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5.そんなことをおっしゃられても。侯爵夫人、すべてあなたが望んだことでしょう?
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この国の王弟は穏やかな人物である。王位争いに巻き込まれることを避けるために、真っ先に臣籍降下していたくらいなのだ。それにもかかわらず国内情勢がきな臭くなった結果、王弟は昔からの信頼できる友人である隣国の子爵夫妻に愛娘を預けたのである。かつてともに通った魔法学園での縁だった。
情報が漏れることを防ぐため身分を明らかにしなかった結果、シャーロットは相当に軽んじられる生活を送ることになる。だが事実を出したところで、今度は命を狙われるだけ。大切なことは自分たちだけが知っていればよいと彼らはわかっていたが、うっかり侯爵家の嫡男の婚約者候補――しかも明らかな当て馬――となってしまったときには、全員が頭を抱えてしまった。特にシャーロットと将来を誓い合っていた義兄は、本気で駆け落ちを計画していたほどだ。だが、シャーロットは諦めなかった。
自分がいかに軽んじられているかわかっていたからこそ、シャーロットは最終試験のパイ作りに真剣に望んだのである。シャーロットが作ったパイは、二国間の国境付近でその昔盛んに作られていたものなのだ。
かつて砂糖も小麦もバターもあるのに、りんごだけは手に入らないそんな時代があった。戦争と魔獣の大発生により信じられない苦境に立たされていた彼らが、いつかの平和を想い、大切な家族のために作った希望のパイ。
先代当主がこの辺りに昔住んでいたことまでは知らなかったが、あの時代の生き残りであれば口にしたことがあると踏んだのだ。そしてこのパイを作ることができるということは、味と記憶による絆を結ぶであろうことも理解していた。狙い通りこのパイが良い評価をもらえたならば、アイリスが自分の手柄にするとわかっていた。さっさとネイトとアイリスが結婚して、当て馬役を下りられるようにシャーロットは一生懸命だったのである。
先代当主の奥方は、懐かしいパイで記憶を刺激されている。苦難に立ち向かった時と同じ強さを、国と家族のために立ち上がる力をアイリスに求めてくるだろう。ちゃっかりおいしいところだけをさらっていく夢見る乙女なアイリスとネイトの祖母が本質的に合わないことはわかり切っていた。
「時を操れるのでしょう! それならばお願い、わたくしの時を戻して。ネイトさまと結婚する前に。お願い!」
「私にできるのは、ほんの少し時を進めることだけ。せいぜい生地を寝かせたり、発酵を促したり、あるいは焼き時間を早めたりすることくらいにしか役に立ちませんよ」
「ならせめてあのおばあさまを」
「私の魔法は生き物には使えません」
「お願い、後生だから!」
「そんなことをおっしゃられても。侯爵夫人、すべてあなたが望んだことでしょう?」
シャーロットのパイにネイトの祖母を若返らせる力があったのか。そればかりはシャーロットにもわからない。けれどもしもそんな力が宿ったのならば、それはシャーロットのご先祖さまが力を貸してくれたのかもしれなかった。自分たちの末裔がなんとか幸せになれるように。だって、シャーロットの幸せは義兄だった今の夫とともにあるのだから。
「かーさま、おはなし、おわり?」
「おきゃくさま、かえった?」
「ええ。だからみんなでおやつの時間にしましょうね。ばあばとじいじ、四人とも呼んできましょう」
「みんなでたべると、おいしいもんね」
「ぼく、よんでくる!」
「わたしも!」
偽アップルパイは、その当時の人々にとっては何よりの希望だった。そして今、シャーロットは大切な家族のために、りんごがたっぷり詰まった黄金のアップルパイを作るのだ。
情報が漏れることを防ぐため身分を明らかにしなかった結果、シャーロットは相当に軽んじられる生活を送ることになる。だが事実を出したところで、今度は命を狙われるだけ。大切なことは自分たちだけが知っていればよいと彼らはわかっていたが、うっかり侯爵家の嫡男の婚約者候補――しかも明らかな当て馬――となってしまったときには、全員が頭を抱えてしまった。特にシャーロットと将来を誓い合っていた義兄は、本気で駆け落ちを計画していたほどだ。だが、シャーロットは諦めなかった。
自分がいかに軽んじられているかわかっていたからこそ、シャーロットは最終試験のパイ作りに真剣に望んだのである。シャーロットが作ったパイは、二国間の国境付近でその昔盛んに作られていたものなのだ。
かつて砂糖も小麦もバターもあるのに、りんごだけは手に入らないそんな時代があった。戦争と魔獣の大発生により信じられない苦境に立たされていた彼らが、いつかの平和を想い、大切な家族のために作った希望のパイ。
先代当主がこの辺りに昔住んでいたことまでは知らなかったが、あの時代の生き残りであれば口にしたことがあると踏んだのだ。そしてこのパイを作ることができるということは、味と記憶による絆を結ぶであろうことも理解していた。狙い通りこのパイが良い評価をもらえたならば、アイリスが自分の手柄にするとわかっていた。さっさとネイトとアイリスが結婚して、当て馬役を下りられるようにシャーロットは一生懸命だったのである。
先代当主の奥方は、懐かしいパイで記憶を刺激されている。苦難に立ち向かった時と同じ強さを、国と家族のために立ち上がる力をアイリスに求めてくるだろう。ちゃっかりおいしいところだけをさらっていく夢見る乙女なアイリスとネイトの祖母が本質的に合わないことはわかり切っていた。
「時を操れるのでしょう! それならばお願い、わたくしの時を戻して。ネイトさまと結婚する前に。お願い!」
「私にできるのは、ほんの少し時を進めることだけ。せいぜい生地を寝かせたり、発酵を促したり、あるいは焼き時間を早めたりすることくらいにしか役に立ちませんよ」
「ならせめてあのおばあさまを」
「私の魔法は生き物には使えません」
「お願い、後生だから!」
「そんなことをおっしゃられても。侯爵夫人、すべてあなたが望んだことでしょう?」
シャーロットのパイにネイトの祖母を若返らせる力があったのか。そればかりはシャーロットにもわからない。けれどもしもそんな力が宿ったのならば、それはシャーロットのご先祖さまが力を貸してくれたのかもしれなかった。自分たちの末裔がなんとか幸せになれるように。だって、シャーロットの幸せは義兄だった今の夫とともにあるのだから。
「かーさま、おはなし、おわり?」
「おきゃくさま、かえった?」
「ええ。だからみんなでおやつの時間にしましょうね。ばあばとじいじ、四人とも呼んできましょう」
「みんなでたべると、おいしいもんね」
「ぼく、よんでくる!」
「わたしも!」
偽アップルパイは、その当時の人々にとっては何よりの希望だった。そして今、シャーロットは大切な家族のために、りんごがたっぷり詰まった黄金のアップルパイを作るのだ。
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