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第一章 暁を之(ゆ)く少年
第九話 大罪(1)
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椅子の上で身を丸めるようにして、少年は目を瞑り、じっと呼吸を繰り返していた。
机には血がこびりついた小刀と、血の脂によって先まで固く糊されたようになった筆が転がっている。
朱昂は紅い目を見せ、ゆっくりと細い息を吐いた。懐手して鳥肌の立った腕をなでる。
椅子の足元には銀杯がある。中にはなみなみと“夕食”が注がれていた。渡されたそれを床に置いたきり見向きもしなかった朱昂は、ようやく顔をうつむけて杯を見た。
腕を伸ばすと、丈が合わぬ袖は肘を覆い隠すほどで、白い前腕の半ばまでむき出しになった。
満たされた赤い液体を前に、妙な感傷に襲われそうになった朱昂は、すぐにそれに口をつけた。
すっかり温もりを失った真血が朱昂の喉を通り過ぎる。
父から与えられる血。
それを口にするのが最後になるであろうことは分かった上で、朱昂は首を反らし、一息で真血を飲み干した。
ここ一年、まともに父の顔を見ていない。日に三度届けられる“食料”だけが父の生存の証だった。
朱昂が真血の主の治癒能力についての知識を求め、理解を深めるのに呼応するように父の姿を見かけなくなった。
まるで、朱昂の目的に感づいているかのように、真血の主は地下に籠るようになっていった。
決意の日から五年。吸血鬼にとって短いはずの年月が、朱昂にはひどく長かった。
朱昂は銀杯を机に置くと、先ほどから肌を刺すように押し寄せる殺気に意識を戻した。
部屋を出て、二階の露台から森を見る。流石に人里までは見渡せない。
それを知っている朱昂は、一息吸うと、露台から跳躍して屋根の瓦を踏んだ。
主の命が傾き始めていることを察したのか、屋敷を離れる同族は後を絶たなかった。もはや十分な見張りもおらず、王子が夜に部屋を出ても咎める者もいない。
――自由になったものだ。
夜気を吸い込んで、朱昂は顔を上げた。眼前に広がる光景に目を細める。小さく唇を歪めた。
「美しいな」
思わず声が漏れた。
人里から幾筋にも分かれて松明の灯りが並ぶ様は、まるで金色の葉脈のようだった。葉脈は少しずつ広がり、吸血鬼の屋敷へと伸び始めている。
小さな粘菌が這いずるが如く、人の歩みは遅い。しかし、人食い鬼を呪う男たちの歌が風に混じり始めていた。
人間を導くのは、木々に塗られた朱昂の真血だ。幹に書き殴られた血文字は、「火を灯せ、鬼を呪え」と人の狂気を煽り立てる。
朱昂は地面まで一気に飛び降りると、木々の間を走り抜けた。
少年の体には合っていない衣が、風を受けてバタバタとはためく。
真血の主の結界は破られ始めている。朱昂がここ一年をかけて、術式を解いていたのだ。父に感づかれないよう、結界が完全に消失してしまわぬよう慎重に慎重を重ねて。
今の結界はまるで横糸と縦糸の数が合わぬ不出来な布だ。あと一本、糸を抜けば、それは形を成せなくなる。
朱昂は、男たちの松明の炎が四方から覗く場所で足を止め、銀の小刀で深く手首を刺した。拍動に合わせてとくとくと湧き出る体液を足下に垂らす。
小さな水たまりができたところで、つま先を血に浸し、土に彫り込むように文様を描いていく。小さな口が動いた。
――最後の一本が、引き抜かれた。
点々とつけられた血を道しるべに、松明を掲げ歩いていた人間たちは、強い風に皆足を止めた。
一陣の風が吹き抜けた後、顔を上げた人々は、目の前に少年を発見した。
紅い大きな瞳がこちらをまっすぐに見つめている。
少年は一点を見つめているはずだが、そこにいる全ての者が、彼に見つめられたように感じた。
水を打った静けさの後、
「ころせ」
誰かがぽつりとこぼした。どくりと葉脈が震える。
「殺せ!」
「鬼だ!」
「紅い目の鬼!」
「殺せぇえええ!!!!」
静寂を破ったのは男たちの呪詛と、人食い鬼へ殺到する足音だった。
机には血がこびりついた小刀と、血の脂によって先まで固く糊されたようになった筆が転がっている。
朱昂は紅い目を見せ、ゆっくりと細い息を吐いた。懐手して鳥肌の立った腕をなでる。
椅子の足元には銀杯がある。中にはなみなみと“夕食”が注がれていた。渡されたそれを床に置いたきり見向きもしなかった朱昂は、ようやく顔をうつむけて杯を見た。
腕を伸ばすと、丈が合わぬ袖は肘を覆い隠すほどで、白い前腕の半ばまでむき出しになった。
満たされた赤い液体を前に、妙な感傷に襲われそうになった朱昂は、すぐにそれに口をつけた。
すっかり温もりを失った真血が朱昂の喉を通り過ぎる。
父から与えられる血。
それを口にするのが最後になるであろうことは分かった上で、朱昂は首を反らし、一息で真血を飲み干した。
ここ一年、まともに父の顔を見ていない。日に三度届けられる“食料”だけが父の生存の証だった。
朱昂が真血の主の治癒能力についての知識を求め、理解を深めるのに呼応するように父の姿を見かけなくなった。
まるで、朱昂の目的に感づいているかのように、真血の主は地下に籠るようになっていった。
決意の日から五年。吸血鬼にとって短いはずの年月が、朱昂にはひどく長かった。
朱昂は銀杯を机に置くと、先ほどから肌を刺すように押し寄せる殺気に意識を戻した。
部屋を出て、二階の露台から森を見る。流石に人里までは見渡せない。
それを知っている朱昂は、一息吸うと、露台から跳躍して屋根の瓦を踏んだ。
主の命が傾き始めていることを察したのか、屋敷を離れる同族は後を絶たなかった。もはや十分な見張りもおらず、王子が夜に部屋を出ても咎める者もいない。
――自由になったものだ。
夜気を吸い込んで、朱昂は顔を上げた。眼前に広がる光景に目を細める。小さく唇を歪めた。
「美しいな」
思わず声が漏れた。
人里から幾筋にも分かれて松明の灯りが並ぶ様は、まるで金色の葉脈のようだった。葉脈は少しずつ広がり、吸血鬼の屋敷へと伸び始めている。
小さな粘菌が這いずるが如く、人の歩みは遅い。しかし、人食い鬼を呪う男たちの歌が風に混じり始めていた。
人間を導くのは、木々に塗られた朱昂の真血だ。幹に書き殴られた血文字は、「火を灯せ、鬼を呪え」と人の狂気を煽り立てる。
朱昂は地面まで一気に飛び降りると、木々の間を走り抜けた。
少年の体には合っていない衣が、風を受けてバタバタとはためく。
真血の主の結界は破られ始めている。朱昂がここ一年をかけて、術式を解いていたのだ。父に感づかれないよう、結界が完全に消失してしまわぬよう慎重に慎重を重ねて。
今の結界はまるで横糸と縦糸の数が合わぬ不出来な布だ。あと一本、糸を抜けば、それは形を成せなくなる。
朱昂は、男たちの松明の炎が四方から覗く場所で足を止め、銀の小刀で深く手首を刺した。拍動に合わせてとくとくと湧き出る体液を足下に垂らす。
小さな水たまりができたところで、つま先を血に浸し、土に彫り込むように文様を描いていく。小さな口が動いた。
――最後の一本が、引き抜かれた。
点々とつけられた血を道しるべに、松明を掲げ歩いていた人間たちは、強い風に皆足を止めた。
一陣の風が吹き抜けた後、顔を上げた人々は、目の前に少年を発見した。
紅い大きな瞳がこちらをまっすぐに見つめている。
少年は一点を見つめているはずだが、そこにいる全ての者が、彼に見つめられたように感じた。
水を打った静けさの後、
「ころせ」
誰かがぽつりとこぼした。どくりと葉脈が震える。
「殺せ!」
「鬼だ!」
「紅い目の鬼!」
「殺せぇえええ!!!!」
静寂を破ったのは男たちの呪詛と、人食い鬼へ殺到する足音だった。
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