リポグラム短編集～『あい』を失った女～

消えゆく『わをん』に口づけを

　それに気きがついたのは、何故なぜなのだろう。

　軋きしむベッドの上うえで、夫おっとはいつも通どおり。おかしなところなど何一なにひとつなかったはずなのに。強しいていうならば妻つまの洞察力どうさつりょくだろうか。今更いまさらの理由りゆうづけがいかにも滑稽こっけいで、くつくつと声こえが漏もれた。

　裸はだかの夫おっとが不思議ふしぎそうな顔かおでじっと見みつめて来くる。逆ぎゃくに覗のぞき返かえせば、どこか眩まぶしそうに眇すがめられた。何なにか言いいかけた夫おっとの唇くちびるなどふさいでしまおう。今いまは喘あえぎ声ごえ以外いがい、聞ききたくもない。

　余あますところのないように、隅すみから隅すみまでなぞってみる。もともと、夫おっとであることが不思議ふしぎなくらいの美貌びぼうの持もち主ぬし。既すでに夫おっとは朱夏しゅかと呼よばれる域いきに達たっしているが、老おいと共ともに相応そうおうの色気いろけが得えられるのだと知しった。口くちづけがぬるりと熱あつい。

　たった一度いちどの過あやまちくらいと、人ひとは言いうだろう。けれど、理屈りくつではないのだ。どうして、夫おっとは別べつの女性じょせいと睦むつみあったのか。誰だれかに聞きいてみたいとも思おもったが、結局けっきょくのところ、夫おっとの心こころは夫おっとにしか理解りかいできない。

　夫おっとは優やさしくて、いい匂においのする、綺麗きれいで、酷ひどい男おとこだ。夫おっとがいらないと言いうのなら、形かたちばかりの妻つまなど、誰だれにくれてやったところで同おなじことだろう。さよならと言いえば、きっと夫おっとは仕方しかたがないねとばかりに寂さびしそうに微笑ほほえむだけ。嫉妬しっとし、怒いかり狂くるい、あるいは泣なき崩くずれて、引ひき留とめられることなどないのだから。

　この世界せかいには、何なにかが足たりない。海うみに落おちたのか、山やまに埋うめられたのか。それすらもはっきりとしないのに、虚むなしさだけは日増ひましに大おおきくなっていく。重かさねた身体からだからは、むしろ前まえよりも隙間すきまが目立めだつ。足たりない音おと、消きえた色いろ、物書ものかきにも絵描えかきにもこの寂さびしさは埋うめられない。

　痛いたむ心こころなど捨すててしまえ。どうせ明日あしたこの胸むねの鍵かぎも消きえてなくなる。
　行いくところに行いけば、華はなのないこの身みにだって需要じゅようはあるのだ。見知みしらぬ男おとこに向かって、しどけなく微笑ほほえみかける。ああ、夜明よあけの薄紫色うすむらさきいろの空そらは美うつくしく、あなたは果はてし無なく遠とおい。