五番目の婚約者

シオ

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「ノウェ様に乗って頂くのは、この子です」

 目の前には、栗毛色の馬がいた。アナスタシア・ブルクハルトに手綱を引かれてやってきたその子は、とても優しい目をしていた。ぶるる、と口元を震わせた後に鼻先をひくつかせ、俺の匂いを嗅ごうとしている。

「……可愛い」

 俺の匂いを嗅いで、俺に敵意が無いことを理解したのか、栗毛のその耳はゆっくりと倒れていき、最後にはぺたりと垂れた。この子が緊張していない証拠だ。それを確認してから、そっと首を撫でる。毛艶も毛並みも良い。こうして馬に触れていると癒されて、なにも考えずに済んだ。

「実は、この子には名前がないんです」
「え?」
「ないというよりも、開発実験の時に使用する軍馬なので番号で呼んでいるというか。ゼロナナ号というのですが、これからはノウェ様の馬にして頂きたいと思いますので、良ければ名前をつけて頂けませんか?」

 馬を貰えるだなんて思っていなかったので、俺は驚いてしまう。でも、くれるというのなら有り難く貰っておこう。名付けをする。どんな名前が良いだろうと考えて、ふっと頭に浮かんだ言葉があった。

「……ヘカンテ」

 俺の背後に控えるイェルマが息を呑む音がした。その意味を、イェルマはすぐに理解できるからだ。逆に、その言葉の意味を知らないアナスタシアは疑問符を掲げていた。

「へかんて、ですか?」
「俺たちの言葉で、故郷という意味です」

 いつだって俺の頭の中にある言葉。胸に住み着いて剥がせない郷愁。俺のクユセンへ帰りたいという思いが消えることはなかった。そんな俺の姿を見て、アナスタシアも何も言えなくなったようだ。

「馬に乗るのは久々だから、上手く乗れるかな」
「お支えしましょうか」
「乗れなかったら頼む」

 アナスタシアから手綱を受け取り、手綱と鬣を持つ。乗馬に不安を感じた俺に、間髪入れずイェルマが手助けを申し出た。

 ロア族の者として、一人で馬に乗れないなどということになったら恥ずかしくて死にたくなることだろう。鎧に足を入れ、腕に力を込めてそのままの勢いで鞍に座る。自力で乗ることが出来て、安堵した。

「ヘカンテは優しいね」

 暴れもせず、すんなりと俺を受け入れてくれたヘカンテの首を撫でる。俺の独り言が聞こえていたようでアナスタシアが、軍馬の中でも一番穏やかな子を選びました、と教えてくれた。

「走り回ってもいいんですか?」
「はい。この敷地内なら」

 広い草原は平原での戦いを想定して用意されたのだそうだ。この空間で有効な武器を作ることも、この開発局の仕事の一つなのだとアナスタシアは言う。草原は広いが、それでも果てがあった。重厚な鉄格子が強固なまでに全方位を囲っている。ここから逃げることは、不可能だった。

 高い視界に、馬の背中。この景色を、俺はずっと見たかったのだ。ヘカンテの首をもう一度撫で、足で腹を蹴った。その合図でヘカンテがゆっくりと走り出す。その速度は徐々に速くなり、風を切って俺は走った。

 頭の中では何一つ整わず、耳に入れた情報が煩雑に放置されている状態だった。何も考えたくはない。考えたくはないけれど、何故か涙だけは溢れて止まらなかった。

 きっと、俺には帰る場所がない。
 それを悟ってしまった。

 例えば、俺がヘカンテと共にここから脱走して、クユセンの地へ帰ったとしても、父は喜ばない。ロア族のために、男の妻という羞恥に耐えろとそう言うのだ。

 帰れると思っていたのに。あの男の即位まで耐え切れば、終わりだと思っていたのに。婚約者とは名ばかりで、ただの人質だと言っていたのに。それは全て、嘘なのだ。事実、俺はこの国の皇妃などというものになってしまっている。

 逃げたい。逃げたい。どこかへ、逃げてしまいたい。ここではないどこかへ。誰も俺の自由を奪わないところへ。

 少しずつ、ヘカンテは速度を落としていった。目の前に聳え立つ鉄格子が、ヘカンテにも見えているのだ。鉄格子はどこまでも張り巡らされている。俺に逃げられる場所はない。ついに、ヘカンテの足も止まった。

「ヘカンテ、俺を最果てに連れて行ってくれよ」

 毛並みの良い鬣を撫でる。優しいヘカンテは、温かい眼差しをこちらに向けていた。分かっている。これ以上前には進めない。無理に前進を指示すれば、ヘカンテが鉄格子にぶつかってしまう。

 翻し、もう一度全速力で走り出す。冷たい風が容赦なく俺を撫でていく。流した涙は、その風が持ち去った。

 ヘカンテの速度が落ちたところで、走るのをやめ、ゆっくりと歩き始める。ついつい無心で走り続けてしまうが、長距離を延々と全力疾走させると言うのは良い乗り手のすることではない。俺はヘカンテを労りながら、穏やかな歩調で進む。

「八年の間、乗っていなかったとは思えない走り方ですね」

 馬に乗ったアナスタシアが近くへとやって来た。出来れば、馬と一対一の時間を楽しみたかったな、と思ってしまう。長い間、女性との触れ合いが極端に少なかった俺は、アナスタシアが近くにいると緊張してしまうのだ。

「俺も、もう乗れないかと思ってました。……でも、体が覚えていたみたいです」
「流石ロア族の方ですね」

 この人は悪い人ではないと思う。俺を騙した連中の一味ではあるけれど、悪人ではないと感じるのだ。だが、女性への免疫が無さすぎて、目を見て話すことができなかった。

「少し、一緒に歩きませんか」

 緊張しながら走るのは嫌だった。だが、女性に面と向かって嫌だと断る勇気もない。俺は不承不承で頷く。それぞれの馬に乗り、俺たちは並んで歩いた。並んでいる方が顔を見なくて良いので、気持ちが楽だ。

「ノウェ様に出会ってからのヴィルは、本当に人が変わったようでした」
「……え?」

 ぽつりぽつりと、彼女が語り出したのはあの男についてのことだった。ヴィル、と親しげに呼ぶ彼女は、あの男の幼少期からの幼馴染だという。それは、俺とイェルマに近い間柄ということだ。

「こんなに人って変わるんだ、と思ったことを強く覚えています。私には恋だの愛だのはよく分からないので、そういう瞬間は永遠に来ないと思うのですが……ヴィルは確実に、ノウェ様に恋をして変わりました」

 かつては人形のようだった、と彼女は言った。人形を人間にしたのは俺なのだと言う。あの男が強く俺を想っていることなど、もういい加減理解している。それを理解したからこそ、分からないことがある。

「俺には分かりません。それほど思うのであれば、あんな……っ、あんな、無理に……」
「皇帝にとって、初夜の務めというものが重要なのです。この国の事情がノウェ様を苦しめたことは事実ですが、愛するノウェ様と結ばれるためにはああするしかなかったのです」

 アナスタシアは即位式の後、宮殿を出た。だが、即位式の後に宮殿で何があったのかを詳しく知っているらしい。俺があの男にどんな屈辱を与えられたのかを、この人は分かっているのだ。それが恥ずかしく思えた。

「……だとしても、事前に話すとか、もっと方法はあったはずだ」
「ヴィルは恐れていたのだと思います。全て説明して、婚姻の前に拒否されることが。きっと、ノウェ様に全てを打ち明けていれば、ノウェ様は拒まれたでしょう?」
「それは……、そう、だと思う……けど」
「拒まれるのが、怖かったんですよ。ヴィルは。彼にとって大切なのは貴方だけなんです。ノウェ様に否定されたら、命を絶つかもしれない」
「そんなことで?」
「ノウェ様にとって、そんなこと、ということがヴィルにとっては、生死を左右することだったのです。きっと、イーヴもそれを分かっていた。だからこそ、ノウェ様に打ち明けずにいることをヴィルに指示したんだと思います。ヴィルはとても優秀で聡明ですが、ノウェ様のことになると途端頭が回らなくなるようで、いつもイーヴに相談しては指示を仰いでいました」

 横目で見た彼女は、懐かしがるような顔をしていた。思い出に浸るような、そんな顔を。だが、そんな表情を見せられても俺の傷は癒えない。それどころか、そんなこと俺には微塵も関係のないことだ、と怒りが湧く。

「……あんたたちは、俺の意思を蔑ろにしてる。俺の願いはどうなるんだ。俺は……ただ、……ただ、帰りたいだけなのに」

 俺一人を犠牲にして、それぞれの願いを叶えるなんてどうかしている。こんな場所にいたくないと願う俺の祈りは、ささやかなものであるはずなのに。

「もちろん、それは分かっています。我々は皆、悪人です。自分の欲するもののために、ノウェ様を苦しめる決断を下した。憎んでください。どうか、恨んでください」
「憎みたくないし、恨みたくもない。そんな重い感情を背負って生きたくない。帰りたい。……帰りたい」

 先ほど凍えた風が持ち去ってくれたはずの涙が、再び溢れて流れた。女の前で泣くなんて、情けない。そう思うのに、その涙は止まらなかった。

 帰りたいと願っている。生まれ育った懐かしきクユセンへ。けれど、父は俺がこの国で皇妃になることをよしとした。そんな俺に、帰る場所などあるのだろうか。ロア族は、俺の帰還を歓迎してくれるのだろうか。

 名状し難い不安が心に満ちる。泥のようなものが胸に湧いて、濁った澱を作っていった。だめだ。故郷のことを思うと、苦しくて息が出来なくなる。話題を変えなければ、と思考を働かせて俺は言葉を吐き出した。

「……そういえば、貴方以外の婚約者はどうしたんですか?」
「四番目の婚約者は、ノウェ様とヴィルの婚姻が発表されるとすぐに宮殿を去りましたよ。もともと、彼女も本気でヴィルと結婚出来るとは思っていなかったようで、他所に想い合った殿方がいたそうです。親の指示で婚約者になった子でしたから、やっと解放されたと言うところでしょうか」

 羨ましいと思った。俺だって、そうなるはずだった。あの男と誰かの婚姻が決まったら、俺は速攻で立ち去るつもりだったのだ。どうして俺はその四番目の人と同じように出来ていないのだろう。

「二番目と三番目は、姉妹なのですが。……彼女たちは少々厄介かもしれません」
「厄介……?」
「あの二人は、皇妃になりたかったわけではないのです」
「どういうことですか?」
「彼女たちは、ヴィルのことが好きだったんですよ。……皇妃の座などには興味がなく、ヴィルの妻になることこそが願いだった。そう言う少女たちでした。帝国の属領となった小国の国主の娘で、娘たちの願いを聞いて父親が強引にヴィルの婚約者にしたんです」
「……なりたい人がいるのなら、代わりたい」
「でも、ヴィルが求めているのはノウェ様だけですから」

 アナスタシアがにこりと微笑んでそう言った。敢えて言葉にされると、なんとも言えない気持ちになる。どうして、愛してくれる人だけを愛せないのだろう。そうであれば、誰も苦しまないで済むのに。

「彼女たちはすでに宮殿を去り、自領へと戻りました。……けれど、すんなりと諦めたようには見えなかった。……私を何度か毒殺しようとしてきた者たちです。ノウェ様の身はヴィルが全力で守ると思いますが、どうか、ノウェ様もお気を付け下さい」

 毒殺などという恐ろしい言葉が聞こえた。どうしてそんな物騒なことに俺が巻き込まれなければならないのか。そもそも人質としてこの国に来てはいるが、命の危険を感じることなど今までは一度もなかった。

 それが、あの男が俺を守っていたからなのだということは分かっているが、それでも命を脅かされるような危険に直面したことのない俺の心は穏やかではない。俺は口から零れ落ちる溜息を止めることが出来なかった。

「……どうして、こんなことになっちゃったんだろう」

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