美しき神官は戦神の宝珠となる

朏猫(ミカヅキネコ)

文字の大きさ
35 / 39

番外編 愛称

しおりを挟む
「ところで殿下、いつまでディオのことを“将軍”って呼ぶおつもりです?」

 エルドの言葉に「えっ?」と顔を上げた。

「殿下とディオは伴侶なんですし、公爵夫人がいつまでも旦那様のことを役職名で呼ぶのはどうかと思いまして」

 指摘されて初めて「そうか」と思った。将軍が自分のことを「殿下」と呼ぶのは元王族だからで、王族と貴族の婚姻では珍しくない。だが、自分が将軍のことを役職名で呼ぶのはたしかに不自然だ。

(とはいえ「旦那様」というのもな。だからといっていきなり名前で呼ぶのも気が引ける)

 エルドは昔からの癖だからと言って今でも将軍のことを「ディオ」と呼ぶ。さすがに公の場では「ディエイガー将軍」と呼ぶらしいが、初めて顔を合わせたときから「ディオ」と呼ぶ姿を見てきたからか畏まった呼び方をするほうが違和感があった。
 自分も名前で呼べるだろうかと想像してみた。胸の内では「ディエイガー将軍」と呼ぶこともあるが、いざ本人を目の前にするとやはり「将軍」とだけ呼ぶだろう。

「昔から“将軍”と心の中で呼びかけていたから、つい」
「初めてディオを見たのは五歳のときでしたっけ?」
「あぁ。だが名前を知ったのはもっと後になってからだ。そのときはすでに将軍になっていて、そこからずっと“将軍”だな」
「俺の“ディオ”と似たような感じってことですか」
「俺がどうかしたのか?」

 そう言いながら扉を開けたのは将軍だった。帰ってきた直後だからかきっちりした軍服姿のままで、それがまたよく似合っているせいで思わず見惚れてしまう。

「先に一杯やってますよ、将軍閣下」
「なぜわたしの副官であるおまえが上官より先に帰っているのか知りたいんだがな。しかも上官の屋敷にいるのはどういうことだ?」
「そんな固いことを言うなって。ほら、おまえさんもさっさと着替えてこいよ」

 眉を跳ね上げる表情も気にならないのか、「ほら、行った行った」と追い出すように手を動かした。普段も気さくな態度だが、酒が入っているからかいつも以上に砕けた様子になっている。
 エルドは将軍の六歳年下で三十二歳だと聞いた。生まれた頃からの幼馴染みだというエルドはマルガレートとも仲がよいらしく、「実の妹、いや弟みたいなものですかね」と笑いながらエメウスとのことを喜んでいた。

(なんとも羨ましい関係だな)

 六歳になる前に神殿に入れられた自分にそうした存在はいなかった。しいていうなら従兄のエメウスがそれに近いが、メレキア王として祖国に戻れば気軽に会うことはできなくなる。
 そう考えると寂しくなるが、こうしてエルドと話していると自分も仲間に入れてもらえたような気がして心が弾んだ。さすがに幼馴染みとまではいかないが、友とは違う、かといって部下とも違うなんとも不思議な感覚になる。

「で、先ほどの話ですけどね」

 どうやら「将軍」という呼び方がよほど気になっているらしい。酒の入ったグラスをグイッと空けてからこちらを見た。

「俺としては“旦那様”がお勧めなんですけど、どうですかね?」
「さすがにそれは……」

 自分が口にするのははばかられる。それに呼ばれる側もどう思うだろうか。

「えぇ~。興奮すると思うんだけどなぁ」
「興奮……?」
「間違いなく興奮しますって。伴侶とはいえ身分は殿下のほうがずっと上。そんな相手に“旦那様”なんて呼ばれるのは倒錯的というかなんというか……それに女神様にそんなふうに呼ばれちゃあディオもイチコロです」
「そう思っているのはエルドだけでは?」
「いえいえ、ディオもただの男。伴侶に思う存分惑わされている姿を見たい、もとい、鼻の下もグーンと伸びるってもんです」
「適当なことを言うな」

 着替えて戻って来た将軍がエルドの座るソファの後ろを通り過ぎた。振り返りながら「いやいや、絶対に伸びるだろ」とエルドがなおも口にする。

「あっ! それじゃあ“ディオ”はどうです? そう呼ぶのはもはや俺くらいですし、大陸一の武人に気安く愛称で呼びかける人間はそうそういませんからね。マギーもディオって呼ぶことがありましたけど、メレキアに行っちゃいますからねぇ」

 美しいマルガレートの強気な微笑みを思い出した。将軍が「マギー」と呼び、マルガレートも「ディオ」と呼ぶ姿を想像する。仲がよい兄妹ならそうした呼び方もするのだろうが、ほんの少しだけ胸がズキッと痛むような気がした。

(これは……嫉妬、だろうか)

 妹に嫉妬してどうする。すぐに呆れたものの、愛称という特別な呼び方ができるマルガレートのことが正直羨ましくなる。それに小さい頃から将軍のことを間近で見ることができた。剣の鍛錬も見てもらっていただろう。

(わたしもずっと憧れていたのに……)

 やはり少し妬ましい。そういう意味ではいまだに愛称で呼び、上官と部下という特別な絆で結ばれているエルドのことも羨ましかった。

「おっと、呼んでみたいって顔してますね?」
「……いや……」
「せっかくなんで、ちょっと練習してみましょうよ」
「だが、」
「さぁさぁ」

 隣に座った将軍をちろっと見た。会話が気にならないのか、こちらを見ることなくグラスに酒を注いでいる。もしかして自分に愛称で呼ばれることにも興味がないのだろうか。

(意識しているのはわたしだけか)

 なぜか少しだけ寂しく感じた。同時に、もし今ここで「ディオ」と呼んだらどんな反応をするのか見てみたくなる。

(まぁ、酒の席だし)

 エルドに誘われてそれなりの量を飲んでいる。将軍もきっと酔っ払いのたわごとだと気にしないだろう。「それなら……」と口を開いた。一瞬声が詰まったのは思ったより緊張したからで、一度口を閉じ、唾を飲み込んでからもう一度開いた。

「ディオ」

 声が掠れてしまった。「んんっ」と咳払いをしてから再び「ディオ」と口にする。

(なんだかくすぐったいな)

 それに思ったより心地いい。愛しい人の特別な呼び方だと思うと心が弾むような気さえした。そういえばこれまで自分が誰かを愛称で呼んだことがないことに気がついた。それを悲しいと思ったことはなかったが、こうして愛称で呼ぶと感慨深い気持ちになる。

「あっははははは!」

 急にエルドが笑いだして驚いた。もしかして自分を笑ったのだろうか。そう思ったのが表情に出ていたのか、「違いますって」と否定してからまたエルドが笑った。

「本っ当にわかりやすいなぁ。ディオ、おまえさん今めちゃくちゃ喜んでるだろ」
「えっ?」

 驚いて隣を見た。だが将軍はいつもどおりの表情でグラスを傾けている。多少表情が柔らかく見えなくもないが“めちゃくちゃ”というほど喜んでいるようには見えなかった。

「殿下もそのうちこいつの気持ちが手に取るようにわかるようになりますって。いかつい顔のうえに面の皮も厚いですが、案外わかりやすいのがこの男のいいところです」
「そう、ですか……?」

 こうして近くで見ることは多いが、いまだに将軍の機微を正確に読み取ることは難しい。目を細めたり口角を上げたりといった変化があればわかるものの、今のようにすました表情のときはとくにわからなかった。

(手合わせのときのほうがまだわかるかもしれない)

 いや、あれは表情ではなく纏っている気配から感じているからだ。顔を見ただけでは次にどう動くか判断するのは難しい。

(表情だけで読み取れるようになるのだろうか)

 不意にギラギラしたはしばみ色の目を思い出した。ベッドでの将軍は昼間と違い雄弁なほどよくわかる。手を見なくてもどう動くのが、次にどこに触れてくれるのか、それどころかもうすぐ体の奥で果てるのだろうということまでわかった。

「殿下、そういう顔はディオ以外に見せないでくださいよ」
「!」

 エルドの指摘に慌てて顔を逸らした。酒が入っているからか具体的な状況まで思い出してしまい、居たたまれない気持ちになる。

「はいはい、旦那様もそうやって嫉妬しない。今のはおまえさんのことを考えていた結果だろうし、旦那様としては最高のご褒美だろうが」
「おまえは酒が入っていても口が達者だな」
「上官が口下手ですからね」
「言ってろ」

 空になった将軍のグラスにエルドが酒を注いだ。そうかと思えば将軍もエルドのグラスに酒を注いでいる。口ではあれこれ言い合うが気心が知れた仲ということなのだろう。そうした様子を見せられると、やはりほんの少し焼いてしまう。

「殿下、その気持ちのままディオって呼ぶといいですよ」
「それは……」
「あぁ、今じゃありません。ベッドの中で呼ぶんです。親密な空間で呼んでいるうちに自然とディオと呼べるようになりますよ」

 エルドの言葉に今度こそ顔が真っ赤になったに違いない。ところがエルドはそっぽを向いた状態で、代わりに将軍が目を細めてこちらを見ていた。

(い、居たたまれない)

 もしかして将軍も酔っているのだろうか。以前エルドが「こいつが酒で酔ったところなんて見たことないですよ」と言っていたが、ひたすらじっと自分を見つめる様子は酔っているようにしか見えなかった。
 その後、訓練で起きた出来事や将軍の笑顔で魔獣が失神したという話、大剣イオニータで仕留めた巨獣の話題などで大いに盛り上がった。そうして心地よくなったまま寝室に入ったからか、エルドに言われたことを実行しなくてはと思ってしまった。気がつけば「ディオ」と言いながら首に両手を回していた。

「酔っておいでですか?」
「ふふっ、どうでしょう」
「ご機嫌なのはよろしいかと思いますが」
「では、もっと機嫌がよくなるようにしてください」

 相当酔っていたいに違いない。その後、普段なら口にしないようなことをあれこれ言わされ、ためらいもなく口にしてしまった。そのたびに焦れったさに体を昂ぶらせては「ディオ」と愛称を口にする羽目になった。

(将軍は段々と意地が悪くなってきた)

 朝、目が覚めてぼんやりした頭でそう思った、将軍はすでに起きているようで傍らは空いている。すでに冷たくなったベッドに指を這わせながら、「意地悪くされるのも悪くないな」と思っている自分にサッと顔が熱くなった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました

よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、 前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。 獣人が支配する貴族社会。 魔力こそが価値とされ、 「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、 レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。 そんな彼を拾ったのは、 辺境を治める獣人公爵アルト。 寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。 溺愛され、守られ、育てられる日々。 だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。 学院での出会い。 貴族社会に潜む差別と陰謀。 そして「番」という、深く重い絆。 レオンは学び、考え、 自分にしかできない魔法理論を武器に、 少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。 獣人と人族。 価値観も、立場も、すべてが違う二人が、 それでも選び合い、家族になるまでの物語。 溺愛×成長×異世界BL。 読後に残るのは、 「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。

別れたはずの元彼に口説かれています

水無月にいち
BL
 高三の佐倉天は一歳下の松橋和馬に一目惚れをして告白をする。お世話をするという条件の元、付き合えることになった。  なにかと世話を焼いていたが、和馬と距離が縮まらないことに焦っている。  キスを強請った以降和馬とギクシャクしてしまい、別れを告げる。  だが別れたのに和馬は何度も会いに来てーー?  「やっぱりアレがだめだった?」    アレってなに?  別れてから始まる二人の物語。

氷の公爵様と身代わりパティシエ~「味覚なし」の旦那様が、僕のお菓子でトロトロに溶かされています!?~

水凪しおん
BL
【2月14日はバレンタインデー】 「お前の菓子だけが、私の心を溶かすのだ」 実家で「魔力なしの役立たず」と虐げられてきたオメガのリウ。 義弟の身代わりとして、北の果てに住む恐ろしい「氷血公爵」ジークハルトのもとへ嫁ぐことになる。 冷酷無慈悲と噂される公爵だったが、リウが作ったカカオのお菓子を食べた途端、その態度は激変!? リウの持つ「祝福のパティシエ」の力が、公爵の凍りついた呪いを溶かしていき――。 拾ったもふもふ聖獣と一緒に、甘いお菓子で冷たい旦那様を餌付け(?)する、身代わり花嫁のシンデレラストーリー!

身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される

秋津むぎ
BL
第13回BL大賞奨励賞頂きました! 最終17位でした!応援ありがとうございます! あらすじ 魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。 ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。 死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――? 傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。

僕の、しあわせ辺境暮らし

  *  ゆるゆ
BL
雪のなか3歳の僕を、ひろってくれたのは、やさしい16歳の男の子でした。 ふたりの、しあわせな辺境暮らし、はじまります! ぽて と むーちゃんの動画をつくりました! インスタ @yuruyu0 絵もあがります。 YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。 プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *本編完結しました

紳士オークの保護的な溺愛

flour7g
BL
■ 世界と舞台の概要 ここはオークの国「トールキン」。 魔法、冒険者、ギルド、ダンジョン、獣人やドラゴンが存在する、いわゆる“典型的な異世界”だが、この国の特徴はオークが長命で、理知的な文明社会を築いていることにある。 トールキンのオークたちは、 灰色がかった緑や青の肌 鋭く澄んだ眼差し 鍛え上げられた筋骨隆々の体躯 を持ち、外見こそ威圧的だが、礼節と合理性を重んじる国民性をしている。 異世界から来る存在は非常に珍しい。 しかしオークは千年を生きる種族ゆえ、**長い歴史の中で「時折起こる出来事」**として、記録にも記憶にも残されてきた。 ⸻ ■ ガスパールというオーク ガスパールは、この国でも名の知れた貴族家系の三男として生まれた。 薄く灰を帯びた緑の肌、 赤い虹彩に金色の瞳孔という、どこか神話的な目。 分厚い肩と胸板、鍛え抜かれた腹筋は鎧に覆われずとも堅牢で、 銀色に輝く胸当てと腰当てには、代々受け継がれてきた宝石が嵌め込まれている。 ざらついた低音の声だが、語調は穏やかで、 貴族らしい品と、年齢を重ねた余裕がにじむ話し方をする。 ● 彼の性格 • 極めて面倒見がよく、観察力が高い • 感情を声高に表に出さないが、内側は情に厚い • 責任を引き受けることを当然のように思っている • 自分が誰かに寄りかかることだけは、少し苦手 どこか「自分は脇役でいい」と思っている節があり、それが彼の誠実さと同時に、不器用さでもあった。 ⸻ ■ 過去と喪失 ――愛したオーク ガスパールはかつて、平民出身のオーク男性と結ばれていた。 家柄も立場も違う相手だったが、 彼はその伴侶の、 不器用な優しさ 朝食を焦がしてしまうところ 眠る前に必ず手を探してくる癖 を、何よりも大切にしていた。 しかし、その伴侶はすでにこの世を去っている。 現在ガスパールが暮らしているのは、 貴族街から少し離れた、二階建ての小さな屋敷。 華美ではないが、掃除が行き届き、静かな温もりのある家だ。 彼は今も毎日のように墓参りを欠かさない。 それは悲嘆というより、対話に近い行為だった。 ⸻ ■ 現在の生活 ガスパールは現在、 街の流通を取り仕切る代表的な役職に就いている。 多忙な職務の合間にも、 洗濯、掃除、料理 帳簿の整理 屋敷の修繕 をすべて自分でこなす。 仕事、家事、墓参り。 規則正しく、静かな日々。 ――あなたが現れるまでは。

【WEB版】監視が厳しすぎた嫁入り生活から解放されました~冷徹無慈悲と呼ばれた隻眼の伯爵様と呪いの首輪~【BL・オメガバース】

古森きり
BL
【書籍化決定しました!】 詳細が決まりましたら改めてお知らせにあがります! たくさんの閲覧、お気に入り、しおり、感想ありがとうございました! アルファポリス様の規約に従い発売日にURL登録に変更、こちらは引き下げ削除させていただきます。 政略結婚で嫁いだ先は、女狂いの伯爵家。 男のΩである僕には一切興味を示さず、しかし不貞をさせまいと常に監視される生活。 自分ではどうすることもできない生活に疲れ果てて諦めた時、夫の不正が暴かれて失脚した。 行く当てがなくなった僕を保護してくれたのは、元夫が口を開けば罵っていた政敵ヘルムート・カウフマン。 冷徹無慈悲と呼び声高い彼だが、共に食事を摂ってくれたりやりたいことを応援してくれたり、決して冷たいだけの人ではなさそうで――。 カクヨムに書き溜め。 小説家になろう、アルファポリス、BLoveにそのうち掲載します。

処理中です...