すべては花の積もる先

シオ

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 一日、何も手につかなかった。すべてが幻のようで。けれど、あれは確かに夢などではなく。ズーユンの死も、レンの怪我も、私の罰も、すべては現実の出来事なのだ。傷ついたレンは気丈に振舞ってはいたものの、体は休息を求めていたようで、温かな日差しに包まれながら、寝台の上でよく眠っている。

 レンの胸が穏やかに上下するのを見ながら、私は椅子に腰を下ろす。机の端には、母の絵が数枚置かれていた。その絵を撫でる。以前であれば、母を想って私は微笑むことが出来ただろう。だが、もう笑えない。母がかつて面倒を見ていた女性を、母と同じ娼婦であった人を、私は死の淵へと追い立ててしまったのだから。

 一度、絵筆を握ってみた。けれどすぐさま、私の手は力無くそれを手放す。そして、両手で顔を覆いながら俯いた。昨日まで彼女は生きていたのに。だというのに、もう彼女はいない。陵辱され、苦痛と絶望を味わい、殺されてしまった。その光景を想像してしまう。恐ろしくて、体が震えた。

 ズーユンを責めれば、この罪悪感も少しは軽くなるだろうか。そもそも、彼女が悪いのだと、私は自分にそう言い聞かせてみた。己の自由と引き換えに、私を誘き出してヘイグァンに差し出そうとした。彼女にだって、責められるべき点はある。残虐な死は、相応の報いだった。そう思えたのであれば、気持ちを切り替えられたのだろう。だが、私は到底そのように考えることが出来なかった。

「……代わりに、死んであげればよかった」

 自由になりたいと、彼女は強く願っていたのだ。その彼女の強い願いと肩を並べられる欲求が私の中にあるだろうか。きっと、ない。ならば、彼女が生きるべきだったのではないかと思うのだ。私には生きたいという強い渇望もなく、未来に描く展望も彼女より薄い。絵筆を握ることのなかった手は、机の下へと垂れ落ちて、私はただぼんやりと窓の外を眺めた。

 こんなにも心は重く澱んでいると言うのに、空はあんなにも晴れ渡って美しい。誰かが苦しみながら死のうが、構わず世界は穏やかに回っていく。幸福も不幸もないまぜにして。気付いた時には瞼の端から涙が溢れ、私は静かに目を閉じていた。もう何も見たくない。そして私は夢の世界へと旅立ったのだ。

 目が覚めたのは夕暮れ時で。その時にはまだレンも眠っていた。昼食を食べ損ねていたために腹が減っており、どんな状況でも空腹を訴える肉体の貪欲さに少しだけ笑う。食事を用意してもらった頃にレンも目覚め、共に腹を満たした。それから、レンと他愛のない話をしていると夕暮れを迎え、陽が没し切る前にレンの体を再び拭く。

 何くれとなく私の世話を焼こうとするレンを寝台の上に留め置き、私は彼の為に茶を用意したり、新しい寝着を持って来たりと動き回っていた。普段とは逆だ。だが、こうして弟のために動くと言うのも心地の良いものだった。レンは居心地悪そうに私を見ていたが、私は気づかないふりをする。そして、レンにゆっくり体を休めているようにと言いふくめ、部屋を出た。階段を降りて、最奥の部屋へと向かう。

「来てくれて、嬉しいよ。兄さん」

 部屋の主は、私が来ることが分かっていたかのような表情で、私を待っていた。机の上に置いた燭台の灯りで、何か書物を読んでいたようだ。それを閉じ、静かに立ち上がる。私は一歩一歩ゆっくりと踏み出し、スイに近づいた。

「お医者さんを呼んでくれて、ありがとう」
「掌の傷は、どうだった?」
「放っておけば良くなるって。傷跡が薄くなるお薬ももらったよ」

 私の感謝は、主にレンの治療に向けられたものだ。だがスイはすぐに私の掌の傷のことを問う。自分自身も患者であったことをすっかり忘れていたので一瞬、呆気に取られたが、すぐにスイの言葉の意味を理解して返答をした。

 己の手を開く。包帯はまだ巻かれていて、傷も確かにそこにある。けれどもう、痛みもなく、何も感じなくなっていた。昨夜の出来事は私の心の中にありありと刻まれたと言うのに、掌の傷はもうすでに存在を薄くしている。それでも、私の行いは消えない。決して。だからこそ、私はここに来たのだ。

「スイに……、罰をもらいに来た」

 裾をぎゅっと握る。私の放った言葉を聞いて、スイは一瞬だけ目を見開いて驚いたような顔を見せた。だがきっと、私がなぜここに来たのかも、聡明なスイは理解しているのだろう。だから、その驚きの表情は演技なのだ。

「兄さんは、まだ罰が欲しいの?」
「……自分でも、よく分からない」

 その声はとても小さくて、部屋がこれほどまでに静かでなければスイの耳に届かなかったかもしれない。声が小さくなってしまったのは、発言に自信がないからだ。私の心は今、滅茶苦茶だった。ズーユンの死が悲しくて、己の愚かさが恨めしくて、死んでしまった方が良かったのだろうかと悩んで、それでも生きているのだから生きねばならぬと思ったりもして。整わずに乱れた心から吸い上げられる言葉に、自信など持てるわけがない。私は次に己がどんな言葉を発するのかさえ、分からずにいた。

「罰して欲しいと言いながら……私は、慰めて……欲しいのかな」

 私を酷い目に遭わせて欲しい。罰を与えて、私の罪悪感を拭って欲しい。罰を求めるふりをして、罰せられることで罪悪感を払拭するという慰め。それは酷く自分勝手な感情で、あまりにも浅ましく、直視することさえ嫌だった。それでもスイは、私から目を逸らすことなく、私を見つめている。

「悲しい顔をしないで。兄さん」

 スイは靴音を響かせながら歩き、私のそばにやって来た。そして私の頬にそっと手を添え、親指で目元を撫でる。今、私はどんな顔をしているのだろう。きっと、情けなくて醜い顔だ。鏡で確かめずとも、その程度のことは分かっていた。

「そんな顔をさせてる理由は俺だね。本当に、ごめん」
「違うよ……私が、愚かだった」

 ズーユンのことをスイが詫びるのは、間違っている。それだけは確かだ。スイには、バイユエの頭目という役目があり、その役目で考えれば今回の処置は正しかったのだろう。ルーフェイ随一の娼館であるハンファはバイユエのもので、ズーユンはそこの娼婦だった。

 そんな彼女が、バイユエと敵対している組織の手を借りて逃亡を図ろうとするのであれば、粛清は苛烈なものになる。背の者たちの行動は倫理の埒外にあり、法で裁くことなど出来ない。背の者が治めると称されるこの街は、そういう場所なのだ。私だけが愚かで、世の理を理解しておらず、ずれている。

「こっちに来て。兄さん」

 私の手を引いて、スイが寝室へと入っていく。罰せられたいのか、慰められたいのか、はたまた、何も考えられないようにして欲しいのか。私にはもう私の考えが分からず、ただ全てに身を任せていく。スイが私の衣服を脱がせていく光景も、感慨なく見下ろしていた。

「もう恥ずかしくはない?」
「少しは、恥ずかしいよ」
「そっか」

 羞恥心が全くないわけではない。それでも、昨夜のような恥ずかしさはなかった。静まり返った部屋の中で、衣擦れの音が響く。裸になった私に、スイは寝台の上で横になるように言った。指示に従い、私は仰向けになり、スイは寝台のそばに立って私を見ている。

「何をするの?」

 問いかけてもスイは答えない。蝋燭の灯りだけが、ゆらゆらと呑気に揺れて部屋の中を照らしていた。スイの手は、寝台の横に置かれた背の低い机の上の小さな瓶を取る。薬瓶のようにも、希少な酒が少量入っている酒瓶にも見えるそれの蓋を外して、スイは寝台へ上がった。その瓶はきっと、私のために用意されたものなのだろう。今夜、私が来ることをスイは分かっていたのだ。

「これはただの香油だから。怖がらないで」
「香油……? 何に使うの?」
「滑りをよくするんだよ」

 そう言ってスイは瓶を傾ける。粘度の高い液体が、ゆっくりと垂れ落ちてきた。それは丁度、私の局部に落ちる位置だった。香油だというそれは、確かにとても良い香を放っている。だが、突然そんなものを繊細な部分に垂らされてしまえば、誰だって驚くだろう。私の肩は、驚愕で反射的に震えた。

「……んっ、……ぁ……」

 私の垂れ下がったものはスイの手で包まれ、上下に扱かれる。滑りのある手はとても心地よく、私の鼻からは息が抜けていった。今夜もまた、互いのものに触れて熱を発散させるのだろうか。スイに翻弄されながらも、頭のどこかでは冷静にそんなことを考えていた。

 この部屋に向かおうと決めた瞬間から、こうなることは分かっていたのだ。すなわち、スイに触れられることを私は理解した上で、スイに会いに来た。まさか、私はそれを望んでいたのだろうか。スイに触れて欲しくて、この部屋にやって来たのだとでもいうのか。私が今こうしてスイに触れられている理由を、深く考えたくなかった。曖昧なままで、欲望に飲み込まれていく。

 スイの手は、とても絶妙だった。程よい圧力で握り、心地の良い場所に刺激を与える。自慰すらろくにしていない私だが、今では性に目覚めたばかりの童子のように、貪欲に快楽を欲してしまっていた。与えられる心地よさに体が痙攣し、足の指に力が入って丸くなる。私のものは、確認しなくてもわかるほどに硬くなっていた。とても気持ちがいいのだが、それでも絶頂には遠い。もどかしくて、切なくなる。

「兄さん、少し体勢を変えるよ」

 言葉とともに体が反転する。仰向けだった私の体は、スイの手によってうつ伏せにされた。そして、そんな私の上にぴったりとスイが覆い被さる。スイの手は、私の腹の下に潜り込み、私のものを包み続けていた。触れられている感覚が背筋を撫で、反射的に腰が浮く。咄嗟に手近な枕を引き寄せて、それに顔を押し付けた。

「え……っ」

 予期せぬ感覚に、押し付けていた顔を上げる。スイはなぜか、私の臀部に触れているのだ。私のものを包んでいた手を離し、香油の入った瓶を手に取ると、それを私の尻のあたりに垂らす。そして、ゆるゆると私の尻の穴に触れていた。混乱する。一体これは何なのだろう。スイの前で初めて裸になった時よりも、私は戸惑っていた。そうこうしているうちに、スイの手はさらに私を驚かせる動きを始める。彼の指が、私の中へと少し入って来たのだ。

「なに……? スイ、なにをしてるの?」
「痛い?」
「痛くは、ないけど……でも、なんだ……怖い」
「大丈夫。酷いことをするわけじゃないよ。ただ、兄さんのここに指を入れたいだけ」

 どうしてそんなことがしたいのか、それを問うことが何故か出来なかった。あまりにもスイの声が真剣だったからだろうか。単なる悪戯でないことは分かる。私は戸惑いを抱えたまま、スイの行為を受け入れた。痛くはないが、強烈な異物感と圧迫感がある。私の尻の穴に指を突っ込みながらもスイは、もう片方の手では私のものを再び扱き始めた。違和感と快感が私を両側から責め立てている。

「ここを刺激すると、とても気持ちが良くなるらしいよ。俺は兄さんを気持ち良くしたいんだ」
「それが、スイがしたいことなの?」
「そうだよ」

 それならば付き合うしかないと、私はスイに全てを明け渡した。入り口のあたりを出入りする指の動きが、少しずつ大きくなっていく。香油がたっぷりと垂らされており、滑りが良いため、やはり痛みを感じることはない。私を傷つけることなく、とても慎重な手つきでスイは奥へと進んでいく。

「兄さん、もう少し力を抜ける?」
「ぁ……ぅ、うん……、やってみる……ぁ……あぁっ」

 力を抜こうと努力をしている間に、前の方に限界が訪れた。そもそも、もうすぐで達しそうな状態だったのだ。そこにスイから与えられる刺激が続き、腰が小さく痙攣して私は白濁したものをぽたぽたと寝台の上に垂らした。その瞬間、体が弛緩した隙を縫って、スイの指が中に入り込む。先ほどまでに比べると、大きな前進だった。そのため、苦しさも強い。唇を噛み締めて、私は耐える。

「ごめんね、兄さん。苦しいよね」

 苦しさに耐えるため力んでしまい、呼吸がうまく出来ない。痛みとも、悦びとも違う感覚が、私の中に与えられていた。体の内側を按摩されているような感覚があるが、気持ちが良いとは到底思えない。スイは、これの一体何が楽しいのだろう。私にはスイが理解出来ない。それでも、スイがそうしたいと願うのであれば、私は付き合うのみだった。

「大丈夫だよ、スイ……。スイは、私の大切な弟だから……、スイは兄さんに、なにをしてもいいんだよ」

 私の大切な弟。大切な家族。もうこれ以上、私は家族を失いたくないのだ。嫌いたくないし、遠ざけたくない。弟の生き様の全てを肯定できなくても、弟の存在の全てを私は受け入れる。おもてを上げて、少しばかり背後を見る。スイは眉尻を下げて、申し訳なさそうな顔で私を見ていた。そんな顔をしなくていい。私はスイのためなら、何でもしてあげたいのだ。その気持ちを込めて、微笑んだ。上手く笑えたかどうかは分からない。きっと不出来な笑みだったことだろう。

「わっ……!」

 再び体勢が変わる。私の中に入り込んでいたスイの指は引き抜かれ、スイの両手が私の腰の両側を掴んで上げる。臀部だけを突き上げる姿勢になっていた。下半身に齎された微かな浮遊感に驚いていると、さらなる驚愕に見舞われる。太ももの間に何かが差し込まれたのだ。位置と大きさと硬さで、それが何であるかを私は察する。昂ったスイのそれだ。

「兄さん、太腿を閉じて」

 わけもわからず、反射的にスイの言葉に従う。スイのそれを腿で挟み込んだ。内腿に、強い熱を感じる。私の心臓は、異常な速度で脈を打っていた。私がしっかりと太腿を閉じたのを確認すると、スイは腰を動かし始める。拍手にも似た乾いた音が、部屋の中で響き始めた。スイのものが私の太腿の間で前後し、私の陰嚢に突撃する。痛いわけでも、怖いわけでもない。けれど、理解の及ばない行為に私の頭は真っ白になっていた。

 耳元ではスイの荒い息遣いが聞こえ、私の陰茎は揺さぶられるままに激しく揺れる。太腿の間を素早く行き来するスイのものはますます硬くなり、熱かった。これではまるで犬の交尾だ。否、まるで、ではなく、これは交尾ではないのだろうか。わけが分からない。それでも、頭がおかしくなりそうなほどに、気持ちが良い。真っ白になる頭が、燃え盛る熱に焼き切られていく。

「ぁっ……! だ、だめっ、スイ、これは……、待って、あぁっ」
「痛い? 痛くはないよね。今は何も痛いことはしてないよ」
「スイ、これじゃ……っ、ぁ……!」

 これは、交尾だ。私とスイは今、交わっている。スイは私の太腿を膣に見立て挿入を繰り返し、その一方でしっかりと私のものを扱く。体の揺れに合わせて動いていた陰茎はいつの間にかスイの手の中におさまり、刺激されていた。私は今、スイと性交をしているのだ。その事実に気付き、私は混乱と、羞恥と、強制的に与えられる快感を味わった。

 私のものを握りこみ、手を上下に動かして扱きながら、スイは親指で私の先端をぐりぐりと押し込む。昂って敏感になったそこは、与えられる刺激をそのままに受け取って、私を絶頂へと至らしめた。スイが私の内腿を濡らすのと、私が寝台を汚すのは、ほぼ同時だったように思う。

 二つの乱れた呼吸が、部屋の中に満ちた。力なく寝台の上に倒れ込む私と、その横に寝転がるスイの口から吐き出される呼吸たちには、熱が篭っている。うつ伏せになりながら、隣にいるスイを見た。スイもこちらを見ている。頭がぼうっとして、思考が定まらない。考えなければならないことが数多くあったが、その中からひとつが選び抜かれ、口から飛びでた。

「スイは……、男の人が好きなの?」

 私の問いを受けて、スイが肩を震わせながら笑う。笑われているということは、不正解ということだろうか。だが、私に対してこのような行為を起こったスイのことを、そう思わずにはいられなかったのだ。何せ私には豊かな乳房がなく、陰茎があり、柔らかな膣もなく、ただの肛門しかない。スイと同じ、男なのだ。

「やっぱり、兄さんはそう思うんだね。俺が男が好きだって? 確かに、それはそうだ。俺は男が好きだよ。この世でたった一人の男がね」

 笑いを押さえ込みながら、スイが言う。悪戯っ子のような表情を見せる弟が放った言葉を、私はゆっくりと噛みしめていく。紙の上に垂らした墨一滴のように、じわりじわりと私は理解していった。

「性別なんてどうでもいい。俺は、この世でただ一人、兄さんが好きなんだよ」

 それはあまりにも真っ直ぐな告白で、誤解のしようがないものだった。弟が兄に愛を告げている。それを親愛だと思い込むことは、難しかった。父が母を愛したように、弟が私を愛している。スイが私に向けて手を伸ばし、頬を撫でた。甘く、優しい指先だった。

「俺は兄さんが大切で、好きで、愛している。罰だとか、交換条件だとか、そんなことを言い訳にして兄さんに触りたがる程度には、必死なんだ」
「……でも私たちは、兄弟なんだよ」
「だから? 兄弟姉妹での姦淫が忌避されるのは、生まれる子のことがあるからだろう。幸い、俺と兄さんは男同士だから、子供は生まれない。何も懸念はない」

 だから、私の中に吐精をしたとしても問題ない。スイはそう言っているのだ。果たして、そうなのだろうか。彼の言葉が正しいのかどうかが、私には判断出来ない。幼い頃から、周りは全て背の者という環境で育った私に、真っ当な常識というものが備わっているわけがないのだ。問題はないと言われると、そうなのだろうかという気持ちになってしまう。

 スイはゆっくりと私に身を寄せながら、片手を私の頭の後ろへ回した。そして引き寄せられる。距離は近くなり、唇と唇が触れてしまいそうになった。このまま、口付けをされるのだろうかと、ぼんやり考える。まるで自分の体が自分のものではないような、他人事の気持ちでその光景を眺めていた。けれど、触れる寸前でスイが離れていった。

 おそらくきっと、スイは口付けをしようとしたのだろう。唇と唇を触れ合わせようとした。けれど、途中で何かを耐えるように唇を噛み締めて逡巡し、私から距離を置いたのだ。

「兄さんは、俺が嫌い?」
「そんな聞き方は、ずるいよ」
「そうだね。分かってる」

 嫌いなはずがない。バイユエの頭目として生きる弟を畏れ、怯えることはあっても、嫌うことだけは一度もなかった。それは今までも、これからも、変わらないことだ。そんな弟に、好きだと言われることは、私にとって喜びだった。向けられた感情と同じものを、私も返す。

「私だって、スイが好きだよ」
「ありがとう、嬉しい。……でも俺の好きと、兄さんの好きは、欲深さが違うんだ」

 欲の深さ。スイの言わんとすることは、何となく分かる。私とスイが抱く感情には大きな差があり、それが欲の深さなのだ。私の欲は浅い。だがそれは美徳でも何でもなく、ただ己の自我が弱いだけだった。私はそれを理解している。私は何においても、自分というものが薄いのだ。

「願わくば、俺と同じくらい、兄さんに俺を欲してもらいたい」

 その言葉を放ったあと、スイは私を抱えて浴室へと向かった。私の頭の中はスイの言葉に大部分を占められ、ほかごとを考えられなくなる。共に裸で入浴していることに対する羞恥を抱く余地もなかった。私はスイが好きで、スイも私を好いてくれている。けれど、その方の気持ちには深度において差があり、スイは同じ深さに達して欲しいと願っていた。願われたことを、私はどう感じているのだろう。

「あの犬に関わることでも何でも、俺は兄さんの願いを叶えるよ。だからもう、交換条件に触らせろなんて言わない。だからこれは、俺の単なるお願い。……明日の夜は、犬のためじゃなく、俺のために来て」

 体は、温かいお湯に包まれている。さらに、背後からスイに抱きしめられており、私の胴にはスイの腕が添えられていた。耳元で囁かれたそれは、甘い睦言のようでもあり、切実な懇願のようでもあった。何かを自分で考え、選ぶこと。私はそれを求められている。だが、思えばそんな機会は今までに多くなかったように思うのだ。

 バイユエ頭目の子として生まれ、安全を守られながら、外の世界と隔絶した場所で育った。幼い頃は、自由に外出することも出来ず、友すらおらず、一匹の犬が私の親友だった。絵を描こうと思ったのも、自分の意思であると強く断言することが出来ない。母が褒めてくれて、嬉しかったから。その程度の理由で、絵を描いた。食べるものも、着るものも、特に好みはなく、差し出されるものをそのまま受け取った。何も考えず、流されるままに生きてきた。そんな私にとって、目の前に提示されたものは難題に過ぎたのだ。

 分かっている。この身に宿った一つの魂では、たった一人しか愛することは出来ない。スイの願いに応じ、スイを深く愛するのなら、同等の感情をレンに向けることは出来なくなる。スイに近づけば、レンとは遠ざかることになるのだ。温かい湯と、弟の腕に包まれながら目を閉じる。私の心は、果たしてどちらに近づいていくのだろうか。
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