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『るれ』ットと『ろ』う眼鏡
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その昔、女は醜い子どもだった。
少女らしい瑞々しさも、溌剌とした輝きも持ち合わせてはおらず、実の親でさえ邪険に扱った。
ぼんやりとした眼差し、ぼさぼさの油じみた髪。痩せぎすの身体と、卑屈そうな声音。すべてが異様であり、異端であった。
喧騒と不信感を撒き散らし、家族は転々と住処を変え彷徨う。だが聡い子どもらは、自分たちとは確かに違う余所者から距離を取り、大人たちもまた一様に目を背けた。
両親の逆鱗に触らぬように縮こまり、教師に媚を売り、なお平穏とは程遠い日常。蛆虫のように這う粘着質な視線から、痩せこけた身体を、丈の足りない褪せた服で隠す。
いっそ目覚めぬまま、息絶えたい。このまま朝など来ないでほしい。眠りにつく前の祈りもむなしく、子どもは生きながらえ、少しずつ姿を変えてゆく。自分を踏みにじった生き物と同じ形に。
死は子どもにとって憧憬であり、希望であった。
林檎の頬。透明の硝子瓶。桃の柔肌。
桜のしおり。紫の朝顔。ひまわりの植木鉢。
緑の鉛筆。赤い鞄。紺の体操服。
澄みきった空。ひだまりの穏やかな温もり。
すべて哀しい子どもをひとり残したまま、通り過ぎてゆくのだから。
その昔、女は気性の激しい若い女だった。
必死で愛を乞いながら、手にした愛をすぐさま投げ捨て、自ら踏み潰すような女だった。
女にとって他人とは、踏み台にすべきものだった。上へ、上へ。少しでも光が射す方へ。この世に救いなどなく、欲しいものは自分で掴むしかないのだから。
女は人間の醜さを知っていた。大きく振りかぶった掌は、女を打つものだと相場が決まっていた。優しそうな顔をしていたとしても、全くもって信用などできない。みな最後は女の一番柔らかな部分をえぐり、大事なものを奪い去ってゆく。
幼子を抱く母の温かさを女は知らない。幼子を背負う父の強さを女は知らない。
幸せになりたいと願っていたにも関わらず、女はいつも酷い間違いばかりを犯した。正しさの基準を知らない女には、何を選べば良いのか見当もつかなかった。進む道のりはどこまでも険しく、女の足は血を流す。
死は女にとって御守りであり、切札だった。
赤い口紅。漆黒の睫毛。薄紅をした指先。
華奢な碧い靴。真珠の首飾り。銀の指輪。金の約束。
夏の海。湿った汗の香り。響き渡った鈴の声。
熟した蛇苺。裂けた柘榴。伝う果汁を拭う甘い指。
やはり女の前には留まらず、すべてが走り去って行った。掌の隙間から落ちてゆく一握の砂のように。
その昔、女は母であり、妻であった。
縫い物を生業としたが、成功したとは言い難かった。糸の縫い目が少しでも歪めば完成間際でもがむしゃらにほどいた。布の向きも、模様も、気にいらないと最初からやり直す。髪の毛一筋ほどの違和感も耐えがたい。
ちらりと鏡にうつった女の顔は、確かに般若の面をしていた。
女がかつて望み、手の届かなかったものはすべて調えたはずだった。しかしその家は冬の雪山のよう。女の隣は凍えそうで、どうしてだか上手く息ができない。
死は癒しであり、慰めであった。
曇りのない窓硝子。太陽の匂いの布団。湯気のたつごはん。皺のない服。
飾りのついた髪紐。鮮やかな千代紙。木のままごと道具。澄まし顔の着せ替え人形。
ねっとりと甘い羊羹。琥珀のような蜂蜜。微かに苦い抹茶。
日常の小さな言葉。母の慈愛。妻の献身。家族の絆。
今度は何を間違えたのか。女はただ、母として妻として「普通」が欲しかっただけなのに。
そして今、女はただの老いた女であった。
歳をとり、身体は不自由になったが、ようやく安らぎを得た。この小さな部屋の物は決して、女を傷つけない。
自由に空気を吸って、吐いて、また吸って。ただその幸せを女は知っていた。
よたよたと手を伸ばし、裁縫箱を持つ。
一体いつ買ったものなのか。艶を失い、角も塗りが剥げてしまった。だが、どうしても手放せそうにない。
年代物のこたつ。食べかけの蜜柑。錆びた石油ストーブ。
小さくへこみ傷のついたやかん。折畳んだ朝刊。窓から覗く梅の蕾。
いつからか身についた諦め。甘やかな静寂。優しい孤独。
どこかでぐしゃりと半分になった橙が、ゆっくりと部屋を照らす。
幼いときに夢見ていたものは、果たして何だったのか。思い出せぬ女をよそに、大きな烏が濁声で鳴く。
人生の意味など理解できない。
ただ朱から藍へと染まりゆく街は、何よりも愛おしい。
すっかり皺だらけになった手で、女は愛用の眼鏡を持ち上げた。濁ったこの瞳では、細かい縫い物などできはしない。しかし女は今日も針を持つ。手を動かすのをやめてしまった時が、女の人生の終わりとでも言うかのよう。女は思う、はっきり見えないくらいが本当はちょうど良いのだと。
死はこの日も生涯の友のように、ただ密やかに女の側にあった。
少女らしい瑞々しさも、溌剌とした輝きも持ち合わせてはおらず、実の親でさえ邪険に扱った。
ぼんやりとした眼差し、ぼさぼさの油じみた髪。痩せぎすの身体と、卑屈そうな声音。すべてが異様であり、異端であった。
喧騒と不信感を撒き散らし、家族は転々と住処を変え彷徨う。だが聡い子どもらは、自分たちとは確かに違う余所者から距離を取り、大人たちもまた一様に目を背けた。
両親の逆鱗に触らぬように縮こまり、教師に媚を売り、なお平穏とは程遠い日常。蛆虫のように這う粘着質な視線から、痩せこけた身体を、丈の足りない褪せた服で隠す。
いっそ目覚めぬまま、息絶えたい。このまま朝など来ないでほしい。眠りにつく前の祈りもむなしく、子どもは生きながらえ、少しずつ姿を変えてゆく。自分を踏みにじった生き物と同じ形に。
死は子どもにとって憧憬であり、希望であった。
林檎の頬。透明の硝子瓶。桃の柔肌。
桜のしおり。紫の朝顔。ひまわりの植木鉢。
緑の鉛筆。赤い鞄。紺の体操服。
澄みきった空。ひだまりの穏やかな温もり。
すべて哀しい子どもをひとり残したまま、通り過ぎてゆくのだから。
その昔、女は気性の激しい若い女だった。
必死で愛を乞いながら、手にした愛をすぐさま投げ捨て、自ら踏み潰すような女だった。
女にとって他人とは、踏み台にすべきものだった。上へ、上へ。少しでも光が射す方へ。この世に救いなどなく、欲しいものは自分で掴むしかないのだから。
女は人間の醜さを知っていた。大きく振りかぶった掌は、女を打つものだと相場が決まっていた。優しそうな顔をしていたとしても、全くもって信用などできない。みな最後は女の一番柔らかな部分をえぐり、大事なものを奪い去ってゆく。
幼子を抱く母の温かさを女は知らない。幼子を背負う父の強さを女は知らない。
幸せになりたいと願っていたにも関わらず、女はいつも酷い間違いばかりを犯した。正しさの基準を知らない女には、何を選べば良いのか見当もつかなかった。進む道のりはどこまでも険しく、女の足は血を流す。
死は女にとって御守りであり、切札だった。
赤い口紅。漆黒の睫毛。薄紅をした指先。
華奢な碧い靴。真珠の首飾り。銀の指輪。金の約束。
夏の海。湿った汗の香り。響き渡った鈴の声。
熟した蛇苺。裂けた柘榴。伝う果汁を拭う甘い指。
やはり女の前には留まらず、すべてが走り去って行った。掌の隙間から落ちてゆく一握の砂のように。
その昔、女は母であり、妻であった。
縫い物を生業としたが、成功したとは言い難かった。糸の縫い目が少しでも歪めば完成間際でもがむしゃらにほどいた。布の向きも、模様も、気にいらないと最初からやり直す。髪の毛一筋ほどの違和感も耐えがたい。
ちらりと鏡にうつった女の顔は、確かに般若の面をしていた。
女がかつて望み、手の届かなかったものはすべて調えたはずだった。しかしその家は冬の雪山のよう。女の隣は凍えそうで、どうしてだか上手く息ができない。
死は癒しであり、慰めであった。
曇りのない窓硝子。太陽の匂いの布団。湯気のたつごはん。皺のない服。
飾りのついた髪紐。鮮やかな千代紙。木のままごと道具。澄まし顔の着せ替え人形。
ねっとりと甘い羊羹。琥珀のような蜂蜜。微かに苦い抹茶。
日常の小さな言葉。母の慈愛。妻の献身。家族の絆。
今度は何を間違えたのか。女はただ、母として妻として「普通」が欲しかっただけなのに。
そして今、女はただの老いた女であった。
歳をとり、身体は不自由になったが、ようやく安らぎを得た。この小さな部屋の物は決して、女を傷つけない。
自由に空気を吸って、吐いて、また吸って。ただその幸せを女は知っていた。
よたよたと手を伸ばし、裁縫箱を持つ。
一体いつ買ったものなのか。艶を失い、角も塗りが剥げてしまった。だが、どうしても手放せそうにない。
年代物のこたつ。食べかけの蜜柑。錆びた石油ストーブ。
小さくへこみ傷のついたやかん。折畳んだ朝刊。窓から覗く梅の蕾。
いつからか身についた諦め。甘やかな静寂。優しい孤独。
どこかでぐしゃりと半分になった橙が、ゆっくりと部屋を照らす。
幼いときに夢見ていたものは、果たして何だったのか。思い出せぬ女をよそに、大きな烏が濁声で鳴く。
人生の意味など理解できない。
ただ朱から藍へと染まりゆく街は、何よりも愛おしい。
すっかり皺だらけになった手で、女は愛用の眼鏡を持ち上げた。濁ったこの瞳では、細かい縫い物などできはしない。しかし女は今日も針を持つ。手を動かすのをやめてしまった時が、女の人生の終わりとでも言うかのよう。女は思う、はっきり見えないくらいが本当はちょうど良いのだと。
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