王の愛は血より濃し 吸血鬼のしもべ第2部

時生

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第二章 月ニ鳴ク獣

第三十五話 暗夜行

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 一月後、朱昂しゅこう白火はくびが静養している夢王宮の前にあった。
 極力少なくした供回りと駒を並べ、夜風に吹かれている。約束の刻限が近い。待っていると、急に辺りがドクリと歪み、何もない藪の中に象嵌が施された大扉が現われた。

 夢王宮並びに夢魔の棲む街は魔境ではなく王の見る夢の中にある。無数の出入り口が魔境や人界にあり、そこから出入りするのだ。

 数名の夢魔とともに出てきた白火が朱昂にひざまずいた。夢魔も同じく挨拶をすると、若い吸血鬼たちに流し目をしながら扉の中に戻る。老狐が淘乱の用意した黒馬に跨がる様は、病みあがりを感じさせない。朱昂は姿勢を正し、音が出るほど手綱を握る。

「体調は?」
「良好です。これまでにないほどに」

 朱昂は馬を歩かせながらうなずいた。ドクドクと鼓動が早くなる。期待をする自分に哀れを覚えたのは一瞬のこと。首を軽く振って、顔をあげた。

「案内頼む。――行こう」

 黄昏はとうに過ぎていた。宵闇を深くする街道を、十二の馬が走り出した。

-----

 街道の石が、蹄に弾かれて道の端へと飛んでいく。往来が多い主要な道路を外れ、砂利の多い悪路を一行は進んでいた。
 左側には湛水たんすいがあり、大河の向こう岸は夜目の利く朱昂をもってしても望めない。

 獣の爪のように細い月が、歪んで水面に落ちている。ぼこり、と馬一頭まるまる包んでしまうかのような泡が水面に浮かび上がり、消えた。魔魚が多く棲む川である。伯陽が生きて幻市に漂着したのは奇跡だと、朱昂は思った。

 幸い狐も夜目が利くため、灯りはつけなかった。黒馬、黒衣の一行は宵闇に紛れて進む。ただ一点、老狐の髪だけが白い。だが、それとて闇には勝てない。河岸を這いずっていた雑魔が、蹄の音に驚いて河に飛び込む音が続く。
 すでに夜半を過ぎていた。ちょうど目的地への距離も折り返しといったところだ。

 ――日が昇る頃には幻市げんしが見えてくる。

 妓楼が店じまいをする頃、湛礼台に到着するはずだ。何事もなければ、である。
 何かあるかもしれない――朱昂には、幻市に入れぬかもしれないという懸念があった。

 理由は見慣れぬ月鳴の首の痣。そして少し前に交わした使い魔との会話だ。
 朱昂は牙がないという特徴を持つ月鳴を、今まで感知できなかったことが不思議だった。その疑問を使い魔のいるところで吐露したところ、玄姫げんきが「たしかに」と言いつつ地図を見下ろして眉をひそめる。

『そもそも私、幻市に行ってないんだね。行けるところは全部行った気になっていた。しかも今まで幻市のことなんか一言も話題に上がったことがないじゃない? 行けとか、行かなくていいとか。――まるで、そこにあるのに目に映ってなかったみたいで、気味が悪いね』

 パチンと、玄姫の言葉と月鳴の首の痣と朱昂の疑問が綺麗にはまったような気がした。大法廷での罰は、伯陽からしもべというあり様を奪うだけで終わっていないのでは。そんな考えが頭から離れない。

 ――ただ、実際に当たらぬことには真実が見えてこない。

 緊張で夜風すら肌をビリピリと刺激する。

 落ち着けと、朱昂が息を吐いたその時、異変は起こった。
 最初に異常を訴えたのは触感だった。ぐにゃりと、まるで飴の中を進むように空気が変わった。握っている手綱も、ぐねぐねと柔らかく膨張したように感じる。次いで音が遠くなり、ほとんど間を置かずに視界が歪んだ。色彩までもがおかしく、油膜に目を覆われたかのように青、黄、紫と月光が七色に分かれる。

 ゾゾっと悪寒が背筋を走ったかと思いきや、もう天地が分からなくなっていた。左右の感覚もない。キュルキュルと音が聞こえそうなほど、内臓のねじれを感じた。耳が痛い。頭蓋の中は冷えた匙でかき混ぜられているようだった。
 吐瀉物がせり上がってくる。ならばここが、口なのか――。

「殿っ!」

 朱昂は護衛に抱えられたまま、川岸で激しく嘔吐した。成体の吸血鬼になったばかりの若者が向かい合わせに朱昂を支えながら、ぶるぶる震える背中をさする。

 ある地点から、馬上で悶え始めた朱昂を落馬の寸前で抱えて、元来た道を戻ったのだ。道中、自分の身に異変が起こったら、ひたすら来た道を戻れという朱昂の言いつけのままに。

「殿、殿っ! 大丈夫ですか? まだ苦しいですか?」

 このような朱昂の姿を見たことがない青年は、もっと離れるべきかと闇に塗りつぶされた道を窺いながら、必死で冷たい背中をさする。

「聞こえておりますか、殿」
「聞こえていればお手に力を。握ってくださいませ」

 すぐに後を追ってきた者らが、青年よりも幾分落ち着いた声音で朱昂に声をかけ、脈をとり、瞳孔の状態を確認しながら手を握る。分厚い手を、朱昂の白い手が握り返した。

「くるし……っ」

 苦しげな音を出して朱昂がまた吐いた。若者の肩にすがりついて体を震わせる。
 生まれた頃から真血に守られてきた朱昂は、内臓の異常による苦しみに不慣れだった。まして嘔吐など久しぶりだと、冷や汗で顔中を濡らしながら朱昂は頭の隅で思う。

「横にして、くれ……」

 襟をくつろげ、左半身を下にして地面に横たわった朱昂の口に、護衛らの血が次々と流し込まれる。
 体温が上がったのを感じた朱昂は、なおも血を差し出そうとする護衛を手で制した。

「ありがとう。もう大丈夫だ。……真血が、流れ出したから……」

 仰向けに転がると顔を両手で覆って、大きな音で息を吐いてから、朱昂は辺りを見渡した。

「怪我をしたのはいないか?」
「はい」

 十名が声を揃えて是と答える。朱昂は肩を借りながら体を起こし、輪から離れて立っていた老狐を呼んだ。護衛のひとりに鳴蝶めいちょうを渡せと伝える。
 青年から黒い紙片のようなものを受け取った白火は、懐に収めると馬に跨った。

「月鳴に渡してくれ」
「かしこまりました、お先に参ります」
「あぁ、幻市まで護衛をつける」
「ありがとうございます」

 幻市まで送ったら戻ってこいと言い含めて、護衛を半分に割き老狐に同行させる。詳しいことを尋ねない白火の態度に「世慣れたものよ」と胸中で嘆じつつ、小さくなった後ろ姿が消えたのを見て、朱昂は再び顔を覆った。めまいがするのだ。

「ここの正確な位置を把握しろ。幻市からどれほど離れているか知りたい」

 帰ろう、と朱昂は小さく言った。
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