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10.帰還
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がやがやと賑やかな屋台街。庶民の腹を膨らませる、安くて旨い店が立ち並ぶ。羊肉の焼ける香ばしい匂いと、爽やかな香菜や刺激的な孜然の香りが食欲をそそった。ふくふくとした子どもらが、硝子玉のような、串に刺さった山査子飴を咥えそこらを走り回っている。
今の旬の桜桃を玉のように籠に山盛りに積んで、行商人たちが其処彼処で客引きをする。その声に気安く返事をしながら、ご婦人たちは道端でおしゃべりに花を咲かせていた。本日も東国の王都は平和である。大通りを少しばかり離れれば、そこはより雑多な路地裏となった。人々の息遣いが聞こえるような街。
この少しばかり猥雑な雰囲気さえ漂う路地の片隅に、行列の出来る店がある。数十年前からこの場に店を構えるそこは、やはり数十年前から姿を変えぬ年老いた占い婆が店の主人だ。当たると評判の占いだが、変わり者の店主ゆえ、いつ店が開くかわからぬ。店が開いたところで、おばばの気が乗らなければ客として訪れたにもかかわらず門前払いされることさえある。
大金を積まれても占わぬこともあるし、そうかと思えば乞食のような男に助言を与えてやったりする。しかもそんな時おばばは、礼など要らぬと言うのだ。恋占いのような可愛らしいものから、失せ物に人探し、果ては政の相談まで、おばばの店には今日も悩みを抱えた人々が列を成す。
未来を垣間見るという、老婆の不思議な力。それを己のものとせんとする不届きものに攫われかけたことも一度や二度ではないらしい。けれどおばばは数日音沙汰がなくなったかと思えば、飄々と無傷ですぐに店に顔を出す。
やれ、王家が保護しているのだとか、黒社会の大物が裏にいるのだとか、いやあの豪商はもとは占い婆が助けた乞食だから恩義を感じて手を回しているのだとか、そもそもおばばは人ではないのだとか、人々は面白がって口にするがその真相は誰も知らない。そんなわけで噂が噂を呼んで、今日も今日とていつ開くかわからぬおばばの店は、細い路地を曲りくねりながら酷く長い列を作っているのだ。
女子どもに混じって、厳つい武人が長いこと列に並んでいた。明らかに身分の高そうな人物である。護衛は一体どこに行ったのかと思えば、困惑したように列の邪魔にならぬ片隅で、大量の羊肉串を抱えていた。どうやら奔放な主人に、これでも食べて待っておれとでも命じられたらしい。何とも気の毒な護衛である。
何でも商売になるこの国では、列に並ぶことさえ商売にする。けれど不思議なことに、人を使って順番をとったものたちは、おばばに一目で見抜かれるのだ。勿論そんな小狡いことをする連中は、老婆の客には成れぬ。金があるがゆえに傲慢な態度をとることの多い者たちが、そうやってあしらわれるのは庶民から見て大変小気味よかった。
何より面子を重んじる国であったから、人前で恥をかき面子を潰された者たちの心中はいかほどであったであろうか。とまあこういうわけで、皆おばばの店では行儀よく並ぶのだ。そう、例えこの国の時期国王と目されるような人物であったとしても。
そわそわと落ち着きのないこの男は、順番が回ってくるなりおばばに飛びついた。弟は、末の弟はいつ帰ってくるのかとそればかりを口にする。生き別れた肉親を探す情に厚い兄らしいが、おばばは大変迷惑そうであった。
政務に忙しいはずの貴人が、暇を見つけてはこの店にやってきて、すぐ下の弟に回収されるというどうしようもない場面を毎日見ているためかもしれぬ。あるいは、この貴人の奥方の大変激しい気性を思い出したからかもしれぬ。燃えるような赤毛の美女は己の夫に、この国の王となるようなことがあれば離縁させていただくと常々言っているらしいではないか。
男の勢いに、やれやれと言わんばかりにお婆は肩をすくめた。仮にも次の国王が何という体たらく、そう口にすれば男は心外そうに言い募る。おばば様もご存知ではありはせぬか。己がただ留守を預かっているに過ぎぬと。覇者たる龍が帰ってくるのであれば、王の座はしかるべき時に受け渡すのみ。帰還の意を耳にして、何を落ち着いておられましょうぞ。あっさりと次の王は自分ではないと言い捨てて、男は尚も末の弟を案じる言葉を繰り返す。
おばばは溜息をつき、男に教えてやることにした。本来であれば、もう少し先に教えるつもりであったが致し方ない。決して、毎日列に並ばれて鬱陶しいから早いところ城で弟を待つ準備でもしておればいいと思ったわけではないのだ。己は、弟を思う兄の深い愛情に心をうたれたのである。これは断じて厄介払いではないのだと心中で言い訳をしながら、おばばは奇妙な水鏡を取り出した。
それは只人から見れば、何の変哲もない代物である。だがおばばの目には、運命の糸のようなものがゆらゆらと漂ってみえるらしい。不意に、ほうほうと嬉しそうな声が上がった。一瞬男の目には、巫女のように神々しい女が見える。黒く艶のある長い髪が風もないのに揺れる。屋台街にいたはずだというのに、ふわりとどこか深き山のような清浄な空気が立ち込めた。細い肢体だというのに、この女の何と強い力を感じさせることか。真実を見据えるように、夜のように澄んだ黒い瞳がこちらをじっと見つめていた。
安心おし、もうすぐさ。そう声をかけられて、男ははたと我にかえる。目の前にいるのは、皺くちゃの顔をした、白髪で歯も抜けかけた小さな老女だけだ。果たしてあれは夢であったのだろうか。男がのろのろと顔をあげると、そこには童女のように澄んだ黒い瞳があった。
そういえばと、男は思い出す。末の弟が生まれた際に、王城の奥の寝台で眠る王のもとへ黄金の龍の再来を告げにきた女の姿は、黒目黒髪の巫女装束であったというではないか。繰り返し父が話してくれたむかし話を思い出して、ぞくりと身体を震わせた。そんな男のことなど微塵も気にかけず、おばばは話を続ける。掌中の珠を抱えて、龍が帰ってくると。欠けていた宝珠をようやく見つけたのだ、もはや龍の勢いは止まらぬであろうよ。天高く、龍は今こそかけ上がるのだ。
一瞬呆けたような顔をした男は、お代を払うのも忘れてあたふたと走り出した。こうしてはおれぬ。末の弟が帰ってくる! 奥方を連れて帰ってくる! 前のめりになりながら男は店を飛び出し、狭い路地を抜けていく。飛び出した主人を見た護衛が、とんでもない形相をしてその背を追いかけて行く。たまらず列に並んでいた女たちが悲鳴を上げた。
お代は必ず後で届けにまいりまする! 代わりということか手つかずの大量の羊肉串を置いていったが、一体年寄りにどう処分しろというのか。仕方なく店先の子どもらに配ってやる。そのままおばばは呆れて、最早米粒ほどに小さいその後ろ姿を見送った。大きな物音や怒号が聞こえたところから推測するに、行く先々で屋台の店先の品を盛大にひっくり返していたらしい。おばばは笑いながら空を見上げた。
あの末の坊やが、この東国を飛び出したのは一体いつのことだったか。歳を取ると数年前のことも、つい昨日のような気がしてならない。末の弟が黙って国を出たのだと、あの男は上を下への大騒ぎをしていたのではなかったか。末の弟が生まれてくるまで、時期国王だと自負していたはずの男の威厳は欠片も残っていなかった。そこにはただ弟を心配する少々ねじの飛んだ青年がいるばかりである。いや、愛する妻の尻に敷かれた男と言ってもいいかもしれぬ。
文武に優れ将来を嘱望されていた弟の突然の失踪。大の大人におんおんと泣きつかれたおばばは、仕方なく男を慰めたのだ。あの子は龍でありながら、人の身でこの世に降りてきたのだ。うっかり手離してしまった掌中の珠を探しに出掛けたのさ。失せ物を見つければなあにすぐに戻ってくる。そう慰めれば、男は涙をぴたりと止めた。今泣いた鴉がもう笑った。男はやはり、流石は我が弟だと喧しい声で笑った後に、おばばに丁寧に礼を言ったのだった。
咲き誇る白梅、紅梅の花。寒い雪の中で一番早くに春を告げた梅の花は、香り高く何処までも芳しく立ち昇る。そして一番長く、春の終わりまで咲き続けるのだ。おはばは、ゆっくりと大きく息を吸う。何処か遠くで誇り高く咲く梅の香りを楽しむように。もはや東国の季節はまさに春である。梅に誘われるように、たくさんの花はほころび、春告花の異名を持つ木蓮が咲いている。白や紫の花弁が輝き、まるで東国の明るい未来を祝っているかのようだ。今年も良い一年になりそうだと、おばばはにっこりと微笑んだ。
馬に乗った若い女が、感嘆する。首が痛くなりそうなほど高い長城を見上げた。肩より下まで伸びた艶のある黒髪が、面白いように髪に弄ばれる。鬱陶しかったのであろうか、女は乱暴に組紐で一つに束ねてしまった。そのまま馬を止め、ゆっくりと辺りを見渡す。東国の周りを、ぐるりとこの高い石の壁が取り囲んでいるのだと聞いて、女はその労力と時間を考えて気が遠くなる。
それだけこの草原を駆ける馬上の民が脅威であったのだと男は笑った。ありがたいことに今では友好的な関係なのだと男は言って、それに応えるかのように前を行く案内役に声をかけた。東国人との男ともまた異なる風貌をした男は、日に晒されて焼けた顔をにっこりと笑みの形に変えた。この穏やかそうな男が、この草原一帯をまとめ上げる族長だというのだから、人は見かけによらぬものだ。東方の男というのは、猛き力を持つ者ほど穏やかな面をしているかもしれぬと、女は内心こっそり考えた。
二人は昔からの顔なじみであるらしい。移動の間中、東国人の男は二胡を、騎馬民族の男は馬頭琴を夜毎かき鳴らす。そしてこの地に伝わる酒を、その調べに合わせて飲み交わすのだ。少し呑ませてもらえば、それは喉が焼けるほどに強いもので女は思わずむせる。男の故郷の白酒も喉が焼けるほどに強いという点では似たようなものだと言って笑っていた。
仕方なく女は、一人馬乳酒を飲む。赤子でも飲めるもので酔えるのかと聞かれれば、苦笑するほかない。無理をして、悪酔いするのは御免こうむりたいのだ。女であるというとは、酒が弱くても困らぬという事だなと女は笑った。ふと気になって男二人の出会いはいつかと聞けば、幼少時に見つけた野生馬の所有権争いがきっかけだというものだから、驚いた。何をどうすれば、その出会いから仲良くなれるというのだ。やはり男同士の友情というものは良くわからぬ。
西国を出てからの道のりは、長く険しいものになるであろうと女は予想していた。不慣れな長旅故、恐ろしく思う部分もあった。ところが、旅は思った以上に平穏で快適なものであったのだ。その理由の一つが、男がこれまでに培ってきた信頼関係であった。
例えば広大な砂漠。昼間は容赦なく太陽が降り注ぎ、夜は恐ろしいほどに冷え込む土地。砂漠の途中で隊商と別れた後、生きて出られぬのではないかと密かに顔を青くさせていた女の前に現れたのは、黒尽くめの砂漠の民であった。希少な砂漠の緑地に居を構える彼らは、男と女を歓迎した。族長は、我が娘を娶らぬとは残念至極と言いながらも、男の嫁取りを大層喜んでくれた。砂漠の女たちも、何くれと女の世話を焼く。長年止まっていて存在すら忘れていた月の物が来た時には、これでお子を産む準備が整いましたなと皆が喜んでくれた。お陰で変に恥じらうことなく、女性として当たり前のことについて幾つか学ぶことができたのである。
砂漠を出る時には、乾燥させた棗椰子の実を大量にもたせてくれた。濃厚な甘みを持つこれには、女性の体に良いことばかりが詰まっているのだという。砂漠を超えた今、これは携帯できる貴重な甘味である以上に、懐かしい味として女の大切なものになった。旅の途中途中で、女が男の人生の軌跡を確認することができるとは何と驚くべきことか。我が夫君は、まこと素晴らしい男であると女は自賛した。
あの北の塔を出るとき、己は女人としての小さなささやかな暮らしを望んだはずであった。それがどういうことであろうか、途方もなく大きな夢を見ている。小さな掌ではすくい上げきれぬほどの命と小さな幸福たちを守りたいと願ってしまった。もはや王ですらない自分には成す術もないはずの夢を、男は叶えてみせましょうぞと笑うのだ。
乾いた風が、強く吹いている。それは男と女の東国への帰還を歓迎しているかのようであった。ようこそ、東国へ。己の故郷を前に、男は馬上から女に手を差し出した。力強いその腕は、確かに龍を思わせる眩しいほどの覇気をまとっていた。女は男と生きる未来に想いを馳せながら、その手をそっと握り返す。どのようなことが起きても、この手を決して離さぬと誓った。
最果ての国と呼ばれた東の国は、後に大陸のほとんどを帝国として統一した。皇帝として君臨した文武に優れた男の傍らには、常にある女性の姿があったという。かの正室は、流れるような黒髪と翡翠のような瞳が美しかったと伝えられている。大勢の側室を持つこともできた皇帝であったが、英雄色を好むという故事とは異なり、この美しき翡翠の君に生涯を捧げたと言われている。
今の旬の桜桃を玉のように籠に山盛りに積んで、行商人たちが其処彼処で客引きをする。その声に気安く返事をしながら、ご婦人たちは道端でおしゃべりに花を咲かせていた。本日も東国の王都は平和である。大通りを少しばかり離れれば、そこはより雑多な路地裏となった。人々の息遣いが聞こえるような街。
この少しばかり猥雑な雰囲気さえ漂う路地の片隅に、行列の出来る店がある。数十年前からこの場に店を構えるそこは、やはり数十年前から姿を変えぬ年老いた占い婆が店の主人だ。当たると評判の占いだが、変わり者の店主ゆえ、いつ店が開くかわからぬ。店が開いたところで、おばばの気が乗らなければ客として訪れたにもかかわらず門前払いされることさえある。
大金を積まれても占わぬこともあるし、そうかと思えば乞食のような男に助言を与えてやったりする。しかもそんな時おばばは、礼など要らぬと言うのだ。恋占いのような可愛らしいものから、失せ物に人探し、果ては政の相談まで、おばばの店には今日も悩みを抱えた人々が列を成す。
未来を垣間見るという、老婆の不思議な力。それを己のものとせんとする不届きものに攫われかけたことも一度や二度ではないらしい。けれどおばばは数日音沙汰がなくなったかと思えば、飄々と無傷ですぐに店に顔を出す。
やれ、王家が保護しているのだとか、黒社会の大物が裏にいるのだとか、いやあの豪商はもとは占い婆が助けた乞食だから恩義を感じて手を回しているのだとか、そもそもおばばは人ではないのだとか、人々は面白がって口にするがその真相は誰も知らない。そんなわけで噂が噂を呼んで、今日も今日とていつ開くかわからぬおばばの店は、細い路地を曲りくねりながら酷く長い列を作っているのだ。
女子どもに混じって、厳つい武人が長いこと列に並んでいた。明らかに身分の高そうな人物である。護衛は一体どこに行ったのかと思えば、困惑したように列の邪魔にならぬ片隅で、大量の羊肉串を抱えていた。どうやら奔放な主人に、これでも食べて待っておれとでも命じられたらしい。何とも気の毒な護衛である。
何でも商売になるこの国では、列に並ぶことさえ商売にする。けれど不思議なことに、人を使って順番をとったものたちは、おばばに一目で見抜かれるのだ。勿論そんな小狡いことをする連中は、老婆の客には成れぬ。金があるがゆえに傲慢な態度をとることの多い者たちが、そうやってあしらわれるのは庶民から見て大変小気味よかった。
何より面子を重んじる国であったから、人前で恥をかき面子を潰された者たちの心中はいかほどであったであろうか。とまあこういうわけで、皆おばばの店では行儀よく並ぶのだ。そう、例えこの国の時期国王と目されるような人物であったとしても。
そわそわと落ち着きのないこの男は、順番が回ってくるなりおばばに飛びついた。弟は、末の弟はいつ帰ってくるのかとそればかりを口にする。生き別れた肉親を探す情に厚い兄らしいが、おばばは大変迷惑そうであった。
政務に忙しいはずの貴人が、暇を見つけてはこの店にやってきて、すぐ下の弟に回収されるというどうしようもない場面を毎日見ているためかもしれぬ。あるいは、この貴人の奥方の大変激しい気性を思い出したからかもしれぬ。燃えるような赤毛の美女は己の夫に、この国の王となるようなことがあれば離縁させていただくと常々言っているらしいではないか。
男の勢いに、やれやれと言わんばかりにお婆は肩をすくめた。仮にも次の国王が何という体たらく、そう口にすれば男は心外そうに言い募る。おばば様もご存知ではありはせぬか。己がただ留守を預かっているに過ぎぬと。覇者たる龍が帰ってくるのであれば、王の座はしかるべき時に受け渡すのみ。帰還の意を耳にして、何を落ち着いておられましょうぞ。あっさりと次の王は自分ではないと言い捨てて、男は尚も末の弟を案じる言葉を繰り返す。
おばばは溜息をつき、男に教えてやることにした。本来であれば、もう少し先に教えるつもりであったが致し方ない。決して、毎日列に並ばれて鬱陶しいから早いところ城で弟を待つ準備でもしておればいいと思ったわけではないのだ。己は、弟を思う兄の深い愛情に心をうたれたのである。これは断じて厄介払いではないのだと心中で言い訳をしながら、おばばは奇妙な水鏡を取り出した。
それは只人から見れば、何の変哲もない代物である。だがおばばの目には、運命の糸のようなものがゆらゆらと漂ってみえるらしい。不意に、ほうほうと嬉しそうな声が上がった。一瞬男の目には、巫女のように神々しい女が見える。黒く艶のある長い髪が風もないのに揺れる。屋台街にいたはずだというのに、ふわりとどこか深き山のような清浄な空気が立ち込めた。細い肢体だというのに、この女の何と強い力を感じさせることか。真実を見据えるように、夜のように澄んだ黒い瞳がこちらをじっと見つめていた。
安心おし、もうすぐさ。そう声をかけられて、男ははたと我にかえる。目の前にいるのは、皺くちゃの顔をした、白髪で歯も抜けかけた小さな老女だけだ。果たしてあれは夢であったのだろうか。男がのろのろと顔をあげると、そこには童女のように澄んだ黒い瞳があった。
そういえばと、男は思い出す。末の弟が生まれた際に、王城の奥の寝台で眠る王のもとへ黄金の龍の再来を告げにきた女の姿は、黒目黒髪の巫女装束であったというではないか。繰り返し父が話してくれたむかし話を思い出して、ぞくりと身体を震わせた。そんな男のことなど微塵も気にかけず、おばばは話を続ける。掌中の珠を抱えて、龍が帰ってくると。欠けていた宝珠をようやく見つけたのだ、もはや龍の勢いは止まらぬであろうよ。天高く、龍は今こそかけ上がるのだ。
一瞬呆けたような顔をした男は、お代を払うのも忘れてあたふたと走り出した。こうしてはおれぬ。末の弟が帰ってくる! 奥方を連れて帰ってくる! 前のめりになりながら男は店を飛び出し、狭い路地を抜けていく。飛び出した主人を見た護衛が、とんでもない形相をしてその背を追いかけて行く。たまらず列に並んでいた女たちが悲鳴を上げた。
お代は必ず後で届けにまいりまする! 代わりということか手つかずの大量の羊肉串を置いていったが、一体年寄りにどう処分しろというのか。仕方なく店先の子どもらに配ってやる。そのままおばばは呆れて、最早米粒ほどに小さいその後ろ姿を見送った。大きな物音や怒号が聞こえたところから推測するに、行く先々で屋台の店先の品を盛大にひっくり返していたらしい。おばばは笑いながら空を見上げた。
あの末の坊やが、この東国を飛び出したのは一体いつのことだったか。歳を取ると数年前のことも、つい昨日のような気がしてならない。末の弟が黙って国を出たのだと、あの男は上を下への大騒ぎをしていたのではなかったか。末の弟が生まれてくるまで、時期国王だと自負していたはずの男の威厳は欠片も残っていなかった。そこにはただ弟を心配する少々ねじの飛んだ青年がいるばかりである。いや、愛する妻の尻に敷かれた男と言ってもいいかもしれぬ。
文武に優れ将来を嘱望されていた弟の突然の失踪。大の大人におんおんと泣きつかれたおばばは、仕方なく男を慰めたのだ。あの子は龍でありながら、人の身でこの世に降りてきたのだ。うっかり手離してしまった掌中の珠を探しに出掛けたのさ。失せ物を見つければなあにすぐに戻ってくる。そう慰めれば、男は涙をぴたりと止めた。今泣いた鴉がもう笑った。男はやはり、流石は我が弟だと喧しい声で笑った後に、おばばに丁寧に礼を言ったのだった。
咲き誇る白梅、紅梅の花。寒い雪の中で一番早くに春を告げた梅の花は、香り高く何処までも芳しく立ち昇る。そして一番長く、春の終わりまで咲き続けるのだ。おはばは、ゆっくりと大きく息を吸う。何処か遠くで誇り高く咲く梅の香りを楽しむように。もはや東国の季節はまさに春である。梅に誘われるように、たくさんの花はほころび、春告花の異名を持つ木蓮が咲いている。白や紫の花弁が輝き、まるで東国の明るい未来を祝っているかのようだ。今年も良い一年になりそうだと、おばばはにっこりと微笑んだ。
馬に乗った若い女が、感嘆する。首が痛くなりそうなほど高い長城を見上げた。肩より下まで伸びた艶のある黒髪が、面白いように髪に弄ばれる。鬱陶しかったのであろうか、女は乱暴に組紐で一つに束ねてしまった。そのまま馬を止め、ゆっくりと辺りを見渡す。東国の周りを、ぐるりとこの高い石の壁が取り囲んでいるのだと聞いて、女はその労力と時間を考えて気が遠くなる。
それだけこの草原を駆ける馬上の民が脅威であったのだと男は笑った。ありがたいことに今では友好的な関係なのだと男は言って、それに応えるかのように前を行く案内役に声をかけた。東国人との男ともまた異なる風貌をした男は、日に晒されて焼けた顔をにっこりと笑みの形に変えた。この穏やかそうな男が、この草原一帯をまとめ上げる族長だというのだから、人は見かけによらぬものだ。東方の男というのは、猛き力を持つ者ほど穏やかな面をしているかもしれぬと、女は内心こっそり考えた。
二人は昔からの顔なじみであるらしい。移動の間中、東国人の男は二胡を、騎馬民族の男は馬頭琴を夜毎かき鳴らす。そしてこの地に伝わる酒を、その調べに合わせて飲み交わすのだ。少し呑ませてもらえば、それは喉が焼けるほどに強いもので女は思わずむせる。男の故郷の白酒も喉が焼けるほどに強いという点では似たようなものだと言って笑っていた。
仕方なく女は、一人馬乳酒を飲む。赤子でも飲めるもので酔えるのかと聞かれれば、苦笑するほかない。無理をして、悪酔いするのは御免こうむりたいのだ。女であるというとは、酒が弱くても困らぬという事だなと女は笑った。ふと気になって男二人の出会いはいつかと聞けば、幼少時に見つけた野生馬の所有権争いがきっかけだというものだから、驚いた。何をどうすれば、その出会いから仲良くなれるというのだ。やはり男同士の友情というものは良くわからぬ。
西国を出てからの道のりは、長く険しいものになるであろうと女は予想していた。不慣れな長旅故、恐ろしく思う部分もあった。ところが、旅は思った以上に平穏で快適なものであったのだ。その理由の一つが、男がこれまでに培ってきた信頼関係であった。
例えば広大な砂漠。昼間は容赦なく太陽が降り注ぎ、夜は恐ろしいほどに冷え込む土地。砂漠の途中で隊商と別れた後、生きて出られぬのではないかと密かに顔を青くさせていた女の前に現れたのは、黒尽くめの砂漠の民であった。希少な砂漠の緑地に居を構える彼らは、男と女を歓迎した。族長は、我が娘を娶らぬとは残念至極と言いながらも、男の嫁取りを大層喜んでくれた。砂漠の女たちも、何くれと女の世話を焼く。長年止まっていて存在すら忘れていた月の物が来た時には、これでお子を産む準備が整いましたなと皆が喜んでくれた。お陰で変に恥じらうことなく、女性として当たり前のことについて幾つか学ぶことができたのである。
砂漠を出る時には、乾燥させた棗椰子の実を大量にもたせてくれた。濃厚な甘みを持つこれには、女性の体に良いことばかりが詰まっているのだという。砂漠を超えた今、これは携帯できる貴重な甘味である以上に、懐かしい味として女の大切なものになった。旅の途中途中で、女が男の人生の軌跡を確認することができるとは何と驚くべきことか。我が夫君は、まこと素晴らしい男であると女は自賛した。
あの北の塔を出るとき、己は女人としての小さなささやかな暮らしを望んだはずであった。それがどういうことであろうか、途方もなく大きな夢を見ている。小さな掌ではすくい上げきれぬほどの命と小さな幸福たちを守りたいと願ってしまった。もはや王ですらない自分には成す術もないはずの夢を、男は叶えてみせましょうぞと笑うのだ。
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