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16 懊悩(おうのう)
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王太子からの手紙は読み終わるとすぐにヨシュアによって燃やされた。冬に使われるであろう暖炉で焼かれた小さな火はすぐに消え、何事もなかったかのように真新しい灰だけが残っている。
「このことはくれぐれもご内密に」
「わかっている」
「間違っても将軍に伝えたりなさいませんように」
「わかっていると言っている」
胸の痛みに語気も荒くそう答えると、呆れたようにため息を一つついてからヨシュアが頭を下げた。そうして寝室に戻ったが、閉まる扉の音がまるで断罪を追求する声のように聞こえてグッと唇を噛み締める。
(わたしがこの手で将軍を……?)
手紙に書かれていた文面を思い返し、奥歯を噛み締めた。文字に乱れたところはなく、紙も王宮で使われるような上質なものだった。幽閉されている王太子がどのような暮らしを送っていたのか知りようもないが、あのように高価な紙やペンを使える環境にはないだろう。
(すでに王宮に戻っているということだろうか。……まさか、それで将軍は短剣を?)
自分と王太子の関係を将軍はおそらく知っているのだ。それなら短剣を渡そうと考えたのも理解できる。だが、ここはディエイガー将軍の住まう屋敷で、万が一にも何かが起こるとは思えない。
(それとも間者が入り込んでいると考えて……? いや、将軍に限ってそうした存在を見逃すとは思えない)
王太子からの手紙を読んだからか、ひどく混乱して考えがまとまらなかった。
(そもそもヨシュアはどうやって兄上と連絡を取っていたのだ?)
ヨシュアはこの部屋から出ることができない。外部と、それも幽閉されている王太子と連絡を取り合うなど不可能だ。
(もしかして手合わせを覗き見たとき以外にも部屋を抜け出していたのか?)
自分が部屋にいるときは寝室に籠もりきりだった。接点が持てそうなのは食事の用意をする侍女たちだが、何かをやり取りするような様子はなくやはり考えにくい。それに廊下に続く扉は一つだけで、それ以外で外に出られるような出入り口もなかった。
(……いや、一つだけある)
水回りの部屋には奥に扉があった。最初に確かめたときは施錠されていたが、もしこちら側から開ける方法があったとしたら外部と連絡を取ることも不可能ではないように思えた。
(それでも誰かの手助けがなくては兄上と連絡を取るなど不可能だ。やはり屋敷内にそうした者がいるということだろうか?)
駄目だ、いくら考えても答えは出ない。フラフラとした足取りで寝室に入った。力なくベッドに腰かけ、何度も王太子からの手紙を思い返す。
(なぜ兄上はわたしに将軍を殺せなどと書いてきたのだろう。わたし程度の腕では大陸随一の武人である将軍に立ち向かえるはずがないというのに)
不意に子どものときに王宮で見た異母兄の笑顔を思い出した。まさか、将軍への気持ちを知ったうえで「命を奪え」と書いて寄越したのだろうか。
目の前が真っ暗になった。子どものときの重苦しい気持ちが一気に蘇る。
(兄上は昔からそうだった)
王宮にいた頃、自分と親しくなった子どもたちが次々と姿を消した裏ではさらに残酷なことが起きていた。それを知ったのは王宮を出る直前だったが、あのときどれほど傷ついただろうか。
打ちひしがれる自分を見る異母兄は輝かんばかりの笑顔を浮かべていた。あの顔を見たとき、自分は誰とも親しくなってはいけないのだと悟った。
おそらくヨシュアがあれこれと王太子に報告したのだろう。だからこそ無謀とも思える命令をしてきたのだ。
(兄上はそんなにもわたしのことが憎いのだろうか。初めて想いを寄せた相手を手にかけろなど……そんなにも……)
両手をじっと見た。
(女神の左手と呼ばれてきたこの手は恵みをもたらすものではなく人の命を奪うためのものだったのだろうか)
戦場で剣を振るっているときはそこまで考えなかった。初めての戦場に必死だったのもある。幸い自らの手でアトレテスの武人を手にかけることはなかったが、戦場に立つということは相手の命を奪うことなのだと今さらながら痛感した。
(わたしはつくづく愚かだな)
苦笑いさえ浮かばない。
「こんなことなら戦場で剣を交えて命果てていればよかった」
正々堂々とディエイガー将軍の前に立ち、あの大剣で命果ててしまえばよかったのだ。そうすれば王太子も喜び、流され続けた自分の最期としても悪くない。今さら悔いてもどうにもならないとわかっていても後悔せずにはいられなかった。
窓の外を見た。春とは違い空は青々と澄み、遠くを鳥らしき影が横切る。今ごろメレキアは雨だろうか。それとも同じように晴れているだろうか。そんなことを思いながら目を閉じた。
この日から一日のほとんどを寝室で過ごすようになった。日中は静かに本を読み、以前のように体を動かすこともない。鍛錬をすれば将軍を手に掛けるためにやっているような気がしてできなかった。できるだけ将軍のことを考えないようにしているが、ふとした瞬間に声や大きな手を思い出し切なくなる。
(この紐を使うこともなくなったな)
将軍にもらった組紐を手にそんなことを思った。ヨシュアに気づかれないようにと髪を結ぶのは将軍に呼ばれたときだけにしていたが、そうした機会がなくなった今、紐で髪を結ぶこともない。
紐を鼻にそっと近づけた。将軍の香りがするはずもないのに、ついそんなことをしてしまう。まるで香りに縋るような自分の仕草に笑いたくなった。
(こんなことでは駄目だな)
そう思い紐を懐に仕舞おうとしたときだった。指先が冷たいものに触れてドキッとした。将軍に言われたとおり常に肌身離さず持ち歩いているが、短剣の冷たさに鼓動がドクドクと忙しなくなる。
(覚悟を決めなくては)
ヨシュアの眼差しが段々と厳しくなっている。おそらく「早く事を為せ」と言いたいのだろう。絶好の機会だったはずの呼び出しがないことに気づいているはずだが、それでもやれという圧力は増すばかりだ。
懐から短剣を取り出した。自分の身を守るためにと渡されたものだが、これを使ってと考えなくもない。だが、短剣で確実に命を奪うには相手の懐深くに入らなくてはいけなかった。将軍相手にそんなことができるとはどうしても思えない。
(向けられた剣を弾くよりよほど難しい)
それでも成さなくては……まるで王太子に操られるようにそう考えるようになっていた。
そうしたことが影響しているのか少しずつ食欲まで減ってきた。もしかすると体を動かさなくなったからかもしれない。今朝も執事が心配するような眼差しを向けてきたが、あえて気づかない振りをした。
トントン。
扉を叩く音にゆっくりと視線を向ける。またヨシュアの催促だろうか。何もしようとしない自分に痺れを切らしたのか、三日前からたびたび寝室にやって来るようになった。今日は何を言われるのだろうとため息をつきつつ「入れ」と返事をする。
「失礼します」
「将、軍」
扉を開けたのはディエイガー将軍だった。まさかと目を見開く。
「どこか具合を悪くされているのではありませんか?」
「え……?」
「食が細くなったと聞きました。もし体調がよくないのなら医者を手配しますが」
つまり心配して様子を見に来たということだ。胸がトクンと高鳴るのを感じ、慌てて「落ち着け」と右手で拳を握った。
「いえ、問題ありません。もともと夏は食が細くなりがちなのです。アトレテスの夏は初めてなので体が慣れていないせいでしょう」
「それならばよいのですが」
そう言いながらもはしばみ色の目は自分を見つめたままだ。
「体調に問題がないようでしたら、久しぶりに中庭に出ませんか?」
「それは……」
期待するように鼓動が跳ねた。許されるなら以前のようにまた将軍と手合わせがしたい。手ほどきも受けたい。そんな状況ではないとわかっていても将軍との時間を過ごしたいと思ってしまった。
(だが、そんなことをすればますます未練が残る)
ますます心が乱れてしまう。こうして顔を見るだけでも動悸がおかしくなるくらいだ。
(早く部屋を出て行ってもらわなくては)
将軍が来ていることはヨシュアも気づいているはず。時間が経てば絶好の機会だとヨシュアまで姿を現すかもしれない。
「それはできません」
「殿下?」
「囚われの身でこれ以上将軍に甘えることはできません。それではますます将軍の立場を悪くしてしまいます。それはわたしの望むところではありません」
言いながら胸がキリキリと痛んだ。本当は一緒にいたい。強引にでも中庭に連れ出してほしい。手を伸ばしたい思いと戒める気持ちに胸がグッと重くなった。
「どうかこれ以上お気遣いないように」
神殿にいたときのことを思い出しながら将軍を見た。気持ちを悟られないようにするのは昔から得意だった。努めて平静を装いながら「早く出て行ってくれ」と念じるように見つめる。
「そうですか」
将軍の表情からは何を考えているのかわからない。不快そうには聞こえないが気分を害した可能性はある。そんなことを気にしている自分に笑いたくなった。
(これで嫌われても願ったり叶ったりじゃないか)
将軍と言葉を交わすのはこれが最後に違いない。そう思い椅子から立ち上がった。
「これまでのこと、心から感謝します」
そう言って頭を下げようと視線を落とした次の瞬間、肩を掴まれて驚いた。
「なにを、」
「しぃっ」
耳元でそう囁かれて慌てて口を閉じた。すると肩に回っていた手にグッと力が入り、目の前の大きな体に力強く引き寄せられる。
(……わたしは今、将軍に抱きしめられている……?)
そう思った途端に鼓動が早鐘を打つようにうるさくなった。落ち着こうと慌てて息を吸うと、以前感じた草原のような香りがして余計に頭に血が上る。急いで胸を押し返そうと身じろぐが、「そのままお静かに」と言われて固まったかのように体が動かなくなった。
「御身、このディエイガー・グレモンティが必ずお守りします。たとえどのような相手であろうと必ずです。我が名と戦神の剣の名にかけて、この誓いを違えることは決してありません」
ドクドクと鼓動が激しくなる。顔がカッと熱くなりこめかみまでドクンドクンと鼓動を刻み始めた。
「わたしにすべてお任せください。殿下はこれまでどおり健やかにお過ごしを。心配されることは何もありません」
低く響く声が耳を震わせ、頭を巡り、ゆっくりと体に染み込んだ。まるで神殿での誓いのような声に目尻がじわりと熱くなる。こんな状況だというのに喜びに心が震えてどうしようもなかった。アトレテスのための言葉だとわかっていても目眩がしそうなほど胸が熱くなる。
(だが、これ以上将軍を煩わせることはできない)
それにこれ以上自分と関わればきっとよくないことになる。自分が手を下さなくてもヨシュアが何か仕掛けるかもしれない。王太子と連絡が取れるということは将軍の身辺にも仲間がいると考えるべきだ。
「どうか、もう……」
自分には関わらないでほしいとは言えなかった。それでも何かしら伝わったのか、自分を包み込むような大きな体がゆっくりと離れる。
「殿下のお気持ちは承知しました」
これでいい。そう思っているのに胸が痛くて顔を上げることができない。
「ですが明日、もう一度お時間をください」
それだけ口にすると背を向けたのがわかった。そっと視線を上げると大きな背中は部屋を出た後で、すぐに扉が閉まって見えなくなる。
(わたしにできるはずがない)
抱きしめられてそう思った。王太子の言葉は消えてなくなり、代わりにやるせない気持ちと胸に大きな穴が空いたような虚しいものが広がっていく。
(将軍を手に掛けることなどできるはずがない)
剣の腕前だけではない。今の自分に将軍への殺意を抱くことなど不可能だ。殺意を抱けない人間に人を殺めることはできない。
「わたしには無理だ」
気がつけば頬を一筋の涙が流れ落ちていた。
「このことはくれぐれもご内密に」
「わかっている」
「間違っても将軍に伝えたりなさいませんように」
「わかっていると言っている」
胸の痛みに語気も荒くそう答えると、呆れたようにため息を一つついてからヨシュアが頭を下げた。そうして寝室に戻ったが、閉まる扉の音がまるで断罪を追求する声のように聞こえてグッと唇を噛み締める。
(わたしがこの手で将軍を……?)
手紙に書かれていた文面を思い返し、奥歯を噛み締めた。文字に乱れたところはなく、紙も王宮で使われるような上質なものだった。幽閉されている王太子がどのような暮らしを送っていたのか知りようもないが、あのように高価な紙やペンを使える環境にはないだろう。
(すでに王宮に戻っているということだろうか。……まさか、それで将軍は短剣を?)
自分と王太子の関係を将軍はおそらく知っているのだ。それなら短剣を渡そうと考えたのも理解できる。だが、ここはディエイガー将軍の住まう屋敷で、万が一にも何かが起こるとは思えない。
(それとも間者が入り込んでいると考えて……? いや、将軍に限ってそうした存在を見逃すとは思えない)
王太子からの手紙を読んだからか、ひどく混乱して考えがまとまらなかった。
(そもそもヨシュアはどうやって兄上と連絡を取っていたのだ?)
ヨシュアはこの部屋から出ることができない。外部と、それも幽閉されている王太子と連絡を取り合うなど不可能だ。
(もしかして手合わせを覗き見たとき以外にも部屋を抜け出していたのか?)
自分が部屋にいるときは寝室に籠もりきりだった。接点が持てそうなのは食事の用意をする侍女たちだが、何かをやり取りするような様子はなくやはり考えにくい。それに廊下に続く扉は一つだけで、それ以外で外に出られるような出入り口もなかった。
(……いや、一つだけある)
水回りの部屋には奥に扉があった。最初に確かめたときは施錠されていたが、もしこちら側から開ける方法があったとしたら外部と連絡を取ることも不可能ではないように思えた。
(それでも誰かの手助けがなくては兄上と連絡を取るなど不可能だ。やはり屋敷内にそうした者がいるということだろうか?)
駄目だ、いくら考えても答えは出ない。フラフラとした足取りで寝室に入った。力なくベッドに腰かけ、何度も王太子からの手紙を思い返す。
(なぜ兄上はわたしに将軍を殺せなどと書いてきたのだろう。わたし程度の腕では大陸随一の武人である将軍に立ち向かえるはずがないというのに)
不意に子どものときに王宮で見た異母兄の笑顔を思い出した。まさか、将軍への気持ちを知ったうえで「命を奪え」と書いて寄越したのだろうか。
目の前が真っ暗になった。子どものときの重苦しい気持ちが一気に蘇る。
(兄上は昔からそうだった)
王宮にいた頃、自分と親しくなった子どもたちが次々と姿を消した裏ではさらに残酷なことが起きていた。それを知ったのは王宮を出る直前だったが、あのときどれほど傷ついただろうか。
打ちひしがれる自分を見る異母兄は輝かんばかりの笑顔を浮かべていた。あの顔を見たとき、自分は誰とも親しくなってはいけないのだと悟った。
おそらくヨシュアがあれこれと王太子に報告したのだろう。だからこそ無謀とも思える命令をしてきたのだ。
(兄上はそんなにもわたしのことが憎いのだろうか。初めて想いを寄せた相手を手にかけろなど……そんなにも……)
両手をじっと見た。
(女神の左手と呼ばれてきたこの手は恵みをもたらすものではなく人の命を奪うためのものだったのだろうか)
戦場で剣を振るっているときはそこまで考えなかった。初めての戦場に必死だったのもある。幸い自らの手でアトレテスの武人を手にかけることはなかったが、戦場に立つということは相手の命を奪うことなのだと今さらながら痛感した。
(わたしはつくづく愚かだな)
苦笑いさえ浮かばない。
「こんなことなら戦場で剣を交えて命果てていればよかった」
正々堂々とディエイガー将軍の前に立ち、あの大剣で命果ててしまえばよかったのだ。そうすれば王太子も喜び、流され続けた自分の最期としても悪くない。今さら悔いてもどうにもならないとわかっていても後悔せずにはいられなかった。
窓の外を見た。春とは違い空は青々と澄み、遠くを鳥らしき影が横切る。今ごろメレキアは雨だろうか。それとも同じように晴れているだろうか。そんなことを思いながら目を閉じた。
この日から一日のほとんどを寝室で過ごすようになった。日中は静かに本を読み、以前のように体を動かすこともない。鍛錬をすれば将軍を手に掛けるためにやっているような気がしてできなかった。できるだけ将軍のことを考えないようにしているが、ふとした瞬間に声や大きな手を思い出し切なくなる。
(この紐を使うこともなくなったな)
将軍にもらった組紐を手にそんなことを思った。ヨシュアに気づかれないようにと髪を結ぶのは将軍に呼ばれたときだけにしていたが、そうした機会がなくなった今、紐で髪を結ぶこともない。
紐を鼻にそっと近づけた。将軍の香りがするはずもないのに、ついそんなことをしてしまう。まるで香りに縋るような自分の仕草に笑いたくなった。
(こんなことでは駄目だな)
そう思い紐を懐に仕舞おうとしたときだった。指先が冷たいものに触れてドキッとした。将軍に言われたとおり常に肌身離さず持ち歩いているが、短剣の冷たさに鼓動がドクドクと忙しなくなる。
(覚悟を決めなくては)
ヨシュアの眼差しが段々と厳しくなっている。おそらく「早く事を為せ」と言いたいのだろう。絶好の機会だったはずの呼び出しがないことに気づいているはずだが、それでもやれという圧力は増すばかりだ。
懐から短剣を取り出した。自分の身を守るためにと渡されたものだが、これを使ってと考えなくもない。だが、短剣で確実に命を奪うには相手の懐深くに入らなくてはいけなかった。将軍相手にそんなことができるとはどうしても思えない。
(向けられた剣を弾くよりよほど難しい)
それでも成さなくては……まるで王太子に操られるようにそう考えるようになっていた。
そうしたことが影響しているのか少しずつ食欲まで減ってきた。もしかすると体を動かさなくなったからかもしれない。今朝も執事が心配するような眼差しを向けてきたが、あえて気づかない振りをした。
トントン。
扉を叩く音にゆっくりと視線を向ける。またヨシュアの催促だろうか。何もしようとしない自分に痺れを切らしたのか、三日前からたびたび寝室にやって来るようになった。今日は何を言われるのだろうとため息をつきつつ「入れ」と返事をする。
「失礼します」
「将、軍」
扉を開けたのはディエイガー将軍だった。まさかと目を見開く。
「どこか具合を悪くされているのではありませんか?」
「え……?」
「食が細くなったと聞きました。もし体調がよくないのなら医者を手配しますが」
つまり心配して様子を見に来たということだ。胸がトクンと高鳴るのを感じ、慌てて「落ち着け」と右手で拳を握った。
「いえ、問題ありません。もともと夏は食が細くなりがちなのです。アトレテスの夏は初めてなので体が慣れていないせいでしょう」
「それならばよいのですが」
そう言いながらもはしばみ色の目は自分を見つめたままだ。
「体調に問題がないようでしたら、久しぶりに中庭に出ませんか?」
「それは……」
期待するように鼓動が跳ねた。許されるなら以前のようにまた将軍と手合わせがしたい。手ほどきも受けたい。そんな状況ではないとわかっていても将軍との時間を過ごしたいと思ってしまった。
(だが、そんなことをすればますます未練が残る)
ますます心が乱れてしまう。こうして顔を見るだけでも動悸がおかしくなるくらいだ。
(早く部屋を出て行ってもらわなくては)
将軍が来ていることはヨシュアも気づいているはず。時間が経てば絶好の機会だとヨシュアまで姿を現すかもしれない。
「それはできません」
「殿下?」
「囚われの身でこれ以上将軍に甘えることはできません。それではますます将軍の立場を悪くしてしまいます。それはわたしの望むところではありません」
言いながら胸がキリキリと痛んだ。本当は一緒にいたい。強引にでも中庭に連れ出してほしい。手を伸ばしたい思いと戒める気持ちに胸がグッと重くなった。
「どうかこれ以上お気遣いないように」
神殿にいたときのことを思い出しながら将軍を見た。気持ちを悟られないようにするのは昔から得意だった。努めて平静を装いながら「早く出て行ってくれ」と念じるように見つめる。
「そうですか」
将軍の表情からは何を考えているのかわからない。不快そうには聞こえないが気分を害した可能性はある。そんなことを気にしている自分に笑いたくなった。
(これで嫌われても願ったり叶ったりじゃないか)
将軍と言葉を交わすのはこれが最後に違いない。そう思い椅子から立ち上がった。
「これまでのこと、心から感謝します」
そう言って頭を下げようと視線を落とした次の瞬間、肩を掴まれて驚いた。
「なにを、」
「しぃっ」
耳元でそう囁かれて慌てて口を閉じた。すると肩に回っていた手にグッと力が入り、目の前の大きな体に力強く引き寄せられる。
(……わたしは今、将軍に抱きしめられている……?)
そう思った途端に鼓動が早鐘を打つようにうるさくなった。落ち着こうと慌てて息を吸うと、以前感じた草原のような香りがして余計に頭に血が上る。急いで胸を押し返そうと身じろぐが、「そのままお静かに」と言われて固まったかのように体が動かなくなった。
「御身、このディエイガー・グレモンティが必ずお守りします。たとえどのような相手であろうと必ずです。我が名と戦神の剣の名にかけて、この誓いを違えることは決してありません」
ドクドクと鼓動が激しくなる。顔がカッと熱くなりこめかみまでドクンドクンと鼓動を刻み始めた。
「わたしにすべてお任せください。殿下はこれまでどおり健やかにお過ごしを。心配されることは何もありません」
低く響く声が耳を震わせ、頭を巡り、ゆっくりと体に染み込んだ。まるで神殿での誓いのような声に目尻がじわりと熱くなる。こんな状況だというのに喜びに心が震えてどうしようもなかった。アトレテスのための言葉だとわかっていても目眩がしそうなほど胸が熱くなる。
(だが、これ以上将軍を煩わせることはできない)
それにこれ以上自分と関わればきっとよくないことになる。自分が手を下さなくてもヨシュアが何か仕掛けるかもしれない。王太子と連絡が取れるということは将軍の身辺にも仲間がいると考えるべきだ。
「どうか、もう……」
自分には関わらないでほしいとは言えなかった。それでも何かしら伝わったのか、自分を包み込むような大きな体がゆっくりと離れる。
「殿下のお気持ちは承知しました」
これでいい。そう思っているのに胸が痛くて顔を上げることができない。
「ですが明日、もう一度お時間をください」
それだけ口にすると背を向けたのがわかった。そっと視線を上げると大きな背中は部屋を出た後で、すぐに扉が閉まって見えなくなる。
(わたしにできるはずがない)
抱きしめられてそう思った。王太子の言葉は消えてなくなり、代わりにやるせない気持ちと胸に大きな穴が空いたような虚しいものが広がっていく。
(将軍を手に掛けることなどできるはずがない)
剣の腕前だけではない。今の自分に将軍への殺意を抱くことなど不可能だ。殺意を抱けない人間に人を殺めることはできない。
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カクヨムに書き溜め。
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