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☆王子☆

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落ち武者、雪ノ盛

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 耳元で時計の針の音が聞こえる。ずいぶん大きく鳴る一秒に聖夜は眉間にしわを寄せながら寝がえりを打った。
「おっはようございまーす !」
 鼓膜に響く声に聖夜は飛び起きた。しかしまだ視界はぼやけ、頭は眠っている。
「それ、寒いと思って。かけておきましたよ」
 確認してみるとお腹や足をすっぽりおおえるくらいのタオルケットがかけられていた。おかげで足の先まで暖かい。しかしさっきから話しかけてくるのは一体誰なのだろうか。寝る前には自分一人しかいなかったはずだ。
 そう思いながら振り返ると、そこには壁掛け用の小さな時計が恥ずかしそうに立っていた。
「はじめまして。わたくし、時計の妖精、タンクと申します。ミミズ様に坊っちゃんの身の回りのお世話をするように頼まれました。どうぞ、気兼ねすることなくご自由にわたくしめを使ってください」
「あ、うん」
 寝起きで頭が回らず適当な返事しかできない。しかしタンクといえば挨拶がすみ緊張がほどけたのか、タオルケットを細い腕でたたみ始めた。
「昨夜はとてもお疲れだったようなので、ご挨拶を控えたんです」
 聖夜はタンクの話しに声も出さず小さくうなずくと、眠い目をこすりながら窓の外を見た。ミミズが言っていたとおり、太陽は顔を出すことはなく青い月や星が同じ位置で輝いていた。
「あの、今何時 ?」
「はい、只今のお時間は 8時 54分 32秒でございます」
 タンクは自分の顔を指さし、針がさす時刻を見せてきた。その瞬間、聖夜の眠気は一気に吹き飛んだ。
「大変だ、9時って言っていたのに遅れちゃう !」
「なんですって ! ?  わたくしとしたことが、起こす時間を間違えてしまうなんて ! あぁ、どうしましょう ! どうしましょう !」
 タンクは一人で右往左往していたが、かまっている余裕などない。聖夜は急いでミミズが用意した制服に着がえ、一目散に一階へと駆け降りていった。
「おはようございます、聖夜さん」
 さっそく、階段の下にいたミミズに声をかけられた。
「おやおや、聖夜さんは寝像が悪いようですね」
 ミミズは口に手を当てて笑っているが、聖夜には何の事だかちっともわからない。タンクが掛けてくれたタオルケットもきれいにかぶっていたし、寝像が悪いとは思えなかった。
 聖夜はミミズに朝食を食べるように言われ、ロビンのところへ向かった。そこでなぜミミズに笑われたのかがよくわかった。
 戸棚のガラスに映る自分の顔といえば、それはまったくひどいものだったが、髪の毛にはさらにひどい寝癖がついていたのだ。手で何度も押してみたものの、頑固な寝癖は直る気配がない。
「おはようございまーす。朝食、作っておきまーしたから食べて下さーいね」
 ロビンだ。中央の机には朝食がきれいに並べられている。ホットミルクにこんがり焼けたロールパン。そこに見慣れないフルーツとスクランブルエッグ、そして蜂蜜だろうか、蜜の入った瓶の隣にヨーグルトが置かれていた。
 聖夜は寝癖を直すのをあきらめ、働くロビンの邪魔にならないように椅子に小さく座り、朝食を食べ始めた。
 それから数分もたたないうちに、厨房の裏口が勢いよく開いた。何事かと聖夜はロールパンをかじりながら目をやると、赤いとんがり帽子をかぶった小人たちが麻の袋をかつぎ次から次へと入って来たのだ。
 赤毛の小人が聖夜に気づいたのか、手を挙げてきた。聖夜は小さくお辞儀をすると、残りのロールパンを口に詰め込み、ホットミルクを流し込んだ。どうやら小人は五人いるようだ。机の上を赤い帽子が五個、並んで動いていた。
 小人たちが来たことで、食器のぶつかる音だけしかしなかった厨房の中はにぎやかな話し声で埋め尽くされた。しかし聞いたこともない言葉で会話をしているため、何を話しているのかわからない。
 そこでフルーツを食べながら静かに様子をうかがっていると、小人たちは麻の袋から次々と荷物を取り出し始めた。
 小麦粉の粉にチョコレートなど、お菓子の箱がいくつもあった。さらに味噌や醤油、わさびに七味トウガラシ。ほかにもパックに入った生肉や魚の切り身など、スーパーで売られているような食料品が次々と出てきた。
 そのほとんどが日本語が書かれた商品ばかりだ。一体何に使うのか見当もつかない。
 五人の小人たちは商品を出し終えると、騒がしく話しながら店の奥へと消えていった。再びもとの静けさを取り戻した厨房にミミズがやってきた。
「ノームとお会いになりましたか ? 赤い帽子をかぶった小人」
 聖夜がうなずくとミミズは話を続けた。
「あの方たちには食材を運んでもらっているんですが、運び終えるとこちらで一服してもらっているんです。さっそくですがノームたちのところへ初のお仕事をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか ?」
 さっそくきた初めての仕事に聖夜は少し緊張しながら返事をすると、残りのフルーツを口の中に押し込んだ。
 それからミミズに簡単な仕事のやり方を教えてもらった。内容はまず、客のところにグラスを運びそこに水を入れる。そしてメニューを渡して注文を受け、注文書へ書く。そしてロビンのところへ行って、注文された品を教えるというものだ。
 聖夜はミミズから注文書を渡されポケットにしまった。それからノーム専用の小さなグラスを五個、ロビンが作った水の入ったガラスポットを持ち、ノームたちのところへ向かった。
 ところが店内を見回してもノームたちの姿がない。いるのは緑色に輝く火の玉をまとったキツネとタヌキ。そしてタコの触手のようなものが顔から伸びる、紫色をした人型の魔界人が二人いるだけだ。
 するとカウンターにいるスズメが店内の外を指さしている。そこはテラス席で、丸いテーブルを囲む五人のノームたちが見えた。背が低いせいか、ノームたちは脚の長い小さな椅子に座っていた。
 聖夜が近づくと、こちらが声をかけるよりも先に赤毛のノームに話しかけられた。
「よぉ、新人のお兄ちゃん。店長から話しは聞いてるぜ」
 長くのびたあご髭を編み込み、青い目をこちらに向けている。すると今度は焦げ茶色の髪に太い眉をしたノームが口を開いた。
「ガチガチに緊張してるな。無理もない、生きた人間が魔界にいるなんて普通じゃないもんな。さあ、のどが渇いた !  腹が減った !  水を入れてくれ !  そしてメニューを渡してくれ !」
 聖夜はあわてて水を注いだが、ノームたちの視線が気になり、ひたすら下を向きながら作業を続けた。そのあとメニューを渡そうとしたが、持っていないことに気づいた。
 そこで急いで引き返そうとすると、スズメがノームたちにメニューを渡してくれたのだ。お礼を言おうと思って振り返ると、スズメはさっさとカウンターへ戻っていってしまった。
 しかたなく聖夜はノームたちに目をやった。赤毛と太い眉のノームがメニューを広げていたが、遠くて見えないのか、毛の薄いノームはテーブルに上がり覗き込んでいる。
「俺はガラフ。それで、こっちがビーノ」
 赤毛のノームが聖夜に向かって太い眉のノームを指さした。
「お前はいいところに拾われたな。なんて言ったって、ここの食い物は絶品だからな」
 ガラフの話しにつられるようにビーノが口を開いた。
「俺たちは〈死のはざま〉に惚れちまったのさ。それでここに、食材を運ぶようになったんだ」
 どうやらこの二人は日本語を話せるようだ。
「日本語、話せるんですね」
 そうたずねると、ガラフとビーノはにっこりと白い歯を見せた。
「日本語を話せるのは俺とビーノだけなんだ」
「俺たち二人は日本に住んで長いからな」
「日本に住んでるんですか ? 魔界に住んでないの ?」
 聖夜がたずねるとガラフは肩をすくめた。
「ああ、そうだよ。魔界や妖精の国、いたるところに俺たちの仲間は暮らしてるよ。でも、どこに住むかは自由なんだ。好きなところで暮らせる。とくに俺たちは人間界で暮らすのが向いているんだ。人間に見つからないようにするのは大変だけど、うまいものは食えるし、珍しい植物や昆虫がたくさん見つけられるんだ」
「全くその通りだ。それに最近は俺たちの種族も世界進出を始めたんだ。アジアは結構、人気なんだぞ。その人気に便乗して、この三人もフランスから日本にやってきたんだ。でもまだ来たばかりだから、フランス語しか話せないんだ」
 ビーノが三人を紹介するように腕を広げると、眉を上げたり、手を振ったり、ウィンクをしたりして聖夜に挨拶をしてきた。その素振や風ぼうからは日本らしさは感じられず、彼らが日本に住んでいることが不思議に思えた。
「俺たちは普段、人間の食べ物をわけてもらっているんだ。それを大好きな〈死のはざま〉に届けてるっていうわけだ」
「だから荷物が日本の食材ばかりだったのか」
 思わずつぶやいた言葉にビーノが眉を片方上げた。
「悪く言うと盗んでいる、とも言うな」
 ガラフが首をひねった。
「だけど、代わりに幸せになれる魔法がかかっている。プラスマイナス、ゼロだ」
 ガラフは聖夜にだけ聞えるように言葉をつけ足した。
「日本の食材はうまいんだ。だからついつい、取り過ぎちまう」
 それからノームたちは嵐のように注文を言い始めた。
 アメリカンコーヒーが二つ、〈死のはざま〉オリジナルブレンドコーヒーが一つ、ホットミルクが一つ、抹茶ラテが一つ。そこに木の実のタルト (ホール )、レーズンサンドクッキー、しっとりバター風味のチョコチップクッキー、カボチャの種、ヒマワリの種、南国バナナとカカオのマフィン ……。
 まるでパーティーのようだ。間違いがないように丁寧に注文を書き留めると、聖夜は重いメニューを持ってロビンのところへ戻った。
「注文された品の名前を教えてくださーい。注文書はそこの棚の上に置いて下さーい」
 ロビンに教えられたとおり、書き留めておいた注文の品を口にし、注文書を棚の上に置いた。するとロビンは八本脚を器用に動かし調理を始めた。その見事な足さばきに見とれているとミミズが話しかけてきた。
「いつもノームたちはたくさん頼んでいくんです。体は小さいけどけっこう大食いなんですよ」
 それからミミズとともに出来上がった品をノームたちのところへ運んだ。それを何度か繰り返し、もっちりせんべいをぎゅうぎゅうになったテーブルに無理やり置いた。これで最後だ。
 するとガラフに手招きをされた。
「実はお前に合わせたい奴がいるんだ。おい、出てきてもいいぞ」
 ガラフの声にテーブルから顔を出す小さな生き物が見えた。丸い耳にビーズのような黒い瞳、ジャンガリアンハムスターだ。そのハムスターは小さな手に持ったヒマワリの種をパンパンに膨らんだ頬袋に詰めしこんでいる。
「お前、こいつと知合いなんだろ ?」
 ビーノがハムスターを親指で指した。
 聖夜はテーブルの上で毛づくろいを始めるハムスターをまじまじと見た。見覚えのあるでっぷりした姿。どう見ても昔、飼っていたハムスターにそっくりだ。
「……もしかして、チョモランマ ?」
 その瞬間、ノームたちが歓喜の声を上げた。
「よかったじゃないか、ちゃんとお前のこと覚えていたじゃないか !」
 ガラフはチョモランマにヒマワリの種を掲げると、殻を割って中に入っている種を食べた。ほかのノームたちも同じようにして種を口に入れている。
 その一方で聖夜は目を何度もこすり、この光景を信じられない様子で見つめていた。チョモランマが目の前にいるはずがないのだ。聖夜が小学校六年生の時に寿命がきて死んでしまったからだ。
「本当にチョモランマなの? でも、死んだはず ――」
 聖夜の言葉をさえぎるようにガラフが話しだした。
「ここに来る途中、道に迷ってるチョモランマに会ったんだ。新人のお兄ちゃんが魔界にいることを知って会いに来たって言ってたぞ。でも、死んでしばらくたってるから自分のことを忘れてるんじゃないかって心配してたんだ。そうだろ、チョモランマ」
 チョモランマは小さくうなずくと聖夜に近づいてきた。
「忘れるわけないじゃないか ! けど、もう会えないと思ってたから混乱したよ」
 真っ黒に輝く瞳にふっくらしたお腹。そのなつかしい姿に聖夜は手を伸ばした。
「うわああぁぁ ! 痛い ――」
 聖夜は急いで手をひっこめた。チョモランマはよく噛んでくる、という大事なことをすっかり忘れていたのだ。ノームたちはその様子に大笑いをしながら見ていた。
「新人、チョモランマが言いたいことがあるみたいだが、言ってもいいか ?」
 痛む手を押さえる聖夜にガラフが腹をかかえながら言った。
「チョモランマが ? 聞かせてください」
「『聖夜、さっきのは挨拶だ。お前は知らないかもしれないが俺はお前の守護霊なんだ。俺はほかの守護霊と違ってスパルタだから厳しくいくぞ。まったく、心配ばかりかけさせてくれるぜ。そういうことで、これからはお前と一緒に過ごしてやるからな』だそうだ !」
 その話しにノームたちは再び大笑いをしていた。一方のチョモランマといえば自分の意見が聖夜に通じた様子を見て、甲高い声で威張るように鳴いている。
 そこへガラフが再びチョモランマに手を差し出すように言ってきた。また噛まれるのではないかと聖夜は一瞬怯えたが、チョモランマは腕をつたって肩に乗ってきた。するとそこから動こうとはせず、どこか満足そうにしている。
 それからノームたちの食事が終り、後片付けをしているとミミズが話しかけてきた。どうやら肩に乗っているチョモランマに気づいたようだった。そこでわけを話すと新しい仲間に大いに喜び、さっそく挨拶を交わしていた。
 しかし二人の間に声が存在しない。とくにミミズはジェスチャーをしながら楽しそうにしているが、無音の時間が続いていた。ノームたちの時もそうだったが、チョモランマが一体何を話しているのか聖夜には全くわからないのだ。〈死のはざま〉に来てからこんな場面に何度も遭遇している。
「あの、僕には何も聞えないけど、チョモランマの声がわかるんですか?」
「はい、わかりますよ。僕は魔人ですからね」
 ミミズは当たり前のように答えた。
「魔人はいろんな言葉を話せるんですか? ここにきてから聞いたことのない言葉ばかりで……」
「そうでした !  聖夜さんにはまだお伝えしていませんでしたね。それではお教えいたしましょう !」
 ミミズは胸を張り上げ人さし指を立てた。すると肩に乗っていたチョモランマも同じような姿勢をとり、「キィ !」と一声鳴いた。
「魔界には実にたくさんの言葉が存在します。正直、どれほどの言葉があるのか見当もつきません。しかし、我々は生まれながらにして、無数にある言葉を話すことができるんです。そしてどの言葉をいつ使ってもいいんです」
「けど、チョモランマは魔人じゃないですよね ?」
「ええ、もちろんです。彼は聖夜さんの守護霊でしたね。実際のところ魔界の住人じゃなくても、肉体を捨てれば … …、つまり魂だけになると様々な言葉を理解し返すことが可能なんです。ここは人間界と違い物質に左右されない世界です。ですから、むしろ言葉など必要ないくらい、テレパシーで十分に会話ができてしまうんです。けれど、それでは面白くありませんから、自分たちの好きな言葉を話しているんです」
「そうなんだ、それでミミズさんやロビンが話す言葉がわからなかったんだ」
「ええ、そのとおりです。残念なことに聖夜さんは生きていますので、日本語しかわからないということです。できれば聖夜さんにも言葉を理解していただきたいのですが … …。ほら、仕事がはかどるでしょ ?  でも、そればかりは僕の魔力をもってしても無理なんです」
「どうして無理なんですか ?」
「生きた人間に魔力をかけるのはとても体力がいるんです。とくにテレパシーで会話をさせる、なんていうことは魔力でどうにかなるものではないんです。そこでなんですが、チョモランマさんにお手伝いしてもらえないかと思いまして」
 ミミズの言葉にチョモランマが小さく鳴いた。
「いくら魔界と言っても、種族によって理解できる言葉の数が限られている場合があるんです。先ほどお聞きしたところ、チョモランマさんは大概の言葉を理解できるそうなんです。言葉にして返すことはできませんが、そこは聖夜さんの守護霊です。日本語しかわからない聖夜さんには強力な助っ人となるはずです。ですから、チョモランマさんと二人一組で一緒にお仕事をして欲しいんですが、よろしいでしょうか ?」
 そう聞かれ聖夜はすぐさま二つ返事を返した。もし断ったとしたら、耳たぶをチョモランマに噛まれそうだったからだ。それに、魔界人の言葉がまったくわからない聖夜にとって、チョモランマが理解していれば何とかなりそうな気がした。
 それから聖夜はチョモランマの指導とともに食器を下げたり、洗い場で空いたお皿を洗ったりした。それが終るとテーブルに飾ってある花についてスズメに教えてもらうようにミミズに言われた。
 スズメに仕事を教えてもらうと考えるだけで体中にしびれが走る。聖夜は緊張しながらスズメがいるカウンターへ向かった。
「あの、ミミズさんにテーブルの花を教えてもらうように言われたんだけど … …」
 スズメを直視できず、聖夜は目線をそらしながら言葉を口にした。そんな聖夜とは対照的にスズメは淡々と話し始めた。
「ここには全部で八席、置いてある。小さい席が四席、大きい席が二席、外に二席。テーブルには全部違う種類の花が置いてあるから、それを覚えるの。ここで働くなら、覚えた方がいいわ」
「わかった。それじゃ、教えて」
「聖夜がここに来た時、一番最初に座った席があったでしょ。そこにあった花は覚えてる ?」
 スズメに呼び捨てをされて、胸を小突かれたような気持で聖夜は返事をした。
「うん、覚えてるよ。キョウチクトウだよね。確か毒がある ……」
「そう、私はそこが好き。それじゃ、その隣の大きなテーブルの花は何だかわかる ?」
 スズメが指さすテーブルは〈死のはざま〉に初めて来たとき、死神が座っていた席だ。そこには白い花が見える。じっと見つめ、聖夜は口を開いた。
「もしかして、クチナシの花 ?」
「そう、正解」
 言葉を吐き捨てるように棒読みでスズメが答えた。それでもスズメの質問に正しく答えられ、聖夜はどこか嬉しく感じた。庭で植物の手入れをする父親を隣でよく見ていたせいか、自然に植物の名前を覚えていたのだ。
 ノームたちが座っていたテラス席には可愛らしいピンクのツキミソウの花。その隣の席に飾られているのはアサガオだろうか。スズメに聞くとその花はヨルガオというのだという。花の咲く時間、花や葉の形、香りや味に成分の違いを説明してもらったのだが聖夜には同じ花にしか見えなかった。
 そのほか店内には見事に咲きほこるアンズの花があった。自信満々にウメの花と見間違え、かなり恥ずかしい思いをした。それに赤やピンク、白といった色とりどりのホウセンカもあった。子供のころ、よく種を飛ばして遊んでいた。
 別のテーブルに目を移すと、がっちりした花瓶から太い茎が垂直に伸び、その先にアケビのような形をした植物が飾ってあった。花瓶のわきからはサトイモのような葉っぱが広がっている。スズメに聞くとその植物はクワズイモの花だというのだ。
 その中でも一番驚いたのは、ヘクソカズラが飾ってあるということだった。テーブルへ伸びるツタ、青々しくしげる葉っぱの間から小さな花が咲いている。
 聖夜は人間界では飾られないような花が多いように感じた。一見花と思えないクワズイモの花は華やかではないし、ヘクソカズラにいたっては雑草。しかも独特の臭みがある植物だ。父親がよく臭いと言っていたのを覚えている。
「花の名前、全然知らないと思ってた」
 ヘクソカズラに夢中になっているとスズメに話しかけられた。
「そうかな。けっこう、わからない花がたくさんあったよ。あの ……その、ス、スズメさんは花が好きなの ?」
「うん、ここの花は全部私が飾っているの」
「へぇ、すごいね。何て言うか、変わった花が多いよね」
「そうかしら ? 私も好きだし、友達も好きな種類なの。人間には理解できないかも知れないけど」
 その言葉を最後に二人の間に会話が消えた。なぜもっとうまいことを言えないのか、聖夜は悔やんだ。しかし、どんなに挽回しようと思ってもいい言葉が何も浮かんでこない。
いたたまれなくなり聖夜は懐中時計を開いた。時計の針は夕方を指している。
 すると突然、髪の毛を触られる感覚が走った。何事かと振り返るとスズメが聖夜の寝癖を真剣な顔でつまんでいたのだ。
「ちょっと待ってて」
 スズメはカウンターから離れると、数分もしないうちに霧吹きとクシを手に戻ってきた。
「じっとしてて」
 その言葉に聖夜は直立不動になった。スズメは聖夜の頭めがけ、霧吹きで水を吹きかけている。
「寝癖、カッコ悪いから … …」
 スズメは小さな声で言うと、寝癖にクシを入れていた。まだ会って時間もたっていないのに、こんなことをしてもらっていいのかと聖夜は戸惑っていた。ところがその反面、心臓が激しく脈打ちだしたのだ。すぐ後ろに立っているスズメに聞こえるのではないか、そう思うくらい大きく鼓動している。
 そんな緊張の時間はあっという間に過ぎた。霧吹きの中にどんな水が入っているのかわからないが、頑固な寝癖が数秒で元に戻ったのだ。
「あ、ありがとう」
 聖夜がスズメにお礼をいった瞬間、〈死のはざま〉に長い黒髪の女がはいってきた。口には大きなマスクをしている。
「いらっしゃいませ、お客様 !」
 どこからともなくミミズが現れた。マスクの女は静かにホウセンカが飾られている席へ座るとミミズが耳元で囁いてきた。
「あの方は日本の方だったはず。聖夜さん、行ってみてください」
 聖夜は空のグラスとレモン水が入ったガラスポットを渡され、その女のところにいった。それからメニューおいて、頃合いを見計らい注文を取りにいった時だ。女は瞳をうるませこちらを見あげてきた。
「私のこと、どう思う ?」
 大人の女性にそんなことを聞かれるなど初めてだ。返す言葉に戸惑い、しどろもどろしていると女は聖夜の目を覗きこんできた。
「私、きれい ?」
「は、はい。きれいです」
「本当 ?」
「はい ……」
 なんと言っていいのかわからず、聖夜は聞かれたことをそのまま答えた。しかし女は嬉しそうに答えると、耳にかかっている紐に手を伸ばしそっとマスクを外した。
 その瞬間、聖夜は思わず息を飲んだ。あらわになった女の顔はそれは痛ましいものだった。口が耳まで大きく裂けているのだ。裂けた頬は赤くただれ、奥歯が見えている。
 女は聖夜の両腕をがっちりつかむと、毒々しい声を放った。
「これでも、私、きれい ?」
「ひぃっ」
 怪談でよく耳にした口裂け女だ。聖夜は口裂け女から逃れようとしたが、どんなに力を入れても、肉に食い込むほどの握力で全く離そうとしないのだ。確か何かの呪文のような言葉を言えば逃げて行くと聞いていた。しかしどんな言葉だったか思い出せない。
 そんな聖夜の驚く様子にいきなり手を離すと、口裂け女は甲高い声で笑い出したのだ。そして茫然としている聖夜をよそに、思う存分笑うと口裂け女はミミズを呼び寄せた。
 なんと少しの間でいいから、聖夜と二人きりで話しがしたいと言い出したのだ。
 ひょっとしたら食べられてしまうのではないか。そう思ってしまうくらいの恐ろしい風貌に聖夜は頭を小刻みに振り、ミミズに嫌だとアピールした。しかしミミズは不気味な笑顔を向けている。
「もちろんです、お客さま。好きなだけ、うちの従業員とお話し下さい」
 聖夜はミミズにウィンクをされると口裂け女の前に突き出された。
「少しだけでいいから、隣にいらっしゃい」
 聖夜のアピールもむなしく終わり、口裂け女のよくわからない話しに付き合わされることになった。
 例えば、一時は人間界で大ブームを引き起こし日本全国、引っ張りだこだったという話だ。最近ではあまり話題にもならず、怖がられなくなったというのだ。今では霊界や魔界で過ごす時間が増えたらしく、暇なのだという。
 ほかには彼氏が欲しいという話や人面犬の悪口、それに人間に対する愚痴ばかりを聞かされた。
「でも、本当、生きた人間に会うのなんて久しぶり。ああ、この生きた匂い。また人間を驚かせたいわ」
 聖夜は苦笑いで返すしかなかった。
 それから頃合いを見計らい、ミミズが入ってきたところで聖夜はようやく口裂け女から解放された。少しと言っていたはずが口裂け女の小言が止まらず、一時間以上も付き合う羽目になった。
「これで、今日のお仕事は終わりです。ちょうど、夕方の6時くらいになっているはずです。この 後はご自由に時間を使ってください。好きな時にロビンの厨房に来て、食事をとってもらってかまいません。そして、懐中時計が九時になったらお仕事になります。……どうです、このお仕事 ?」
「まだ、緊張もしてるし、疲れました」
「ゆっくり休んで下さい。そういえば、タンクという妖精には会いましたか ?」
 聖夜が返事をするとミミズは話しを続けた。
「わからないことがあったら、彼に何でも聞いてみてください。少し変わった性格ですけど、お役に立てると思います」
 それから聖夜はミミズと別れると、ロビンのところへ向かい小腹を黙らせた。そして二階へ上がり自分の部屋の前に立った時、扉にクリスマスツリーの形をした銀細工がくっついているのに気づいた。そこには英語で『Holy Night~ホーリーナイト』と彫られている。
 嫌な響きだ。一体誰がこんなことをしたのだろうか、そう思いながら聖夜は部屋の中へと入っていった。
「お帰りなさいませ、坊っちゃん !」
 ベッドの上からタンクが満面の笑みを浮かべ言った。ところがタンクを目に入れた瞬間、聖夜は顔をひきつらせた。
 タンクが携帯電話をいじっているのだ。しかも携帯電話からはゲームの音が聞こえている。
「ちょっと、何やってるんだよ !」
 聖夜は声を荒げタンクに近寄ると携帯電話を取り上げた。
「それは坊っちゃんのでしたか !  とても暇だったので、ボタンを押してみたところ、何やら面白い機械だなと思いまして。そのゲームとても楽しくて !」
 画面を見ると電池が残り一本、それを確認したら電源が落ちた。電池切れだ。
「あーあ、電池、なくなっちゃったよ」
 そう言って聖夜は使えなくなった携帯電話をベッドに放り投げた。
「デンチがなくなったとは……?」
「もう携帯が使えないって言うこと」
「これはケータイと言うんですか ?」
 ベッドにころがる携帯電話に触れようとするタンクに、聖夜はあわてて携帯電話を握った。
「これは僕のなんだから勝手に触らないで」
「これはこれは、わたくしとしたことが !  申し訳ありません !  ケータイの誘惑に手が勝手に伸びてしまいました。まったく、困った手です」
 タンクは自分で自分の手を叩いてみせたが、聖夜はあきれ顔で見るしかなかった。
「ところで坊っちゃん、制服のままでは動きにくいんじゃないですか? こちらに脱いだお洋服をたたんでおきましたよ。それから寝る前に来ていた服も洗濯しました !  いい匂いです !」
 タンクが指をさす方向にはタンスがあり、その上に服が整理整頓されている。少しだけタンクに感心しながら聖夜は制服に手をかけた。確かにこの服のままでは動きにくい。するとタンクはまるで執事のように服を脱ぐのを手伝い、しわにならないようにハンガーにかけていた。
 それから聖夜は寝る前に着ていた服に着がえベッドに横になった。この日の疲れをふかふかの布団が吸収してくれているように思えた。隣ではチョモランマが毛づくろいをしながら、頬袋に入れていたヒマワリの種を出している。
 すると新しい同居人に気づいたタンクがベッドに上がり、さっそくチョモランマに挨拶をしていた。タンクは笑いながらチョモランマと話しをしているようだったが、話し声は全く聞こえず無音だ。
 そのやりとりを眺めながら、聖夜はこっそり携帯電話を枕の下に隠した。たとえ電源が入らなくても、これ以上お騒がせな時計の妖精に触らせたくはなかったのだ。
「そういえば、坊っちゃん ! 扉にクリスマスツリーの銀細工が掛けてあるの、わかりましたか ?」
 見たと答えると、タンクは話しを続けた。
「ミミズ様がつけてくれたんです。気に入ってくれるか気にしてましたよ !」
「ミミズさんが ?」
「はい、そうです。坊っちゃんが部屋を間違えないようにと、どうやらご自分でお作りになったようです」
「そうだったんだ。あとで、お礼を言っておくよ」
 ミミズが飾りをつけてくれたと聞かされても、あまり嬉しくはなかった。魔界に来てまでホーリーナイトと呼ばれるなんて最悪だ。心の底から自分の名前が嫌いになりそうだった。
 ミミズが嫌がらせをするような魔人には思えないが、どうしてもあの呼び方は好きになれない。聖夜は好意でやってくれたんだと自分に言い聞かせた。
 それから聖夜は寝るまでの間、タンクにチョモランマの通訳をしてもらいながら、三人で話しをしながら過ごした。

 次の日、失敗は二度としないと意気込んでいたタンクに早めに起こされた。聖夜は制服に着がえると、タンクの目を盗み枕の下からこっそり携帯電話を取り出した。
 電池がなくなり動かないものの、今までやりこんできたゲームのデータや大事にしている記録が入っている。それを勝手にいじられたくはないのだ。
 聖夜はタンクに見られないように携帯電話を制服のポケットにしまい、チョモランマを肩に乗せた。
 それから部屋にかけてある鏡で寝癖のチェックをした。スズメに直してもらいたいというのが本音だったが、何度も寝癖をつけてくるダサい男にはなりたくなかった。どうやら昨日ほどの寝癖はついていないようだ。簡単にクシでとかし整えると朝食をとりに厨房へいった。
「おはようございます、聖夜さん」
 厨房にいたミミズに声をかけられた。
「おはようございます。あの、扉の前の銀細工、つけてくれてありがとうございます」
「気づいていただけましたか !  聖夜さんを考えて作ってみたんです。お気に召していただけたでしょうか ?」
「はい、すごく … …よかった !」
 まばたきを何度もしながら目を輝かせてくるミミズに聖夜は思っていることと逆のことを口にした。間違っても最悪だなんて言えるわけがない。
「そんなふうに言って頂けて、作ったかいがありました」
 心底喜んだミミズは銀細工をデザインした時の苦労をしばらく話していた。そのあとは昨日と同じように、食器洗いをしたり、チョモランマとともにウエイターの仕事をこなしていった。日本語が分からない魔人もいたが、チョモランマの通訳のおかげで何とか注文を取ることもできた。
 そんななか懐中時計の針が午後一時をさしたころ、聖夜が初めて〈死のはざま〉を訪れた時、店内にいた落ち武者がやってきた。
「あの方はうちの常連さんなんです。日本語も話せますし、接客されてはどうでしょうか ?」
 聖夜はミミズに言われ、グラスとガラスポットを持ち落ち武者が座るクワズイモの花があるテーブルに向かった。
 落ち武者は最初に見たときと変わらず、背筋を九十度に伸ばしたまま、黒目だけを動かしこちらの動作を追っていた。メニューを渡すと、眉間にしわを寄せ、難しい顔をしながらグラスに注がれた水を一口飲んだ。
 そして渋い声で、黄金の贅沢シュークリーム、チョコレートスープフルーツ添え、ナッツパーティーアイスクリーム、スカイブルーティー、と読みあげた。
 聖夜は間違えないように懸命にペンを動かしメモをとった。あとはロビンのところに向かうだけだ。メニューを持ち、その場から離れようとすると突然、落ち武者に腕をつかまれた。
「おぬし、あれからここの仕事にも慣れたか ?」
「あ、えっと、まだ全然。難しいことだらけで … …」
 落ち武者は唸るような声を出した。
「わしと少し話せぬか ?  おぬし、生きているのだろう ?  わしから主人に伝えるから、頼まれてやってくれないか」
 すると聖夜が返事をする暇もなく、後ろからミミズの声が聞えた。
「もちろん、かまいませんよ !  お客様のお話しを聞くのも、我々の大事な仕事の一つです。さぁ、聖夜さんはこちらに座ってください。メニューは僕がお持ちします」
 聖夜は落ち武者の向かいに座らされた。
「ご主人、いつもすまん。それでおぬし、名は何と申す ?」
「聖夜です。望月聖夜 … …」
「では、聖夜。おぬし、何か飲んだり、食いたいものはあるか ?  わしがごちそうをする。かまわぬか、ご主人」
「はい、かまいません」
「ほら、聖夜。好きなものを選べ」
 落ち武者の言葉にミミズがメニューを開いて見せてきた。
「カフェラテや当店オリジナルのブレンドコーヒーなんかもお薦めですよ !」
 最初に出会ったときと変わらず、ミミズはノリノリで勧めてきた。
「それじゃあ、カフェラテをください」
「カフェラテは八種類ほどありますが、どれにいたしましょうか? それから聖夜さんもここに少しは慣れてきたことですし、コップの大きさも選べますがいかがいたしましょう ? すごく大きい、大きい、中くらい、小さい ……」
 〈死のはざま〉には覚えきれないほど数多くのメニューがあるのは知っている。しかしミミズが接客をすると、信じられないほど細かいということが今日初めてわかった。聖夜はメニューを思い出し、一番シンプルなカフェラテを伝えると、ミミズはかしこまりましたと言って二人の元から消えた。
 ここからは落ち武者と二人きりだ。何を話したらいいかわからない聖夜は、なるべく落ち武者と目が合わないように下を向いた。
 しばらく無言が続き、とうとう注文していた品が届いた。商品が次から次へと運ばれ、ごゆっくりというミミズの言葉を最後に、再び二人だけの時間が訪れた。
 落ち武者は手を叩き大きな声でいただきますと言うとアイスクリームに手を伸ばし、体を震わせ味を堪能している。
「わしの名は柳雪ノ盛。武士じゃ。聖夜、カフェラテを飲め。うまいぞ」
 いわれるがまま聖夜はカフェラテに口をつけた。大きなコップにふわふわの泡。ミルクの優しい甘みとコーヒーの苦みが口を包んだ。
「聖夜、おぬしはなぜ、ここに来たのだ ?」
 そう聞かれ聖夜は今までの出来事を説明した。その間、雪ノ盛は硬い表情を崩さず話しを聞いているようだったが、口だけは違っていた。空いた手がシュークリームを口へと運び、あっという間にたいらげていたのだ。
「でも、今はもう死にたいなんて気持はないんです。ここにきて、意味がないってわかったから」
「っんまい !」
 突然、雪ノ盛は大声をあげた。どうやらシュークリームがおいしかったのだろう。ほっぺたについたカスタードクリームを指で拭きとっている。
「なるほど。ところで聖夜、おぬし、剣術の稽古をやらぬか ?」
「剣術 ?」
 突然の話しに聖夜は動きを止めた。剣術などをやったことがないし、興味を持ったこともない。しかしそんなことはおかまいなしに、雪ノ盛は一人で話しを進めていた。
「うむ、それがいい。剣術をやり、精神を鍛え直せば、おぬしのそのやせ細った体も大きくなる。それに貧弱な心も鍛えられ、今よりもっと強くなることができるはずだ。さすればいじめのようなことに負けることもあるまい」
「でも、やったことないし … …」
「何の心配もいらぬ。わしは武士だぞ、安心せい。して、聖夜。おぬし、どの時間が空いているのだ?」
「夕方には空くけど… …」
 聖夜は話すのをやめた。魔界の時間と自分の時間が違うからだ。そこで聖夜は雪ノ盛に懐中時計を見せながら、起きる時間、仕事の時間、終わる時間、そして寝る時間を説明した。
 すると雪ノ盛は懐中時計を見ながら話しを続けた。
「では、聖夜の時間で翌日の七時から稽古をしよう !」
 やる気に満ちあふれた雪ノ盛を見ながら、聖夜は苦笑いをした。剣術に興味がないだけに、早起きをしてまでやりたいとは到底思えなかったからだ。
 しかし話すすき間をくれない雪ノ盛に聖夜は断ることができず、結局明日から剣術の稽古をすることになってしまった。そう決まると雪ノ盛はチョコレートスープを飲みほし、ご機嫌で店を出ていった。
 その後、皿洗いをしながら聖夜はミミズに雪ノ盛との剣術の稽古の話しをした。もしミミズが首を横に振ってくれれば、やらずにすむと考えたのだ。
 ところがミミズは仕事に遅れなければ何をしてもかまわないと言うのだ。とくに雪ノ盛は悪霊ではないため、問題なく付き合えるとまで丁寧に教えてくれた。
 これで明日の稽古は確定だ。
 聖夜が最後のお皿を洗い終ると、ちょうど仕事の時間も終わった。
「それでは、お客様もいなくなったことですし、皆さんお店を閉める準備をお願いします」
 ミミズの掛け声にロビンはお皿をしまい、厨房の掃除を始めた。店内ではスズメがテーブルの上に椅子を上げ、床のはき掃除をしている。
「そろそろ、お店を閉める時間なんです。はい、これでホコリをお掃除してください」
 ミミズにホコリはたきを渡された。聖夜はふちにたまるホコリをとりながら、雑巾がけをするミミズに話しかけた。
「お店を閉める時間があるんですか?」
「ええ、あるんです。〈死のはざま〉では、人間界の時間で言うと大体、三日間働いて 一日ほど休むんです。お話しするのをすっかり忘れていましたが、三日に一度はお休みです。さて、お掃除はこれくらいでいいでしょう … …」
 ミミズは手にしていたホコリはたきや雑巾をしまうと、こちらに向かって手招きをした。
「聖夜さん、よかったらついて来て下さい」
 そう言われあとをついていくと、ミミズは厨房の裏口から外へ出ていった。店内の暖かい空気と違い、外は冷たい風がひやりと吹いていた。空を見上げると相変わらず夜の世界が広がり、同じ景色が続いていた。
 ミミズはうっそうと生えた林へ近づくと木の幹を触っていたが、近くの幹から人間の顔が無数に浮かび上がってきている。木の顔だ。
 やけに際立つ白目を聖夜やミミズに向けながら低いうなり声を上げている。見るのは二回目だが、やはり気味が悪い。
「あの、木に浮かんでいる顔は何ですか ?」
「成仏できない人間の魂です。ここは僕の領域ですから彼らは自由にできず、木のなかに入り込んでこちらの様子をうかがっているんです。この林の中に入りさえしなければ、とくに問題はありませんよ」
 ミミズは何度か木の幹を小突くと、その場所がふたのようにばっかりと開いた。中は空洞になっていて、上から紐が垂れ下がっている。
「よく見てて」
 ミミズが迷わずその紐を引っ張ると、夜の景色が一変した。まるで電機のスイッチを入れたかのように、一瞬にして朝の陽ざしが訪れたのだ。うっそうとしていた林は緑であふれ、きらきらと輝きだした。
 その光に木の顔は絞り出すような声を出して消えていった。まぶしく温かい陽ざしが聖夜を照らしている。
「やっぱり、朝といえば鳥の声でしょうか ?  それともセミや鈴虫にカエルなんていうのもありますけど、リクエストはありますか ?」
「何でもいいけど … …鳥の声がいいかな」
「かしこまりました」
 ミミズは木のふたの裏側に並んだボタンを押すと、空から鳥の声が聞えた。久々の太陽の陽ざしと朝を感じ、聖夜は体が喜んでいるように感じた。
 しかし聖夜は首をひねった。ミミズは朝は来ないと言っていたからだ。そのことを聞くとミミズはふたを閉めながら答えた。
「ここ魔界カフェ〈死のはざま〉は人間界のように勝手に朝が来て、夜が来ることはありません。けれど好きな時に夜にして、朝にすることができるんです。我々は夜行性なので〈死のはざま〉を営業している間は夜にしているんです。ですが、お休みをするときは僕が作った太陽を昇らせているんです。そうすればゆっくり休めますからね」
 ミミズが作った太陽と聞いて、聖夜は空を見上げた。本物の太陽と変わりないように感じる。
「僕たちが寝ている間、自由にしてもらってかまわないのですが、守ってほしいことがあります。これは聖夜さんの命にかかわることです」
「命にかかわる… …ですか ?」
「ええ、そうです。夜と違って、太陽が昇っている間は魔物や悪霊はよりにくくなります。けれど魔界カフェ〈死のはざま〉の敷地内から絶対に一人で外へ出ないでください。そうですね、地面に広がる白石から先はだめです。先ほどの木の顔が浮かんでいたこの林の中にも入っちゃだめです。ここから先は危険な魔物や悪霊の住む世界で僕の魔力も届きません。ですから生きた人間の聖夜さんが入ったら生きて帰ってこれなくなります。それだけは注意してくださいね。さて、これから従業員たちはお休みになります。さぁ、聖夜さんも早く中に戻りましょう !  すごくまぶしい !」
 ミミズはシルクハットを深々とかぶり、足早に戻っていった。聖夜は戻り際、店の前に敷かれている白い石を見た。確かに夜見たときは小さな骨だったはずだ。
 しかしここは魔界。何が起きても不思議ではないのだ。とくに気にすることもなく聖夜は厨房へと戻り夕食を食べた。
 それから部屋へと戻ったがやることが何もない。チョモランマがヒマワリの種を食べるところを観察したり、聖夜が脱ぎ捨てた服をせっせと拾い集め、与えられた仕事を嬉しそうにこなしているタンクをぼんやりと眺めた。
 それでもやることがないので部屋にある本棚の前に立った。タイトルに記号のような文字が書かれていたが、見つめると一瞬にして日本語に変わった。聖夜はそこから読めそうな本を手に取った。
 まず手に取ったのは深緑色の分厚い本だ。タイトルは『魔界の法則~宇宙との連動~』と記されている。
 本を開くと魔界がどうやって生まれたのか、宇宙とどのようにつながり、そこにどんな法則が隠れているのか、というような内容が書かれていた。読みはじめは良かったものの、専門用語の羅列と難しい文章の波に五分もたたず本を閉じた。
 次に目を付けたのは『これで魔力が開花する! 簡単な魔力の10の上げ方』という本だ。簡単に魔力が持てれば役に立つのは間違いないと期待したのだ。
 ところが出だしに「やり方を間違えると非常に危険なものです。むやみやたらに魔力を開花させるのはよくありません」などと書いてあり結局、読む気が薄れた。
 さらに『人間のおいしい食べ方』などという、本を開くことすら抵抗があるものまで見つけた。一応、手に取ったものの、気が乗らずそのまますぐに本棚に戻してしまった。
 こんな調子で、聖夜が読みたいと思う本は一つもなかった。
 聖夜は本棚から離れ、窓の外を見た。あれからミミズに二十四時間、朝の状態が続くと説明されていた。体はくたくたに疲れているが、朝の鋭い陽ざしが入り込み、眠気どころか体の感覚が狂いそうになっていた。
 聖夜はベッドに横になると頭まで布団をかぶった。これなら少しは暗く感じる。そしてタンクに見つからないように、そっと携帯電話を取り出した。
「携帯、使えたらいいのにな」
 聖夜は真っ暗になった携帯電話の画面を見ながらつぶやいた。

 次の日、聖夜は昨日より一時間半ほど早くタンクに起こされた。雪ノ盛との剣術の稽古の時間に合わせて起こすように頼んでいたのだ。
 稽古がなければもっとゆっくり寝ていられる。せっかくの休みもだいなしだ、そう思いながら聖夜は重い体を起した。
 明るいせいかぐっすり寝つけず、あまり寝た気がしない。聖夜が起き出すと、チョモランマもどこからかやってきた。
「おはようございます、チョモランマ。ゆっくり眠れましたか ?」
 タンクに話しかけられ、チョモランマは大きなあくびをしている。
「やはり、夜行性の方には快眠できる明るさですね」
 タンクの口ぶりからチョモランマは十分に寝たのだろう。うらやまし限りだ。
 窓にはタンクが洗ってくれた制服が干してある。今日はこの制服を着なくてもいいのだ。聖夜はタンスに向かい、動きやすそうな服を選び着がえた。
 魔界に来てからというもの暑くもなく、寒くもないため、どんな服を選んで着ても快適に過ごせていた。人間界のあの蒸し暑い気候を感じなくてすむのは何とも居心地が良かった。これも魔界に来てよかったと思えるところだ。
 聖夜は携帯電話をポケットに入れ、チョモランマを定位置の肩に乗せた。これで準備完了だ。
「いってらっしゃいませ、坊っちゃん」
 タンクは手を振り見送ってくれている。
「今日は休みだし、タンクも一緒に行かない?  どうせ剣術の稽古をするだけなんだけど、どう ?」
 部屋に一人だけ残しておくのは可哀そうな気がした聖夜はタンクを誘った。ところがタンクといえば体をくねらせ目線をそらしている。
「あ、いいえ、結構です。わたくしがいたら、その、稽古の邪魔になってしまうかも知れませんし……。それに、ほら、わたくしにはこの部屋でまだ仕事が残っていますので。わたくしにかまわず行って下さいませ !」
 タンクにお尻を押され、聖夜はそのまま部屋を追い出されてしまった。きっと忙しいんだろう、そう思い聖夜は部屋を後にした。
 廊下を歩いていると小さな窓から朝陽が差し込んでいるのが見えた。しかしここは薄暗く少し寒い。夜に灯っていたロウソクの明かりが消えると、どこか殺風景に感じる。
 一階へと降りると、聖夜はすぐに異変を感じ取った。いつもの温かくにぎやかな雰囲気は一変し、音一つなく静まりかえっているのだ。天井には何年も掃除をしていないようなクモの巣が垂れさがり、テーブルに飾ってあった花は枯れていた。〈死のはざま〉を閉めた時、掃除をしたはずなのに数時間で大量のホコリが積もっている。これではまるで廃墟だ。
 歩くたびにホコリが舞い上がる店内をぬけ、聖夜はロビンのいる厨房へ向かった。この空間だけは夜と変わらず清潔なままだ。
 テーブルの上には聖夜とチョモランマの分の朝食が用意されている。チョモランマには小さな器に乾燥したトウモロコシ、ドライフルーツ、小さくカットされたゆで卵が乗っていた。聖夜にはサンドイッチとクリームがかかったプリン、そして温かいカフェオレが準備されていた。
 チョモランマは「降ろせ!」と言わんばかりに耳元で一声鳴いた。チョモランマをテーブルに移動させ、聖夜は一緒に朝食をとり始めた。
 ハムにチーズ、そこにレタスが挟まったサンドイッチを口にしながら、聖夜は天井の隅を見た。ロビンが足をきれいにたたみ寝息をたてている。聖夜はロビンを起こさないように静かに朝食を食べ終えると、食器を洗い、チョモランマとともに店の外へと出ていった。
 ミミズが設定したとはいえ、朝陽を浴びて鳥の声を聞くのはとても気分がよかった。白い石からはみ出ないように散歩をしながら〈死のはざま〉の開館した姿を見た。
 夜に見た時はライトに照らされ、とてもきれいに見えていたが、太陽が昇ると全く違う姿をしていた。白い外壁はところどころひびが入り、黒くくすんでいる。窓ガラスは黄色く曇り、割れているものさえあった。柱や木の板もそこらじゅう欠けていて、あちこちにツタが絡まっていた。やはり廃虚にしか見えない。
 きっと朝と夜とで見え方が変わるのだと聖夜は考えた。店の外に並んでいるバレーボールほどの丸石も頭蓋骨ではなくただの石だし、足元の白い石も骨ではない。
「キイッ !」
 すると突然、チョモランマが鳴きながら耳たぶを噛んできた。
「痛っ !  何するんだよ」
 やめさせようとしても何度も噛んでくるチョモランマに、聖夜は思わず顔を横に振った。その時、人がいるのに気づいた。道の先に白いスーツを着た白人の男が立っている。
「誰だろう … …」
 どうやらチョモランマは男がいることを教えていたらしい。客なのだろうか。チョモランマは男のところへ行けと言わんばかりにキーキー鳴いて首で指図をしてきた。
「わかったよ、行くから」
 聖夜は男に近づき声をかけた。
「あの、〈死のはざま〉はお休みなんです」
 男の蒼い瞳がこちらを見ている。
「そうだったのか、それは残念だ。なかなか評判のいい店だったから、一度来てみたかったんだが。タイミングが悪かったようだね」
「えっと、あと、多分、十時間後ぐらいに来てもらえればやってますよ」
 すると男はあごをこすりながら返事を返した。
「なるほど、君はここの従業員かな ?」
「はい、そうです。また働き始めたばかりですけど」
「そうか。私はなかなか忙しくて、時間がとりにくいんだ。そこでなんだが ― ―」
 そう言って男は聖夜のポケットを指差した。
「これですか ?  これ、携帯電話だけど … …」
「もちろん、知っているよ」
 聖夜はポケットからはみ出る携帯電話を取り出すと、男は携帯電話を見ながら興味津々に話しかけてきた。
「魔界で携帯電話を持っているなんて、君は珍しいね。と言っても、実は私も持っているんだ。そうだ、自己紹介がまだだったね、私はマイク。人間界と魔界を行き来する魔人だ」
 聖夜は握手を求めてくるマイクの手を握った。
「僕は聖夜です」
「私は頻繁に人間界に行くから、人間が使う物に詳しいんだ。ところで … …」
 マイクは真っ暗な画面の携帯電話を見ている。
「画面が暗いが、電源でも入っていないのかな ?」
 そう言われ聖夜は充電器がなくて電池が切れているということを話した。するとマイクは眉をあげ、ふところから何かを取り出した。
「だったら、いいものを持っている。これを君に貸そう。充電虫というものだ」
 マイクの手には卵型をしたキーホルダーのようなものが乗っていた。赤と黒のまだら模様、真ん中に大きなボタン、その上に小さなボタンがある。
「この小さいほうのボタンを押すと、先に毛の生えたコードが出てくる。それを携帯電話につなぐだけで簡単に充電ができるんだ。その代わり、さっきも言った通り、私は忙しくて時間がとりにくい。そこで〈死のはざま〉が空いている日を携帯電話を使って教えてほしいんだ。どうだい?」
「別にいいですけど、どうやって教えたらいいんですか ?  ここじゃ電波がなくて携帯電話は繋がらないですよ」
「そこは問題ない。携帯を貸してくれるかい」
 携帯電話を渡すと、マイクは手を当て始めた。とくに何も起こらなかったが、そのまま携帯電話と充電虫を返された。
「私の番号を入れておいた。ほかの人とはやりとりができないが、魔界にいる私とならやりとりが可能だ。もちろん、携帯電話に入っている機能は使いたい放題だ」
 聖夜は真っ暗な画面の携帯電話を見つめていた。
「それから充電虫なんだが、こいつはなかなかの人見知りでね。少々、特殊な魔力がかかっているんだ」
「特殊、ですか ?」
「あぁ、そうだ。充電虫は人に見られるのを好まない。だからせいぜい、四人くらいまでか … …。その人数以上に姿を見られると魔力が切れて充電ができなくなるんだ。そこは気をつけてくれ。それ以外にも何か困ったことがあったら、相談してくれてかまわない。おせっかいが大好きなんだ。それじゃ、営業している時に連絡をよろしく頼むよ、またあとで」
 聖夜はその場から立ち去るマイクを目で追うと、白い石の上をまっすぐ歩いている姿が消えた。
 それを見計らうように聖夜はマイクに貸してもらった充電虫を見た。こんなもので本当に充電ができるのだろうか、そんな疑念を抱いていると背後から強烈な気配を感じた。振り返ると陽ざしが入らないうっそうとした木の陰に昨日の落ち武者、雪ノ盛が鋭い眼光を放ちたたずんでいたのだ。
「雪ノ盛さん ! ?」
 聖夜が驚いた声で呼ぶと、雪ノ盛はうなるように返事をした。
「うむ ……」
「あの、いつからそこに居たんですか ?」
「ついさっきじゃ」
 そう言って雪ノ盛はなかなか林の中から出てこようとしない。しびれを切らした聖夜が早く出てくるように催促をすると、雪ノ盛は眉間に深いしわを寄せ、重い口を開いた。
「死ぬ前は明るい光など何とも思わなかったが、こうやっていざ自分が幽霊となると、どうも陽ざしはまぶしくてたまらん」
 雪ノ盛はそう言いながら甲冑を鳴らし朝陽を浴びながら出てきた。手には竹刀が二本握られているが、夜に見るのとは違い顔がやけに青白く見えた。
「して、おぬし、その格好は何だ ?」
 そう言われ聖夜は自分の服を見た。とくに何か変ったものを身につけているわけではない。いつも通り、着やすい Tシャツと短パンだ。
「稽古するのにその姿は何だと聞いておるのだ」
 雪ノ盛が求める答えなど知らない。聖夜は部屋にあった服を選んで着たのだと話すと、雪ノ盛は練習用の袴はないかとたずねてきた。そのものあるわけがない。それを説明すると雪ノ盛はしぶしぶ納得した。
「ではまず、その履き物を脱げ」
「え ?  靴、脱ぐの ?」
「あたりまえじゃ。そんな履物では足に力がはいらんだろう」
「でも、裸足になっちゃうよ。足の裏、怪我しない ? それに痛そうだし… …」
 雪ノ盛は腕を組み、口をへの字にした。
「聖夜、おぬし年はいくつじゃ ?」
「十四歳だけど ……」
「では、もう立派な大人ではないか。大人が泣き言を言うもんではない。それにおぬし、男なら痛そうだとつべこべぬかすな。ほれ、さっさと履き物を脱げ ! かわりにわしの草履を貸してやる」
「水虫 ……持ってない ?」
「もっとらんわ ! いい加減、履き物を脱げ !」
 雪ノ盛に一喝され聖夜はいやいや靴を脱ぐと草履をはいた。やはり思った通り、白い石が足の裏を刺激している。足に力が入る前に転んでしまいそうだ。
 雪ノ盛の剣術の心構えについての話しに耳を傾けながら、聖夜は邪魔にならないようにチョモランマを地面にそっと降ろした。チョモランマは平然と短い尻尾を振りながら〈死のはざま〉ののきしたに歩いていった。
「よいか、剣術で重要なのは足腰の動き。まずは足腰を鍛えなければならん。そこで基本となる足の動きを教える。わしが手本を見せるから、それをしっかり見ておけ」
 雪ノ盛は裸足のまま、右足を前に突き出したり左足をゆっくり動かしていた。それが足の形だというのだ。実際に真似をしてやってみたところ、それほど難しくなく簡単にできた。
 しかし、そのあとが問題だった。すり足のやり方、踏み込み方など足の運び方について教えてもらったのだが、いくらやっても体がうまく動かないのだ。おまけにぎこちない聖夜の動きに雪ノ盛の指導に熱が入り、息を抜く暇さえないくらい白熱してしまった。
 それからどれくらいの時間が過ぎただろうか。一向に竹刀を渡されることもなく、足腰を動かす稽古ばかりが続いていた。とうとう草履の紐が親指と人さし指の間に食い込み、痛くなってきた。
 とくべつ運動神経がいいわけではない聖夜にとって、この時間は苦痛でしかない。早く終わらないか、そのことばかりが頭を巡っていた。
 するとそのことに気づいたのか、突然、雪ノ盛が休憩をふまえて実践を見せてくれると言うのだ。
「これは熟練した者が行える技だ。まだお前にはできぬが、見ておくがいい」
 雪ノ盛は深く息を吸い込みゆっくり吐くと、落ち武者とは思えない機敏な動きで剣術の形を次々披露していった。初めて見るその迫力に聖夜は口を開けたまま見入っていた。
 そのあとようやく竹刀を渡され、素振りの練習をすることになった。
「竹刀を振り上げ、それと同時に右足を出す。さらに竹刀を振り下ろしながら左足をぐっと引きつけるのじゃ」
 雪ノ盛のお手本を見ると簡単そうに見えるのだが、いざやってみると難しい。そこで雪ノ盛が前に立ち、手取り足取り教えてくれることになった。言われたことを頭に叩き込み、聖夜は思いきり竹刀を振り上げた。 
「ブウェックショォイッ !」
 その瞬間、雪ノ盛が大きなくしゃみをした。しかし勢いよく振り下ろした竹刀はもう止まらない。そのまま雪ノ盛の頭めがけ竹刀が直撃してしまった。雪ノ盛は崩れるように地面につっぷした。
「雪ノ盛さん、ごめんなさい ! 大丈夫で ……うわああぁぁ ――」
 急いで雪ノ盛に駆け寄った聖夜はたちまち尻餅をついた。地面に倒れている雪ノ盛の首がないのだ。頭は転んだ勢いで遠くまで転がっている。
「これはいかん」
 雪ノ盛の声が遠くから聞こえると、体がむくりと起きあがり頭を探して動き始めた。雪ノ盛の頭は自分の体に向かってこっちだと何度も叫ぶと、ようやく体は頭を見つけ取り上げた。そのまま雪ノ盛は聖夜の前にやって来たのだが、頭はひじに挟まれたままだ。
「すまん、驚いたであろう。わしは打ち首にあってな、それで死んだのだ。だからこうして首がとれてしまうのじゃ」
 聖夜はその不思議な光景に、ただ首を下に振るので精いっぱいだった。
「少し、休もう」
 それから二人は木陰を見つけそこに座った。聖夜は脈を打ちながら痛む親指と人さし指の間を見た。縄でこすれ、赤くなっている。
 その一方で隣に座る雪ノ盛といえば、首は体にくっつけたものの、さっきまでの威勢はなく落ち込んでいるようにも感じられた。
「雪ノ盛さん、ごめんなさい」
「いや、聖夜のせいではない。わしが油断をしたから悪かったのじゃ。まったく、このわしが首を切られ死ぬとは ……」
「どうして、首を切られちゃったんですか ? 言いにくかったら言わなくてもいいけど」
 雪ノ盛は少し考えながら口を開いた。
「何度思いだそうとしても、打ち首にあって死んだということしか覚えておらんのだ。確かにわしは武士であったのだが、それ以上のことは何も ……」
 雪ノ盛は下を向きながらうなだれていた。
「きっと、そのうち、思い出しますよ」
 そう言ったものの、雪ノ盛が記憶を思い出す根拠など何一つなかった。しかしほかになんて声をかけたらいいのかわからなかったのだ。
 そんな時、二人の沈黙を破るかのように聖夜の腹の虫がうなり始めた。懐中時計を確認すると、昼食の時間になろうとしていた。どおりでお腹が減ったはずだ。
 聖夜の腹の音を聞いた雪ノ盛は今日の稽古は終わりだと告げ、靴をはいてもいいと許しがでた。聖夜はさっさと靴を履き身支度を整えると、いつの間にか戻ってきたチョモランマを肩に乗せ昼食を食べに厨房へ戻った。
 すると中央のテーブルに忙しそうに動き回る一匹の小さなクモを見つけた。近づいてみるとロビンのように見えたが、それにしてもずいぶん小さい。不思議そうに眺めていると小さなクモが話しかけてきた。
「お帰りなさーい、聖夜さーん」
 ロビンと同じ話し方だ。
「ロビンなの ?」
「もちろんでーす、ロビンでーす」
「いつもより小さいからびっくりしたよ」
「そうでーしたねー。この姿を見るのは初めてでーしたね。こうやってお店が休みのときはー、分裂して体を休めているんでーす」
 小さなロビンが指さす方向に目をやると、天井の隅に何百匹という小さなクモが一つの塊になっているのが見えた。あまり気味のいいものではなかったが聖夜は笑顔でロビンに返した。
「さぁ、聖夜さーん。お昼ご飯ができまーした。食べて下さーい」
 テーブルの上には焼きおにぎりと海苔を巻いたおにぎり、そこにたくあんと温かいお味噌汁が用意されていた。
「そちらのー方もご一緒にどうぞ。あなたの分も作りまーした」
 ロビンの声に振り返ると、いつの間にか雪ノ盛も厨房の中に入っていた。
「わしも、いいのか !  これはこれはかたじけない」
 雪ノ盛はテーブルに並んだ昼食に鼻で大きく息を吸い込むと、聖夜にも十分すぎるくらい聞こえる音で生唾をごくりと飲みこんでいた。
 それからチョモランマと雪ノ盛とともに昼食をとった。チョモランマは朝食にもらったドライフルーツと、いつしまったのかわからないヒマワリの種を頬袋から取り出し食べていた。
 一方の雪ノ盛といえば、あっという間に昼食をたいらげていた。まるで底なし沼のような胃袋に用意された量では足りず、遠慮することもなく何度もおかわりをするのだ。そのたびに聖夜は何度もおにぎりを雪ノ盛のところに運んだ。小さなロビンではお皿一つ運ぶのに苦労していたからだ。
 結局、聖夜がゆっくり食事ができるようになったのは雪ノ盛がデザートのあんこのお団子、生クリーム添えを食べ始まった時だった。
 ようやく空の胃袋が満足したところで、聖夜はロビンにカフェで使う材料を一緒に仕入れに行かないかと誘われた。話しを聞くと、魔界の色んなところにお店があり、そこに食材を仕入れに行くのだという。
 〈死のはざま〉しか知らない聖夜にとって、ほかの場所がどんなところなのか興味がわいた。しかしあることが頭をよぎり、聖夜は眉をあげた。
「せっかくだけど、ミミズさんに敷地内から出ちゃいけないって言われてるんです」
「それなら問題ありませーん。私がついているので安全でーす。それにミミズさんにも了解を取ってあるので大丈夫でーす」
「本当 ! ?  だったら行きたいな」
 ロビンの言葉に安心した聖夜は喜んでその仕事を引き受けた。さらにその話しを聞いていた雪ノ盛も面白がって手伝ってくれることになったのだ。
「まず、ミルクショップへ行きまーす。〈死のはざま〉で使っている乳製品は、すべてそこのものを使っているんでーす」
「たしか、魔牛のミルク、だったかな ? 僕、大好き !」
「よくご存じで。最高級品のミルクでーすよ。しかし彼女たちのご機嫌を損ねーると乳製品をわけてもらえないんでーす」
「へえ、そうなんだ」
 聖夜は話しを聞きながらチョモランマと小さなロビンを肩に乗せ、カフェの裏に続く一本道を歩いた。隣では雪ノ盛が食材を積む荷車を引いている。
 しばらく歩いていくと道の真ん中に女神の石像が置いてあった。石像は聖夜たちが近づくと、笑顔を向け両手を広げた。
「それでーは女神の像に向かって止まらず歩いてくださーい」
 ロビンに言われ聖夜はなるべく足を止めないように女神の像に向かっていった。ぶつかる、そう思った瞬間、景色が一変した。
 目の前には薄ピンク色の小さな小屋が建っている。その奥には柵が続き、どこまでも広がる芝生にさまざまな牛が放し飼いされていた。どうやらここがミルクショップのようだ。
「先ほどの像は転送装置のようなものでーす。魔界人なら誰でも使いこなせまーす」
 振り返ると二足歩行の牛の像がこちらに向かって手を振っている。こんな移動手段があったのかと牛の石像を見ているとロビンの話す声が聞えた。
「それでーはお店に入りましょーか」
 ロビンにうながされミルクショップへ入っていくと、大きなガラスケースの中にヨーグルトやチーズ、それに生肉に牛乳などが陳列してあった。
「ンゴオオオン」
 店の奥から鼻を鳴らしたような音が聞こえ、ピンクのエプロンをした女がやってきた。どうやらミルクショップの店員のようだ。体つきこそは人間だが、顔は牛そのまま。白に黒のブチ、濡れた鼻には太い鼻輪がしてある。
「こんにーちは」
「ロビンね、いらっしゃい」
 ロビンが日本語で話すと、その店員は同じように日本語で返してきた。
「噂は聞いているわよ。そこの坊やね」
 長いまつ毛の奥にある大きな瞳と目があった。
「生きた人間に会えるなんて、感動だわ。私、初めて見たわ ! 私たちのミルク、飲んでくれた ?」
「私たち ?」
「ええ、私たち」
 店員は縦に四つ並んだ自分の胸を指さした。聖夜が答えに困っているとロビンが耳元で囁いた。
「魔牛とは彼女たちのことを言うんでーす」
「え? そうなの ?」
「ええ、そうなんでーす。毎日、彼女たーちがミルクを絞ってくれているんでーす。くれぐーれも失礼なことは言わないで下さーいね」
 てっきり四足の牛を想像していた聖夜は言葉を失った。まさか魔牛が人間のような姿をしているとは考えもしなかったからだ。
 そうとは知らず店員の魔牛はこちらをじっと見つめたまま、返事が返ってくるのを待っている。聖夜はロビンの忠告を胸に魔牛の機嫌が悪くならないよう言葉を選びながら口を開いた。
「ミルク、飲みました!」
「味はどうだった ?」
「濃厚ですごく美味しかったです。人間界のものとは全然違うっていうか … …」
「そうでしょう。私たち、ミルクが出すぎて困っちゃうんだけど、美味しいって言ってもらえて嬉しいわ ! ミルク、準備するから待っててね」
 それから店員はロビンに話しかけた。どうやら機嫌を損ねなくてすんだようだ。
「最近、食べ過ぎちゃって、余分なお肉をそいだ新鮮なものがあるんだけどどうかしら ?」
「そうでーすね、素晴しいお肉でーすね。しかーし、カフェではなかなーか使わないので ――」
 ロビンが店員と話すなか、雪ノ盛はガラスケースの中に並ぶ赤身の肉をじっくり眺めている。すると店員に話しかけた。
「これは、おぬしの肉か?」
「ええ、そうよ。でも、ほかの子たちのお肉も混ざっているわ」
「うまいのか ?」
「ええ、もちろん。だって私たち魔牛ですもの !」
 雪ノ盛は腕を組みながら静かに聖夜に話しかけてきた。
「聖夜、おぬし、牛の肉は食いたいか?」
 そう聞かれ聖夜は悩んだ。〈死のはざま〉に来てから肉類をあまり食べていなかったせいか、食べたいという気持ちはあった。しかし目の前にいる魔牛の肉を口にするというのはどこか抵抗がある。
 すると思い出したかのようにロビンが大きな声を出した。
「そうでーした !  生きた人間の方はたんぱーく質が必要でーしたね !  いかがーでしょうか、味は一級品でーすよ」
「そうだ、そうしよう !  精をつけるには肉が一番じゃ !  牛の肉など何百年ぶりだろうか、聖夜、今晩はごちそうだぞ !  あはははは !」
 聖夜の意見は関係なく、店員に肉を包んでもらうことになった。そのほかに大量のミルク、数十種類のチーズにヨーグルトなどあらゆる乳製品を譲ってもらった。
 次に向かったのは蜜を扱うお店、ハニーモーリーだ。牛の石像を通り、着いたのは深い森の奥。巨大な木は上を見上げてもてっぺんが見えず、そこらじゅう苔でおおいつくされ緑色になっていた。
 その中にツタでおおわれた小屋を見つけた。どうやらそこがハニーモーリーのようだ。ミルクショップとは違い、店というよりは朽ち果てた小屋にしか見えない。
 さっそく中に入ると狭い部屋にたくさんの壷やビンが並べられ、甘い香りが充満していた。チョモランマは身を乗りだし、鼻をつき上げ匂いをかぎ取っている。
 ロビンが年老いたフェアリーと話しているあいだ、聖夜は黙って店内を見ていた。老若男女問わず、様々なフェアリーやハチたちが店の奥から出たり入ったりを繰り返していた。
 しばらく待っていると買いつけが終わったようで、店の外に出ると蜜が詰まったいろんな形の壷や瓶が並んでいた。それを雪ノ盛と一緒に荷台へ積んだ。
 そして最後に向かったのは何百種類という木の実がいっぺんに採れるという果実の森だ。
ハニーモーリーの石像を通り抜けていくと、ピンクグレープフルーツ色の空が広がっていた。道の両わきにはビルの七、八階はあろうかという高さの垣根が続いていて、まるで迷路の中に入ってしまったかのようだ。ただし、迷路と違う点は道順に矢印の看板が立っていたということだ。
 道順に沿って行くと視界がひらけ、果実の森が見えてきた。垣根を通り過ぎれば到着だ。
 一歩、二歩と足を進めたとき、聖夜は思わず歩くのをやめた。目の前に巨大な灰色の足が二つ並んでいるのだ。
 恐る恐る太い足首を見上げると、そこにはやけに腕が長く、極端に足が短い巨人が立っていた。服は身に着けておらず、お腹は垂れ下り、カバのような顔をとってつけたような姿だ。
「彼らは果実の妖精、オゥボゥブ・ノァ・ゴルェでーす。自分たちが作ったフルーツを分けてくれているんでーす。ただし、踏まれないように気をつけて下さーい」
 ロビンにそう教えられたものの、フルーツを育てている妖精には見えない姿だと聖夜は思った。果実の妖精の視線を感じながら前を通りすぎていくと、聖夜は思わず声を上げた。
 見渡すかぎりの広大な森が広がり、そこにさまざまな種類の木々が生えそろっていたのだ。季節を問わないありとあらゆるフルーツが実っている。
 立派に育った木々の間から、あちこちに果実の妖精の頭が見えた。ハサミやバケツを持って手入れをしているようだ。
 それに聖夜たち以外にも様々な魔界の生き物がフルーツを食べにやってきていた。虹色の芋虫のような生き物がスイカのような実にくっついていたり、腕が六本ある木の枝のような生き物が細い羽をばたつかせリンゴをむさぼっていた。
 さっそく聖夜と雪ノ盛はロビンの指示に従い、〈死のはざま〉で使うフルーツを次々もぎ採っていった。この作業がこの日一番の重労働で、木の枝が高くて手が届かない場所が何カ所もあった。 そのたびにはしごを使ったり、果実の妖精に協力してもらいフルーツを採っていった。
 すべての作業が終わり聖夜たちは休憩をすることになった。のどが渇いた聖夜は近くになっていた桃を手に取り、あまりにみずみずしい香りにかぶりついた。
 とろけるような果肉に口の中を潤す果汁。一気に疲れが吹き飛んだ。あっという間に桃をたいらげるともう一口、そう思い今度はマスカットに手を伸ばした。それもまた笑顔がこぼれるようなうまさだった。
 どうやらここのフルーツはどれを食べてもすべて完熟しているようだった。のどを潤すはずが、気づいたときにはお腹いっぱいに食べていた。同じように雪ノ盛もたらふく食べたようで、苦しそうにお腹をたたいていた。チョモランマといえば好みのフルーツを頬袋がはち切れそうなほど詰めしこんでいる。
 仕入れ作業を終えたその帰り道、荷車に山のように積まれたフルーツを見て聖夜はふと思った。
「こんなに採っちゃったけど、腐らないの ?」
「その心配はいりませーん。ここは魔界ですからー、腐らないのでーす」
「そうなんだ」
 人間界だったらあっという間に腐ってしまうというのに、魔界とはなんて便利な世界なんだろうと聖夜は感心した。
 それから重くなった荷車を押すのを手伝い、ようやく〈死のはざま〉に着いた。太陽は完全に消え去り、再び夜が訪れていた。しかし月あかりは青ではなく緑色に変わり、街頭も月と同じ緑色だ。足元の白い石も骨になっている。
 聖夜は雪ノ盛とともに仕入れた食材を厨房に運ぶと、砂糖を焦がしたような甘い香りが漂っていた。小さなロビンたちがお菓子を焼いている。
「お帰りなさーい」
 小さなロビンたちがいっせいに言った。すると聖夜の肩に乗っていたロビンが小さなロビンたちと合流し、瞬く間に元の大きなロビンへと戻った。
 〈死のはざま〉はまだ店を開けていないようだったが、店内は煌々と明かりがついていた。ホコリやクモの巣はどこかへ消え去り、枯れていた花もみずみずしく咲いている。夜になり〈死のはざま〉は息を吹き返したかのようだった。
「お疲れ様でした !」
 ミミズが軽い足どりで厨房へとやってくると、魔界のどこへ行ったのか聞いてきた。そこでロビンに焼きたてのジャム入りクッキーとアップルティーをもらい、聖夜は雪ノ盛とともに話しに花を咲かせた。
 話しも中盤、そこで雪ノ盛が待っていたかのようにミルクショップから貰ってきた牛肉を取り出した。これにはミミズも興味津々で、さっそくロビンに焼いてもらうことになった。
 〈死のはざま〉がカフェなだけに肉の味付けは簡素なものだったが、一切れ入れた瞬間、口の中に広がるうまみに皆が笑顔になった。雪ノ盛といえば小躍りを始めてしまうくらいはしゃいでいたが、聖夜も一緒に踊りたい気分だった。なんせ久々の肉料理に胃が喜んでいたからだ。
 ミルクショップで肉をもらった時の葛藤はどこかへ消え去り、聖夜は雪ノ盛と一緒に何度もお米をおかわりしてしまった。
 それから夕食を終えた聖夜は雪ノ盛と別れ、自分の部屋へと戻っていった。聖夜が休んでいる間も店を開けると聞かされたが、明日の九時から仕事に入ればいいと言われたのだ。この日は一日中動いていたせいか、いつもより体が疲れたように感じていた。
 聖夜はベッドに横になると、マイクに貸してもらった充電虫に手を伸ばした。ところがポケットの中にある充電虫を握ったまま身動きがとれなくなった。タンクがそばを離れず話まくってくるのだ。
 このままでは充電虫を取り出すことができない。
 そこで聖夜は適当にタンクの話しを聞きながしながら、バスルームに入っていった。ここなら邪魔されずに使えるはずだ。
 聖夜はさっそく充電虫を取り出すと、小さいボタンを押した。すると先端に毛の束が付いたコードがするりと出てきた。聖夜はマイクに言われたことを思い出し、コードの先に伸びる毛の束を携帯に近づけると、毛の束は充電する場所を確認し動きを止めた。
 充電虫は卵型の体から足を十本伸ばし、携帯電話の後ろに張りついた。そのとたん真ん中にあった大きなボタンがぎょろりと開き、聖夜は携帯電話を落としそうになった。真っ赤な瞳が上下左右に激しく動いていたからだ。
 しかしその直後、充電されていることを知らせるオレンジ色のランプがついた。どうやらこれで携帯電話は順調に充電されているようだ。
 その様子に我慢できない親指が電源のボタンを押すと、真っ暗だった携帯電話の画面が明るさを取り戻した。久しぶりの感覚だ。やはり慣れ親しんだ携帯電話の電源が入るだけで、どこか人間界を思い出し落ちついてくる。
 何の変りもない携帯電話を操作していると、メールが届いた。送り主を確認してみると、入れた覚えのない “ マイク ” という名前が表示されていた。電話帳を見てみると、そこにはマイクの電話番号、それにメールアドレスが登録されていたのだ。
 きっと、携帯電話に手をかざしたときに登録されたのだと思いながら、聖夜はメールを開いた。 そこには次のようなことが書いてあった。
『お店の外観は思ってた以上に美しかった。今度は是非、おいしいコーヒーを飲ませてほしい。連絡待っている。 マイク』
 その内容に聖夜は無心で文章を打ち始めた。
『今からお店が開きました。時間が取れたらいつでも来て下さい !  それからジュウデンチュウを貸してくれてありがとうございます』
 聖夜はできた文章を送信した。携帯画面は無事に送信したことを告げている。
 それから満足をしながらバスルームを出た聖夜だったが、石のように動きを止めた。タンクがドアの前で仁王立ちをしていたからだ。
「坊っちゃん、わたくしに隠れて何をやっているんですか ?」
 タンクが目を細めこちらを見ている。
「あ、いや、その … …」
「もしかして、ケータイというものを操っていたのではありませんか ?」
 答えに困っているとタンクは攻め立てるように言葉を足してきた。
「とぼけてもむだです。すべてチョモランマからお聞きしました !  またあの面白いゲーム、私に 内緒でやっているんですか ? ずるい、ずるい ! わたくしにも五分、いやいや、一分、いやいやいや、三十秒でかまいませんからやらせて下さい !」
「え、あ、うん… …」
 一番知られたくない相手に携帯電話の復活がばれてしまった。なぜチョモランマは余計なことをタンクに言ったのか苛立ったが、もう遅い。タンクはゲームをやらせてくれと一歩も引こうとしないのだ。結局、タンクのしつこさに聖夜はため息をつきながら携帯電話を取り出した。
「貸すけれど、約束を守ってくれる ?」
「はい、何なりと !」
「これ以上誰かに携帯を使っているのを見つかると、ゲームができなくなっちゃうんだ。そういう魔力がかけられているんだ。だから絶対に携帯のことは内緒だよ」
「はい、そういうことでしたら、絶対に誰にも言いません !」
「それからゲームは長くて二十分までだからね」
「いえいえ、五分で結構です !」
 聖夜はタンクに携帯電話を渡すと仕方なく本棚から『薄毛、白髪、問題ない ! 毛のことなら何でもおまかせ』という本を開き、暇をつぶすことにした。
 とくに気にしていたわけではないが、自分の癖毛がストレートになったらスズメにいい印象をもたれるのではないかと思ったのだ。
 目次に「頑固な癖毛をストレートにする方法」という項目を見つけさっそく目を通して見た。しかしそれは人間の聖夜にとって、まったくもって当てにならないものだった。
 魔力を使えるということを前提に、薬草や植物の根、皮を二十種類以上調合し、魔獣モラリンの唾液、魚人間の汗、魔昆布を混ぜたものを髪の毛に三十分も塗り込むというのだ。
 それ以外にもっとお手軽なものはないかと捜したが、それ以上は何も見つからず本を閉じた。
携帯電話を渡してからすでに二十分はたっている。五分でやめると言っていたはずのタンクはまるでやめる気配がない。それどころかいつの間にかチョモランマもゲームに参加していたのだ。その様子に携帯電話を自分の手に戻す気が失せた。
 それから一時間が過ぎ、ようやくゲームに疲れたタンクが携帯電話をやめた。
「とても疲れました !」
「約束していた時間より長かったんじゃない」
「も、申し訳ありません ! つい、チョモランマと盛り上がってしまいまして !」
「キイッ !」
 言い訳をする二人を聖夜は横目で見ると、手にした携帯電話に目を移した。まだ充電は終わっていないようで、オレンジ色のランプがついたままだ。後ろに張りついた充電虫も相変わらず目玉を忙しそうに動かしている。
「そういえば坊っちゃんは好きな女の子なんているんですか ?」
 唐突な質問に聖夜はタンクを見た。
「とくにいないよ。タンクはいるの ?」
「よくぞ聞いて下さいました !  実はわたくし、とある方に恋をしていまして。その方のお名前はスズ ― ―」
「え ! ?」
 聖夜は思わず声をあげた。その声にチョモランマはヒマワリの種を食べるのをやめ、タンクは目を丸くしてこちらを見ていた。
「もしかして坊っちゃん、スズメさんのことがお好きなんですか ?」
「別に、そんなんじゃないよ」
「またまた、顔が赤くなってますよ」
 あまりにもタンクが茶化すので聖夜はそっぽを向いた。するとタンクは聞いてもいないのに自分の話しを始めた。
「実はわたくし、スズメさんではないのですが、スズメさんのお部屋にいるミドルさんという時計の妖精の女の子に心を奪われているんです」
「ふーん。それで、両想いなの ?」
 聖夜は動揺を隠すように携帯電話をいじりながら聞いた。
「いいえ、できればそうなりたいのですが。この部屋の扉が開いた時、ミドルさんがいる部屋を眺めるだけで精いっぱいなんです」
「どうして ?」
「この部屋を出ると魔法がとけて普通の時計に戻ってしまうんです」
 その話しを聞いて聖夜は部屋を出るときのことを思い出した。
「だから、僕が誘っても外に出なかったんだね」
「ええ、そのとおりです。外に出てしまうと、自分でこの部屋に戻ってくることすらできないんです。それでもミドルさんに会ってみたい !  まだ一度しか拝見していないお相手なんです。そう、まさにひとめぼれ !  でも、忘れることがどうしてもできないんです」
 タンクは目を閉じ、好きな相手を想像しているかのように話していた。
「いつか会える日が来るといいね」
「はい、わたくしは諦めませんよ ! 坊っちゃんも頑張ってくださいね。だって、生きた人間とスズメガの恋だなんてロマンチックすぎます」
 聖夜はタンクの言葉に耳を疑った。
「スズメガ ……?」
「はい、スズメガです。ご存じないですか ? スズメさんはガの魔人なんです」
 魔界に来てもう驚くことはないと思っていたが、スズメがまさかガの魔人だとは思いもしなかった。しかしよく考えてみたらタンクが言っていることがうなずけた。美しいということを前提にあの瞳はどう見てもガにそっくりだったからだ。
 そんな話しをしながら人間界の一日が過ぎていった。
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