18 / 61
3.藍のカップを満たすもの
(2)
しおりを挟む
ブルーベルは、祖父がかつて交わした親友との約束により夫の元に嫁いできた。ブルーベルの祖父とスカイの祖父は、大層仲の良い親友同士であったらしい。酒の席で酌み交わした約束は、「孫が生まれたら、ぜひとも添い遂げさせよう」というもの。
それでも普通ならば、いくら約束とはいえ叶うはずのない戯言に過ぎなかったのだ。何せスカイの身分は子爵令息。下級貴族とはいえ、平民との結婚などありえない。しかし、父親が投資した船が海で難破し、破産寸前となったことでスカイは嫁のなり手を見つけることが非常に難しくなった。いくら美貌の貴公子とはいえ、望んで泥船に乗ってくれるご令嬢などいない。そのため、ブルーベルはスカイに乞われる形で結婚することになったのである。
結局のところ、実家の資金繰りに困っていたスカイによる持参金目当ての結婚といえよう。それでもブルーベルの夫となったスカイは、彼女のことを妻として丁重に扱ってくれた。金づるとしてお飾りの妻にされることも覚悟していた彼女にとっては、幸せな誤算だった。持参金も花嫁道具も借金返済につぎ込むことになったけれど、何とか子爵家は持ち直した。結婚当初の苦労は何だったのかと思えるほど、今ではそこらの上級貴族よりも優雅な暮らしをすることができている。しかし彼女の幸運もここまで。
一年経っても二年経っても、ブルーベルたちは子どもに恵まれなかった。王国には、結婚して三年経っても子宝に恵まれない場合には、離縁や妾を迎えることが法的に認められている。そしてもうすぐ、その三年という期限がやってくるのだ。何せ貴族には、血を繋ぐという大切な役割がある。
かつて落ち目だった子爵家はもはや存在しない。今のスカイは、破産寸前だった家を建て直した才覚ある美貌の貴公子。爵位は子爵と下級ながら、さまざまな分野で辣腕を奮っており、陞爵も遠い話ではないだろうと噂されている。新しく起こした商売も前途洋々、金銭的にもかなり余裕があるとなれば、ブルーベルはスカイの妻にふさわしくないと言い出す人間が現れて当然だった。
(旦那さまは、本気で商家の若奥さまを奪い取るつもりなのかしら。それとも、妾として召し抱えるのかしら。まさか、お相手の旦那さまも公認の上で?)
あるいは自分と離縁して、それなりの身分の妻を娶ってから、自由恋愛を楽しむつもりなのかもしれない。何せ貴族の中では、浮気は紳士淑女のたしなみと言ってはばからない者ばかり。自分に辛辣な公爵夫人たちも、おおかたスカイに秋波を送ったものの邪険にされた腹いせなのだろう。まあ、それは仕方のない話だ。何せ、あのような厚化粧の年増は、スカイの範疇外としか思えない。
(そもそも、旦那さまの好みってどんな女性なのかしら。そんな話は聞いたことがなかったら、想像もつかないわ)
考えれば考えるほど、気分の悪くなるような妄想ばかりが広がってしまう。深々とため息をついて、そっとかぶりを振った。気分転換のために外出したのに、これではすべて水の泡だ。せっかく屋敷から離れたのだから、外出を満喫せねば損というもの。それなのに、これはあんまりではないか。お目当てのパティスリーにて持ち帰り用の商品を選んでいたブルーベルは、小さく肩をすくめた。
いっそのこと、その噂のパティスリーとやらに突撃してみるのも面白いだろうとは確かに思っていた。それでも、それはあくまで皮肉や当て擦りのようなものだったのに。
「約束が違うではないか!」
「大変申し訳ありません。どうぞお許しを!」
「ええい、黙れ。取引は打ち切らせてもらう」
「そんな! どうかお考え直しください」
「くどい。嘘つきと取引して何になる」
いつも穏やかで冷静沈着な夫が店主に向かって激しく抗議している様子が見えた。その夫に向かって噂の店主らしき美しい女性と、その夫君だろう男性が真っ青な顔で頭を下げている。
一体、何をしているのだろう。夫は無駄に怒ることをしない。何せ借金まみれで破産寸前だった時ですら、ひょうひょうと笑っていた人間だ。貴族は誇りと名誉を何よりも重んじるが、人前で自身の権力を誇示し誰かを罵るなど馬鹿のすることだ。いくら面子を潰された場合であっても、抗議の仕方や怒りの表し方にはよくよく気をつけねばならない。誰かさっさと夫を店の奥にでも連れて行けばよいものを。
仲裁する気持ちなど起きなかった。揉め事の原因など知りたくもない。ともとして連れてきた侍女がちらりとスカイの方を見ていたようだが、ブルーベルは気づかない振りをした。
胃が痛む。このままここにいれば、わずかばかり口にすることのできた朝食をすべてぶちまけてしまうことになるだろう。
淑女たるもの、商品も店の扉の開閉も周囲に任せるのが当たり前だ。けれどどうしても苛立ちが抑えきれなくて、ブルーベルは商品をひったくるように受け取ると珍しく自分の手で店の扉を開けた。足元には予想外にも蟻の行列があって、踏み潰さないように慌てて踏み出した足の着地点を変えようと努力する。それがいけなかったのだろうか。転びかけて慌てて体勢を立て直したその時、そこは見慣れた王都の大通りではなく見知らぬ女性の家の中だった。
それでも普通ならば、いくら約束とはいえ叶うはずのない戯言に過ぎなかったのだ。何せスカイの身分は子爵令息。下級貴族とはいえ、平民との結婚などありえない。しかし、父親が投資した船が海で難破し、破産寸前となったことでスカイは嫁のなり手を見つけることが非常に難しくなった。いくら美貌の貴公子とはいえ、望んで泥船に乗ってくれるご令嬢などいない。そのため、ブルーベルはスカイに乞われる形で結婚することになったのである。
結局のところ、実家の資金繰りに困っていたスカイによる持参金目当ての結婚といえよう。それでもブルーベルの夫となったスカイは、彼女のことを妻として丁重に扱ってくれた。金づるとしてお飾りの妻にされることも覚悟していた彼女にとっては、幸せな誤算だった。持参金も花嫁道具も借金返済につぎ込むことになったけれど、何とか子爵家は持ち直した。結婚当初の苦労は何だったのかと思えるほど、今ではそこらの上級貴族よりも優雅な暮らしをすることができている。しかし彼女の幸運もここまで。
一年経っても二年経っても、ブルーベルたちは子どもに恵まれなかった。王国には、結婚して三年経っても子宝に恵まれない場合には、離縁や妾を迎えることが法的に認められている。そしてもうすぐ、その三年という期限がやってくるのだ。何せ貴族には、血を繋ぐという大切な役割がある。
かつて落ち目だった子爵家はもはや存在しない。今のスカイは、破産寸前だった家を建て直した才覚ある美貌の貴公子。爵位は子爵と下級ながら、さまざまな分野で辣腕を奮っており、陞爵も遠い話ではないだろうと噂されている。新しく起こした商売も前途洋々、金銭的にもかなり余裕があるとなれば、ブルーベルはスカイの妻にふさわしくないと言い出す人間が現れて当然だった。
(旦那さまは、本気で商家の若奥さまを奪い取るつもりなのかしら。それとも、妾として召し抱えるのかしら。まさか、お相手の旦那さまも公認の上で?)
あるいは自分と離縁して、それなりの身分の妻を娶ってから、自由恋愛を楽しむつもりなのかもしれない。何せ貴族の中では、浮気は紳士淑女のたしなみと言ってはばからない者ばかり。自分に辛辣な公爵夫人たちも、おおかたスカイに秋波を送ったものの邪険にされた腹いせなのだろう。まあ、それは仕方のない話だ。何せ、あのような厚化粧の年増は、スカイの範疇外としか思えない。
(そもそも、旦那さまの好みってどんな女性なのかしら。そんな話は聞いたことがなかったら、想像もつかないわ)
考えれば考えるほど、気分の悪くなるような妄想ばかりが広がってしまう。深々とため息をついて、そっとかぶりを振った。気分転換のために外出したのに、これではすべて水の泡だ。せっかく屋敷から離れたのだから、外出を満喫せねば損というもの。それなのに、これはあんまりではないか。お目当てのパティスリーにて持ち帰り用の商品を選んでいたブルーベルは、小さく肩をすくめた。
いっそのこと、その噂のパティスリーとやらに突撃してみるのも面白いだろうとは確かに思っていた。それでも、それはあくまで皮肉や当て擦りのようなものだったのに。
「約束が違うではないか!」
「大変申し訳ありません。どうぞお許しを!」
「ええい、黙れ。取引は打ち切らせてもらう」
「そんな! どうかお考え直しください」
「くどい。嘘つきと取引して何になる」
いつも穏やかで冷静沈着な夫が店主に向かって激しく抗議している様子が見えた。その夫に向かって噂の店主らしき美しい女性と、その夫君だろう男性が真っ青な顔で頭を下げている。
一体、何をしているのだろう。夫は無駄に怒ることをしない。何せ借金まみれで破産寸前だった時ですら、ひょうひょうと笑っていた人間だ。貴族は誇りと名誉を何よりも重んじるが、人前で自身の権力を誇示し誰かを罵るなど馬鹿のすることだ。いくら面子を潰された場合であっても、抗議の仕方や怒りの表し方にはよくよく気をつけねばならない。誰かさっさと夫を店の奥にでも連れて行けばよいものを。
仲裁する気持ちなど起きなかった。揉め事の原因など知りたくもない。ともとして連れてきた侍女がちらりとスカイの方を見ていたようだが、ブルーベルは気づかない振りをした。
胃が痛む。このままここにいれば、わずかばかり口にすることのできた朝食をすべてぶちまけてしまうことになるだろう。
淑女たるもの、商品も店の扉の開閉も周囲に任せるのが当たり前だ。けれどどうしても苛立ちが抑えきれなくて、ブルーベルは商品をひったくるように受け取ると珍しく自分の手で店の扉を開けた。足元には予想外にも蟻の行列があって、踏み潰さないように慌てて踏み出した足の着地点を変えようと努力する。それがいけなかったのだろうか。転びかけて慌てて体勢を立て直したその時、そこは見慣れた王都の大通りではなく見知らぬ女性の家の中だった。
91
あなたにおすすめの小説
存在感のない聖女が姿を消した後 [完]
風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは
永く仕えた国を捨てた。
何故って?
それは新たに現れた聖女が
ヒロインだったから。
ディアターナは
いつの日からか新聖女と比べられ
人々の心が離れていった事を悟った。
もう私の役目は終わったわ…
神託を受けたディアターナは
手紙を残して消えた。
残された国は天災に見舞われ
てしまった。
しかし聖女は戻る事はなかった。
ディアターナは西帝国にて
初代聖女のコリーアンナに出会い
運命を切り開いて
自分自身の幸せをみつけるのだった。
貴方もヒロインのところに行くのね? [完]
風龍佳乃
恋愛
元気で活発だったマデリーンは
アカデミーに入学すると生活が一変し
てしまった
友人となったサブリナはマデリーンと
仲良くなった男性を次々と奪っていき
そしてマデリーンに愛を告白した
バーレンまでもがサブリナと一緒に居た
マデリーンは過去に決別して
隣国へと旅立ち新しい生活を送る。
そして帰国したマデリーンは
目を引く美しい蝶になっていた
無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……
タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。
「お前を愛するつもりはない」な仮面の騎士様と結婚しました~でも白い結婚のはずなのに溺愛してきます!~
卯月ミント
恋愛
「お前を愛するつもりはない」
絵を描くのが趣味の侯爵令嬢ソールーナは、仮面の英雄騎士リュクレスと結婚した。
だが初夜で「お前を愛するつもりはない」なんて言われてしまい……。
ソールーナだって好きでもないのにした結婚である。二人はお互いカタチだけの夫婦となろう、とその夜は取り決めたのだが。
なのに「キスしないと出られない部屋」に閉じ込められて!?
「目を閉じてくれるか?」「えっ?」「仮面とるから……」
書き溜めがある内は、1日1~話更新します
それ以降の更新は、ある程度書き溜めてからの投稿となります
*仮面の俺様ナルシスト騎士×絵描き熱中令嬢の溺愛ラブコメです。
*ゆるふわ異世界ファンタジー設定です。
*コメディ強めです。
*hotランキング14位行きました!お読みいただき&お気に入り登録していただきまして、本当にありがとうございます!
虐げられた聖女は精霊王国で溺愛される~追放されたら、剣聖と大魔導師がついてきた~
星名柚花
恋愛
聖女となって三年、リーリエは人々のために必死で頑張ってきた。
しかし、力の使い過ぎで《聖紋》を失うなり、用済みとばかりに婚約破棄され、国外追放を言い渡されてしまう。
これで私の人生も終わり…かと思いきや。
「ちょっと待った!!」
剣聖(剣の達人)と大魔導師(魔法の達人)が声を上げた。
え、二人とも国を捨ててついてきてくれるんですか?
国防の要である二人がいなくなったら大変だろうけれど、まあそんなこと追放される身としては知ったことではないわけで。
虐げられた日々はもう終わり!
私は二人と精霊たちとハッピーライフを目指します!
【書籍化決定】愛など初めからありませんが。
ましろ
恋愛
お金で売られるように嫁がされた。
お相手はバツイチ子持ちの伯爵32歳。
「君は子供の面倒だけ見てくれればいい」
「要するに貴方様は幸せ家族の演技をしろと仰るのですよね?ですが、子供達にその様な演技力はありますでしょうか?」
「……何を言っている?」
仕事一筋の鈍感不器用夫に嫁いだミッシェルの未来はいかに?
✻基本ゆるふわ設定。箸休め程度に楽しんでいただけると幸いです。
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
夫に顧みられない王妃は、人間をやめることにしました~もふもふ自由なセカンドライフを謳歌するつもりだったのに、何故かペットにされています!~
狭山ひびき
恋愛
もう耐えられない!
隣国から嫁いで五年。一度も国王である夫から関心を示されず白い結婚を続けていた王妃フィリエルはついに決断した。
わたし、もう王妃やめる!
政略結婚だから、ある程度の覚悟はしていた。けれども幼い日に淡い恋心を抱いて以来、ずっと片思いをしていた相手から冷たくされる日々に、フィリエルの心はもう限界に達していた。政略結婚である以上、王妃の意思で離婚はできない。しかしもうこれ以上、好きな人に無視される日々は送りたくないのだ。
離婚できないなら人間をやめるわ!
王妃で、そして隣国の王女であるフィリエルは、この先生きていてもきっと幸せにはなれないだろう。生まれた時から政治の駒。それがフィリエルの人生だ。ならばそんな「人生」を捨てて、人間以外として生きたほうがましだと、フィリエルは思った。
これからは自由気ままな「猫生」を送るのよ!
フィリエルは少し前に知り合いになった、「廃墟の塔の魔女」に頼み込み、猫の姿に変えてもらう。
よし!楽しいセカンドラウフのはじまりよ!――のはずが、何故か夫(国王)に拾われ、ペットにされてしまって……。
「ふふ、君はふわふわで可愛いなぁ」
やめてえ!そんなところ撫でないで~!
夫(人間)妻(猫)の奇妙な共同生活がはじまる――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる