29 / 39
29 女神の前での誓い
しおりを挟む
カーテンの隙間から差し込む柔らかい光に目が覚めた。いつもと違う天井に一瞬ドキッとし、「あぁ、そうだった」と小さく息を吐く。
(将軍も目覚めた頃だろうか)
いつもは将軍と同じベッドで休んでいるが、今日は特別な日だからと別の寝室を用意してもらった。けじめ、というわけではないが、女神に許しを乞う前日に将軍と同じベッドを使うことに後ろめたさのようなものを感じたからだ。
ベッドから下り、まずは小さなテーブルに置いてある水を使って顔を拭った。その後、下穿きまで脱いでから手拭いで全身を丁寧に拭い清める。
不意に最期だと思っていた日の朝のことを思い出した。あの日の朝もこうして全身を拭ったが、あのときとは気持ちがまったく違う。胸が押し潰されそうな重苦しさや悲しみ、情けなさ、そうしたものはほとんどなく、窓から差し込む朝日が宝石のように輝いて見えた。
それでもすっきりしないのはメレキアのことが引っかかっているからだ。将軍は何も言わなかったが、おそらくエメウスの戴冠には“女神の愛し子”としての自分が必要とされるはずだ。
(わたしの言葉で皆を納得させられるだろうか)
なにより長く国を出ていたエメウスのことを民たちが歓迎するかわからない。年寄りは覚えていても若者や子どもたちは「王兄の遺児」という程度しか知らないだろう。エメウスを推していた貴族たちも国王によって一掃されている。そのため後ろ盾がない状態のはずだ。
(そんな中で兄上は国王にならなくてはいけない。しかもアトレテスの姫を伴侶にしながらだ)
だからこそ“女神の愛し子”の祝福が求められる。アトレテスもそう考えているはずだ。だが、敗戦の将となった自分にまだ女神の愛し子としての力が残っているだろうか。下手をすれば自分のほうこそ祖国に受け入れてもらえないのではと思った。
(そんな自分が戴冠式で祝福を与えたとして意味があるのかどうか)
祖国で自分がどう思われているのかわからないままだ。神殿での立場がどうなるのかもわかっていない。それなのに自分ばかり幸せを手にしようとしていることに少なからず後ろめたさを感じていた。
「いや、このことは今考えるべきじゃない」
まずは女神に祈りを捧げ、許しを乞い、生涯将軍の伴侶であることを誓おう。女神の前で改めて決意することでこれまでの自分と決別したいという気持ちもあった。
仕立て上がったばかりの神官服に袖を通した。久しぶりだからか勝手が違うように感じる。アトレテスの服は緩やかな部分が少なく、おかげで着替えるたびに背筋が伸びるような気がした。それに比べてゆったりしたメレキアの神官服はどうにも落ち着かない。とくに足元はズボンではなく裾の長いドレスのような作りだからか心許なかった。
(兄上の言葉ではないが、わたしもすっかりアトレテスに馴染んでいたのだな)
食事も気候もすっかり日常の一部になっていた。窓の外はいつの間にか秋めいていて、季節の進み具合もメレキアとは違う。それなのにメレキアと比べることもほとんどなくなった。
トントンと扉を叩く音がした。「どうぞ」と答えると将軍が姿を現す。
「殿下、支度は終わられましたか?」
「はい」
ちょうど髪を結び終わったところだった。神殿にいたときは手櫛でサッとするだけだったが、すっかり長くなった今は将軍にもらった組紐で結ぶのが日課になっている。
「どうかしましたか?」
そう尋ねたのは将軍が立ったままじっとこちらを見ていたからだ。やはり神官服はよくないと思ったのだろうか。せっかく仕立ててもらったものだが神官服にこだわるつもりはない。こうして用意してもらっただけで十分だ。
「着替えましょうか?」
「あぁいえ、正式な神官姿は初めて拝見しましたが、あまりの美しさに見惚れてしまいました。女神の愛し子と呼ばれていたのもわかる美しさです」
微笑みに鼓動がドクンと跳ねた。そのままトクトクと早鐘を打つように忙しなくなる。
「そうやって頬をわずかに染めた顔も美しい。今の殿下の前では大地の女神でさえ霞むでしょう。おっと、こんなことを口にしては女神に罰を下されかねませんね」
「しょ、将軍」
「慌てふためく姿も美しくていらっしゃる。このままでは許しを得る前に殿下をどうにかしてしまいそうです。さぁ、早く礼拝堂へ行きましょう」
差し出された手に耳まで熱くなった。普段こうした美辞麗句を口にしない将軍の言葉だからかますます鼓動が跳ね上がる。手を取りながらも顔を見ることができない。足元に視線を向けつつ、時々ちろっと傍らを見ては目元が熱くなるのを感じた。
朝の早い時間だからか礼拝堂の中はやや冷えていて、それがかえって清々しい気持ちにさせる。部屋では重かった心も幾分か晴れ、昂ぶっていた気持ちもなんとか落ち着かせることができた。
膝をつき、朝日に照らされている女神の像をじっと見た。右手を胸に当てながらも目を閉じることはなく、ただじっと女神を見つめる。
(どうかディエイガー将軍との婚姻をお許しください)
敵将と結ばれたいと願うことをお許しください。祖国のことよりも将軍のことを強く思うようになった自分をお許しください。
(幸福な道を歩むことをお許しください)
将軍もエメウスも自分に責任はないと言うが、まったくないわけではない。それなのに民たちよりも先に女神の祝福を受けるのは本来あってはならないことだ。
それでも将軍の手を取りたいと願った。その手を離したくないと思った。生まれて初めて自らの道を選択し、選んだその道を全身全霊で歩みたいと思った。
(どうかディエイガー将軍に祝福をお与えください。遠い異国の地にあっても女神の祝福があらんことを……)
斜め後ろからカツンと何かが床に触れる音がした。振り向くと将軍が床に片膝をついている。右手には腰に下げていた片手剣を持ち、鞘に入ったままの剣先を床に付くように立てていた。
(これは……)
メレキアでは見たことがないが、たしか武人が行う儀礼的な行いだと聞いたことがある。
「我が命、イシェイド殿下のためにあるものとここに誓いましょう。戦の神が護りしアトレテスの地にあっても、イシェイド殿下に女神の加護と祝福があらんことを」
「将軍……」
思わず名を呼ぶと将軍がわずかに微笑んだ。
「殿下の御身は必ずやわたしが守ります。女神の愛し子をこの手にいただくのですから、女神にもそのことを誓わねばなりません」
胸の奥からグッとせり上がってくるものを感じた。目頭が熱くなるのを感じ、慌てて正面を向く。再び女神を見上げるが少しだけ滲んで見えた。像なのだから表情が変わることなどないはずなのに、どことなく微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
(将軍がわたしに向けてくれるのと同じだけの想いを生涯注ぎ続けると誓います。どうか大地の女神の愛で将軍をお守りください)
そっと目を閉じた。出立前に見た王都を思い浮かべ、移動する先々で見た祖国の様子を思い返す。どうか祖国がこれ以上傷つかないように、民たちに平穏が訪れるようにと祈った。そして、これから難題が待ち受けるであろうエメウスのために祈る。
(どうかすべてに女神の祝福があらんことを)
どのくらい経っただろうか。目を開けると女神の像を照らす日差しが明るくなっていた。日々祈りは捧げているが、こうして没頭するように祈ったのは久しぶりかもしれない。
小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。「よろしいのですか?」と尋ねられ、「はい」と答えながら振り返る。
「熱心に祈られたようですね」
「これまでのことやエメウス兄上のことも祈っていましたので。ですが、一番はやはり婚姻のことです」
祈り始めたときはあれこれ思うことばかりだったが、今はどことなくすっきりした気がする。これも将軍と一緒に祈ることができたからだろうか。
(後ろめたさも後悔も決して忘れることはないだろうが、そうした思いもすべて呑み込んだうえで将軍の隣に立ちたい)
寄り添ってくれる将軍に自分も寄り添いたい。できれば将軍を支えられるようになりたい。
(将軍と対等でありたい)
将軍に背中を任せてもらえるような存在になりたい。以前もそう思うことがあったが思いはさらに強くなった。
(わたしは武人でありたい)
女神に仕える気持ちを捨てることはできないだろうが、神官として思い悩むだけの生き方は今日で最後にしよう。この先アトレテスで生き、将軍の隣に立ち続けるにはやはり武人であるのがもっともよいと思えた。
(武人となり、生涯将軍の傍らで将軍を支えたい)
熱いものがわき上がるのを感じた。沸々としたものを抱きながらも頭は冷静で、将軍の傍らに立つためにどれだけの努力と鍛錬が必要だろうかとあれこれ考える。
「女神のお許しが得られたのならよいのですが」
「大地の女神は愛し合う者に祝福を与えてくださいます。わたしの愛は真実ですから間違いなく許しを得られたはずです」
「では、わたしの祈りも届いたことでしょう。殿下への想いに嘘偽りはありませんので」
頬がじわりと熱くなった。自分が歩む道をはっきり見定めたからか、将軍がより一層輝いて見える。
将軍が再び目の前で片膝をついた。どうしたのだろうと驚いていると右手を取られた。そのままはしばみ色の目がじっと自分を見つめる。
「以前も申し上げましたが、我が名と剣にかけて生涯殿下を守ると誓いましょう。御身とお心のすべてを我が命を掛けてお守りします」
そう告げると将軍が指先に口づけた。触れるだけの感触にビリッとしたものが腕を駆け上がってくる。
「わたしも誓います。生涯、将軍の傍らで将軍を支えると誓います」
将軍の手を取り立ち上がらせた。そうして同じように手を取り指先に口づける。
「殿下の加護があれば恐れるものは何もありませんね」
「わたしにそのような力はありませんが」
「いいえ、わたしにとっては殿下の存在そのものが神の加護なのです。ようやく全霊を持って護りたい存在に出会うことができました」
「大袈裟な……」
大仰な言葉に落ち着かない気持ちになった。指先から視線を上げ、将軍の顔を見る。その瞬間ドキッとした。いつもよりはしばみ色の目がぎらりと光っているように見えるのは気のせいだろうか。
見ているうちに背中を冷たいものがすべり落ちるような感覚に襲われた。将軍の手を握っていた腕がフルッと小さく震える。
(これは……畏れ、か?)
まるで神を前にしたかのような感覚に足元がわずかによろめいた。
「朝早くから祈りを捧げたのですからお疲れでしょう。今日はゆっくりしましょうか」
「いえ……いいえ、大丈夫です」
一瞬感じた畏れにも似た感覚はすぐに消えた。改めて見たはしばみ色の目は朝日を反射しているだけでいつもどおり柔らかい。
「それなら午後から手合わせしますか?」
「そう、ですね」
「では、そのように」
そう言って手を取った将軍が歩き出した。ちろっと横顔を見るがいつもと違うようには見えない。それなのに先ほどの瞳がやけに気になる。ふと、エルドの言葉が頭に浮かんだ。
(戦神の宝珠、だったか)
なぜかその言葉が頭から離れなかった。将軍は自分を「神の加護」と言ったが、はたしてどちらが「神」なのだろうか。そんなことを考える自分に小さく頭を振った。
(将軍は将軍だ。たとえ戦神の化身だったとしても、わたしにとってディエイガー将軍が愛しい存在であることに変わりない)
大きく力強い手をギュッと握り返した。それに気づいた将軍が少し振り向き、優しく微笑む。その表情だけで体の奥がジンと痺れた。
(そうだ、わたしは将軍だからこんなにも愛しいと思ったのだ)
その後、昼食まで書き物をする将軍の傍らで本を読み、午後になってから手合わせをした。いつもより剣がぶつかり合う感触が心地いい。これからもずっとこうした日々を送りたい……心の底からそう願った。
(将軍も目覚めた頃だろうか)
いつもは将軍と同じベッドで休んでいるが、今日は特別な日だからと別の寝室を用意してもらった。けじめ、というわけではないが、女神に許しを乞う前日に将軍と同じベッドを使うことに後ろめたさのようなものを感じたからだ。
ベッドから下り、まずは小さなテーブルに置いてある水を使って顔を拭った。その後、下穿きまで脱いでから手拭いで全身を丁寧に拭い清める。
不意に最期だと思っていた日の朝のことを思い出した。あの日の朝もこうして全身を拭ったが、あのときとは気持ちがまったく違う。胸が押し潰されそうな重苦しさや悲しみ、情けなさ、そうしたものはほとんどなく、窓から差し込む朝日が宝石のように輝いて見えた。
それでもすっきりしないのはメレキアのことが引っかかっているからだ。将軍は何も言わなかったが、おそらくエメウスの戴冠には“女神の愛し子”としての自分が必要とされるはずだ。
(わたしの言葉で皆を納得させられるだろうか)
なにより長く国を出ていたエメウスのことを民たちが歓迎するかわからない。年寄りは覚えていても若者や子どもたちは「王兄の遺児」という程度しか知らないだろう。エメウスを推していた貴族たちも国王によって一掃されている。そのため後ろ盾がない状態のはずだ。
(そんな中で兄上は国王にならなくてはいけない。しかもアトレテスの姫を伴侶にしながらだ)
だからこそ“女神の愛し子”の祝福が求められる。アトレテスもそう考えているはずだ。だが、敗戦の将となった自分にまだ女神の愛し子としての力が残っているだろうか。下手をすれば自分のほうこそ祖国に受け入れてもらえないのではと思った。
(そんな自分が戴冠式で祝福を与えたとして意味があるのかどうか)
祖国で自分がどう思われているのかわからないままだ。神殿での立場がどうなるのかもわかっていない。それなのに自分ばかり幸せを手にしようとしていることに少なからず後ろめたさを感じていた。
「いや、このことは今考えるべきじゃない」
まずは女神に祈りを捧げ、許しを乞い、生涯将軍の伴侶であることを誓おう。女神の前で改めて決意することでこれまでの自分と決別したいという気持ちもあった。
仕立て上がったばかりの神官服に袖を通した。久しぶりだからか勝手が違うように感じる。アトレテスの服は緩やかな部分が少なく、おかげで着替えるたびに背筋が伸びるような気がした。それに比べてゆったりしたメレキアの神官服はどうにも落ち着かない。とくに足元はズボンではなく裾の長いドレスのような作りだからか心許なかった。
(兄上の言葉ではないが、わたしもすっかりアトレテスに馴染んでいたのだな)
食事も気候もすっかり日常の一部になっていた。窓の外はいつの間にか秋めいていて、季節の進み具合もメレキアとは違う。それなのにメレキアと比べることもほとんどなくなった。
トントンと扉を叩く音がした。「どうぞ」と答えると将軍が姿を現す。
「殿下、支度は終わられましたか?」
「はい」
ちょうど髪を結び終わったところだった。神殿にいたときは手櫛でサッとするだけだったが、すっかり長くなった今は将軍にもらった組紐で結ぶのが日課になっている。
「どうかしましたか?」
そう尋ねたのは将軍が立ったままじっとこちらを見ていたからだ。やはり神官服はよくないと思ったのだろうか。せっかく仕立ててもらったものだが神官服にこだわるつもりはない。こうして用意してもらっただけで十分だ。
「着替えましょうか?」
「あぁいえ、正式な神官姿は初めて拝見しましたが、あまりの美しさに見惚れてしまいました。女神の愛し子と呼ばれていたのもわかる美しさです」
微笑みに鼓動がドクンと跳ねた。そのままトクトクと早鐘を打つように忙しなくなる。
「そうやって頬をわずかに染めた顔も美しい。今の殿下の前では大地の女神でさえ霞むでしょう。おっと、こんなことを口にしては女神に罰を下されかねませんね」
「しょ、将軍」
「慌てふためく姿も美しくていらっしゃる。このままでは許しを得る前に殿下をどうにかしてしまいそうです。さぁ、早く礼拝堂へ行きましょう」
差し出された手に耳まで熱くなった。普段こうした美辞麗句を口にしない将軍の言葉だからかますます鼓動が跳ね上がる。手を取りながらも顔を見ることができない。足元に視線を向けつつ、時々ちろっと傍らを見ては目元が熱くなるのを感じた。
朝の早い時間だからか礼拝堂の中はやや冷えていて、それがかえって清々しい気持ちにさせる。部屋では重かった心も幾分か晴れ、昂ぶっていた気持ちもなんとか落ち着かせることができた。
膝をつき、朝日に照らされている女神の像をじっと見た。右手を胸に当てながらも目を閉じることはなく、ただじっと女神を見つめる。
(どうかディエイガー将軍との婚姻をお許しください)
敵将と結ばれたいと願うことをお許しください。祖国のことよりも将軍のことを強く思うようになった自分をお許しください。
(幸福な道を歩むことをお許しください)
将軍もエメウスも自分に責任はないと言うが、まったくないわけではない。それなのに民たちよりも先に女神の祝福を受けるのは本来あってはならないことだ。
それでも将軍の手を取りたいと願った。その手を離したくないと思った。生まれて初めて自らの道を選択し、選んだその道を全身全霊で歩みたいと思った。
(どうかディエイガー将軍に祝福をお与えください。遠い異国の地にあっても女神の祝福があらんことを……)
斜め後ろからカツンと何かが床に触れる音がした。振り向くと将軍が床に片膝をついている。右手には腰に下げていた片手剣を持ち、鞘に入ったままの剣先を床に付くように立てていた。
(これは……)
メレキアでは見たことがないが、たしか武人が行う儀礼的な行いだと聞いたことがある。
「我が命、イシェイド殿下のためにあるものとここに誓いましょう。戦の神が護りしアトレテスの地にあっても、イシェイド殿下に女神の加護と祝福があらんことを」
「将軍……」
思わず名を呼ぶと将軍がわずかに微笑んだ。
「殿下の御身は必ずやわたしが守ります。女神の愛し子をこの手にいただくのですから、女神にもそのことを誓わねばなりません」
胸の奥からグッとせり上がってくるものを感じた。目頭が熱くなるのを感じ、慌てて正面を向く。再び女神を見上げるが少しだけ滲んで見えた。像なのだから表情が変わることなどないはずなのに、どことなく微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
(将軍がわたしに向けてくれるのと同じだけの想いを生涯注ぎ続けると誓います。どうか大地の女神の愛で将軍をお守りください)
そっと目を閉じた。出立前に見た王都を思い浮かべ、移動する先々で見た祖国の様子を思い返す。どうか祖国がこれ以上傷つかないように、民たちに平穏が訪れるようにと祈った。そして、これから難題が待ち受けるであろうエメウスのために祈る。
(どうかすべてに女神の祝福があらんことを)
どのくらい経っただろうか。目を開けると女神の像を照らす日差しが明るくなっていた。日々祈りは捧げているが、こうして没頭するように祈ったのは久しぶりかもしれない。
小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。「よろしいのですか?」と尋ねられ、「はい」と答えながら振り返る。
「熱心に祈られたようですね」
「これまでのことやエメウス兄上のことも祈っていましたので。ですが、一番はやはり婚姻のことです」
祈り始めたときはあれこれ思うことばかりだったが、今はどことなくすっきりした気がする。これも将軍と一緒に祈ることができたからだろうか。
(後ろめたさも後悔も決して忘れることはないだろうが、そうした思いもすべて呑み込んだうえで将軍の隣に立ちたい)
寄り添ってくれる将軍に自分も寄り添いたい。できれば将軍を支えられるようになりたい。
(将軍と対等でありたい)
将軍に背中を任せてもらえるような存在になりたい。以前もそう思うことがあったが思いはさらに強くなった。
(わたしは武人でありたい)
女神に仕える気持ちを捨てることはできないだろうが、神官として思い悩むだけの生き方は今日で最後にしよう。この先アトレテスで生き、将軍の隣に立ち続けるにはやはり武人であるのがもっともよいと思えた。
(武人となり、生涯将軍の傍らで将軍を支えたい)
熱いものがわき上がるのを感じた。沸々としたものを抱きながらも頭は冷静で、将軍の傍らに立つためにどれだけの努力と鍛錬が必要だろうかとあれこれ考える。
「女神のお許しが得られたのならよいのですが」
「大地の女神は愛し合う者に祝福を与えてくださいます。わたしの愛は真実ですから間違いなく許しを得られたはずです」
「では、わたしの祈りも届いたことでしょう。殿下への想いに嘘偽りはありませんので」
頬がじわりと熱くなった。自分が歩む道をはっきり見定めたからか、将軍がより一層輝いて見える。
将軍が再び目の前で片膝をついた。どうしたのだろうと驚いていると右手を取られた。そのままはしばみ色の目がじっと自分を見つめる。
「以前も申し上げましたが、我が名と剣にかけて生涯殿下を守ると誓いましょう。御身とお心のすべてを我が命を掛けてお守りします」
そう告げると将軍が指先に口づけた。触れるだけの感触にビリッとしたものが腕を駆け上がってくる。
「わたしも誓います。生涯、将軍の傍らで将軍を支えると誓います」
将軍の手を取り立ち上がらせた。そうして同じように手を取り指先に口づける。
「殿下の加護があれば恐れるものは何もありませんね」
「わたしにそのような力はありませんが」
「いいえ、わたしにとっては殿下の存在そのものが神の加護なのです。ようやく全霊を持って護りたい存在に出会うことができました」
「大袈裟な……」
大仰な言葉に落ち着かない気持ちになった。指先から視線を上げ、将軍の顔を見る。その瞬間ドキッとした。いつもよりはしばみ色の目がぎらりと光っているように見えるのは気のせいだろうか。
見ているうちに背中を冷たいものがすべり落ちるような感覚に襲われた。将軍の手を握っていた腕がフルッと小さく震える。
(これは……畏れ、か?)
まるで神を前にしたかのような感覚に足元がわずかによろめいた。
「朝早くから祈りを捧げたのですからお疲れでしょう。今日はゆっくりしましょうか」
「いえ……いいえ、大丈夫です」
一瞬感じた畏れにも似た感覚はすぐに消えた。改めて見たはしばみ色の目は朝日を反射しているだけでいつもどおり柔らかい。
「それなら午後から手合わせしますか?」
「そう、ですね」
「では、そのように」
そう言って手を取った将軍が歩き出した。ちろっと横顔を見るがいつもと違うようには見えない。それなのに先ほどの瞳がやけに気になる。ふと、エルドの言葉が頭に浮かんだ。
(戦神の宝珠、だったか)
なぜかその言葉が頭から離れなかった。将軍は自分を「神の加護」と言ったが、はたしてどちらが「神」なのだろうか。そんなことを考える自分に小さく頭を振った。
(将軍は将軍だ。たとえ戦神の化身だったとしても、わたしにとってディエイガー将軍が愛しい存在であることに変わりない)
大きく力強い手をギュッと握り返した。それに気づいた将軍が少し振り向き、優しく微笑む。その表情だけで体の奥がジンと痺れた。
(そうだ、わたしは将軍だからこんなにも愛しいと思ったのだ)
その後、昼食まで書き物をする将軍の傍らで本を読み、午後になってから手合わせをした。いつもより剣がぶつかり合う感触が心地いい。これからもずっとこうした日々を送りたい……心の底からそう願った。
121
あなたにおすすめの小説
人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました
よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、
前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。
獣人が支配する貴族社会。
魔力こそが価値とされ、
「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、
レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。
そんな彼を拾ったのは、
辺境を治める獣人公爵アルト。
寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。
溺愛され、守られ、育てられる日々。
だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。
学院での出会い。
貴族社会に潜む差別と陰謀。
そして「番」という、深く重い絆。
レオンは学び、考え、
自分にしかできない魔法理論を武器に、
少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。
獣人と人族。
価値観も、立場も、すべてが違う二人が、
それでも選び合い、家族になるまでの物語。
溺愛×成長×異世界BL。
読後に残るのは、
「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。
別れたはずの元彼に口説かれています
水無月にいち
BL
高三の佐倉天は一歳下の松橋和馬に一目惚れをして告白をする。お世話をするという条件の元、付き合えることになった。
なにかと世話を焼いていたが、和馬と距離が縮まらないことに焦っている。
キスを強請った以降和馬とギクシャクしてしまい、別れを告げる。
だが別れたのに和馬は何度も会いに来てーー?
「やっぱりアレがだめだった?」
アレってなに?
別れてから始まる二人の物語。
身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される
秋津むぎ
BL
第13回BL大賞奨励賞頂きました!
最終17位でした!応援ありがとうございます!
あらすじ
魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。
ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。
死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――?
傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。
氷の公爵様と身代わりパティシエ~「味覚なし」の旦那様が、僕のお菓子でトロトロに溶かされています!?~
水凪しおん
BL
【2月14日はバレンタインデー】
「お前の菓子だけが、私の心を溶かすのだ」
実家で「魔力なしの役立たず」と虐げられてきたオメガのリウ。
義弟の身代わりとして、北の果てに住む恐ろしい「氷血公爵」ジークハルトのもとへ嫁ぐことになる。
冷酷無慈悲と噂される公爵だったが、リウが作ったカカオのお菓子を食べた途端、その態度は激変!?
リウの持つ「祝福のパティシエ」の力が、公爵の凍りついた呪いを溶かしていき――。
拾ったもふもふ聖獣と一緒に、甘いお菓子で冷たい旦那様を餌付け(?)する、身代わり花嫁のシンデレラストーリー!
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*本編完結しました
紳士オークの保護的な溺愛
flour7g
BL
■ 世界と舞台の概要
ここはオークの国「トールキン」。
魔法、冒険者、ギルド、ダンジョン、獣人やドラゴンが存在する、いわゆる“典型的な異世界”だが、この国の特徴はオークが長命で、理知的な文明社会を築いていることにある。
トールキンのオークたちは、
灰色がかった緑や青の肌
鋭く澄んだ眼差し
鍛え上げられた筋骨隆々の体躯
を持ち、外見こそ威圧的だが、礼節と合理性を重んじる国民性をしている。
異世界から来る存在は非常に珍しい。
しかしオークは千年を生きる種族ゆえ、**長い歴史の中で「時折起こる出来事」**として、記録にも記憶にも残されてきた。
⸻
■ ガスパールというオーク
ガスパールは、この国でも名の知れた貴族家系の三男として生まれた。
薄く灰を帯びた緑の肌、
赤い虹彩に金色の瞳孔という、どこか神話的な目。
分厚い肩と胸板、鍛え抜かれた腹筋は鎧に覆われずとも堅牢で、
銀色に輝く胸当てと腰当てには、代々受け継がれてきた宝石が嵌め込まれている。
ざらついた低音の声だが、語調は穏やかで、
貴族らしい品と、年齢を重ねた余裕がにじむ話し方をする。
● 彼の性格
• 極めて面倒見がよく、観察力が高い
• 感情を声高に表に出さないが、内側は情に厚い
• 責任を引き受けることを当然のように思っている
• 自分が誰かに寄りかかることだけは、少し苦手
どこか「自分は脇役でいい」と思っている節があり、それが彼の誠実さと同時に、不器用さでもあった。
⸻
■ 過去と喪失 ――愛したオーク
ガスパールはかつて、平民出身のオーク男性と結ばれていた。
家柄も立場も違う相手だったが、
彼はその伴侶の、
不器用な優しさ
朝食を焦がしてしまうところ
眠る前に必ず手を探してくる癖
を、何よりも大切にしていた。
しかし、その伴侶はすでにこの世を去っている。
現在ガスパールが暮らしているのは、
貴族街から少し離れた、二階建ての小さな屋敷。
華美ではないが、掃除が行き届き、静かな温もりのある家だ。
彼は今も毎日のように墓参りを欠かさない。
それは悲嘆というより、対話に近い行為だった。
⸻
■ 現在の生活
ガスパールは現在、
街の流通を取り仕切る代表的な役職に就いている。
多忙な職務の合間にも、
洗濯、掃除、料理
帳簿の整理
屋敷の修繕
をすべて自分でこなす。
仕事、家事、墓参り。
規則正しく、静かな日々。
――あなたが現れるまでは。
【WEB版】監視が厳しすぎた嫁入り生活から解放されました~冷徹無慈悲と呼ばれた隻眼の伯爵様と呪いの首輪~【BL・オメガバース】
古森きり
BL
【書籍化決定しました!】
詳細が決まりましたら改めてお知らせにあがります!
たくさんの閲覧、お気に入り、しおり、感想ありがとうございました!
アルファポリス様の規約に従い発売日にURL登録に変更、こちらは引き下げ削除させていただきます。
政略結婚で嫁いだ先は、女狂いの伯爵家。
男のΩである僕には一切興味を示さず、しかし不貞をさせまいと常に監視される生活。
自分ではどうすることもできない生活に疲れ果てて諦めた時、夫の不正が暴かれて失脚した。
行く当てがなくなった僕を保護してくれたのは、元夫が口を開けば罵っていた政敵ヘルムート・カウフマン。
冷徹無慈悲と呼び声高い彼だが、共に食事を摂ってくれたりやりたいことを応援してくれたり、決して冷たいだけの人ではなさそうで――。
カクヨムに書き溜め。
小説家になろう、アルファポリス、BLoveにそのうち掲載します。
アプリで元カノを気にしなくなるくらい魅力的になろうとした結果、彼氏がフリーズしました
あと
BL
「目指せ!!魅力的な彼氏!!」
誰にでも優しいように見えて重い…?攻め×天然な受け
⚠️攻めの元カノが出て来ます。
⚠️強い執着・ストーカー的表現があります。
⚠️細かいことが気になる人には向いてません。
合わないと感じた方は自衛をお願いします。
受けは、恋人が元カノと同級生と過去の付き合いについて話している場面に出くわしてしまう。失意の中、人生相談アプリの存在を知る。実は、なぜか苗字呼び、家に入れてもらえない、手を出さないといった不思議がある。こうして、元カノなんか気にしなくなるほど魅力的になろうとするための受けの戦いが始まった…。
攻め:進藤郁也
受け:天野翔
※誤字脱字・表現の修正はサイレントで行う場合があります。
※タグは定期的に整理します。
※批判・中傷コメントはご遠慮ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる