すべては花の積もる先

シオ

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スイ編

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 嫌い。

 その言葉が、俺の息の根を止めた。最も聞きたくなかった人の口から、最も聞きたくなかった言葉が飛び出す。俺はずっと、その言葉を投げつけられないようにするために、必死だったはずなのに。体に力が入らない。本当は追いかけたいのに、走り出すことすら出来ない。

 影が兄さんを追ったのは、確認した。俺が行かずとも、影たちが兄さんの居場所を特定するだろう。だが、本当は追いかけるべきなのだ。走って、その背中を抱きしめて、縋って、許しを乞うべきだった。欺き続けたことを詫びなければならない。俺にとってその行いは最善ではあったが、それが兄さんの心を傷つけたのは間違いがないのだ。兄さんの気持ちを理解出来ていなかった俺が悪い。

 屋敷の門で立ち尽くす俺を、徒弟たちが戸惑いながら見ている。もとより、俺は徒弟たちが兄さんの姿を視界に入れることを許していない。門番をするような者たちは例外的に許しているが、兄さんが背の者の威圧的な姿に怯えなくても良いように、そして、兄さんの美しい姿を男たちの目に焼き付けることのないようにと、俺は部下たちに兄さんから距離を取るように命じていた。ゆえに、兄さんを追いかけることができずに佇む俺を見たのは二、三人の徒弟だけ。その者たちに鋭い一瞥を向ければ、慌てて視線を逸らした。

 水を蹴る足音が聞こえる。その音は遠くで響き、徐々にこちらへやって来た。見れば、ヤザが兄さんの犬に肩を貸しながら歩いている。犬はずぶ濡れになっており、それは雨粒を受けて濡れたと言うのでは説明がつかないほどの濡れ方だった。理解が全く出来ない。何故犬がそれほどまでに濡れ、そんな濡れた犬をヤザが支えているのか。そして、兄さんはどこに行ったのか。

「頭目」

 悲壮感に満ちたヤザの表情を見た瞬間に、背筋に悪寒が走った。血の気が引いていく。嫌な予感というものに、全身が包まれた。ヤザは、一刻も早く報告しなければという表情をしていた。けれど、伝えるべき言葉を口から放つことを躊躇うように唇の開閉を繰り返す。

「ヘイグァンが、兄君を襲撃しました」

 きっと、その言葉を聞かずとも俺は事態を把握していたのだろう。だが、聞くまでは信じたくなかった。いつも兄さんに張り付いている犬が兄さんのそばにいない上に、ヤザに支えられているような理由を、俺は考えたくなかったのだ。それでも俺は、知りたくなかった事実を告げられてしまう。体はその直後に走り出していた。

「お待ちください! 兄君は、ヘイグァンの襲撃の最中、足を滑らせて川へと転落しました! そしてまだ、見つかっていないのです!」

 ヤザの静止など無視をして、俺は兄さんのもとへ向かおうと思っていたのだ。だが、その言葉を聞いてしまえば流石に足を止めざるを得なかった。犬がずぶ濡れなのは、転落した兄さんを追って川へ飛び込んだからなのだろう。足を止め、すぐさま戻ってヤザの胸倉を掴み上げた。

「それで……、……それで、兄さんはどうなったんだ!」
「レンや、その場にいた影がすぐに追いかけ、川へと潜りましたが、まだ見つけられていません。……影の一人は、川下で溺死した状態で見つかりました」

 胃の腑が冷える。続く豪雨で荒れたヨーリン川は、優れた身体を持つ影が命を落とすような有様なのだ。そこで兄さんが生き延びられる可能性は、如何程だろう。考えることすら恐ろしい。俺の手がヤザの胸倉を離したのと同時に、ヤザは姿勢を崩して支えていた犬を地面へと落とす。受け身も取れないまま、犬が地に伏した。

「何故お前はいつも、兄さんを守れないんだ」

 この犬畜生に価値があるとしたら、それは命を賭けて兄さんを守るためだ。だというのに、犬は兄を守れずにいる。二度も。俺は睨みながら犬を責めた。そして、その言葉は自分自身にも向かっている。責める言葉は、俺にこそ向けられるべきだった。

 兄を守るために、バイユエ頭目の役目を背負ったというのに、結局守ることが出来ていない。俺は一体、何をして来たのだろう。背の者の頂に連なるものは、兎角狙われやすい。誘拐や暗殺など、今まで兄さんに向けられた悪意を防ぐことも出来ていた。だが、ヘイグァンに対しては失策ばかりだ。どうして俺は、兄さんを全ての害悪から守ることが出来ないのだろう。

「逃走中に、不慮の事故に遭遇することはよくあることです」
「口を慎め。死にたいのか」

 ヤザはそう言って兄さんが川に落ちたことを、仕方のなかったことだとした。どこか慰めにも似た言葉は、俺を労っていたのかもしれない。追われている人間が、混乱や焦燥の果てに足を滑らせることは往往にしてあるのだと、そう言って俺を慰めようとしていたのかもしれない。だが、俺はそんなものを必要としていなかった。強い言葉で返せば、ヤザも鋭い眼差しで俺を睨む。

「狼狽えないで頂きたい。兄君はまだ見つかっていないのですよ。すぐに捜索を指揮し、兄君の救出に当たって下さい」

 その言葉は、あまりにも正しい。正し過ぎる言葉が、俺に突き刺さる。確かに今は、こんな場所で自己嫌悪に陥ったり、犬を責め立てている場合ではない。振り続ける雨に冷やされた頭が冷静になっていった。

「……泳ぎに自信のある者たちを集めろ。命綱をつけた状態で川に潜り、兄さんを探せ。すでに、海の方へ流された可能性もある。海岸沿いも隈なく捜索しろ」
「承知致しました」

 すでに、どこかの岸辺に辿り着いていると良い。川の中で見つかることもなく、海にまで流れてしまっていることもなく、誰かに助け出されていると良い。それでも、俺は最悪を想定しなければならなかった。それはつまり、兄さんには自力で岸辺まで辿り着く力も、誰かに助けられることもなく、そのまま息を引き取ってどこかへ流れ着いてしまったということだ。そのような最悪な事態に陥っていたとしても、兄さんの体は取り戻さなければならない。

「川に落ちても、この犬のように生きている者もいます。兄君が生きている可能性だって」
「俺に構うな。さっさと行け」
「……せめて、服ぐらい着替えてくださいね」

 きっと俺が、酷く暗いおもてをしていたのだろう。ヤザが慰めを口にする。けれど、俺はそんなものを必要とはしてない。一度頭を下げてから、ヤザが去っていく。気遣われていることは理解しているが、それに応じるだけの余裕が俺にはなかった。

 空を見る。雨は少しずつ、小雨に変わって来ていた。空の雲間からは、青空も見え始めている。たとえ、空が雲ひとつない快晴になったとしても、そこに兄さんがいないのならば、俺は永劫の暗闇に落とされたも同然なのだ。一歩も動くことの出来ない俺と犬が、その場に残る。

「……トーカを、助けてくれ」

 消え入りそうな声が、小さく響く。その声は、犬の口から零れ落ちた。兄さんのそばにずっといたこの犬は、兄さんと共に雨の中を歩き、ヘイグァンの襲撃を受けて、必死に兄さんを守ったことだろう。だがその結果、兄さんは川へと落ちてしまった。その瞬間の犬の胸中を想像するだけで、身体中が痛みを覚える。絶望などという言葉では、足りない。死ぬことの方が、易しく感じることだろう。

「お前に懇願されるまでもない」

 この犬が、兄さんの代わりになればよかったのだ。兄さんの代わりに、川へ落ちて行方が分からなくなってしまえばよかった。きっと俺だけでなく、犬もそう思っていることだろう。そして、もし兄さんがこのまま見つからなければ、犬はその後を追うはずだ。それは俺も同じだった。兄さんがこの世を去るということは、同時に、二人の男が死ぬことを意味している。

 力の篭らない足で歩き、屋敷の中へと戻った。俺が進むたびに、水滴が廊下に落ちる。いずれ、誰かが拭いてくれることだろう。部屋に入り、濡れた衣服を脱ぎ捨てる。体を拭いて衣服を真新しいものに変えても、兄さんに纏わる続報は届かなかった。苛立ちが募る。すでに人を集め、命令を下したヤザが俺の元へ戻ってきた。そんなヤザは、兄さんを探しに行くため出て行こうとする俺を何度も引き止めた。

「頭目……これが、石に括り付けられて投げ込まれました」

 悲壮な顔でヤザが俺の部屋にやって来たのは、兄さんが川に落ちてから数刻が経ってからのことだった。机の上に置かれたのは、人の拳ほどの大きさの石。その石に括り付けられていたという手紙。そして、手紙の中に包まれていた桃色の毛髪。俺の目が最初に捉えたのは、その髪の毛だった。

 息が出来ない。体が震え始めた。それは明らかに、兄さんの髪だったのだ。たった数本の髪だが、兄のものであると分かる。誰かが兄さんの髪を切り取ったのだ。何もかもが許し難い。怒りと憎しみに震える俺には、石に括り付けられていたという手紙を読むことが出来なかった。

「ヘイグァンからです。……お一人で、一切の武装もせず、チャオヤンの倉庫へ来いと」

 俺の代わりに手紙を読んだヤザが、簡潔にそうまとめる。確認するまでもなく、そうであろうと分かっていた。これは脅しなのだ。俺は要求通り、指定された場所へ向かうため走り出すしかない。だが、部屋を出る前にヤザに手首を掴まれてしまい、扉を通り抜けることが出来なかった。

「お待ちください! これは明らかな罠です!」
「そんなことは分かっている」
「分かっているのなら、何故行くのです!?」

 問いの意味が分からなかった。罠だということは、当然理解している。相手が全てにおいて優位に立っているのだ。俺はこれから、ヘイグァンが用意した死地へと向かう。だから、なんだというのか。何故、行くのか。ヤザは本気でそんなことを俺に問いかけているのだろうか。

「何故だと? 兄さんが捕まっているからに決まっているだろう」
「……では、……では、せめて影を、影を何人か連れて行ってください」
「断る。手紙には一人で来いとあるのだろう? 影を連れて行ったことが知られ、兄さんに危害が加えられた、どうするつもりだ」
「冷静になって下さい、頭目。兄君が生きているのかも、確かではないのですよ? ただ、遺体を見つけただけかもしれない。この髪は、兄君の遺体から切り取っただけなのやも」
「もし、お前の言葉が正しかったのだとしても、兄さんの亡骸を迎えに行くだけのこと」

 兄さんの体を、下衆共の手に留めさせておけるわけがない。仮に、兄さんがすでにこの世を去っていたとしても、桃色の髪がこうしてヘイグァンから届くということは、兄さんがヘイグァンどものもとにいるということなのだ。俺は迎えに行かなければならない。

「死ぬつもりなんですか?」
「兄さんが死んでいるのなら、いずれ俺も死ぬ。結果は変わらない」
「……あなたは、本当に。たった一人の兄のために、バイユエの頭目を務めていたのですね」
「知れたことを」

 肩を竦めて笑ってしまった。今更何を、と思わずにはいられなかったのだ。俺は兄さんのために生き、兄さんのためにバイユエの頭目を継いだ。その意味の深さを、どうやらヤザは掴み損ねていたらしい。悲しみと悔しさをおもてに浮かべ、ヤザが呟く。

「あなたはまだ未熟ながらも、バイユエを率いるに足る器です。あなたを慕う徒弟も多い。でも……全く、あなたの心には、誰も届いていないんですね」
「俺に何を期待していたんだ、お前は。バイユエに対する愛でも抱いて欲しかったのか?」

 俺は兄のために生き、そして兄のためにバイユエを利用している。ヤザは父のために生き、父のためにバイユエを守っている。俺たちは似ているようで、大きく異なっていた。兄さんを失ったのであれば、俺にとってこの世も、バイユエも、不要なものとなる。

「分かっていたことだろう。俺は、狂っている。その自覚がある。たった一人の兄のことしか、考えられない。兄さんだけが俺の全てで、バイユエは兄さんを守るための道具でしかなかった。……だが、ろくに守れていない。俺はその程度の男だったというわけだ」

 己がここまで無能だとは思っていなかった。慢心があったのかもしれない。実際、ヘイグァンが現れるまではそれなりに上手くやれていたと思うのだ。だが、それでも現実は冷酷に俺の無能さを示す。きっと、父であればこのようなことにはならなかっただろう。最愛の人を病で失った父ではあるが、病以外からは全て守ったのだ。

「期待はずれの頭目で、すまない。俺が戻らなければ、他の兄弟たちから好きな人間を選んで、お前好みの頭目に育て上げろ」

 確かに俺は正妻の子ではあるが、俺の母と同等の扱いを受けている女ならばまだ他にもいて、その女にも父の種から生じた子がいる。異母兄弟には事欠かない。きっと俺以外にも、ヤザが扱いやすい人間が一人くらいはいるはずだ。

「……俺は一人で行く。お前は何もするな」

 言葉にして命じておかなければ、ヤザは俺の意に反して影を送り込むかもしれない。だが、その気遣いが最悪の事態を引き起こす可能性がある。それだけは避けたかった。俺はヘイグァンの要求全てを飲む形で、兄さんを迎えに行きたいのだ。

「何も……しません。あなたの意向に従います」

 掴まれ続けた俺の手首が、解放される。手首には、ヤザの手の跡がくっきりと残っていた。どうやら俺は、それなりにヤザに必要とされている存在であるらしい。それを感じ取りながらも、喜びも嬉しさも湧いてこない自分に、俺は呆れ果てる。歪んだ俺は、兄さんに纏わることでしか幸福を見出せないのだ。

「どうか、ご無事で」

 最後にそっと、ヤザが祈りの言葉を口にした。俺は頷くことも、振り返ることもせず、歩き続ける。向かうは、ルーフェイの中で最も海に近い場所。チャオヤン。そこで兄さんが俺を待っている。きっと。必ず。
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