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1部 5章
巨大バエ討伐の剣が最期のひと振り 3
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カサカサ――
カサカサ――
カサカサ――
地底窟を進んで行ってすぐ、あちこちから何か擦れるような、何か這い回っているような音が鼓膜を蝕んだ。何か、いる。間違いなく、何かが。だから音がするたびに顔と松明を向けるも、正体は目視できなかった。確認できるのは、表面が濡れて光る岩壁と苔ばかり。
けれど、いる。
必ず、いる。
その『気配』がどんどんと緊張感を高め、高まった緊張はやがて疲労感へと変化した。
恐らくまだ十四、五分ほどしか進んでいないのに、もはや途方もない疲れだ。
初めての環境だからということもあるが、最たる原因はやはり正体不明の存在である。
「――ひっ」
突如、右足首がひやりと冷たくなった。
その冷たさは、左右に動きながらも、確実に脛を這い上ってきている。
痛みはないが、何かがそこにいるという感触は、堪らなく不快だ。
右足をブンブンと前後に振る。これで肌から落ちてくれればよかったが、ズボンが邪魔になっているのか、その正体が粘着力の高い何かなのか、不快感はなくならない。
「どうしました?」
傍にいるのだから、当然異変に気が付いたディパルさん。
「あっ、その何かっ、何か足にっ」
そう言っているうちにも、不快なそれは内腿まで這い上がってきた。
ディパルさんがオレの正面に立ち、松明を足元に寝かせる。
「足のどの辺りです? 違和感があるのは」
「腿の辺りですっ」
「腿……ならばズボンを下ろして確認しますね」
「お願いしますっ」
ズボンを下ろされる羞恥心なんて、今は微塵も感じなかった。
直剣も地面に置いたディパルさんが、両手でオレの腰辺りをまさぐる。腰紐が解かれ、ズボンの締め付けが緩くなった。かと思えば、次の瞬間には、足全体を襲うひやりとした空気の感触。解放感。ズボンが引き下げられたのだ。
「ああ、これですね。短剣で取ります、危ないので動かないように」
「わ、わかりましたっ」
刃が肌に向けられる。
そのことに対する怖さは、まったくない。
内腿を這う不快感が恐怖心を上回っているということもあるが、ディパルさんへの信頼感というのも大きいだろう。カノジョに傷付けられることはない。そう、思えるからだ。
カチャという、小さな金属音。
ディパルさんが腰の短剣を抜いた音だ。
火に照らされる中、ディパルさんはオレの腿に顔を寄せ、右手を持ち上げる。
刹那。
不快感はなくなった。
「終わりましたよ。ほかに、どこも違和感はないですね?」
「はい。ありがとうございますっ」
ディパルさんは短剣を腰の鞘に納めると、両手でオレのズボンを引き上げた。腰辺りがまさぐられ、キュッと圧迫感に襲われる。腰紐を結んでくれたのだ。
直剣と松明を拾い、カノジョは立ち上がる。
「さあ、行きましょう」
……何がいたんだろ。
もう不快感はないし痛みや痺れもないから気にしなくてもいいことかもしれないが、自分の身体を襲っていたものの正体は無視できなかった。
尋ねても、いいことだろう。気を引き締めなければならない状況だが、これに関しては余計な雑談とは思われないはず。
「あの、腿に何がいましたか?」
「小さな蟲です」
「どんな蟲でしたか?」
「エンローウィという名前で、生物の垢を食べます。身体の裏面に無数の細かな足と、その足に無数の口があるため、肌を這われると一般的には不快に思います。けれど、皇都などの大都市では、垢を食すという生態を利用した美容法が貴族の子女の間で流行ったくらいなので、毒性はないのでしょう。私は蟲学を学んだことはありませんが、安心していいと思います。もし危険なら、保身と一族繁栄にしか興味のないような貴族が手を出しません」
「そう、ですか。えと、安心なら、いいんです。はい」
詳細な説明には少し困惑も覚えたが、変な誤魔化しがなかったぶん安堵もできた。
「蟲で美容だなんて、なんというかその、凄いですね」
と、つい思ったことを言ってしまって、しまった!と悔やむ。
話の流れに適したものと言えばそうだが、明らかに雑談の部類の内容だから。
緊張感がない! とカノジョを不快にさせても仕方ないぞ。
だってカノジョは、幼馴染の娘を、故郷の子どもたちを救いに来ているんだから。
気を引き締めなさいと注意されるだろう。
そう覚悟していたが、しかし、聞こえたのは小さな笑い声だった。
「凄いというより、変、奇妙ですよね。蟲に頼ってまで美しくあろうとするなんて、私が初めてそれを知ったときには、滑稽に思いましたよ。そんなことに時間や金を使う暇があるのなら、貴族として、治める都市の人々の暮らしを、魔族との争いを、どうにか改善することに使えよ、とね。アクセルも、リーリエッタに行けば、多くの変に出会うでしょう」
怒られるどころか、ディパルさんは話を進めてきた。
それも、とても個性が感じられるというか、カノジョ自身の意見を言ってくれた。
多分。
出会ってから、初めてだろう。
こうも自分の内を晒すような言葉を言ってくれたのは。
嬉しさが込み上げてきて、オレも笑った。
※
雑談というか、笑い話というものは、自身の内側を垣間見せるようなことだと思う。
だからこそ、緊迫した状況では、雑談なんてものは場違いなのだ。
それなのに、どうしてディパルさんが、今、貴族の変な美容という話をしたのか。オレの問いに対する答え……肌を這っていた蟲の特徴だけで済ませなかったのか。
それは、オレなんかよりも早く、この甘ったるい臭気を嗅ぎ取っていたからだろう。
つまり――戦いが近いから、ということだ。
しくじれば、最後の会話になる。
だから……気軽な話をしたくなったのだろう。
もちろん、すべてはオレの憶測だ。
カノジョの本意なんて、わからないのだから。
でも、本意がどうであれ、よかったと思う。
ちょっとした雑談が交わせて。
クスッと、笑えるような話ができて。
よかった……。
※
「この濃密な甘い臭いは、ブゼルデスの発するものです。巣穴はこの奥みたいですね」
平坦な岩場に立っているオレたちの眼前には、まだ奥へと続く道がある。
その先に別の景色が広がっていると予測を立てることができたのは、これまでずっと斜面が続いていたのに、いきなり平坦になったからだ。
「アクセル。中へ入ったら、すぐに足を止め、そこにいてください」
「……わかりました」
オレも一緒に戦います!
その返事はもちろん頭に浮かんだけれど、喉奥まで来たところで呑み込んだ。
カノジョを困らせてしまうだけだからだ。
いや、それで済めばまだマシ。
オレも前線に立つことで、この救出作戦の成功確率が下がってしまえば、最悪だ。
だから、戦うなんて言わないことこそ、正しい決断のはず。
「では、行きましょう」
奥へと向き直り、ディパルさんは歩み出す。
五歩、カノジョが進んだところで、オレはその背を追った。
――ブブ、ブブブ、ブブブブブブブ
奥は広い空間になっていて。
聞こえてきたのは、羽音。
耳元に蟲でもいるのかと思い確認したが、火で照らしても影すら映らなかった。
辺りを見ても、蟲が飛来している様子はない。
それなのに鼓膜を強く打つ羽音。
どうしてなのかと考え、答えはすぐに閃いた。
あまりにも、巨大なのだ。
巨大な翅であれば、離れたところで震わせても、これだけ強く聞こえるだろう。
つまりそれは、いる、ということ。
ブゼルデス。
巨大なハエ。
ゴクリと、オレは溜まっていた唾を飲み込んだ。
カサカサ――
カサカサ――
地底窟を進んで行ってすぐ、あちこちから何か擦れるような、何か這い回っているような音が鼓膜を蝕んだ。何か、いる。間違いなく、何かが。だから音がするたびに顔と松明を向けるも、正体は目視できなかった。確認できるのは、表面が濡れて光る岩壁と苔ばかり。
けれど、いる。
必ず、いる。
その『気配』がどんどんと緊張感を高め、高まった緊張はやがて疲労感へと変化した。
恐らくまだ十四、五分ほどしか進んでいないのに、もはや途方もない疲れだ。
初めての環境だからということもあるが、最たる原因はやはり正体不明の存在である。
「――ひっ」
突如、右足首がひやりと冷たくなった。
その冷たさは、左右に動きながらも、確実に脛を這い上ってきている。
痛みはないが、何かがそこにいるという感触は、堪らなく不快だ。
右足をブンブンと前後に振る。これで肌から落ちてくれればよかったが、ズボンが邪魔になっているのか、その正体が粘着力の高い何かなのか、不快感はなくならない。
「どうしました?」
傍にいるのだから、当然異変に気が付いたディパルさん。
「あっ、その何かっ、何か足にっ」
そう言っているうちにも、不快なそれは内腿まで這い上がってきた。
ディパルさんがオレの正面に立ち、松明を足元に寝かせる。
「足のどの辺りです? 違和感があるのは」
「腿の辺りですっ」
「腿……ならばズボンを下ろして確認しますね」
「お願いしますっ」
ズボンを下ろされる羞恥心なんて、今は微塵も感じなかった。
直剣も地面に置いたディパルさんが、両手でオレの腰辺りをまさぐる。腰紐が解かれ、ズボンの締め付けが緩くなった。かと思えば、次の瞬間には、足全体を襲うひやりとした空気の感触。解放感。ズボンが引き下げられたのだ。
「ああ、これですね。短剣で取ります、危ないので動かないように」
「わ、わかりましたっ」
刃が肌に向けられる。
そのことに対する怖さは、まったくない。
内腿を這う不快感が恐怖心を上回っているということもあるが、ディパルさんへの信頼感というのも大きいだろう。カノジョに傷付けられることはない。そう、思えるからだ。
カチャという、小さな金属音。
ディパルさんが腰の短剣を抜いた音だ。
火に照らされる中、ディパルさんはオレの腿に顔を寄せ、右手を持ち上げる。
刹那。
不快感はなくなった。
「終わりましたよ。ほかに、どこも違和感はないですね?」
「はい。ありがとうございますっ」
ディパルさんは短剣を腰の鞘に納めると、両手でオレのズボンを引き上げた。腰辺りがまさぐられ、キュッと圧迫感に襲われる。腰紐を結んでくれたのだ。
直剣と松明を拾い、カノジョは立ち上がる。
「さあ、行きましょう」
……何がいたんだろ。
もう不快感はないし痛みや痺れもないから気にしなくてもいいことかもしれないが、自分の身体を襲っていたものの正体は無視できなかった。
尋ねても、いいことだろう。気を引き締めなければならない状況だが、これに関しては余計な雑談とは思われないはず。
「あの、腿に何がいましたか?」
「小さな蟲です」
「どんな蟲でしたか?」
「エンローウィという名前で、生物の垢を食べます。身体の裏面に無数の細かな足と、その足に無数の口があるため、肌を這われると一般的には不快に思います。けれど、皇都などの大都市では、垢を食すという生態を利用した美容法が貴族の子女の間で流行ったくらいなので、毒性はないのでしょう。私は蟲学を学んだことはありませんが、安心していいと思います。もし危険なら、保身と一族繁栄にしか興味のないような貴族が手を出しません」
「そう、ですか。えと、安心なら、いいんです。はい」
詳細な説明には少し困惑も覚えたが、変な誤魔化しがなかったぶん安堵もできた。
「蟲で美容だなんて、なんというかその、凄いですね」
と、つい思ったことを言ってしまって、しまった!と悔やむ。
話の流れに適したものと言えばそうだが、明らかに雑談の部類の内容だから。
緊張感がない! とカノジョを不快にさせても仕方ないぞ。
だってカノジョは、幼馴染の娘を、故郷の子どもたちを救いに来ているんだから。
気を引き締めなさいと注意されるだろう。
そう覚悟していたが、しかし、聞こえたのは小さな笑い声だった。
「凄いというより、変、奇妙ですよね。蟲に頼ってまで美しくあろうとするなんて、私が初めてそれを知ったときには、滑稽に思いましたよ。そんなことに時間や金を使う暇があるのなら、貴族として、治める都市の人々の暮らしを、魔族との争いを、どうにか改善することに使えよ、とね。アクセルも、リーリエッタに行けば、多くの変に出会うでしょう」
怒られるどころか、ディパルさんは話を進めてきた。
それも、とても個性が感じられるというか、カノジョ自身の意見を言ってくれた。
多分。
出会ってから、初めてだろう。
こうも自分の内を晒すような言葉を言ってくれたのは。
嬉しさが込み上げてきて、オレも笑った。
※
雑談というか、笑い話というものは、自身の内側を垣間見せるようなことだと思う。
だからこそ、緊迫した状況では、雑談なんてものは場違いなのだ。
それなのに、どうしてディパルさんが、今、貴族の変な美容という話をしたのか。オレの問いに対する答え……肌を這っていた蟲の特徴だけで済ませなかったのか。
それは、オレなんかよりも早く、この甘ったるい臭気を嗅ぎ取っていたからだろう。
つまり――戦いが近いから、ということだ。
しくじれば、最後の会話になる。
だから……気軽な話をしたくなったのだろう。
もちろん、すべてはオレの憶測だ。
カノジョの本意なんて、わからないのだから。
でも、本意がどうであれ、よかったと思う。
ちょっとした雑談が交わせて。
クスッと、笑えるような話ができて。
よかった……。
※
「この濃密な甘い臭いは、ブゼルデスの発するものです。巣穴はこの奥みたいですね」
平坦な岩場に立っているオレたちの眼前には、まだ奥へと続く道がある。
その先に別の景色が広がっていると予測を立てることができたのは、これまでずっと斜面が続いていたのに、いきなり平坦になったからだ。
「アクセル。中へ入ったら、すぐに足を止め、そこにいてください」
「……わかりました」
オレも一緒に戦います!
その返事はもちろん頭に浮かんだけれど、喉奥まで来たところで呑み込んだ。
カノジョを困らせてしまうだけだからだ。
いや、それで済めばまだマシ。
オレも前線に立つことで、この救出作戦の成功確率が下がってしまえば、最悪だ。
だから、戦うなんて言わないことこそ、正しい決断のはず。
「では、行きましょう」
奥へと向き直り、ディパルさんは歩み出す。
五歩、カノジョが進んだところで、オレはその背を追った。
――ブブ、ブブブ、ブブブブブブブ
奥は広い空間になっていて。
聞こえてきたのは、羽音。
耳元に蟲でもいるのかと思い確認したが、火で照らしても影すら映らなかった。
辺りを見ても、蟲が飛来している様子はない。
それなのに鼓膜を強く打つ羽音。
どうしてなのかと考え、答えはすぐに閃いた。
あまりにも、巨大なのだ。
巨大な翅であれば、離れたところで震わせても、これだけ強く聞こえるだろう。
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