吸血鬼のしもべ

時生

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第十五話 紅眼の麗人(2)

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 石造りの牢獄はじめっとしている。匂いは利かなくても肌で感じ取っていた。

 雨が降った時の匂いに似ている。石の間には自分の血がこびりついている。それを見ながら、ふと、魁英かいえいの記憶を揺り起こすものがあった。

 雨。土の匂い。血。石。激痛。
 言葉の連想を続けると、翠色の光が一瞬脳裏に走る。気づくと、魁英の指先は土を掴んでいた。

「――え?えっ?」

 じくりと背中が痛んだ。雨が降っているのだ。

「雨?え、外?」

 牢獄の影も形もなかった。自分の腹の下は下草の生えた地面だ。目の前は開けている。

「土砂崩れ……」

 混乱のまま立ち上がりたいが、無理だ。背中が痛くて起き上がれない。目の前には雨によって土砂崩れが起きた惨状が広がっていた。根こそぎ土砂が滑ったために巨木が土に突き刺さっている。その土砂の山の中で、もっとも目立つものがあった。

 ――あぁあ、ん

 子どもの泣き声に魁英が目を見張る。
 土の山の一番端の部分に、ひときわ大きな岩が転がっている。そこから泣き声が聞こえるのにぞっとして目を凝らすと、一人の少年が転がっていた。足を巨石に挟まれているらしい。

 助からない。
 魁英の直感が囁く。あれは、無理だ。

 自分の力ならばせめて巨石をどかしてやれるかも。そう思うが、残念ながら全く力が入らない。どうしよう。子どもが息絶えるのを見ていなければならないのか。

 ――おか、あ、さ……っく、おかあさぁん
 
 魁英の背筋が冷えた。少年はただ泣いているのではない。泣きながら母をずっと呼んでいるのだ。助けてやりたい。せめて。せめて痛みだけでもどうにかしてやれたら。

 視線の先で、魁英から見れば小枝のような傷だらけの腕が持ち上がった。少年は仰向けで倒れている。ようやく持ち上げた震える腕を石にぶつけたのだ。

 無茶だ。腕も潰れてしまう。魁英の指が土にめり込む。かたつむりのように体を前に進めようとする。すると、ピシ、と音がした。

「え……」

 少年が拳を打ち付ける度、巨石の黄土色の肌に亀裂が入るのだ。少年が呻き声を出す。拳からは血が流れている。しかし、亀裂も大きくなっている。少年の小さな拳が、今の魁英の二倍はありそうな石を砕こうとしている。

「嘘だろう……?」

 自分じゃあるまいし。――自分じゃ、あるまいし。

「俺、じゃ、なきゃ……」

 そんなこと、できるはずがない。
 石を横断する亀裂が入った。ずるりと、雨でぬめった石の上半分が動き始める。

 茫然としていた魁英がはっとする。石の上半分が、ちょうど少年の上半身目がけて滑り落ちようとしているのだ。

「―――っ!!」

 もう叫び声も上がらない。走っていっても間に合う自信がないほど距離がある。
 少年の濡れた目が見開かれる。

 ――助けてぇ!!

 かん高い叫び声に、魁英は耳を塞ぎたくなる。許してくれ。助けられない俺を許して。
 ところが、石は少年を押し潰すことはなかった。

 少年の真横に人影が現れたのである。どこから来たのか、ずっと見ていたはずの魁英も分からなかった。魁英よりも少し小柄で、髪も服も黒い人影が、巨石の落下を受け止め、ずん、と音を立てて脇に置く。続けて、腰を屈めると少年を潰す残り半分も、持ち上げて脇によけてしまった。

 少年の下半身は血の海だった。

 人影は少年の傍に膝をつくと、服を破いていく。少年の血で汚れた両手を舐め上げると、自分の手に噛みついた。左手は少年の頭を撫で、自分の血が滴る右手は少年の傷を撫でる。人影が少年の顔を覗き込むように、頭を俯けた。背中を長い黒髪の一房が少年の腹に落ちてわだかまる。
 魁英の距離から、彼らの会話は聞こえない。ただ、彼が何と言ったのか、魁英は知っていた。

『もう大丈夫、怪我は治りますよ。お母さんはどこにいるんですか?』と黒髪の青年が言う。
『おかあさん。おかあさん、もういない。死んじゃった。もういない』と少年が泣きながら告げる。
『そう、一人なの?』
『うん。おれ、ひとり。家、どこか分かんなくなった』
『名前は?』
『おれの?』

 そうですよ。美しい顔をした青年が、紅い目を細めて微笑む。真珠色の牙が唇の端から覗く。真血しんけつを与えられ、血色の戻った少年の唇の動きと、魁英の声が重なる。


「―――英龍えいりゅうっていうの」


 呟いた瞬間、魁英の視界が歪み、全てが翠色の残像に変わる。高速で体が浮き上がるような感覚に目を閉じていると、いつの間にか腹の下に石の感触があった。
 恐る恐る目を開けると、ここ数日で見慣れた牢獄の柵がある。

「ゆめ……?」

 魁英の唇が震える。頬を涙が伝う。脳裏に浮かぶ紅眼の青年の微笑が残像となっていつまでも留まり続けていた。


 *****


 朱昂しゅこうが首を刎ねられた後、月鳴は朱昂の体と共に龍宮へ連れて来られていた。龍宮の内、いくつかある棟の中でも、龍騎兵りゅうきへいの調練場にほど近い倉庫に、月鳴げつめいはただ一人放り込まれ、一昼夜をそこで過ごすことになった。
 
 分厚い扉に何度も肩を叩きつけたが、破れる気配がない。肩を痛めるだけ、と観念してしゃがみ込む。重い手錠を壁に打ち付けたが、骨に直接走るような痛みに、それもしばらくして止めざるを得なかった。もちろん、屋根にほど近いところにある小さな格子窓も蹴破ろうかと跳び上がったが、真鍮しんちゅうの嵌め殺しは容易に破れそうにはなかった。複雑な梁が巡らされた美しい屋根組を見ながら、唸ることしかできない。

 出られぬという思いが小さく胸中に湧いた瞬間、それが月鳴の敗北だった。自分が息をしている以上、朱昂の命脈は保たれている。心身の疲労で体が鉛になったようだった。屈み、尻をつけ、最後には頬を石の床につけて転がる。

 体中の熱が去り、瞼を下ろしていると背後の扉が重い音を立てて開いた。月光が作り出す影が、蔵の中に入り込む。
 月鳴は跳ね起きて、入り口から距離を取る。背を屈めながら入ってきたのは龍王自身であった。

「朱昂はどこだ」
血王けつおうのしもべにしては随分と力不足だな、伯陽。汝に朱昂の居所を教えても救えまい。龍一頭倒せるかどうか」

 月鳴はただ眉をひそめただけで反論しない。挑発には乗るつもりはないし、そもそも龍王の言は否定できなかった。

「その不具の体ではしょうがないのか……。ただ、汝にも利用価値はある。明朝、夜が明けきる前に雑魔からあの化け物を奪還する。汝も連れて行く。鳴くことしか能がない汝にぴったりの役をやろう」
「貴様……!!」

 怒りに歯を食い締める月鳴に、龍王は背を向ける。月鳴はその背に立ち向かえない。手錠が重くて拳を振るえぬだけではない、龍王の背後には抜刀した兵士が幾人かいる。狭い入口で切りあっても返り討ちが関の山だ。

 救えない、ただ救われている――主にも、魁英にも。

 暗い闇が自分を覆う気配を感じて、月鳴は心を突き放した。感情を切り捨て、だらりと手錠のはまる手をぶら下げる。こうしなければ、自分の中に生まれた闇が己を食い尽くすのを知っている。「伯陽はくよう」が死んで、「月鳴」だけが残るのだ。

「あの毒蠱どくこを汝はよく知っているようだ。汝の命で、再び毒蠱を目覚めさせるとしよう」
「毒蠱……」

 魁英のことか。黒い涙を流す青年の顔を思い出す。背を向けた龍王はそのまま立ち去らない。肩ごしに振り返っている。片頬の笑窪が影を濃くする。

「月鳴、うまくできたら褒美をやろう。朱昂の命だ」

 これ以上の宝はあるまい。言い残して龍王は姿を消した。手錠が石の床を鋭く叩いた。月鳴はただ、主の名を呼ぶことしかできない。返答は、なかった。

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