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1.雪深き知らずの森
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何度目かのため息を吐くのと、馬車が急停車するのは同時だった。荷物ともども床に転げ落ちたリリィは、扉が開くと同時に無理矢理馬車の外に放り出される。リリィの腕をつかんでいたのは、夜を思い起こさせる美しい男だった。
エスコートとはとても言えない乱暴さだ。そもそもこんなに早く知らずの森に着くことはない。一体、何のために自分を馬車からおろしたのか。とっさに逃げようとしたのが伝わったらしい。つかまれた手をそのままひねりあげられて、思わず悲鳴が出る。
「痛いっ、手を離して!」
「失礼、お気の毒だがこちらにも事情があるものでね」
紳士的な言葉とは裏腹な乱暴な振る舞いにめまいがする。異母妹が用意した馬車だったから、自分をここまで送り届けてくれたのは伯爵家の使用人だと思っていた。彼らはリリィに親切ではなかったが、率先して弱者を喜んで虐げるような悪人でもなかったのだ。
リリィのことを気の毒な子どもだと判断できるだけの理性と知性と常識を彼らは持ち合わせていた。けれど、彼らはただの雇われ人だ。リリィの父や継母、異母妹の機嫌を損ねれば紹介状ももらえないまま解雇されてしまうかもしれない。それゆえリリィは継母たちの前でだけ、わかりやすく使用人から虐げられていた。
それはもはや、大根役者と言っていいほどとってつけたような演技だったが、継母も異母妹も彼らの振る舞いにおおむね満足しているようだった。おかげでリリィは神殿に入るまでの間も、何とか屋敷の中で生きながらえていたわけだ。
だからリリイは家族からの敵意、使用人たちの消極的な好意、聖女見習いたちの憐れみ、民衆の好意のように、さまざまに色分けされた感情を知っている。
けれど、リリィの腕をつかんでいる男が彼女に対して持つものはそのどれでもなかった。しいて言うならば、無関心。リリィと対応しているのは、あくまで何か必要にかられてのことなのだろう。使用人たちの棒読みな演技とは異なる視線の冷たさに、思わず鳥肌が立つ。男が羽織っている外套の下からは、神殿騎士の制服が覗いていた。
「私を処分しろと、大聖女さまからご命令があったのですか?」
「大聖女さまの御心を理解するには、君はまだ子どもなのだろう」
どうやら目の前の男は、熱狂的な大聖女の信者らしい。神殿は王国中に信者を抱えているが、その中でも大聖女派と呼ばれる派閥が存在していることは有名だ。神殿は創造神を崇めているが、一部の信者たちは不確かな存在の神ではなく、目の前で奇跡の御業を披露する大聖女こそを至上の存在として尊んでいる。
もちろん大聖女は神を崇めており、大聖女派の存在を喜ばしいものとして認めているわけではない。けれど彼女の存在が、神殿、そして揉め事を起こしやすい王国内部にとってなくてはならない求心力を持つこともまた疑いようのない事実であった。求心力を失いつつある王家よりもよほど人気が高いというのは、あながち嘘ではないようだ。
「大聖女さまが管理される神殿を追放された私は、確かに神殿の面汚し。そして私の存在は、大聖女さまの汚点として認識されてしまうのやもしれません。なるほど、その汚点を残さないようにするために、知らずの森行きが決定されたというわけですか」
「やれやれ。思い込みも甚だしいとはこのことだ」
苛立たし気に騎士はリリィの手を離し、腰の剣を手に取った。鈍色に光る切っ先は不思議なほどリリィの目を引き付ける。あの鋭い刃に貫かれれば、すべてを終わりにできる。それは不思議なほど甘い誘惑だった。
慌てる獲物を追いかけたいのか、騎士はいまだ動かない。彼にとっては児戯にも等しい狩りなのだろう。けれどリリィには逃げようという気力がどうしても湧き出てこなかった。どこにいても疎まれる。どこにも自分の居場所がない。それならば、今この瞬間に人生が終わったところで一体何の問題があるのだろう。
良い騎士の振るう良い剣ならば、痛みも少なくて済むだろうか。どうしようもなく馬鹿なことを考えながらまぶたを閉じようとした時、がさがさと前方の茂みが揺れた。まさか自分を殺そうとしている騎士は、ひとりだけではなかったというのか。そこまで念入りに、リリィの死を望んでいただと? さすがに驚くリリィの前に現れたのは、さえざえとした月のような白い狼だった。
エスコートとはとても言えない乱暴さだ。そもそもこんなに早く知らずの森に着くことはない。一体、何のために自分を馬車からおろしたのか。とっさに逃げようとしたのが伝わったらしい。つかまれた手をそのままひねりあげられて、思わず悲鳴が出る。
「痛いっ、手を離して!」
「失礼、お気の毒だがこちらにも事情があるものでね」
紳士的な言葉とは裏腹な乱暴な振る舞いにめまいがする。異母妹が用意した馬車だったから、自分をここまで送り届けてくれたのは伯爵家の使用人だと思っていた。彼らはリリィに親切ではなかったが、率先して弱者を喜んで虐げるような悪人でもなかったのだ。
リリィのことを気の毒な子どもだと判断できるだけの理性と知性と常識を彼らは持ち合わせていた。けれど、彼らはただの雇われ人だ。リリィの父や継母、異母妹の機嫌を損ねれば紹介状ももらえないまま解雇されてしまうかもしれない。それゆえリリィは継母たちの前でだけ、わかりやすく使用人から虐げられていた。
それはもはや、大根役者と言っていいほどとってつけたような演技だったが、継母も異母妹も彼らの振る舞いにおおむね満足しているようだった。おかげでリリィは神殿に入るまでの間も、何とか屋敷の中で生きながらえていたわけだ。
だからリリイは家族からの敵意、使用人たちの消極的な好意、聖女見習いたちの憐れみ、民衆の好意のように、さまざまに色分けされた感情を知っている。
けれど、リリィの腕をつかんでいる男が彼女に対して持つものはそのどれでもなかった。しいて言うならば、無関心。リリィと対応しているのは、あくまで何か必要にかられてのことなのだろう。使用人たちの棒読みな演技とは異なる視線の冷たさに、思わず鳥肌が立つ。男が羽織っている外套の下からは、神殿騎士の制服が覗いていた。
「私を処分しろと、大聖女さまからご命令があったのですか?」
「大聖女さまの御心を理解するには、君はまだ子どもなのだろう」
どうやら目の前の男は、熱狂的な大聖女の信者らしい。神殿は王国中に信者を抱えているが、その中でも大聖女派と呼ばれる派閥が存在していることは有名だ。神殿は創造神を崇めているが、一部の信者たちは不確かな存在の神ではなく、目の前で奇跡の御業を披露する大聖女こそを至上の存在として尊んでいる。
もちろん大聖女は神を崇めており、大聖女派の存在を喜ばしいものとして認めているわけではない。けれど彼女の存在が、神殿、そして揉め事を起こしやすい王国内部にとってなくてはならない求心力を持つこともまた疑いようのない事実であった。求心力を失いつつある王家よりもよほど人気が高いというのは、あながち嘘ではないようだ。
「大聖女さまが管理される神殿を追放された私は、確かに神殿の面汚し。そして私の存在は、大聖女さまの汚点として認識されてしまうのやもしれません。なるほど、その汚点を残さないようにするために、知らずの森行きが決定されたというわけですか」
「やれやれ。思い込みも甚だしいとはこのことだ」
苛立たし気に騎士はリリィの手を離し、腰の剣を手に取った。鈍色に光る切っ先は不思議なほどリリィの目を引き付ける。あの鋭い刃に貫かれれば、すべてを終わりにできる。それは不思議なほど甘い誘惑だった。
慌てる獲物を追いかけたいのか、騎士はいまだ動かない。彼にとっては児戯にも等しい狩りなのだろう。けれどリリィには逃げようという気力がどうしても湧き出てこなかった。どこにいても疎まれる。どこにも自分の居場所がない。それならば、今この瞬間に人生が終わったところで一体何の問題があるのだろう。
良い騎士の振るう良い剣ならば、痛みも少なくて済むだろうか。どうしようもなく馬鹿なことを考えながらまぶたを閉じようとした時、がさがさと前方の茂みが揺れた。まさか自分を殺そうとしている騎士は、ひとりだけではなかったというのか。そこまで念入りに、リリィの死を望んでいただと? さすがに驚くリリィの前に現れたのは、さえざえとした月のような白い狼だった。
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