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第二章 月ニ鳴ク獣
第二十三話 手がかりを求めて(1)
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香炉に燃え残りが燻っていた。ふっと息を吹きかけると、ちりちりと小さな炎が木片を舐めるのが見えた。見入っていた月鳴は、ちろり、ちろりと橙色が触角を伸ばすように燃え上がる様子を見て、唇の力を緩める。笑み交じりのため息を吐くと、椅子を離れて露台に出た。
うんと腕を伸ばす。勤めの後に体を拭いているのに、じとっと脂じみている気がする。河から来る風が肌を洗う気がする。
「あらゆる欲望を叶える街」と呼ばれる幻市は、猥雑な二つ名にそぐわぬ清潔さを漂わせていた。大路は白い石畳で舗装され、等間隔に磨き上げられた灯籠が並ぶ。道端は掃き清められ、大きな車が通っても砂埃で視界を塞がれたりはしない。月鳴のいる店は大路から少し離れているが、露台から通りを見ても目立ったごみはない。
昼は静かで、深呼吸をしても、咳が出たり、胸がむかむかすることはなかった。脂や血や排泄物の混じったような匂いがする場所から来た月鳴は、当初鼻が効かなくなったと錯覚したほどだった。
通りを白い狐が歩いてくるのが見えた。すぐに部屋に戻り、背中まで伸びた髪を結ったり卓の上を片づけていると、戸が開いた。
「まあまあの売上だね」
挨拶代わりのそれに「ありがとうございます」と答えながら、白火に椅子を勧める。部屋を見回す気配を見せた白火は、結局何も言わずに椅子に座った。お付きのふたりが糸で綴じた紙束と墨と筆を用意する。
白火は台帳の白い頁を開くと、筆を走らせ始めた。
「売上……場所代、食事代、洗濯代と、衣装と化粧代がこれ。あとは散髪代、と」
言いながら領収書等をもとにするすると数字が書き込まれている。娼妓が商売をするために「花主」という存在が必要不可欠だ。花主は娼妓の持ち主で、売上の管理を行う。白火は月鳴を妓楼で働かせ、売上で娼妓の必要経費を払い、残りを懐に入れる。
白火は毎月こうして月鳴とともに帳簿をつけ、小遣いを渡すのだ。
小遣いといっても、おやつを買ったり、花主にねだるまでもないもの、例えば痛み止めや針や糸、そんなものを買う程度しか月鳴には残らないのだ。
「散髪、三月に一度で良くないかな。整える程度しか切ってないよ」
「いいところになると週に一度は呼ぶんだ。どんなに格の高い娼妓でも、売上に占める散髪や髪結い代の割合は変わらない。手入れをけちるようなら、その娼妓は長くない。月鳴――」
「上がり続けなければ死ぬ、だろ。分かってるよ……」
「分かってるなら香木の無駄遣いをせずに火を消せ」
少しでも手を抜いたり、現状維持で生きてさえいればいいんだという考えは、娼妓にとって命取りだと白火は繰り返す。
なぜなら娼妓は老いるから。若さ以上の何かを身につけるために精進せねば、売上は落ち、花主に捨てられる。オンナを捨てる前に、花主は大概娼妓を細かく捌き、売り払うのだ。生きて金にならなきゃ殺して金にする。それが幻市の商売だった。
中身は燃えかすだと言い訳しても始まらない。月鳴は香炉の中の小さな炎を吹き消した。
渡された小遣いは、自分を一刻買う値段と同じものだった。
清算と胡弓の稽古を終え、月鳴は白火を見送ると息を吐いた。引き出しから折り畳まれた紙片を取り出して開く。そこには、朱昂の特徴や得られた情報が書いてあった。
黒髪、大きな紅い瞳、種族はおそらく――。
月鳴は白火が置いていった小振りの壺に直接口をつけて中のものを飲む。入っているのは血液だ。
――種族はおそらく、吸血鬼。
客の短い寝物語に、月鳴は朱昂の情報がないか注意深く耳を澄ませていた。
欠けている魔境の常識であれば白火から教わることができる。風土、様々な種族の特徴、それぞれの文化。魔族は種族によって平均寿命が異なること。吸血鬼は人間のおよそ五倍から六倍だから、同じくらいかそれより少し短い寿命の客が通うように仕向ければいいと、白火は言う。年の取り方が同じくらいだから、長い付き合いになりやすいというのが理由だ。
逆に、朱昂のことは白火に打ち明けていなかった。白火の「授業」で秘蹟のことを聞いてから、打ち明けるきっかけを逸した。
――もし吸血鬼であれば、朱昂は秘蹟かもしれない。真血の主の記憶があるなどと言っても、笑われて終わりだ。
魔境の頂点に君臨する奇跡の力を有する者たち、それを〝秘蹟〟と呼ぶ。吸血族の秘蹟は、真血だ。病をいやす万能の血液が流れる吸血鬼・真血の主を吸血族は王として戴くという。
書付を見ていた月鳴はある文字を見て嘆息した。行方不明、死亡。客の話を総合するに、吸血族には現状王がいないということはたしかだった。吸血族を、真血の主以外の者が統べているらしい。それ以外、はっきりとした情報がなかった。
首筋がちりちりと痛む。首の裏にある鱗のような痣を押さえた指は、続いて左足首に触れる。そこには金色の足環があった。
男娼となる契約と同時にはめられた優美な装飾品は、娼妓の脱走を防ぐ鎖だった。花主だけでなく妓楼にも居所を伝える呪具で、幻市を出ようとすると足が飛ぶらしい。おどろおどろしい噂話をすべて信じているわけではないが、幻市に最も多い店は肉屋だということは事実だった。
脱走を図ったもの、病気で売り物にならなくなったものは、すべて肉屋の手にかかる。幻市を出る方法はほぼないのだと、足環は常に現実を突きつける。朱昂を自らの足で探しに行くことは叶わない。だが、男娼にならなければ生きることさえ許されなかった。
紙片を畳み、引き出しにしまう。それでも、月鳴は朱昂を求め、紙片に情報をまとめる。細い糸を手繰っていればいつか彼にたどり着くと信じて。糸が切れないことを祈りながら。
うんと腕を伸ばす。勤めの後に体を拭いているのに、じとっと脂じみている気がする。河から来る風が肌を洗う気がする。
「あらゆる欲望を叶える街」と呼ばれる幻市は、猥雑な二つ名にそぐわぬ清潔さを漂わせていた。大路は白い石畳で舗装され、等間隔に磨き上げられた灯籠が並ぶ。道端は掃き清められ、大きな車が通っても砂埃で視界を塞がれたりはしない。月鳴のいる店は大路から少し離れているが、露台から通りを見ても目立ったごみはない。
昼は静かで、深呼吸をしても、咳が出たり、胸がむかむかすることはなかった。脂や血や排泄物の混じったような匂いがする場所から来た月鳴は、当初鼻が効かなくなったと錯覚したほどだった。
通りを白い狐が歩いてくるのが見えた。すぐに部屋に戻り、背中まで伸びた髪を結ったり卓の上を片づけていると、戸が開いた。
「まあまあの売上だね」
挨拶代わりのそれに「ありがとうございます」と答えながら、白火に椅子を勧める。部屋を見回す気配を見せた白火は、結局何も言わずに椅子に座った。お付きのふたりが糸で綴じた紙束と墨と筆を用意する。
白火は台帳の白い頁を開くと、筆を走らせ始めた。
「売上……場所代、食事代、洗濯代と、衣装と化粧代がこれ。あとは散髪代、と」
言いながら領収書等をもとにするすると数字が書き込まれている。娼妓が商売をするために「花主」という存在が必要不可欠だ。花主は娼妓の持ち主で、売上の管理を行う。白火は月鳴を妓楼で働かせ、売上で娼妓の必要経費を払い、残りを懐に入れる。
白火は毎月こうして月鳴とともに帳簿をつけ、小遣いを渡すのだ。
小遣いといっても、おやつを買ったり、花主にねだるまでもないもの、例えば痛み止めや針や糸、そんなものを買う程度しか月鳴には残らないのだ。
「散髪、三月に一度で良くないかな。整える程度しか切ってないよ」
「いいところになると週に一度は呼ぶんだ。どんなに格の高い娼妓でも、売上に占める散髪や髪結い代の割合は変わらない。手入れをけちるようなら、その娼妓は長くない。月鳴――」
「上がり続けなければ死ぬ、だろ。分かってるよ……」
「分かってるなら香木の無駄遣いをせずに火を消せ」
少しでも手を抜いたり、現状維持で生きてさえいればいいんだという考えは、娼妓にとって命取りだと白火は繰り返す。
なぜなら娼妓は老いるから。若さ以上の何かを身につけるために精進せねば、売上は落ち、花主に捨てられる。オンナを捨てる前に、花主は大概娼妓を細かく捌き、売り払うのだ。生きて金にならなきゃ殺して金にする。それが幻市の商売だった。
中身は燃えかすだと言い訳しても始まらない。月鳴は香炉の中の小さな炎を吹き消した。
渡された小遣いは、自分を一刻買う値段と同じものだった。
清算と胡弓の稽古を終え、月鳴は白火を見送ると息を吐いた。引き出しから折り畳まれた紙片を取り出して開く。そこには、朱昂の特徴や得られた情報が書いてあった。
黒髪、大きな紅い瞳、種族はおそらく――。
月鳴は白火が置いていった小振りの壺に直接口をつけて中のものを飲む。入っているのは血液だ。
――種族はおそらく、吸血鬼。
客の短い寝物語に、月鳴は朱昂の情報がないか注意深く耳を澄ませていた。
欠けている魔境の常識であれば白火から教わることができる。風土、様々な種族の特徴、それぞれの文化。魔族は種族によって平均寿命が異なること。吸血鬼は人間のおよそ五倍から六倍だから、同じくらいかそれより少し短い寿命の客が通うように仕向ければいいと、白火は言う。年の取り方が同じくらいだから、長い付き合いになりやすいというのが理由だ。
逆に、朱昂のことは白火に打ち明けていなかった。白火の「授業」で秘蹟のことを聞いてから、打ち明けるきっかけを逸した。
――もし吸血鬼であれば、朱昂は秘蹟かもしれない。真血の主の記憶があるなどと言っても、笑われて終わりだ。
魔境の頂点に君臨する奇跡の力を有する者たち、それを〝秘蹟〟と呼ぶ。吸血族の秘蹟は、真血だ。病をいやす万能の血液が流れる吸血鬼・真血の主を吸血族は王として戴くという。
書付を見ていた月鳴はある文字を見て嘆息した。行方不明、死亡。客の話を総合するに、吸血族には現状王がいないということはたしかだった。吸血族を、真血の主以外の者が統べているらしい。それ以外、はっきりとした情報がなかった。
首筋がちりちりと痛む。首の裏にある鱗のような痣を押さえた指は、続いて左足首に触れる。そこには金色の足環があった。
男娼となる契約と同時にはめられた優美な装飾品は、娼妓の脱走を防ぐ鎖だった。花主だけでなく妓楼にも居所を伝える呪具で、幻市を出ようとすると足が飛ぶらしい。おどろおどろしい噂話をすべて信じているわけではないが、幻市に最も多い店は肉屋だということは事実だった。
脱走を図ったもの、病気で売り物にならなくなったものは、すべて肉屋の手にかかる。幻市を出る方法はほぼないのだと、足環は常に現実を突きつける。朱昂を自らの足で探しに行くことは叶わない。だが、男娼にならなければ生きることさえ許されなかった。
紙片を畳み、引き出しにしまう。それでも、月鳴は朱昂を求め、紙片に情報をまとめる。細い糸を手繰っていればいつか彼にたどり着くと信じて。糸が切れないことを祈りながら。
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