五番目の婚約者

シオ

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「ノウェ様!!」

 勢いよく抱き着かれて、俺は驚いてしまう。駆け寄って来て、俺を全力で抱きしめてくるのはアナスタシアだった。体調面の懸念が消えて、やっと乗馬の許可が下りたのだ。そしてやって来た開発局で、思いっきりアナスタシアに抱きしめられている。

「御無事で、本当に良かったです」

 彼女の声は少しだけ震えていた。そういえば、あの毒の一件以降、俺はアナスタシアに会っていないのだ。どのような状態であったかは、きっとイーヴァンやヴィルヘルムから聞いているのだろうけれど、こうして顔を合わせるのは随分と久しぶりのことだった。

 こんな風に、俺のことを案じてくれるひとがイェルマやヴィルヘルム以外にもいたことに驚いてしまう。ゆっくりと腕を離したアナスタシアの目には、涙が浮かんでいた。嬉しい気持ちと、気恥ずかしい気持ちが俺の心の中で同居する。

「俺が死んだら、アナスタシアが皇妃になっちゃうもんな」
「そんな捻くれたことを仰らないでくださいよ。本当に心配していたんですから」
「……ごめん」

 恥ずかしいからといって、素直ではないことを言ってしまった。その言葉は、本気で心配してくれたアナスタシアに対して、失礼な言葉だったと思う。自分の非を認めて謝罪すれば、アナスタシアは笑って許してくれた。

「本当に、なんというか……災難でしたね」
「まったくだ。凄く辛かった」
「どんな毒だったか、聞きました。とても苦しかったのでしょうね」

 歩きながら、アナスタシアと言葉を交わす。俺たちが向かっているのは厩舎であり、草地だ。俺たちの後ろにはイェルマが控えており、その光景を見てやっと日常に戻ってこれたのだと感じた。

「陛下が、献身的に介抱されたとか?」
「ぁ、……あぁ」

 どきりとする。アナスタシアはどこまで知っているのだろう。ヴィルヘルムがどのように介抱したかまで、把握しているのだろうか。俺が淫らに願い、ヴィルヘルムに救いを求めたということまで知っていたらどうしよう。

「どうかされましたか?」
「いやっ、べ、べつに」

 顔が熱くなってしまう。きっと赤く染まっていることだろう。アナスタシアの言う通り、ヴィルヘルムは過ぎたる程の献身さで俺を介抱してくれた。自分の欲を抑え込み、俺に尽くしてくれる姿を見てから、どうにも俺の心は可笑しいのだ。ふいに、可笑しくなった俺の心をアナスタシアに打ち明けたい気持ちに駆られる。

「……アナは、好きな人とか、いないのか」

 アナスタシアには、そういう相手はいないのだろうか。毛嫌いしていた人が、どうしても気になってしまうような、そんな経験はあるだろうか。俺の問いかけを耳にしたアナスタシアは、ぎょっとした顔をして俺を見ていた。

「どうしたんですか、急に」
「や、その、ちょっと……気になって」

 あまりにも不躾な質問だったと思う。しかも相手は、俺と同じヴィルヘルムの婚約者であったアナスタシアだ。誰かに懸想出来るような立場ではなかった。俺は一体何を聞いているんだ、と自分自身に呆れ果ててしまう。

「私に好きな人はいませんよ。不思議なんですけど、自分が絡む恋愛に興味がないんです」
「自分が絡む、恋愛に?」
「はい。恋愛小説は凄く好きで、恋愛をテーマにした舞台も見に行くんですけど、そこに私自身が絡むと急に冷めてしまうというか。たとえば、誰かに好きだと思いを伝えられても、そんな感情を抱く相手のことを理解できなくて、あまつさえ、気持ち悪いと思ってしまうんです」

 一度として、誰かのことを好きになったことは無いと、アナスタシアは言った。ヴィルヘルムのことが好きではないというのは聞いていたけれど、一度も、というのは驚きだった。気持ち悪いという感情を抱く。それは、懸想するとかしないとか、そういう以前の問題だった。

「この国でなければ、きっと私は異常者ですね」
「でも……リオライネンは、あらゆる自由を尊重するんだろ。誰を愛しても良いし、誰も愛さなくても良い」
「えぇ、その通りです。両親は流石に結婚して欲しいみたいですけど、周囲からは奇異の目で見られることはありません。そういうこともあるよね、という感じで」

 アリウス様が言っていた。この国は、全てが自由なのだと。そういう道を進んできたのだと。そんな国をアリウス様は愛していたし、守りたいのだ。愛する国をヴィルヘルムに託したから、皇帝となったヴィルヘルムを俺に支えさせたいのだろう。

「ロア族ではなかなか、受け入れられない考え方だと思う」
「リオライネン以外では、どこの国でも受け入れてもらえないと思いますよ。この国は、多くの国や地域を併合して大きくなっていきました。その過程で、同性愛を忌避する国、寛容な国といったように、色々な価値観や思想が対立していってしまったんです」
「そんな時代があったんだな」
「えぇ、結構長い期間そんな感じでした。けれどある時から、全てを受け入れようという気運が生まれます。何も否定することはなく、全てを許す。その意識を持てたからこそ、リオライネンは世界最大の帝国になったんでしょうね」

 帝国としてひとつにまとまる時に、リオライネンが古くから持っていた価値観と思想を、併合した国々に押し付けることをしなかった。全てを許し合おうと、歩み寄った。優れた国だと、思ってしまう。故郷よりも勝っていると、どうしても感じてしまった。

「それで、どうして私に意中の相手がいるかどうかの確認を?」

 リオライネンの包容力に感嘆していた俺に、アナスタシアが疑問を投げかけてくる。そもそもどうしてこんな話になったのだったか。そうだ、俺が質問をしたせいだ。この話を始めてしまった責任が俺にはある。おずおずと、唇を開いた。

「……少し、相談したくて」
「相談、ですか?」
「その……、……最近、自分の気持ちがよく分からないんだ」

 声が小さくなる。言葉にすると、恥ずかしさが増すような気がした。歩き続ける足に力が入らなくなるほどに、俺の体を緊張が支配している。どうしてこんなことで緊張しなくてはいけないのだと、思うのだけれど、手足の力が抜けていくのは事実だった。

「え……、もしかして、相談って……恋愛相談ですか?」

 信じられない、という顔でアナスタシアが俺を見ていた。その表情を見て、俺は自分の愚かさを思い知る。俺とヴィルヘルムのことなど、アナスタシアにとってはどうでも良いことではないか。どうしてその考えに至れなかったのか。思慮の足らない俺はきっと、毒のせいで狂ったままなのだろう。

「悪い、こんなこと相談されてもアナが困るだけだよな」
「何を仰います! よくぞ相談相手に私を選んでくださいました!」

 自分の手で、自分の胸をバンと叩きながらアナスタシアは嬉々とした目でそう言った。その目は、大好きな銃のことを語る時の目と同じで、俺は驚いてしまう。

「是非とも、私にご相談ください。実体験に基づいての回答は出来ませんが、私には何千と読んできた恋愛小説の知識が御座います! もちろん、男性同士の恋愛についても精通しておりますから、ご安心を!」

 アナスタシアの勢いに気圧され思わず、ひぃ、と小さな悲鳴を出してしまった。かつて遠巻きに見ていた一番目の婚約者の凛とした立ち姿が崩れていく。土にまみれながら大好きな銃を撃ち、鼻息を荒くしながら恋愛相談を楽しむ。それがアナスタシアの真の姿だった。よく、何年もその姿を隠して婚約者としての振る舞いが出来たと思う。

「イェルマさん、申し訳ありませんが長くなりそうなのでお茶を用意して頂けますか? 我々、あそこに座っておりますので」
「え、あ、はい」
「さあ、ノウェ様。存分に語ってくださいな」
「でも俺、……ヘカンテにも会いたい」
「それは後からにしましょう。必ずヘカンテのもとへお連れしますので」

 アナスタシアの勢いに飲まれたイェルマは戸惑いながらも、お茶を用意しに旅立っていった。俺以外の言うことにはあまり従わないイェルマを意のままに操るなんて、アナスタシアは凄いやつだ。俺たちは厩舎への道から外れ、小さな庭に置かれた二人掛けのベンチに腰を下ろした。

「今はイェルマさんの耳もありませんので、好きなように思いを打ち明けてください」

 アナスタシアには、何でも分かっているようだった。ヴィルヘルムへの想いの相談は、イェルマには出来なかった。何故か、してはいけないような気がしたのだ。そしてお茶の用意を、と言ったのはイェルマを遠ざけるためだったらしい。アナスタシアの差配は見事だった。

「……ヴィルや、イーヴァンにも内緒にしてくれるか?」
「えぇ、もちろんです。絶対に秘密にします」

 力強くアナスタシアは頷いた。ヴィルとイーヴァンとアナ。この三人は幼馴染で、とても親しい。そのせいか、情報を共有したがるのだ。誰か一人に話した内容が、全員に筒抜けになっていることもある。だが、この話だけはアナ以外の誰にも聞かせたくなかった。

「前は……、その、即位式の夜のこともあったし、ヴィルヘルムなんて嫌いだった。憎かったし、殺してやりたいって思ってた」
「えぇ、そうでしょうとも。望まぬ行為を強いられたのです。それは抱いて当然の感情です」

 アナスタシアは否定することなく俺の気持ちに寄り添ってくれた。自分が同じ立場だったら間違いなく陛下の頭を銃で吹き飛ばしています、などと豪快なことを言うので思わず笑ってしまう。

「俺はずっと、故郷に帰りたくて……、父親がどういうつもりで俺をヴィルヘルムの婚約者にしたのか知りたくて。だから、クユセンに帰ることを条件に、晩餐会に出ることに同意したんだ」
「はい。そして、あの事件があった」
「……うん。俺は毒を少ししか口にしていないけど、本当に苦しかった。頭が可笑しくなりそうで、体が……辛くて」
「えぇ、どのような辛さだったかは承知しております」

 狂うほどの疼き。あれを媚薬として利用する人物たちがいると聞いたけれど、そいつらはどうかしているとしか言いようがない。あれは、人間を壊す毒だ。尊厳を奪い、快楽の奴隷にしてしまう。

「ヴィルは……、その辛さから俺を救ってくれた」

 慰めをくれた。痒くて、疼いて、苦しいと泣き喚く俺を宥めて、必死に尽くしてくれた。毒を盛った人物のことは厳しく罰したと聞いている。ヴィルヘルムは俺以上に怒って、俺を守ってくれたのだ。

「俺が求めることしか、しなかったんだ。狂ってる俺になら、何だって出来たのに。俺自身、そうなっても仕方ないって思うくらいだったのに。……俺が望まないことはしないって、ヴィルは言うんだ」
「……なるほど」
「ヴィルは、即位式の夜に過ちを犯した。でも、ずっと償いをしているようにも見える。……反省して、償っている人を責め立てるのは、なんか、違うと思うし……俺にはもう、あの夜のヴィルを憎む気持ちが……ないのかもしれない」

 許したのかと問われても、明確な返答が出来ない。ただ、憎しみが消えたのか、と聞かれれば頷いてしまうだろう。それは、許したということなのだろうか。分からない。自分の気持ちが、分からなくなってしまった。

「ノウェ様は、寛大でいらっしゃると思います。反省し、償いをしてもなお、責め立てて詰る者もいることでしょう。でも、ノウェ様は陛下をお許しになった。ノウェ様は、素晴らしいお方です」
「そんな、褒められるようなことじゃない」

 アナスタシアは俺の言葉を聞いて、許した、と言った。つまりそれは、客観的に見れば、俺がヴィルヘルムを許したということになるのだろう。そうか、俺はヴィルヘルムを許していたのか。

「……最近は、その……もうちょっと触っても俺は怒らないのにな、とか。そういうことを思うんだ……。これって何なんだ? 俺、可笑しいんだよ。体も、女みたいになって……どうしたら良いのか、分からない」

 ヴィルヘルムに触れられると、すぐに熱が下半身に集まってしまう。胸だって、不思議なことになんだか大きくなったような気がするのだ。ヴィルヘルムの手によって俺は女へと変えられているのかもしれない。

「率直に、言わせて頂いて宜しいでしょうか」

 じっと、俺の言葉に耳を傾けていたアナスタシアが神妙な面持ちでそう言った。俺は、ごくり、と唾を飲みつつ大きく頷く。瞑目して、深く深呼吸をするアナスタシア。そして力強く刮目して、俺に告げた。

「ノウェ様は、陛下に惹かれておられるのです」


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