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(21)桃珊瑚-1
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「ああああ、もうすぐ家を出る時間! ヤバい、遅れる!」
朝から古い鏡台の前で私はひとりで騒いでいた。もうすぐ宅配便のお兄さんとの待ち合わせ時間だというのに、準備が間に合わないのだ。
いつものようにあやかしからの依頼で、会社のお取引先の社長夫人に三河内焼のやきものをお届けしたのがつい先日のこと。やきものを譲ってくれたお礼……正確には甥御さんと私のお見合いをセッティングしようとしたお詫びも含めて、あれよあれよという間に食事に招待されることになってしまったのだ。
私と社長夫人の甥御さんのお見合いに対して、なぜ宅配便のお兄さんが不快感を示したのか。お兄さんの言葉を信じるならば、私に好意を持っているということで……。信じられない事態に混乱し、私はひとりで舞い上がっていた。
そして今朝ふと気が付いたのだ。11時過ぎに丸山公園に集合と言われていたけれど、行き先は聞いていなかったことに。
大慌てでスマホを手に取る。念のため、この間お兄さんと連絡先を交換していて本当に良かった。LINEを送れば、すぐに返事がきた。
『あの、すみません。今日って、どこのお店に行くんでしたっけ?』
『こちらこそすみません。お伝えしていなかったですね。ご自宅から近かったので、忘れていました』
『あ、近い場所なら安心です。結局、場所って「よひら」ですか?』
社長夫人が馴染みの店と言えるお店で、かつお届けもののお礼になる格式のお店となると、行き先は限られてくる。
よひらは、歴史ある建物がとても美しく、長崎らしい料理を交えた和食やステーキがとても美味しいお店である。別に、「ひとの金で焼き肉が食べたい」と狙っていたわけではない。とはいえ、よひらのステーキは美味しい。
ちなみによひらというのは、あじさいの別名だ。花びらのように見えるガクが4片あることから、「四葩」と言うのだそうだ。夏の季語としても有名らしい。
『いえ、そこではないですね』
『え、違いました? じゃあどこだろう。まさか、「一力」とか?』
一力もまた、有名な料亭のひとつだ。創業200年を超える老舗であり、長崎最古の料亭である。幕末には、亀山社中の志士らも頻繁に出入りしていたのだとか。今の建物は大正時代に建て直したものだが、歌舞伎が長崎で興行される際には多くの役者が食事や宿泊をしていたのだそうだ。力となると、結構かしこまった感じが出てくる。親族の冠婚葬祭なら定番で出てくるお店なのだ。
『いいえ、違います』
『ですよね』
ちょっと考え過ぎだったかもしれない。もっと肩の力を抜いたお店を用意してもらっているのだろう。ええと、あの辺りで他にお勧めの食事処は……。考え始めた私に、お兄さんはとんでもない返信を寄こしてきた。
『予約していただいたお店は、「花月」です』
『へ』
『ですから、「花月」です』
『う、嘘でしょう!!!』
史跡料亭花月。丸山遊郭の引田屋本家の建物と庭園を受け継いだ料亭で、坂本龍馬がつけたという床の間の柱の刀傷で紹介されることも多い。中国やポルトガル、オランダの料理をアレンジした卓袱料理が有名だが、ここは長崎人にとって特別な料亭である。普段使いするようなお店ではない。
もしかして、もともと花月で甥御さんに会わせる予定でお店を押さえていたということだろうか。夫人の本気をちらりと垣間見てしまったような気がする。お兄さんがあの場で登場しなかったら、気が付かない間に外堀が埋められていたのかもしれない。たおやかな社長夫人は、やっぱり世の中の荒波を渡ってきたしたたかさを持ち合わせているのだとしみじみ感じた。
さすがに花月にテキトーな格好で行く度胸はない。観光客ならTシャツにジーンズでも許されるだろうが、地元の一般庶民には普段着での入店は逆にハードルが高すぎる。明確なドレスコードは指定されていないけれど、やっぱり落ち着かないし、祖母に見られたら叱り飛ばされるだろう。
いっそ、しまいっぱなしの祖母の着物を着ていくべきか? いや、着物に合う髪型にセットする自信がない。時間もないし、何より年増の成人式になってしまう可能性が高い。
散々迷ったあげく、結局シンプルなワンピースにした。色味のせいか、顔周りが少し暗いのが気になる。手持ちのアクセサリーを引っ張り出し、つけてみる。ところがこんなときに限って、どれもしっくりこない。まずい、まずい。もう時間がない。
ジュエリーケースの中を引っ掻き回していると、柔らかな桃色が飛び込んできた。珊瑚だ。おかしいな、こんなものを買った記憶はないのだが。祖母のお下がりだろうか。よく見ればジュエリーケースの中には、古めかしいデザインのアクセサリーがところどころに混じっていた。
海に囲まれた長崎は珊瑚の産地でもある。珊瑚は白、桃、赤、黒といった色があるが、特に血赤珊瑚と呼ばれる真っ赤な珊瑚は高値で取引されているそうだ。けれど私個人は可愛らしい桃珊瑚が好きだ。しかも桃色一色のものよりも、白が混じった柔らかい色合いのものが服にも合わせやすいと思う。
見つけたばかりの桃色珊瑚は、私のイメージ通りの色味をしていた。しかも祖母のものだからイヤリングだと思っていたのだが、まさかのピアスだ。祖母も母も叔母も、ピアスを使ってなどいない。
その昔、祖父がループタイを修理に出したときに、一緒に持って行ってくれたのかもしれない。実はイヤリングだと頭が痛くなったり、肩が凝ったりするから苦手なのだ。そのせいでピアスは毎日使っているけれど、イヤリングはしまいっぱなしになりがちだったりする。
記憶を手繰ろうにも、思い出せないものは思い出せない。仕方なく、さっとピアスのポスト部分を除菌シートでぬぐって耳につける。自分で言うのもなんだが、まるで昔からお気に入りのアクセサリーみたいに、ピアスは私の顔によく馴染んでいた。鏡の中で、小粒の桃色珊瑚がいくつもゆらゆらと揺れている。なんだか、今日は楽しい食事会になりそうな気がした。
朝から古い鏡台の前で私はひとりで騒いでいた。もうすぐ宅配便のお兄さんとの待ち合わせ時間だというのに、準備が間に合わないのだ。
いつものようにあやかしからの依頼で、会社のお取引先の社長夫人に三河内焼のやきものをお届けしたのがつい先日のこと。やきものを譲ってくれたお礼……正確には甥御さんと私のお見合いをセッティングしようとしたお詫びも含めて、あれよあれよという間に食事に招待されることになってしまったのだ。
私と社長夫人の甥御さんのお見合いに対して、なぜ宅配便のお兄さんが不快感を示したのか。お兄さんの言葉を信じるならば、私に好意を持っているということで……。信じられない事態に混乱し、私はひとりで舞い上がっていた。
そして今朝ふと気が付いたのだ。11時過ぎに丸山公園に集合と言われていたけれど、行き先は聞いていなかったことに。
大慌てでスマホを手に取る。念のため、この間お兄さんと連絡先を交換していて本当に良かった。LINEを送れば、すぐに返事がきた。
『あの、すみません。今日って、どこのお店に行くんでしたっけ?』
『こちらこそすみません。お伝えしていなかったですね。ご自宅から近かったので、忘れていました』
『あ、近い場所なら安心です。結局、場所って「よひら」ですか?』
社長夫人が馴染みの店と言えるお店で、かつお届けもののお礼になる格式のお店となると、行き先は限られてくる。
よひらは、歴史ある建物がとても美しく、長崎らしい料理を交えた和食やステーキがとても美味しいお店である。別に、「ひとの金で焼き肉が食べたい」と狙っていたわけではない。とはいえ、よひらのステーキは美味しい。
ちなみによひらというのは、あじさいの別名だ。花びらのように見えるガクが4片あることから、「四葩」と言うのだそうだ。夏の季語としても有名らしい。
『いえ、そこではないですね』
『え、違いました? じゃあどこだろう。まさか、「一力」とか?』
一力もまた、有名な料亭のひとつだ。創業200年を超える老舗であり、長崎最古の料亭である。幕末には、亀山社中の志士らも頻繁に出入りしていたのだとか。今の建物は大正時代に建て直したものだが、歌舞伎が長崎で興行される際には多くの役者が食事や宿泊をしていたのだそうだ。力となると、結構かしこまった感じが出てくる。親族の冠婚葬祭なら定番で出てくるお店なのだ。
『いいえ、違います』
『ですよね』
ちょっと考え過ぎだったかもしれない。もっと肩の力を抜いたお店を用意してもらっているのだろう。ええと、あの辺りで他にお勧めの食事処は……。考え始めた私に、お兄さんはとんでもない返信を寄こしてきた。
『予約していただいたお店は、「花月」です』
『へ』
『ですから、「花月」です』
『う、嘘でしょう!!!』
史跡料亭花月。丸山遊郭の引田屋本家の建物と庭園を受け継いだ料亭で、坂本龍馬がつけたという床の間の柱の刀傷で紹介されることも多い。中国やポルトガル、オランダの料理をアレンジした卓袱料理が有名だが、ここは長崎人にとって特別な料亭である。普段使いするようなお店ではない。
もしかして、もともと花月で甥御さんに会わせる予定でお店を押さえていたということだろうか。夫人の本気をちらりと垣間見てしまったような気がする。お兄さんがあの場で登場しなかったら、気が付かない間に外堀が埋められていたのかもしれない。たおやかな社長夫人は、やっぱり世の中の荒波を渡ってきたしたたかさを持ち合わせているのだとしみじみ感じた。
さすがに花月にテキトーな格好で行く度胸はない。観光客ならTシャツにジーンズでも許されるだろうが、地元の一般庶民には普段着での入店は逆にハードルが高すぎる。明確なドレスコードは指定されていないけれど、やっぱり落ち着かないし、祖母に見られたら叱り飛ばされるだろう。
いっそ、しまいっぱなしの祖母の着物を着ていくべきか? いや、着物に合う髪型にセットする自信がない。時間もないし、何より年増の成人式になってしまう可能性が高い。
散々迷ったあげく、結局シンプルなワンピースにした。色味のせいか、顔周りが少し暗いのが気になる。手持ちのアクセサリーを引っ張り出し、つけてみる。ところがこんなときに限って、どれもしっくりこない。まずい、まずい。もう時間がない。
ジュエリーケースの中を引っ掻き回していると、柔らかな桃色が飛び込んできた。珊瑚だ。おかしいな、こんなものを買った記憶はないのだが。祖母のお下がりだろうか。よく見ればジュエリーケースの中には、古めかしいデザインのアクセサリーがところどころに混じっていた。
海に囲まれた長崎は珊瑚の産地でもある。珊瑚は白、桃、赤、黒といった色があるが、特に血赤珊瑚と呼ばれる真っ赤な珊瑚は高値で取引されているそうだ。けれど私個人は可愛らしい桃珊瑚が好きだ。しかも桃色一色のものよりも、白が混じった柔らかい色合いのものが服にも合わせやすいと思う。
見つけたばかりの桃色珊瑚は、私のイメージ通りの色味をしていた。しかも祖母のものだからイヤリングだと思っていたのだが、まさかのピアスだ。祖母も母も叔母も、ピアスを使ってなどいない。
その昔、祖父がループタイを修理に出したときに、一緒に持って行ってくれたのかもしれない。実はイヤリングだと頭が痛くなったり、肩が凝ったりするから苦手なのだ。そのせいでピアスは毎日使っているけれど、イヤリングはしまいっぱなしになりがちだったりする。
記憶を手繰ろうにも、思い出せないものは思い出せない。仕方なく、さっとピアスのポスト部分を除菌シートでぬぐって耳につける。自分で言うのもなんだが、まるで昔からお気に入りのアクセサリーみたいに、ピアスは私の顔によく馴染んでいた。鏡の中で、小粒の桃色珊瑚がいくつもゆらゆらと揺れている。なんだか、今日は楽しい食事会になりそうな気がした。
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