王の愛は血より濃し 吸血鬼のしもべ第2部

時生

文字の大きさ
53 / 106
第二章 月ニ鳴ク獣

第二十九話 沈みゆく月(2)

しおりを挟む
 風呂を浴び、布を替えては黒髪を押さえながら、月鳴は応接間の椅子に腰かけた。耳の裏をぬぐった布が膝に落ちた。

 月鳴の胸に、老爺の問いが刺さっていた。夢王の入店と被らないためなどというのは嘘だ。むしろ、男は夢王に近づくために月鳴を抱いている。先ほどの豪商に限らず、月鳴を買う者はみな夢王の影を追っているのだ。美しい、愛していると囁く言葉は、そのまま淘乱に向けられている。月鳴自身そのことに異論はない。問題があるとすれば、前回の夢王の来訪が五年前だということだ。

 しんと静まり返った室内に、戸の開く音が響いた。少女が、盆を持って入ってきた。背中に朱雀を思わせる橙色だいだいの羽を背負っている。少女は月鳴をちらりと見ると、卓の上に持参した朝食を置き、窓を細く開けた。

「兄様、歯でも痛むの?」
「憂い顔の練習をしてるんだよ」

 羽があるために、背中が広く開いた衣を着ている少女が乳房の下で締めた細い帯を指で直す。卓の横まで来ると朝食を広げ始める。食器がたてるかすかな音を聞きながら、表情を動かさない月鳴に、少女はぽつりとこぼした。

「わたしも練習しようかな」
翼和よくわは、憂い顔はばっちりだから笑顔だな」
「こう?」

 陶器のような肌を持つ少女が微笑んだ。白い前歯を覗かせて、やや太い眉を下げる。目を細めると白いまぶたが広くなって色っぽい。

「綺麗だこと」

 手短な誉め言葉に、翼和が真顔に戻った。すんとしたとらえどころのない表情。感情の浮き沈みがあまりない翼和は笑顔が似合わない。最近成魔になり、飾りだったような羽が大きくなった少女は、乳房が膨らむ前から大人びた表情をする子どもだった。しかし、精神的にはまだ幼いところもある。破瓜の痛みやそれに対してどう我慢するかを周りから吹き込まれて、おろおろしているのを最近見た。処女を高く売るために、白火はくびは彼女に性的な手ほどきを部分的にしかしていないのだ。

 翼和が手を止め、ふたりの朝食が始まる。月鳴の妹分として翼和がやってきたのはほんの幼いころだ。箸の上げ下げから教えた月鳴にとって、翼和は妹というより娘に近かった。

「今日、お昼過ぎに白火様がいらっしゃるって」
「聞いた。妙な時期に来る。初夜の日取り、決まったのかもね」

 翼和の眉にむっと緊張が宿るのを、月鳴は匙を置くふりをしながら盗み見る。

 裏通りの妓楼時代から続く、毎月の売り上げ計算は今でも続いている。湛礼台たんれいだいの中でも指折りの高級娼妓となり、扱う数字は膨大になったが、行うことは同じだ。ただ、十日ほど前に売り上げの締め日が過ぎたばかり。月鳴の花主として一躍幻市の名士に名乗りを上げた白火は忙しい。こまめに湛礼台に来たいのだろうが、最近は売り上げ計算の日に用事をすべて済ませるようになっていた。

 朝食の器を下げると、翼和が月鳴の髪を梳かし始める。目の粗い櫛を全体にかけ、徐々に細かい櫛を使う。弱く髪を引かれる心地よさに目を閉じる。
 長く見積もっても一年以内に、翼和は客の髪を梳かすようになるだろう。ひとりで食べる朝食はどんなものだろうか。月鳴は目を下げて、翼和の鼻歌を聞く。翼和は歌の名手だった。

「兄様、眠いなら寝てください」
「お嬢様の言う通りにしようかな」
「終わったら起こします」

 翼和の歌がか細く途切れた時、鋭い悲鳴が聞こえた。体を強張らせた月鳴が急いで窓辺に向かう。

 追いかけてくる翼和とほぼ同時に階下を見た。十五階建ての湛礼台の、十二階部分に月鳴の居室がある。その真下で女が金切り声を上げていた。窓から、白い女の腕が伸びている。

 ――あたしの命は、あたしのものだ!

 意味が通って聞こえてきたのはそれだけ。気が触れたように騒ぎ立てる叫びが大きくなる。窓枠から真っ白な夜着を着た女が身をくねらせながら出てくる。

「やめてぇーーー!!!」

 月鳴の腕を絞るように握りしめた翼和が叫んだ。呆然としていた月鳴がはっと現実感を取り戻す。女ももう右足を屋根にかけている。左足が出てしまう。額に汗を浮かべて、月鳴も口を開いた。

「足を出すな! 戻れ、戻れぇ!!」

 顔を上げた女と、目が合った。かつて同じ階で働いていたこともある女。胡弓の音を褒めてくれたこともあった。
 女は目を見開き、一声叫ぶと、左足を窓から出した。

「次はお前だ!」

 左足首に嵌められた金の輪が、朝日にキラリと光った。

「見るんじゃない!」

 月鳴がぐいと翼和を抱きしめる。女の左足が窓枠を出た瞬間、金の輪の先から鮮血が噴きだした。湛礼台に張られた結界を断りなく出た娼妓に下される制裁。不安定な屋根の上で左足首から下を失った女はふらふらと体を揺らし、悲鳴ひとつあげずに落下した。

 月鳴は翼和を抱え、耳を塞ぐように窓辺を離れた。悲鳴や喧騒が細く開いた窓から聞こえてくるが、月鳴は翼和を抱いたまま床に座り込み動くことはなかった。耳に、女の最期の声がべったりと張りついたようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *不定期連載です。

身代わり召喚された俺は四人の支配者に溺愛される〜囲い込まれて逃げられません〜

たら昆布
BL
間違って異世界召喚された青年が4人の男に愛される話

エリート上司に完全に落とされるまで

琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。 彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。 そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。 社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

入社1ヶ月のワンコ系男子が、知らずのうちに射止めたのはイケメン社長!?

monteri
BL
CM制作会社の新入社員、藤白純太は入社1ヶ月で教育係の先輩が過労で倒れたため、特別なクライアントの担当を引き継ぐことになる。 そのクライアントは、女子禁制ミーハー厳禁の芸能事務所だった。 主人公の無知で純なところに、翻弄されたり、骨抜きにされるイケメン社長と、何も知らない純太がドキドキするお話です。 ※今回の表紙はAI生成です ※小説家になろうにも公開してます

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

素直に同棲したいって言えよ、負けず嫌いめ!ー平凡で勉強が苦手な子が王子様みたいなイケメンと恋する話ー

美絢
BL
 勉強が苦手な桜水は、王子様系ハイスペックイケメン幼馴染である理人に振られてしまう。にも関わらず、ハワイ旅行に誘われて彼の家でハウスキーパーのアルバイトをすることになった。  そこで結婚情報雑誌を見つけてしまい、ライバルの姫野と結婚することを知る。しかし理人は性的な知識に疎く、初夜の方法が分からないと告白される。  ライフイベントやすれ違いが生じる中、二人は同棲する事ができるのだろうか。【番外はじめました→ https://www.alphapolis.co.jp/novel/622597198/277961906】

従僕に溺愛されて逃げられない

大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL! 俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。 その傍らには、当然のようにリンがいる。 荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。 高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。 けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。 当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。 居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。 さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。 主従なのか、恋人なのか。 境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。 従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。

処理中です...