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僕を待つ君、君を迎えにくる彼、そして僕と彼の話(1)

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 夕暮れの交差点。まばたきする青信号。
 僕はハンカチを握りしめたまま、横断歩道を走り抜ける。彼女――綾乃あやのさん――は今日もまた駅前でひとり迷子になっているはずだから。

 いつもおっとり、お嬢さん育ちの綾乃さんは、絶望的に方向音痴だ。年々ひどくなる一方で、僕は本当に気が気じゃない。額から流れ落ちる汗を、スウェットの袖口で拭きとる。肌寒いはずの風が心地いい。

 帰宅途中の高校生やサラリーマンの波に逆らいながら走り続けること、10分あまり。いた、綾乃さんだ。案の定、綾乃さんは駅前のロータリー近くをうろうろしていた。薄手のワンピース姿で、見ているこちらが風邪を引きそうだ。

 すぐに迷子になってしまうくせに、自由人な綾乃さんはふらりと出かけてしまう。まったくいい加減にしてほしい。この間も派出所でお巡りさんに、苦笑いされちゃったんだから。

「お嬢さん、ハンカチを落としましたよ」

 なにをやってるの、綾乃さん。もう帰るよ。

 そう言いたいのをぐっとこらえて、僕は真っ白なハンカチを差し出しながら声をかけた。綾乃さんはメルヘンチックな乙女だから、毎回決まった手順を踏んであげないとへそを曲げてしまうのだ。

「あらまあ、ご親切にありがとうございます」
「そんな薄着で寒くありませんか」

 ころころと楽しそうに笑う綾乃さんに、用意しておいたコートを着せる。ありがたいことに今日の綾乃さんは、なんだかとても機嫌がいい。こんな風に笑顔を向けられてしまうと、こちらも毒気を抜かれてしまう。まったく、こういうところがズルいんだよな。

「こんな可愛らしいお嬢さんがひとりだなんて心配だな。家までお送りします」
「もうお上手なんだから。ねえ、落とし物を拾っていただいたお礼に、コーヒーでもいかがかしら。もちろん純喫茶よ」

 ウインクまじりのお誘い。

 寄り道して買い食いなんてしていると、夕飯が入らなくなるよ。せっかく、今夜は特製のクリームシチューなのに。

 その言葉も、僕はもちろん飲み込む。どうせ綾乃さんは、言い出したら僕の話なんて聞きやしないんだから。

「それではどうぞお言葉に甘えて」

 意識して背筋を伸ばしうなずけば、綾乃さんは猫のように目を細めて笑った。
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