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9.決意
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西国の国境の街は、多くの人と活気で溢れていた。王都とは異なり、この街は人種も国籍も様々な人々が、一つの街に溶け込んでいる。東国街とも違う、西国でありながら西国ではない摩訶不思議な街。行き交う人々は皆笑みを浮かべている。とりわけ西国とは異なる暦を使う東国人は、みな浮き足立っているように見えた。
東国では、西国の新年から遅れること一月ばかり、これから春節と呼ばれる旧正月を迎える。住み慣れた故郷ではなく異国で新しい年を迎える者であっても、やはり故郷の風習が体に染みついているのであろうか。東国獅子と呼ばれる華やかな出し物がここかしこで催されている。賑やかな銅鑼の音が聞こえた。遠方から来た隊商も、この人出にあやかろうと大盤振る舞いである。
けれど栄えているとはいえ所詮は地方都市。なぜに王都に行かぬのかと人々が商人に問えば、どうも雲行きが怪しいらしい。西国の若き国王が天に召されたのだという。とはいえその身体はついぞ見つからず、身につけていた朱色の服だけが北の塔に残されていたのだというのだ。足場の無い塔の外へ出たとは思われず、さりとて王は何処にもいない。王にかけられた嫌疑はやはり冤罪で、哀れに思し召した天が王を連れて帰ったのではあるまいかと言われているのだという。
面白おかしく話される噂は、今や吟遊詩人が奏でる人気曲にもなったのだそうだ。さらに先の王弟も今は姿を見せず、行方知れずだという。同じ西国の出来事とはいえ、遠い王都の話を、人々はどこか他人事のように楽しんでいる。隊商の面々は話好きらしい。また新しい話題を繰り広げる。
この街で最近注目を集めていたのは、広場や酒場で人気を博していた楽師の一団だ。今はとある東国人の家に招かれ、滞在しているのだという。この楽団員たちはみな東国の楽器で、演奏を行う。東国の曲ばかりでなく、西国の曲も曲目に入っているのであるが、演奏する楽器によってこうも雰囲気を変えるものかと評判を呼んでいた。
二胡に琵琶、竹笛、揚琴に古筝。趣のある異国の楽器以上に噂になったのは、見目美しい楽師たちそのものだった。特に顔を半分隠した色の白い女は、珍しい翡翠のような瞳で、あまりの美しさに一晩の共寝を所望する客が絶えなかったそうだ。結局、そのような客の多い店では、何の曲を依頼しても葬送曲を贈られる羽目になったらしい。
鬼のような形相で二胡を奏でる男が、どうやらその首謀者だったようだ。それでもしつこい客には、同じ男がお得意の剣舞でお仕置きをしたらしいともっぱらの噂である。楽団側が店や客を選り好みしても、ひっきりなしに人が訪れるせいか、はたまた後援者がいるのか、金には困らぬようであったと人は口々に話すのだ。
古くからこの街に移り住んでいた東国人の家では、賑やかな宴が開かれていた。西国の王であった女とその部下、つまり先ほどの噂の二人を待っていたのは、下にも置かない歓待ぶりであった。特にこの家の主人は、大層嬉しそうに男の世話を焼いていた。自分の祖父に当たろうかという年齢の老人に何くれと世話を焼かれ、男は非常に困った様子である。
やれ腹は減っておりませぬか、酒は如何致しましょうや。いやはや老いぼれたとはいえ長生きはするものだと老人は笑う。楽団も公にはしておらぬが、この老人の持ち物だという。正確に言えば、すべて東国の陛下の預かり物だと言うのだ。各地の情報を集めて、東国へ届けるのが老人たちの仕事なのだと冗談めかして片目をつぶる。東国を導く黄金の龍のために我が身がお役に立つとは、何と喜ばしいことでしょうや。海老のように曲がった腰を驚くほどぴんと伸ばして、老人は笑うのだ。何か言いたげな女を横目に、何とも言えない顔のまま男は無言を貫いた。
二人が関所で捕まることもなく王都を抜けられたのは、ひとえにこの楽団のおかげだ。目立つ容貌をした男と女。手配書が出回ればすぐに足がつく。それならばいっそ目立つ容姿をした華やかな一団と途中で落ち合えば、多少はごまかしが効くだろう。それは男だけの案ではなく、縁を切らされていたはずの西国の王の、祖父の考えでもあった。
金貸しならではの人脈と情報網そして資金力は、もはや敵地である西国ではまさに命綱となった。離れて暮らしていたにもかかわらず、己のことをずっと気にかけていたという祖父の言葉は、肉親を失い孤独であった女を泣かせるには十分である。嗚咽ばかりでまともに話せない女が初めて会った祖父と交わした言葉は、初めまして、ありがとう、そしてさようならであった。伝えられないもどかしさを埋めるように、祖父と孫娘は互いを抱きしめた。
つんざくような爆竹の音があちこちで鳴り響く。女が思わず耳を塞げば、こうやって厄を払うのだと男がそっと後ろから囁いた。新年の訪れを祝う人々が通りにあふれている。この日ばかりは、子どもも大人も皆夜を徹して騒ぎ楽しむのだ。北の塔から逃げる時、男と女はそれに精一杯で新年の訪れを祝うことができなかった。それゆえ東国流に年を越してから、最後の関所である西国の国境を、女の祖父が懇意にしている隊商とともに超える心算であった。
それにしても酷い人混みである。人に酔いはしないかと、心配そうにこちらを見下ろす男の視線に気づいて、女は問題ないと頷いた。ふわり、顔を覆う薄布が揺れる。やはりこの男は、どうも自分を子ども扱いするきらいがある。女が少しばかり腹を立ててそっぽを向けば、湯気を立てる屋台が所狭しと並んでいるのに気づいた。
夕食を済ませていなければ、珍しい屋台の食事を楽しめたものを。女は残念に思う。塔の中で与えられた食事はというと、一口も嚥下できなかったのは記憶に新しい。それはつい一月ほど前の出来事でしかないというのに、何と人の心というものは現金なものか。少しばかり一人考えに浸りすぎたらしい、人混みの中、不意に男の背中を見失いそうになる。
小さく声を上げた女に気づいたのか、男はその大きな掌で女の手をつかんだ。そのまま女の腰に手を当てて、己の外套の中に女を入れるようにして歩いて行く。ご無理をさせて申し訳ありませぬ。男の謝罪は女の耳に入らない。
北の塔から逃げ出す際に、男に抱きかかえられていたのは気にならなかったというのに、なぜ今になって男の体温を気にしてしまうのか。男の掌はこんなに大きなものだったのか。女は意識してしまい、うまく足が動かせない。ぎこちなく左右の手足を動かす女は、壊れかけの玩具のように不自然である。それを疲れゆえととったのか、男は腰に回した手をますます強めた。
このご時世では、貴婦人だけでなく武人も香水をつけるのであろうか。この男はどうしてこのまま抱きつきたくなるような、腰が砕けるようなそんな良い匂いがするのだろう。とうとう女は、足に力が入らなくなり、あっさり道の小石につまづいた。
その拍子にはらりと顔を覆っていたはずの薄布が外れる。さっと拾い上げたが、どうも目の前にいた幼子に見られてしまったらしい。まさかこのような年端もゆかぬ子どもが手配書のことなど知らぬであろうが、じわりと嫌な汗が出る。子どもが西国人らしい青い目をまん丸にして歓声を上げた。
もはやこれまでか。そう女が覚悟を決めた時、幼子はふくふくとした頬を桃色に染めて、女に言ったのだ。お姫さま、今日はお出かけなのね。それを聞きつけた幼子そっくりの顔をした母親が、女の顔を見てにこやかに笑う。楽団の演奏を見て以来、娘も楽器を弾きたがるのだと、少しばかり困ったように笑いながら、けれどどこか誇らしげに胸を張る。
薄布の下、女は思わず口をあんぐりと開ける。王族にあるまじき顔であるが、女は驚いたのだ。国王としてこの地を訪れたこともあるのだ。民の前に顔を晒したことは一度や二度の話ではないのに、この者たちは己の顔を知らぬというのか。
王の顔を知らずとも困らぬのは、国が安定していた証だと、男はこっそりと笑った。男の故郷にも同じような故事があるらしい。世の東西を問わず、治世者の顔を知らずに安穏と暮らせるほど安定していた歴史はほとんどないのだ。男は晴れやかな顔で、女に告げる。貴女の治世は素晴らしいものだったのだと。それは誇って良いものである。そして自身も主人に仕えたことを誇りに思う。そう万感の思いを込めたかのように短く答え、男は笑った。
目の前で突然怒号が聞こえた。男の誰何する声とともに、悲鳴も聞こえる。女と子どもの甲高い声だ。知らず女は走り出していた。やつれた女と薄汚い子どもが、屋台の店主に棒切れで酷く打たれている。どうやら、店先の商品を盗もうとして失敗したらしい。
お許しくださいましと片言の西国語で必死に謝る女を睨みつけ、店主はひたすらに罵った。流れ者め!許可もなしに西国に入り込んできおってからに。他所に来て人様に迷惑をかけるくらいなら、さっさと死んでしまえ! 聞くに堪えない罵詈雑言に、女は思わず割って入ろうとした。けれど男がきつく腕を掴んでいるせいで、身体が動かない。何故止めるのかと男を睨みつけ、男にたしなめられる。不用意に目立つものではない、命をみすみす捨てることになるやもしれぬと。女はただ唇を噛み締める。
突如攻め入られ、戦に負けた我らが悪いのか。国を奪われ、人としての尊厳も失い、ただ這いつくばって泥水を舐め、野たれ死ぬしかないというのか! 女が髪を掻き毟り慟哭する。悲痛な声が広場に響く。西国語ではないその叫びは、それでも周囲の人々の心に突き刺さる。言葉の意味を聞き取れる、仮初めにでも王であった女にならなおのことだ。他人事ではないのだ。女はようやくそれに思い当たった。目の前の母子の姿は、先ほど見た母娘の遠くない未来の姿だ。
飢えた子どもらの前に、甘い砂糖菓子を置いておけばどうなるか。問答無用で揉みくちゃにされ、無残にも食われるであろう。それこそ欠片一つあますことなく、すべて腹の中だ。己が出て行ってしまえば、この国はそういう運命をたどるだろうということに女は気付く。ちらりと見上げた男の顔は、渋面であった。余程この話は、男にとって都合の悪いものであったらしい。焦れたように女の顔に手を添えると、甘い声で囁くのだ。
さあ後ろを振り返りまするな。そろそろ帰らねば危のうございます。ああ、けれど! 女は切り捨てることなどできぬのだ。目の前で打たれる哀れな母子を。大切に育んできたこの西国と、そこに住まう民のことを。甘い菓子のように簡単に誰かの手で貪り喰われてしまうなどと聞いて、このまま捨て置くことなどできようか。
女はいやいやとまるで幼子のように首を振る。どうなさりたいのだと聞かれ、救いたいとただ一言答えた。目の前の母子の代わりに品物の金を払ったところで、何の解決にもなりませぬ。そう男に言われれば、女はそんなことなどわかっているのだというように男の手を強く握りしめた。
その通りなのだ、いつかあの母子は衛兵に突き出される。牢に入れられるか、国外に追われるか、そのどちらが幸せであろうか。国を失った難民をすべて救うことなどできるはずもない。西国の民すべてを、傷つけずに守ることもできない。ああ、それでも人々の安寧をこの手で守ってやりたいのだと言えば、それは王としてご命令かと聞かれる。女は力なく首を振った。
王位は既に捨ててしまった。己の手には、もはや何の力もない。だからこれは、ただの女のわがままなのだ。己の手には余る身分不相応な夢である。そう呟けば、男は愛おしそうに目を細めながら女の頬を撫でた。愛しい女の願いを叶えられずして、何ぞその者を男と言いましょうか。女の望みを叶えてやるのが男の甲斐性というもの。男はにやりと笑うと、女を抱きかかえ歩き出す。
後は任せた。男はよく通る声で、誰ともなしに命じた。さっと人の波が割れる。どうやら知らぬうちに、女は老人の手のものに守られていたらしい。不可解なことに男はそれを了承済みであったようなのだ。女は男の顔を見上げる。心配せずとも、あの母子も店主も悪いようには致しませぬ。そう答える男の顔は、いつもと変わらぬもので、けれどいつもと何かがはっきりと違うのだ。
少しばかり考え、女ははたと気づいた。男が王者のような覇気を身にまとっていることに。人懐っこい雰囲気で覆われていたはずの男は、跪かずにはおられぬような強き力に満ちていた。この男の意に従うことを喜びとさせてくれるような、危険で魅力的な魔性の男。それはかつて王であった女から見ても、尊く強きものであった。
東国へ参りまする。男は淡々と告げた。女のささやかな夢ではなく、あの途方もない夢を叶えるためには、東国へ行く必要があるのだという。女は男の身分に薄々気づきながら、ただ黙って頷いた。周囲から傅かれるはずの男が、あくまで自分に傅くその意味を知り、女は存外に己が愛されていることを知った。
東国では、西国の新年から遅れること一月ばかり、これから春節と呼ばれる旧正月を迎える。住み慣れた故郷ではなく異国で新しい年を迎える者であっても、やはり故郷の風習が体に染みついているのであろうか。東国獅子と呼ばれる華やかな出し物がここかしこで催されている。賑やかな銅鑼の音が聞こえた。遠方から来た隊商も、この人出にあやかろうと大盤振る舞いである。
けれど栄えているとはいえ所詮は地方都市。なぜに王都に行かぬのかと人々が商人に問えば、どうも雲行きが怪しいらしい。西国の若き国王が天に召されたのだという。とはいえその身体はついぞ見つからず、身につけていた朱色の服だけが北の塔に残されていたのだというのだ。足場の無い塔の外へ出たとは思われず、さりとて王は何処にもいない。王にかけられた嫌疑はやはり冤罪で、哀れに思し召した天が王を連れて帰ったのではあるまいかと言われているのだという。
面白おかしく話される噂は、今や吟遊詩人が奏でる人気曲にもなったのだそうだ。さらに先の王弟も今は姿を見せず、行方知れずだという。同じ西国の出来事とはいえ、遠い王都の話を、人々はどこか他人事のように楽しんでいる。隊商の面々は話好きらしい。また新しい話題を繰り広げる。
この街で最近注目を集めていたのは、広場や酒場で人気を博していた楽師の一団だ。今はとある東国人の家に招かれ、滞在しているのだという。この楽団員たちはみな東国の楽器で、演奏を行う。東国の曲ばかりでなく、西国の曲も曲目に入っているのであるが、演奏する楽器によってこうも雰囲気を変えるものかと評判を呼んでいた。
二胡に琵琶、竹笛、揚琴に古筝。趣のある異国の楽器以上に噂になったのは、見目美しい楽師たちそのものだった。特に顔を半分隠した色の白い女は、珍しい翡翠のような瞳で、あまりの美しさに一晩の共寝を所望する客が絶えなかったそうだ。結局、そのような客の多い店では、何の曲を依頼しても葬送曲を贈られる羽目になったらしい。
鬼のような形相で二胡を奏でる男が、どうやらその首謀者だったようだ。それでもしつこい客には、同じ男がお得意の剣舞でお仕置きをしたらしいともっぱらの噂である。楽団側が店や客を選り好みしても、ひっきりなしに人が訪れるせいか、はたまた後援者がいるのか、金には困らぬようであったと人は口々に話すのだ。
古くからこの街に移り住んでいた東国人の家では、賑やかな宴が開かれていた。西国の王であった女とその部下、つまり先ほどの噂の二人を待っていたのは、下にも置かない歓待ぶりであった。特にこの家の主人は、大層嬉しそうに男の世話を焼いていた。自分の祖父に当たろうかという年齢の老人に何くれと世話を焼かれ、男は非常に困った様子である。
やれ腹は減っておりませぬか、酒は如何致しましょうや。いやはや老いぼれたとはいえ長生きはするものだと老人は笑う。楽団も公にはしておらぬが、この老人の持ち物だという。正確に言えば、すべて東国の陛下の預かり物だと言うのだ。各地の情報を集めて、東国へ届けるのが老人たちの仕事なのだと冗談めかして片目をつぶる。東国を導く黄金の龍のために我が身がお役に立つとは、何と喜ばしいことでしょうや。海老のように曲がった腰を驚くほどぴんと伸ばして、老人は笑うのだ。何か言いたげな女を横目に、何とも言えない顔のまま男は無言を貫いた。
二人が関所で捕まることもなく王都を抜けられたのは、ひとえにこの楽団のおかげだ。目立つ容貌をした男と女。手配書が出回ればすぐに足がつく。それならばいっそ目立つ容姿をした華やかな一団と途中で落ち合えば、多少はごまかしが効くだろう。それは男だけの案ではなく、縁を切らされていたはずの西国の王の、祖父の考えでもあった。
金貸しならではの人脈と情報網そして資金力は、もはや敵地である西国ではまさに命綱となった。離れて暮らしていたにもかかわらず、己のことをずっと気にかけていたという祖父の言葉は、肉親を失い孤独であった女を泣かせるには十分である。嗚咽ばかりでまともに話せない女が初めて会った祖父と交わした言葉は、初めまして、ありがとう、そしてさようならであった。伝えられないもどかしさを埋めるように、祖父と孫娘は互いを抱きしめた。
つんざくような爆竹の音があちこちで鳴り響く。女が思わず耳を塞げば、こうやって厄を払うのだと男がそっと後ろから囁いた。新年の訪れを祝う人々が通りにあふれている。この日ばかりは、子どもも大人も皆夜を徹して騒ぎ楽しむのだ。北の塔から逃げる時、男と女はそれに精一杯で新年の訪れを祝うことができなかった。それゆえ東国流に年を越してから、最後の関所である西国の国境を、女の祖父が懇意にしている隊商とともに超える心算であった。
それにしても酷い人混みである。人に酔いはしないかと、心配そうにこちらを見下ろす男の視線に気づいて、女は問題ないと頷いた。ふわり、顔を覆う薄布が揺れる。やはりこの男は、どうも自分を子ども扱いするきらいがある。女が少しばかり腹を立ててそっぽを向けば、湯気を立てる屋台が所狭しと並んでいるのに気づいた。
夕食を済ませていなければ、珍しい屋台の食事を楽しめたものを。女は残念に思う。塔の中で与えられた食事はというと、一口も嚥下できなかったのは記憶に新しい。それはつい一月ほど前の出来事でしかないというのに、何と人の心というものは現金なものか。少しばかり一人考えに浸りすぎたらしい、人混みの中、不意に男の背中を見失いそうになる。
小さく声を上げた女に気づいたのか、男はその大きな掌で女の手をつかんだ。そのまま女の腰に手を当てて、己の外套の中に女を入れるようにして歩いて行く。ご無理をさせて申し訳ありませぬ。男の謝罪は女の耳に入らない。
北の塔から逃げ出す際に、男に抱きかかえられていたのは気にならなかったというのに、なぜ今になって男の体温を気にしてしまうのか。男の掌はこんなに大きなものだったのか。女は意識してしまい、うまく足が動かせない。ぎこちなく左右の手足を動かす女は、壊れかけの玩具のように不自然である。それを疲れゆえととったのか、男は腰に回した手をますます強めた。
このご時世では、貴婦人だけでなく武人も香水をつけるのであろうか。この男はどうしてこのまま抱きつきたくなるような、腰が砕けるようなそんな良い匂いがするのだろう。とうとう女は、足に力が入らなくなり、あっさり道の小石につまづいた。
その拍子にはらりと顔を覆っていたはずの薄布が外れる。さっと拾い上げたが、どうも目の前にいた幼子に見られてしまったらしい。まさかこのような年端もゆかぬ子どもが手配書のことなど知らぬであろうが、じわりと嫌な汗が出る。子どもが西国人らしい青い目をまん丸にして歓声を上げた。
もはやこれまでか。そう女が覚悟を決めた時、幼子はふくふくとした頬を桃色に染めて、女に言ったのだ。お姫さま、今日はお出かけなのね。それを聞きつけた幼子そっくりの顔をした母親が、女の顔を見てにこやかに笑う。楽団の演奏を見て以来、娘も楽器を弾きたがるのだと、少しばかり困ったように笑いながら、けれどどこか誇らしげに胸を張る。
薄布の下、女は思わず口をあんぐりと開ける。王族にあるまじき顔であるが、女は驚いたのだ。国王としてこの地を訪れたこともあるのだ。民の前に顔を晒したことは一度や二度の話ではないのに、この者たちは己の顔を知らぬというのか。
王の顔を知らずとも困らぬのは、国が安定していた証だと、男はこっそりと笑った。男の故郷にも同じような故事があるらしい。世の東西を問わず、治世者の顔を知らずに安穏と暮らせるほど安定していた歴史はほとんどないのだ。男は晴れやかな顔で、女に告げる。貴女の治世は素晴らしいものだったのだと。それは誇って良いものである。そして自身も主人に仕えたことを誇りに思う。そう万感の思いを込めたかのように短く答え、男は笑った。
目の前で突然怒号が聞こえた。男の誰何する声とともに、悲鳴も聞こえる。女と子どもの甲高い声だ。知らず女は走り出していた。やつれた女と薄汚い子どもが、屋台の店主に棒切れで酷く打たれている。どうやら、店先の商品を盗もうとして失敗したらしい。
お許しくださいましと片言の西国語で必死に謝る女を睨みつけ、店主はひたすらに罵った。流れ者め!許可もなしに西国に入り込んできおってからに。他所に来て人様に迷惑をかけるくらいなら、さっさと死んでしまえ! 聞くに堪えない罵詈雑言に、女は思わず割って入ろうとした。けれど男がきつく腕を掴んでいるせいで、身体が動かない。何故止めるのかと男を睨みつけ、男にたしなめられる。不用意に目立つものではない、命をみすみす捨てることになるやもしれぬと。女はただ唇を噛み締める。
突如攻め入られ、戦に負けた我らが悪いのか。国を奪われ、人としての尊厳も失い、ただ這いつくばって泥水を舐め、野たれ死ぬしかないというのか! 女が髪を掻き毟り慟哭する。悲痛な声が広場に響く。西国語ではないその叫びは、それでも周囲の人々の心に突き刺さる。言葉の意味を聞き取れる、仮初めにでも王であった女にならなおのことだ。他人事ではないのだ。女はようやくそれに思い当たった。目の前の母子の姿は、先ほど見た母娘の遠くない未来の姿だ。
飢えた子どもらの前に、甘い砂糖菓子を置いておけばどうなるか。問答無用で揉みくちゃにされ、無残にも食われるであろう。それこそ欠片一つあますことなく、すべて腹の中だ。己が出て行ってしまえば、この国はそういう運命をたどるだろうということに女は気付く。ちらりと見上げた男の顔は、渋面であった。余程この話は、男にとって都合の悪いものであったらしい。焦れたように女の顔に手を添えると、甘い声で囁くのだ。
さあ後ろを振り返りまするな。そろそろ帰らねば危のうございます。ああ、けれど! 女は切り捨てることなどできぬのだ。目の前で打たれる哀れな母子を。大切に育んできたこの西国と、そこに住まう民のことを。甘い菓子のように簡単に誰かの手で貪り喰われてしまうなどと聞いて、このまま捨て置くことなどできようか。
女はいやいやとまるで幼子のように首を振る。どうなさりたいのだと聞かれ、救いたいとただ一言答えた。目の前の母子の代わりに品物の金を払ったところで、何の解決にもなりませぬ。そう男に言われれば、女はそんなことなどわかっているのだというように男の手を強く握りしめた。
その通りなのだ、いつかあの母子は衛兵に突き出される。牢に入れられるか、国外に追われるか、そのどちらが幸せであろうか。国を失った難民をすべて救うことなどできるはずもない。西国の民すべてを、傷つけずに守ることもできない。ああ、それでも人々の安寧をこの手で守ってやりたいのだと言えば、それは王としてご命令かと聞かれる。女は力なく首を振った。
王位は既に捨ててしまった。己の手には、もはや何の力もない。だからこれは、ただの女のわがままなのだ。己の手には余る身分不相応な夢である。そう呟けば、男は愛おしそうに目を細めながら女の頬を撫でた。愛しい女の願いを叶えられずして、何ぞその者を男と言いましょうか。女の望みを叶えてやるのが男の甲斐性というもの。男はにやりと笑うと、女を抱きかかえ歩き出す。
後は任せた。男はよく通る声で、誰ともなしに命じた。さっと人の波が割れる。どうやら知らぬうちに、女は老人の手のものに守られていたらしい。不可解なことに男はそれを了承済みであったようなのだ。女は男の顔を見上げる。心配せずとも、あの母子も店主も悪いようには致しませぬ。そう答える男の顔は、いつもと変わらぬもので、けれどいつもと何かがはっきりと違うのだ。
少しばかり考え、女ははたと気づいた。男が王者のような覇気を身にまとっていることに。人懐っこい雰囲気で覆われていたはずの男は、跪かずにはおられぬような強き力に満ちていた。この男の意に従うことを喜びとさせてくれるような、危険で魅力的な魔性の男。それはかつて王であった女から見ても、尊く強きものであった。
東国へ参りまする。男は淡々と告げた。女のささやかな夢ではなく、あの途方もない夢を叶えるためには、東国へ行く必要があるのだという。女は男の身分に薄々気づきながら、ただ黙って頷いた。周囲から傅かれるはずの男が、あくまで自分に傅くその意味を知り、女は存外に己が愛されていることを知った。
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