9 / 28
第一章
(9)
しおりを挟む
どうだ、暇つぶしに勉強よりも最適な道具を見つけてやったぜ。マシューおじさんはそう言わんばかりの顔で、ひとり満足げに胸を張っている。そしてもう仕事は終わったとばかりにまた野菜をぽりぽりとかじりはじめた。ここまで全速力で走ってきているはずなのに、その野菜はどこから取り出したのだろう。
「テッド、ピアノは好きかしら?」
「あんまり好きじゃない」
「あらそうなの」
「アンちゃんは好きなの?」
「得意ではないけれど、嫌いではないわね」
そんなことを言いながらも、アンナは部屋のカーテンと窓を開けるとさっそくピアノに触れてみた。この世界で初めて掃除以外で触れたピアノ。久しぶりの感触に思わず笑みがこぼれる。ついつい猫ふんじゃったを弾いてみれば、調律されていないせいで踏まれた猫がピアノの中を暴れまわっていた。
「ちょっとアンちゃん、何をしているの。なんか変な音がしていて気持ちが悪い」
「これは調律が必要ね。ジムにお願いして、ひとを呼んでもらいましょう。それにしてもテッドは、音がずれていることがわかるのね」
「だって、この辺りの音、変だもん。アンちゃんは気にならないの?」
「困ったことにというべきなのか、ありがたいことにというべきなのか。全然気にならないの。でもテッドは耳がいいのだから、ピアノもやってみたらよいのに」
前世も音感がなかったが、今世でもやはり音感は育たなかったらしい。まあ、先ほど勉強の素晴らしさを語ったばかりだから、今さらなんて言わずに練習を始めてみようか。せっかくピアノがあるのだからと誘ってみたが、テッドはピアノに興味がないようだ。マシューおじさんを拾い上げ、窓辺から外をぼんやりと眺めている。
「そういえば、『マーモット』という曲があったわね」
「『マーモット』? 僕、そんなへんてこな曲聞いたことないよ? 誰が作ったの?」
「あら、ごめんない。勘違いだったかもしれないわ。有名な作曲家のものだと思い込んでいただけだったのかも」
うっかり前世の記憶を口にしてしまったことに気が付き、アンナは慌てて訂正した。あまり明るくはないけれど、良い曲だとアンナは思う。前世の春香も、子どもたちのピアノの練習に付き合いながらよく口ずさんでいた。かつての夫は、暗い曲調を酷く嫌っていたようだったが。
ろくに手入れのされていない部屋だったが、ちょうど石板と白墨が転がっていた。簡単な歌詞をぎゅうぎゅうに詰めて書くことくらいならできそうだ。文字は小さいし、つぶれかけているが、読めないことはないだろう。
「ねえ、テッド。せっかくだから、一緒に歌ってみない? ほら、歌詞も書き出してみたの。ちょっとあやふやだったから、私がアレンジして書いたところも多いのだけれど」
「……やめとく」
「あ、ごめんなさいね。いきなり歌うなんて嫌よね。それじゃあ、一緒に弾いてみるのはどう? 音がゆがんでいないところだけを使うから、気持ち悪くなることはないと思うの。ほら、簡単だから楽譜はなくても指を真似するところから始めてみたらどうかしら?」
「……だ」
「え? テッド?」
「うるさいなあ。僕は、やりたくないの! なんでアンちゃんは、僕の嫌がることをするの!」
突然不機嫌になってしまったテッド。初めて見る苛々とした様子に、アンナは目を丸くする。前世の子どもたちや、勉強嫌いの異母妹の癇癪を起こしたときによく似ている。確かに興味がないピアノに、無理矢理突き合せようとしたアンナが悪かったのだろう。家庭教師のことを自分は笑えない。上から目線で彼らのことを批判していた自分が恥ずかしくてたまらない。
よかれと思って踏み込みすぎた。他人のくせに、そしてテッドが何か訳ありだとわかっていたくせに、おせっかいを焼きすぎた。前世の記憶のよかった部分だけを思い出して、テッドに押し付けてしまうなんて。
「……あの、テッド、ごめんなさい。急にいろいろと押し付けられて迷惑だったわよね」
親でもないくせに。お腹の底でずっしりと重さを感じる言葉に、胃が痛くなる。実の子どもからも嫌われた自分が、ちょっと懐かれたくらいで有頂天になったからこんなことになるのだ。お飾りの自分は、もっと自分の身の程をわきまえるべきだったのに。そこからなんと言えばいいのかわからないアンナが口をつぐんだ瞬間、可愛らしい音が部屋の中に響いた。
「っ、くっしゅん」
「大変、こんなところに長くいたら身体によくないわよね。何から何までごめんなさい」
そこからさらにテッドが立て続けにくしゃみをしている。ずっと部屋が閉め切られていたのだから、当然だろう。そんなことにも気が付かないで、久しぶりのピアノにはしゃいでいた自分のなんと愚かなことか。慌ててテッドとマシューおじさんを連れて、元の部屋に戻る。風通しをよくしておいて、掃除はテッドが帰ってからやっておくことにした。
「テッド、ピアノは好きかしら?」
「あんまり好きじゃない」
「あらそうなの」
「アンちゃんは好きなの?」
「得意ではないけれど、嫌いではないわね」
そんなことを言いながらも、アンナは部屋のカーテンと窓を開けるとさっそくピアノに触れてみた。この世界で初めて掃除以外で触れたピアノ。久しぶりの感触に思わず笑みがこぼれる。ついつい猫ふんじゃったを弾いてみれば、調律されていないせいで踏まれた猫がピアノの中を暴れまわっていた。
「ちょっとアンちゃん、何をしているの。なんか変な音がしていて気持ちが悪い」
「これは調律が必要ね。ジムにお願いして、ひとを呼んでもらいましょう。それにしてもテッドは、音がずれていることがわかるのね」
「だって、この辺りの音、変だもん。アンちゃんは気にならないの?」
「困ったことにというべきなのか、ありがたいことにというべきなのか。全然気にならないの。でもテッドは耳がいいのだから、ピアノもやってみたらよいのに」
前世も音感がなかったが、今世でもやはり音感は育たなかったらしい。まあ、先ほど勉強の素晴らしさを語ったばかりだから、今さらなんて言わずに練習を始めてみようか。せっかくピアノがあるのだからと誘ってみたが、テッドはピアノに興味がないようだ。マシューおじさんを拾い上げ、窓辺から外をぼんやりと眺めている。
「そういえば、『マーモット』という曲があったわね」
「『マーモット』? 僕、そんなへんてこな曲聞いたことないよ? 誰が作ったの?」
「あら、ごめんない。勘違いだったかもしれないわ。有名な作曲家のものだと思い込んでいただけだったのかも」
うっかり前世の記憶を口にしてしまったことに気が付き、アンナは慌てて訂正した。あまり明るくはないけれど、良い曲だとアンナは思う。前世の春香も、子どもたちのピアノの練習に付き合いながらよく口ずさんでいた。かつての夫は、暗い曲調を酷く嫌っていたようだったが。
ろくに手入れのされていない部屋だったが、ちょうど石板と白墨が転がっていた。簡単な歌詞をぎゅうぎゅうに詰めて書くことくらいならできそうだ。文字は小さいし、つぶれかけているが、読めないことはないだろう。
「ねえ、テッド。せっかくだから、一緒に歌ってみない? ほら、歌詞も書き出してみたの。ちょっとあやふやだったから、私がアレンジして書いたところも多いのだけれど」
「……やめとく」
「あ、ごめんなさいね。いきなり歌うなんて嫌よね。それじゃあ、一緒に弾いてみるのはどう? 音がゆがんでいないところだけを使うから、気持ち悪くなることはないと思うの。ほら、簡単だから楽譜はなくても指を真似するところから始めてみたらどうかしら?」
「……だ」
「え? テッド?」
「うるさいなあ。僕は、やりたくないの! なんでアンちゃんは、僕の嫌がることをするの!」
突然不機嫌になってしまったテッド。初めて見る苛々とした様子に、アンナは目を丸くする。前世の子どもたちや、勉強嫌いの異母妹の癇癪を起こしたときによく似ている。確かに興味がないピアノに、無理矢理突き合せようとしたアンナが悪かったのだろう。家庭教師のことを自分は笑えない。上から目線で彼らのことを批判していた自分が恥ずかしくてたまらない。
よかれと思って踏み込みすぎた。他人のくせに、そしてテッドが何か訳ありだとわかっていたくせに、おせっかいを焼きすぎた。前世の記憶のよかった部分だけを思い出して、テッドに押し付けてしまうなんて。
「……あの、テッド、ごめんなさい。急にいろいろと押し付けられて迷惑だったわよね」
親でもないくせに。お腹の底でずっしりと重さを感じる言葉に、胃が痛くなる。実の子どもからも嫌われた自分が、ちょっと懐かれたくらいで有頂天になったからこんなことになるのだ。お飾りの自分は、もっと自分の身の程をわきまえるべきだったのに。そこからなんと言えばいいのかわからないアンナが口をつぐんだ瞬間、可愛らしい音が部屋の中に響いた。
「っ、くっしゅん」
「大変、こんなところに長くいたら身体によくないわよね。何から何までごめんなさい」
そこからさらにテッドが立て続けにくしゃみをしている。ずっと部屋が閉め切られていたのだから、当然だろう。そんなことにも気が付かないで、久しぶりのピアノにはしゃいでいた自分のなんと愚かなことか。慌ててテッドとマシューおじさんを連れて、元の部屋に戻る。風通しをよくしておいて、掃除はテッドが帰ってからやっておくことにした。
159
あなたにおすすめの小説
転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?
朱音ゆうひ@11/5受賞作が発売されます
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!
「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」
王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。
不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。
もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた?
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)
悪女役らしく離婚を迫ろうとしたのに、夫の反応がおかしい
廻り
恋愛
第18回恋愛小説大賞にて奨励賞をいただきました。応援してくださりありがとうございました!
王太子妃シャルロット20歳は、前世の記憶が蘇る。
ここは小説の世界で、シャルロットは王太子とヒロインの恋路を邪魔する『悪女役』。
『断罪される運命』から逃れたいが、夫は離婚に応じる気がない。
ならばと、シャルロットは別居を始める。
『夫が離婚に応じたくなる計画』を思いついたシャルロットは、それを実行することに。
夫がヒロインと出会うまで、タイムリミットは一年。
それまでに離婚に応じさせたいシャルロットと、なぜか様子がおかしい夫の話。
元貧乏貴族の大公夫人、大富豪の旦那様に溺愛されながら人生を謳歌する!
楠ノ木雫
恋愛
貧乏な実家を救うための結婚だった……はずなのに!?
貧乏貴族に生まれたテトラは実は転生者。毎日身を粉にして領民達と一緒に働いてきた。だけど、この家には借金があり、借金取りである商会の商会長から結婚の話を出されてしまっている。彼らはこの貴族の爵位が欲しいらしいけれど、結婚なんてしたくない。
けれどとある日、奴らのせいで仕事を潰された。これでは生活が出来ない。絶体絶命だったその時、とあるお偉いさんが手紙を持ってきた。その中に書いてあったのは……この国の大公様との結婚話ですって!?
※他サイトにも投稿しています。
勘違いで嫁ぎましたが、相手が理想の筋肉でした!
エス
恋愛
「男性の魅力は筋肉ですわっ!!」
華奢な男がもてはやされるこの国で、そう豪語する侯爵令嬢テレーゼ。
縁談はことごとく破談し、兄アルベルトも王太子ユリウスも頭を抱えていた。
そんな折、騎士団長ヴォルフがユリウスの元に「若い女性を紹介してほしい」と相談に現れる。
よく見ればこの男──家柄よし、部下からの信頼厚し、そして何より、圧巻の筋肉!!
「この男しかいない!」とユリウスは即断し、テレーゼとの結婚話を進める。
ところがテレーゼが嫁いだ先で、当のヴォルフは、
「俺は……メイドを紹介してほしかったんだが!?」
と何やら焦っていて。
……まあ細かいことはいいでしょう。
なにせ、その腕、その太もも、その背中。
最高の筋肉ですもの! この結婚、全力で続行させていただきますわ!!
女性不慣れな不器用騎士団長 × 筋肉フェチ令嬢。
誤解から始まる、すれ違いだらけの新婚生活、いざスタート!
※他サイトに投稿したものを、改稿しています。
どうして私が我慢しなきゃいけないの?!~悪役令嬢のとりまきの母でした~
涼暮 月
恋愛
目を覚ますと別人になっていたわたし。なんだか冴えない異国の女の子ね。あれ、これってもしかして異世界転生?と思ったら、乙女ゲームの悪役令嬢のとりまきのうちの一人の母…かもしれないです。とりあえず婚約者が最悪なので、婚約回避のために頑張ります!
転生したら悪役令嬢だった婚約者様の溺愛に気づいたようですが、実は私も無関心でした
ハリネズミの肉球
恋愛
気づけば私は、“悪役令嬢”として断罪寸前――しかも、乙女ゲームのクライマックス目前!?
容赦ないヒロインと取り巻きたちに追いつめられ、開き直った私はこう言い放った。
「……まぁ、別に婚約者様にも未練ないし?」
ところが。
ずっと私に冷たかった“婚約者様”こと第一王子アレクシスが、まさかの豹変。
無関心だったはずの彼が、なぜか私にだけやたらと優しい。甘い。距離が近い……って、え、なにこれ、溺愛モード突入!?今さらどういうつもり!?
でも、よく考えたら――
私だって最初からアレクシスに興味なんてなかったんですけど?(ほんとに)
お互いに「どうでもいい」と思っていたはずの関係が、“転生”という非常識な出来事をきっかけに、静かに、でも確実に動き始める。
これは、すれ違いと誤解の果てに生まれる、ちょっとズレたふたりの再恋(?)物語。
じれじれで不器用な“無自覚すれ違いラブ”、ここに開幕――!
本作は、アルファポリス様、小説家になろう様、カクヨム様にて掲載させていただいております。
アイデア提供者:ゆう(YuFidi)
URL:https://note.com/yufidi88/n/n8caa44812464
「転生したら推しの悪役宰相と婚約してました!?」〜推しが今日も溺愛してきます〜 (旧題:転生したら報われない悪役夫を溺愛することになった件)
透子(とおるこ)
恋愛
読んでいた小説の中で一番好きだった“悪役宰相グラヴィス”。
有能で冷たく見えるけど、本当は一途で優しい――そんな彼が、報われずに処刑された。
「今度こそ、彼を幸せにしてあげたい」
そう願った瞬間、気づけば私は物語の姫ジェニエットに転生していて――
しかも、彼との“政略結婚”が目前!?
婚約から始まる、再構築系・年の差溺愛ラブ。
“報われない推し”が、今度こそ幸せになるお話。
そのご寵愛、理由が分かりません
秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。
幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに——
「君との婚約はなかったことに」
卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り!
え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー!
領地に帰ってスローライフしよう!
そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて——
「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」
……は???
お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!?
刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり——
気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。
でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……?
夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー!
理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。
※毎朝6時、夕方18時更新!
※他のサイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる