51 / 106
第二章 月ニ鳴ク獣
第二十八話 研鑽(2)
しおりを挟む
昼前の柘律殿は行きかう者も多い。葵穣と別れた朱昂は、挨拶に軽くうなずきながら見えてきた階段の後ろに回った。つま先にやや力をこめて床を蹴ると、赤い光によって複雑な文様の術式が浮かび上がった。人界への入り口だ。
朱昂が術式を練ったのではない。柘律殿にもとからあったものだった。朱昂が何かにいらついて床を蹴った時に、浮かび上がったのだった。
吸血鬼は血を糧にする。魔族や獣でもいいが、相性がいいのは人間だった。柘律殿を含む結界内では満足に血も得られず困っていたところに発見された人界への扉は、朱昂や朱昂の従者たちを癒し、肥えさせてきた。
この出入り口が、祖父が生前に使っていたものか、真血派が残した後世への贈り物かは分からない。もしも後者であれば準備が良すぎると思う。もしかすると柘律は真血の主と吸血族が反目する現状を予想していたのかもしれない。
三十年経っても変わらずにある柘律殿の結界すら、いざとなったら張るようにと祖父が周囲に指示していたのではないかと朱昂は考えていた。
――余計なことを考えずに子作りをしておれば良かったろうに。
そう悠長に構えていられる状況ではなかったのかもとは思うが、今となってはすべて推測で答えは出ない。ただ、柘律とそれに付き従った者たちの意思が、朱昂を生き永らえさせているのはたしかだった。
朱昂が術式の中央に立つ。くらくらと平衡感覚が狂い、空気が薄くなる。界をまたぐ際に火薬っぽい匂いが一瞬たちこめるのが好きではない。平衡感覚が戻ると、朱昂は盛大にくしゃみをした。
術式から一歩踏み出すと、ギシと床が嫌な軋み方をした。雨の音がする。
「またくしゃみをしている。顔を見なくても、お殿が来たってすぐに分かる」
「寒い」
若いなりに落ち着いた女の声が朱昂をからかった。
軽装の朱昂の肩に上着をかける者がいる。どうぞと火鉢の近くの椅子を勧められた。椅子といってもただの木箱に近い。乾いた草の匂いが立ち込めている。火鉢から、盛んに炎の先が見えていた。
柘律殿の反対側にあるのは薬草を収める倉庫だった。中々に広い。朱昂はほぼ中央にいるが、入り口近くにいる者を呼び寄せるにはそれなりの声量が必要だ。屋根は高く、見上げると太い梁が縦横に走っている。両側のほとんどが小さな引き出しの集合だった。屋根裏には、薬草を干すのに使った。焙煎で使う火を、火鉢に移して暖をとっているのだろう。大釜の近くでも、いくつかくつろいでいる姿が見える。
人界は魔境とちょうど時が反転している。あちらで正午近かったから、こちらは深夜である。
「急に呼び出してごめんね」
朱昂の隣に、先ほど真血の主をからかった女がいた。真っ黒の、肩から足元までをすっぽりと覆う外套を着ているせいで体つきは分からない。黒髪を頭の高いところで結っている。口布を下ろして、女は干し柿にかぶりつく。朱昂の使い魔・玄姫。白郎の双子の姉だ。
朱昂の使い魔は生殖に縁のない幽鬼の女が孕んで産んだ双子の姉弟だ。片方は死者、片方は生者として生まれた。それだけでも理外の者だが、一番奇怪なのは双子の間で生死が反転することだった。今は白郎が死者で玄姫が生者だが、玄姫が死ねば、白郎が生者となり姉が幽鬼となる。姉弟で死と転生が完結していた。いつから生きているか、ふたりとも分からないという。
双子は、他殺がほぼ不可能な真血の主を殺害した朱昂を気に入り、自ら降ってきた。いつか自分たちを終わらせてくれると信じている。朱昂はそれほど熱心に関わる気はないが、互いの暇つぶしにはなるだろうと答えた。
「西にね、詳しいことは地図にあるけど、西に頭を病んでいる者がいるよ。死にそうだけど、まだ死んでいない」
「年は?」
「三十五。男。ちょうどいいと思って。脳の病で間違いない」
ふむ、と朱昂は渡された柿のヘタをむしった。
玄姫は人界と魔境を行き来しながら薬を売り歩いている。魔境では朱昂のしもべに関する情報を得るため、人界では朱昂が行う医術の「実験体」を探すためだ。魔境での結果は芳しくないが、人界の方は順調だ。
「正直に告白すると、死んでても好都合かなーとは思うよ。お殿、五臓六腑ほとんど治せるでしょう? もうそろそろ蘇生を試していいと思うけどね」
「今朝がた柘律殿の裏手で豺が死んでいた。試したが、失敗した」
玄姫は朱昂の手から奪った柿のヘタを火鉢に投げ込んだ。
「ままならないもんだわね……。じゃ、さっぱり御大尽を治して、たんまりお代をいただきますか!」
「御大尽?」
「知事の息子らしいよ。あ、そうそうあの家年の離れた三姉妹がいる。ひとりはじじいに嫁いだ出戻りだってよ。欲求不満ですって顔に書いてあった。がんばってね、お殿」
美人だったと付け足され、額をかく朱昂に、周りの男たちがくつくつと笑う。
「余計な世話をする」
「玄姫が言わなくとも、殿のお顔を見ればあちらから飛びついてきますよ」
「そんなにか」
「そういう噂です。我らにまで粉をかけてきたくらいで」
玄姫と行動しているのは、人界によく慣れた年配の者が多い。朱昂は柿を頬張り、飲み込んだ。
「くれるというなら頂こう。生で血も飲みたかったところだ」
手を火にかざした朱昂はしばらく炎の先を見ていたが、持参する道具や薬について指示をするために立ち上がった。雨の音が、続いていた。
朱昂が術式を練ったのではない。柘律殿にもとからあったものだった。朱昂が何かにいらついて床を蹴った時に、浮かび上がったのだった。
吸血鬼は血を糧にする。魔族や獣でもいいが、相性がいいのは人間だった。柘律殿を含む結界内では満足に血も得られず困っていたところに発見された人界への扉は、朱昂や朱昂の従者たちを癒し、肥えさせてきた。
この出入り口が、祖父が生前に使っていたものか、真血派が残した後世への贈り物かは分からない。もしも後者であれば準備が良すぎると思う。もしかすると柘律は真血の主と吸血族が反目する現状を予想していたのかもしれない。
三十年経っても変わらずにある柘律殿の結界すら、いざとなったら張るようにと祖父が周囲に指示していたのではないかと朱昂は考えていた。
――余計なことを考えずに子作りをしておれば良かったろうに。
そう悠長に構えていられる状況ではなかったのかもとは思うが、今となってはすべて推測で答えは出ない。ただ、柘律とそれに付き従った者たちの意思が、朱昂を生き永らえさせているのはたしかだった。
朱昂が術式の中央に立つ。くらくらと平衡感覚が狂い、空気が薄くなる。界をまたぐ際に火薬っぽい匂いが一瞬たちこめるのが好きではない。平衡感覚が戻ると、朱昂は盛大にくしゃみをした。
術式から一歩踏み出すと、ギシと床が嫌な軋み方をした。雨の音がする。
「またくしゃみをしている。顔を見なくても、お殿が来たってすぐに分かる」
「寒い」
若いなりに落ち着いた女の声が朱昂をからかった。
軽装の朱昂の肩に上着をかける者がいる。どうぞと火鉢の近くの椅子を勧められた。椅子といってもただの木箱に近い。乾いた草の匂いが立ち込めている。火鉢から、盛んに炎の先が見えていた。
柘律殿の反対側にあるのは薬草を収める倉庫だった。中々に広い。朱昂はほぼ中央にいるが、入り口近くにいる者を呼び寄せるにはそれなりの声量が必要だ。屋根は高く、見上げると太い梁が縦横に走っている。両側のほとんどが小さな引き出しの集合だった。屋根裏には、薬草を干すのに使った。焙煎で使う火を、火鉢に移して暖をとっているのだろう。大釜の近くでも、いくつかくつろいでいる姿が見える。
人界は魔境とちょうど時が反転している。あちらで正午近かったから、こちらは深夜である。
「急に呼び出してごめんね」
朱昂の隣に、先ほど真血の主をからかった女がいた。真っ黒の、肩から足元までをすっぽりと覆う外套を着ているせいで体つきは分からない。黒髪を頭の高いところで結っている。口布を下ろして、女は干し柿にかぶりつく。朱昂の使い魔・玄姫。白郎の双子の姉だ。
朱昂の使い魔は生殖に縁のない幽鬼の女が孕んで産んだ双子の姉弟だ。片方は死者、片方は生者として生まれた。それだけでも理外の者だが、一番奇怪なのは双子の間で生死が反転することだった。今は白郎が死者で玄姫が生者だが、玄姫が死ねば、白郎が生者となり姉が幽鬼となる。姉弟で死と転生が完結していた。いつから生きているか、ふたりとも分からないという。
双子は、他殺がほぼ不可能な真血の主を殺害した朱昂を気に入り、自ら降ってきた。いつか自分たちを終わらせてくれると信じている。朱昂はそれほど熱心に関わる気はないが、互いの暇つぶしにはなるだろうと答えた。
「西にね、詳しいことは地図にあるけど、西に頭を病んでいる者がいるよ。死にそうだけど、まだ死んでいない」
「年は?」
「三十五。男。ちょうどいいと思って。脳の病で間違いない」
ふむ、と朱昂は渡された柿のヘタをむしった。
玄姫は人界と魔境を行き来しながら薬を売り歩いている。魔境では朱昂のしもべに関する情報を得るため、人界では朱昂が行う医術の「実験体」を探すためだ。魔境での結果は芳しくないが、人界の方は順調だ。
「正直に告白すると、死んでても好都合かなーとは思うよ。お殿、五臓六腑ほとんど治せるでしょう? もうそろそろ蘇生を試していいと思うけどね」
「今朝がた柘律殿の裏手で豺が死んでいた。試したが、失敗した」
玄姫は朱昂の手から奪った柿のヘタを火鉢に投げ込んだ。
「ままならないもんだわね……。じゃ、さっぱり御大尽を治して、たんまりお代をいただきますか!」
「御大尽?」
「知事の息子らしいよ。あ、そうそうあの家年の離れた三姉妹がいる。ひとりはじじいに嫁いだ出戻りだってよ。欲求不満ですって顔に書いてあった。がんばってね、お殿」
美人だったと付け足され、額をかく朱昂に、周りの男たちがくつくつと笑う。
「余計な世話をする」
「玄姫が言わなくとも、殿のお顔を見ればあちらから飛びついてきますよ」
「そんなにか」
「そういう噂です。我らにまで粉をかけてきたくらいで」
玄姫と行動しているのは、人界によく慣れた年配の者が多い。朱昂は柿を頬張り、飲み込んだ。
「くれるというなら頂こう。生で血も飲みたかったところだ」
手を火にかざした朱昂はしばらく炎の先を見ていたが、持参する道具や薬について指示をするために立ち上がった。雨の音が、続いていた。
0
あなたにおすすめの小説
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*不定期連載です。
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
入社1ヶ月のワンコ系男子が、知らずのうちに射止めたのはイケメン社長!?
monteri
BL
CM制作会社の新入社員、藤白純太は入社1ヶ月で教育係の先輩が過労で倒れたため、特別なクライアントの担当を引き継ぐことになる。
そのクライアントは、女子禁制ミーハー厳禁の芸能事務所だった。
主人公の無知で純なところに、翻弄されたり、骨抜きにされるイケメン社長と、何も知らない純太がドキドキするお話です。
※今回の表紙はAI生成です
※小説家になろうにも公開してます
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
素直に同棲したいって言えよ、負けず嫌いめ!ー平凡で勉強が苦手な子が王子様みたいなイケメンと恋する話ー
美絢
BL
勉強が苦手な桜水は、王子様系ハイスペックイケメン幼馴染である理人に振られてしまう。にも関わらず、ハワイ旅行に誘われて彼の家でハウスキーパーのアルバイトをすることになった。
そこで結婚情報雑誌を見つけてしまい、ライバルの姫野と結婚することを知る。しかし理人は性的な知識に疎く、初夜の方法が分からないと告白される。
ライフイベントやすれ違いが生じる中、二人は同棲する事ができるのだろうか。【番外はじめました→ https://www.alphapolis.co.jp/novel/622597198/277961906】
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる