五番目の婚約者

シオ

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「なんでわざわざ服なんて作るんだ」

 不満な気持ちを微塵も隠すことなく、ノウェ様が声を漏らす。皇帝の執務室に呼ばれたノウェ様は、皇帝が仕事をこなす机の前に立たされ、体の寸法を測られている。

「ノウェに服を贈りたいんだ」
「お前の即位式の時に貰ったやつがあるだろ」

 専門の職人を呼びつけたらしく、その者がノウェ様の体に巻尺を押し当てていた。腕をあげて下さい、背筋を伸ばして下さい、と指示を受けるたびにノウェ様は不満そうな溜息を零している。

「普通、王妃というものは同じ服装を何度も着たりしないものですよ」
「勿体ないことをするんだな」

 皇帝の横に立ち、ノウェ様の様子を眺めながらそんな言葉を口にした内務卿の頬は随分と赤い。ノウェ様が内務卿との出会い頭に、強烈な一打をお見舞いしたのだ。

 文官然としている内務卿は、その見た目通りに武術に疎いらしく、受け身も取れずに倒れ込み、ノウェ様の更なる一打を食らった。舌鋒を持たないノウェ様が、この男と舌戦をしても勝てる見込みはないが、拳であればノウェ様に軍配が上がるようだ。

 殴りつけられた時に内務卿は、野蛮な王妃だ、と小さく漏らしていた。そんな声を俺はしっかりと聞き取る。当然の報いであるとしか思わない。むしろ、この程度で済ませてやるノウェ様のお優しさに感激したほどだ。

「クユセンの伝統を残しつつも、リオライネンの形に少し寄せるようなものを作らせるつもりだ。それを着て、俺の隣に立っていて欲しい」

 新しい服を誂え、それを着て披露目の晩餐会に出席して欲しいとのことだった。ノウェ様は、クユセンへの帰郷を条件に出席を承諾してしまっている。何故、受け入れてしまったのかと思わずにはいられなかった。

 ただ出席するだけではなく、上手くいっている皇帝と皇妃を演じるというのだ。全くもって理解に苦しむ。よくもそんな烏滸がましい願いをノウェ様に伝えられたものだ。

 ノウェ様は、お優しい方だ。どれだけ憎んでも、嫌っても、それが殺意になることはないのだろう。穢れのない尊い御身を暴力で暴かれたというのに、今はもう平然と皇帝の前に立っておられる。

 折り合いをつけたと、そう仰っていた。憎み続ける苦しさから、その優しいお心を守るためには必要なことだったのだとは思う。だが、俺は絶対に許さない。折り合いなど、永遠につけない。

 今ここで皇帝を殺し、同時に内務卿を殺して逃走すれば、どうなるだろうか。執務室の中にいる警備兵は四人。扉の外には二人いる。警備兵以外で言えば、六人の秘書官が執務室の中を動き回っていた。

 警備兵をまず殺し、その腰元の剣を奪う。次に皇帝だ。溜めに溜めた憎悪を込めて、その首を刎ねてやる。内務卿は簡単に殺せることだろう。文官たちも丸腰だ。処理は容易い。

 だが、その騒動の間に他の警備兵が雪崩れ込んでくる。無理だ。ノウェ様を連れてここから逃げることは、今はまだ、不可能だった。

 剣ではなく弓が欲しい。あれがあれば、数十秒の間にこの部屋の全員の動きを封じることが出来る。そうすれば俺は、ノウェ様の手を引いてこの宮殿を出られるのに。

 追手は当然来るだろう。だがそれも、掻い潜って俺は行く。クユセンへも帰らない。ノウェ様を手放した愚かな土地には最早、未練も里心もない。ただ二人で、穏やかに生きていける場所を探す。

「ノウェが、披露目に出席してくれて嬉しい」

 俺の幼稚な妄想を叩き潰すような不快な声が聞こえた。幸せそうに頬を緩めて、ノウェ様を見ている。この男さえ、この世に存在しなければ。この男さえ、ノウェ様に惚れなければ良かったのに。

「クユセンへ帰るためだからな」
「あぁ、分かってる。ちゃんと、クユセンに一時帰郷出来るように手はずを整えるよ」

 ノウェ様は、ロア族の者達をまだ信じている。疑念は抱きながらも、きっと何か事情があってこんなことになったのだと、そう思うようにしておられるのだ。

 だが、現実を見れば、確実にロア族はこの事態を承知していたとしか言いようがない。即位式が終わっても帰ってこないノウェ様に対し、彼らはなんの動きも見せない。こうなることが、分かっていたからだ。

 どんな事情があったにせよ、ロア族はノウェ様をリオライネンに売った。その事実が変わらない以上、俺はもうクユセンになど戻りたくなかった。彼らと同じ血が流れているとすら思いたくない。

 それでも、ノウェ様はクユセンを恋しがっている。採寸を終えて、大きな椅子に腰を下ろしたその後ろ姿を眺める。美しい赤い髪。血潮のように濃く、夕焼けのように輝く。この世に、ノウェ様ほど美しいものはない。

 俺は、ノウェ様の願いに従う。ノウェ様がクユセンへ帰るというのなら、俺も行く。あの場所はただ、俺が生まれ、ノウェ様と幼少期を過ごしただけの草原。帰りたいなどとは思わないが、ノウェ様が行くのであれば共に行く。

「もしかして、その帰郷、お前も同行するとか思ってないよな?」

 内務卿が発したその言葉に、皇帝の動きが止まる。楽しげな顔で、執務机の前に置いた椅子に座るノウェ様を眺めていたが、その表情が驚愕に満ちて固まった。

「当然そのつもりだが」
「そんな余裕がどこにある。何日帝都を離れることになると思ってるんだ」

 リオライネンは、クユセンから遠い場所にあった。不眠不休のまま、早馬を何頭も乗り換えて駆け抜ければ、三日ほどで辿り着く距離。馬車で進めば往復で一月程度だろうか。

 移動方法によって随分と日数が変動するが、ノウェ様と皇帝がクユセンへ行くとなれば護衛や侍従も連れて行かねばならず大所帯となり、また全体の動きが鈍る。多くの日数が必要となることは自明だった。

「政務は前倒しで終わらせる」
「お前だけの都合で動かせるわけないだろ」
「皇帝の願いを叶えるのがお前の仕事じゃないのか」
「限度がある。お前の不在が長くなれば、政が機能しない」

 王侯貴族など飾り物で、実質的には一部の人間が国を動かしている、という国が世界にはいくつもあると聞く。けれど、このリオライネンという国は実務をこなす皇帝がおり、大臣や議員たちは馬車馬の如く働くのだという。

 そんな国で、最高決定権を持つ皇帝が不在であれば、政が滞ってしまうのも当然だった。皇帝が、ノウェ様の帰郷に同行しないというこの流れは好ましい。このまま進めと、心の中で強く願った。

「別に、ヴィルヘルムは来なくていい」
「ほら。皇妃様もこう仰ってる」

 はっきりとそう言い切ったノウェ様に拍手を送りたくなった。内務卿もノウェ様の意見に同調する。目に見えて皇帝は落胆し、悲しげな表情と縋るような目をノウェ様に向けた。無様な姿だった。

「……ノウェ、俺はノウェと一緒に遠出が出来ると喜んでいたんだが」
「勝手に喜ぶな。俺はお前と一緒に遠出なんてしたくない」

 皇帝相手だからといって一切忖度しないノウェ様の物言いに胸がすく。思わず笑ってしまいそうだった。必死に口元を引き締めて、俯く。採寸を終えて、出された紅茶を飲み干したノウェ様は立ち上がった。

 この部屋を出て行こうとするノウェ様に、皇帝はもう少し会話をしないか、と声を掛けたが、しっかり働け、とだけ言い残してノウェ様は執務室を後にした。あまりにも痛快な光景だった。

「ノウェ様、これからどうされますか。馬に会いに行かれますか」

 部屋を出たノウェ様は、初めて訪れた執務室の大きな扉を振り返って眺めていた。木目の美しい材木一枚で作られ、精緻な細工の施されている扉だった。扉の前に立つ警備兵は、ちらちらとノウェ様を見ている。物珍しいものを見るような瞳だった。

 もともとノウェ様は人目を避けて、人通りの少ない廊下ばかりを選んで歩いていた。最近では開発局へ馬に乗りに行くために車寄せに行ったり、庭園を散歩するようなことも増えたが、それでもノウェ様の姿を警備兵たちが目にするのは稀なことで、好奇の目を向けられるのは仕方の無いことだと思うほかなかった。

「うーん……。なんか、ちょっと疲れたな。何もしてないんだけど、気を張ってたのかな」
「では少し横になられますか」
「そうしようかな」

 皇帝の前に立つことは、未だ、ノウェ様にとっては心労が重なる行為なのかもしれない。ノウェ様本人がそれを自覚しているかどうかは分からないが、無意識のうちに疲れていたのだろう。

 ノウェ様は、寝室へと歩を進める。寝室とはいうが、あの部屋はもはやノウェ様の居住空間の全てだった。あの部屋で寝起きし、食事をし、読書をする。ノウェ様は多くの時間を、あの寝室で過ごしていた。

 廊下を進むノウェ様の髪が、馬の尾のように揺れている。クユセンで生活していた頃は三つ編みにすることが多かったが、それは入浴の習慣がなく濡らしたり、乾かしたり、といったことが滅多になかったからだ。

 俺はノウェ様の髪に長い間触れていることが出来るので、三つ編みにするのもやぶさかではないのだがノウェ様本人が、夜にまた解くのに毎日結ぶの面倒臭いだろ、と言って最近は一つに結ぶ程度で済ませている。

 寝室の前に侍る警備兵がノウェ様のために扉を開ける。部屋に入るのと同時にノウェ様は大きな欠伸を漏らした。大きな窓から差し込む光は、カーテン越しであっても強く、部屋の中を十分に温めている。

 俺は寝台の上に掛けられたシーツを捲り、ふちに腰を下ろしたノウェ様の靴を跪いて脱がせた。すると、ノウェ様が俺の腕を引っ張り、そのまま寝台の上に寝転がる。俺はノウェ様に引っ張られるままに、その寝台へ倒れ込んだ。

「イェルマも一緒に昼寝しよ」
「……しかし、ノウェ様の寝台で横になるなど」
「気にするなよ。昔は、一緒の布団で寝てたんだし。……よくこうやってイェルマがしてくれたよな」

 ノウェ様が、俺の頭を抱き抱えるようにして触れてくる。俺たちの間の距離は無くなり、二つの体がぴったりとひっついていた。侍従部屋にある俺の寝台より何倍も柔らかく、寝心地の良い寝台。ノウェ様がいつも横になっている場所。

 落ち着かない気持ちを必死に抑え込んで、冷静になるように己に何度も何度も言い聞かせる。俺の頭はノウェ様の胸についていて、鼓動の音がよく聞こえた。ノウェ様の心臓は。穏やかに動いている。この状態に鼓動を早くするのは、俺だけなのだということがよく分かった。

「あれっていつだったんだろう……なんか、雷が凄くてさ。大人たちは羊を小屋に入れるのに必死になってて。子供たちだけが天幕に残されてさ」
「ノウェ様が五、六歳のことですね」
「そんなに前のことだったんだ」

 懐かしい思い出だった。幼い子供たちが集められ、一つの天幕で過ごした日があったのだ。滅多に雨も降らず、雷など数年に一度という程度。だというのに、あの日は酷い雷雨だった。

「あんなに大きな雷鳴、聞いたことなかった。大地が壊れちゃうんじゃないかって思うほど雷が落ちて、地面が揺れて。みんな、泣いたり叫んだりしてた。……イェルマだけは落ち着いてて、ずっと俺を抱きしめてくれてた」

 真っ暗な空、そんな暗雲の中を駆け抜ける黄金の光。轟く音は地面を揺らし、天幕の中は子供たちの泣き声に満ちていた。たくさんの子供がいたけれど、俺にとって大切なのはノウェ様だけだった。

 ノウェ様だけが、俺に生きる意味を与えてくれる。ノウェ様ほど愛おしく、尊いものは存在しない。この胸に抱いたこの慕情は、敬愛だ。敬うからこその愛だ。自分に何度も何度もそう言い聞かせている。

 あの男とは違うのだ。無理に肉欲を押し付けるような外道はしない。だが、それでも。己の心の奥の、さらに奥。目も当てられない澱の中には、あの男を羨む自分がいるのだと、知っている。

 お慕い申し上げています。

 そんな言葉を伝えたら、一体どんな顔をされるのだろう。困ったように笑って、聞かなかったことにされるのだろうか。イェルマのことは大切な兄と思っている、と遠回しに拒絶されるのだろうか。

「そばにいてくれて、ありがとう。イェルマ」
「こちらこそ、おそばに置いて下さること、心から感謝申し上げます」

 永遠に伝えられない言葉がある。
 それは伝えないと決めた、言葉だった。


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