍の手が伸びてきた。避けられない距離ではなかったのに、そうしたくなくておとなしく受け入れる。
「髪が伸びましたね。組紐をお渡ししておいてよかった」
「お気遣い感謝します」
「殿下に健やかに過ごしていただくのがわたしの望みですので」
「ありがとう、ございます」
気遣いと呼ぶには優しすぎる言葉に胸が締めつけられる思いがした。「もしや将軍もわたしのことを……」と身勝手な妄想を抱いてしまうのは不安の表れだろうか。
(あれから短剣の話題に触れることもない)
だが、返すようにとも言われていない。つまりまだ何かしらが起きようとしているということだ。将軍のこと、短剣のこと、ヨシュアの言葉、自分の立場、そうしたものがグルグルと頭の中を巡り気分が重くなる。
「おいおい、あまりグイグイいくと嫌われるぞ?」
エルドの言葉に将軍の手が止まった。沈んだ表情を誤解されたのだと思い、慌てて「嫌ったりなどしません」と将軍を見る。するとはしばみ色の目がわずかに大きくなった。今の態度はおかしかっただろうか。勢いよく上げた顔を下げながら「いえ、あの」と言葉を続ける。
「こうしたことを将軍にさせているわたしのほうこそ……」
言いながら「今さら何を言っているんだ」と呆れてしまった。手合わせの後にこうして汗を拭われるのはもう何度目になるだろう。はじめは困惑するばかりだったのに、気がつけば触れられるのを心待ちにしていた。
今も断らなくてはいけないとわかっているのに、止まってしまった将軍の手に寂しさを感じてしまう。こんな状態でヨシュアに気づかれていないと思っていた自分はなんと愚かだったのだろうか。
「悩み事がおありですか?」
「え……?」
「囚われの身で何もないということはないでしょうが、以前より考え事をされている表情をお見かけするようになりました」
「それは……」
「わたしでよければお聞きしますが」
諭すような低い声が耳に心地いい。優しく汗を拭う手つきもまるで慰めてくれているように感じられた。
「人に話せば気が楽になることもあります」
あぁ、将軍はなんて優しいのだろう。たとえ利用価値があるから気遣ってくれているのだとしても嬉しかった。髪を結ぶ組紐や惜しみなく見せてくれる剣技、それに短剣のことを思うと抑えがたい衝動に駆られそうになる。
「お気遣い感謝します。ですがこれ以上将軍の手を煩わせることはできません」
「そこは気にされなくてよいかと思いますよ? ディオは好きで世話を焼いているんですから」
口を挟んだのはエルドだった。将軍がちろっと視線を向けたからか「おっと、つい口を挟んでしまいました」と降参したように両手を少し上げる。
「いえ、こうしたことをしてもらうのはあまりに失礼でした。申し訳ありません」
まだ首筋に触れている手にそっと触れた。自分から将軍の手に触れたのはこれが初めてだ。大きく熱い手に鼓動が跳ねるのを感じながら、「もういいのだ」と伝えるように少しだけ押し返す。
「捕虜の身には過ぎたる状況に不満も悩みもありません。そんなことを思えば女神に叱られてしまいます」
離れていく手に寂しさより切なさを感じながら、それでも微笑みを浮かべて将軍を見上げた。すると驚いたようにはしばみ色の目がパッと大きくなる。あぁ、そうした表情もなんて好ましいのだろう。駄目だと思えば思うほど焦がれる気持ちがわき上がってどうしようもなかった。
「これまで気を遣っていただき感謝しています」
この言葉にすぐに反応したのはエルドだった。
「いやぁ、殿下はお強い。ですが少しくらい我が儘を言ってもいいのでは?」
「エルドは将軍の副官なのだろう? そんなことを言ってもいいのか?」
気持ちを誤魔化すようにあえて冗談めかせばエルドが「ははは」と笑った。
「我が儘かどうかは別として、何か気になることがあるのならディオに話をすることをお勧めしますよ。殿下のためならどんなことでも解決してくれますから」
にこりと笑い「では、また」と去って行った。
「エルドの言うとおりです。なんでもおっしゃってください」
見送っていた視線を将軍に戻すと「愚痴でもなんでも伺いますよ」と言って微笑んだ。その顔に胸が高鳴るのを感じながら、それでもこれ以上は駄目だと曖昧に微笑み返す。
(いよいよ覚悟を決めなくてはいけない)
手合わせから戻り、一息ついてから思うのはそのことばかりだ。覚悟といってもどの覚悟かと問われると難しい。それでもこれまでのような生活を送るわけにはいかないことだけはわかっている。
(将軍への想いを断ち切る覚悟、神官として祖国に身を捧げる覚悟、元王子として生きる覚悟……いずれも難しいことばかりだ)
いつの間に自分はこんなにも弱くなってしまったのだろうか。神殿にいた頃も悩むことは多かったが、それでも迷いはなかった。
(いや、違うな。迷ったところで流されるままにしか生きられないと諦めていた)
諦めるという意味では今も似たようなものだ。だが諦めるだけでは足りない。少なくともヨシュアはそれ以上のことを自分に求めている。そしてそれが祖国の、民たちの意志なのだとすれば目を逸らすことは許されなかった。
(わたしは何者なのだろうな)
こんなときでもそう思ってしまう自分が嫌になった。
この日から将軍に呼ばれることがなくなった。朝食のときに執事が伝えるのは「本日も健やかに過ごされますようにとのことでございます」という決まり文句だけで、朝以外で執事が姿を現すこともない。
そうなることを願っていたはずなのに胸がチクチクと痛んだ。誤魔化すように寝室で体を動かしたりするものの気分が晴れることはない。気がつけば自分もヨシュアのように寝室に籠もりがちになっていた。「それもいいか」と思うのはヨシュアの気配を感じるのが苦痛になっていたからだろうか。
(向こうもわたしの顔など見たくないだろうし……と思っていたんだが、珍しいな)
朝食後、侍女たちが片付けを終えてもヨシュアは寝室に戻らなかった。それどころか何かを訴えるようにこちらをじっと見ている。
「どうかしたのか?」
そう声をかけられるのを待っていたのか、ゆっくりと近づいてきた。
「こちらを」
差し出されたのは一通の手紙だった。囚われの身でなぜ手紙など持っているのだろうか。そう思いながら受け取り、裏側を見てギョッとした。
「……まさか」
そこにあった封蝋の印はメレキア王家のものだった。思わず指でなぞるが、若葉の王冠と中央に鳥の羽があしらわれた模様は王家のもので間違いない。もし王宮にいたなら自分も使っていただろう封蝋印を撫でていた指が震えた。
何度も「まさか、そんなはずは」と思いながら中身を取り出した。最初に確認したのは最後に書かれているはずの名前で、それを見て再び「まさか」と声が漏れる。
「なぜ兄上からの手紙が……」
最後に記されていた名は“アレクィード”、王太子である異母兄の名前だった。
「何をそんなに驚いておいでなのです」
「これをどうやって手に入れた」
「以前申し上げたはずですが?」
「以前……?」
「わたしはこの屋敷に連れて来られたときから祖国のために動いていました。まず一番に行うのは王太子殿下の安否を確認すること。当然ではありませんか?」
ヨシュアが呆れたように笑った。
「殿下が仇に心を奪われている間も、祖国奪還をと考えていた王太子殿下は密かに動かれていたのですよ? それに比べて殿下のほうはこの有り様……いえ、過ぎたことはもういいでしょう。ですが、これからは恋などにうつつを抜かしている時間はないとお考えください」
ギラリと光る茶色の目に思わず半歩後ずさってしまった。
「今こそ我が国を取り戻すときです。王太子殿下は自ら動かれ、幽閉の地より王宮へ戻る手はずを整えられました」
「……それは本当なのか?」
「本当です。ですからこうして手紙が届いたのです。それに比べて殿下は今まで何をなさっておいででしたか?」
「そ、れは……」
返す言葉がなく口をつぐむと、「やれやれ」と言わんばかりにヨシュアが大きなため息をついた。
「王太子殿下が王宮へ戻れば自ずと民や神官たちは王太子殿下のもとに集まるでしょう。神官軍もすぐに再編成されます。いかにアトレテスといえど全土に広がる神殿をすべて抑えることはできません。多くの高位神官たちは、すでに王太子殿下の号令にはせ参じると表明しています」
「まさか、再び戦争を仕掛けようというのか?」
「いいえ、これは祖国奪還のための戦いです。奪われたものは取り戻す。美しき女神の大地はアトレテスのような野蛮人に蹂躙されたままでよいはずがありません。そのために再び立ち上がるのです」
震える手で再び手紙に目を通した。内容はヨシュアが話したものと同じで、間違いなく王太子の筆跡で書かれている。「まさか本当なのか?」と思いながら読み進めた最後の文章に手紙を持つ手が大きく震えた。
「そんなこと、できるはずがない」
思わず漏れたつぶやきをヨシュアが「いいえ」と力強く否定した。
「それは殿下に与えられたお役目です。我が国を蹂躙したアトレテスから祖国を解放するため、ディエイガー・グレモンティ将軍をその手で殺すのです」
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掠れたつぶやき声が重苦しい部屋に静かに響いた。
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カクヨムに書き溜め。
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