すべては花の積もる先

シオ

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スイ編

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 頭部を締め付けるような痛みは増すばかりで、私から思考を奪っていく。刺すような寒さが絶えず私の全身を包んでいた。このままでは凍え死んでしまいそうだと、危機感を覚えながら、小屋の外の様子を伺う。雨音が聞こえない。激しく降り続いていた雨は、どうやら止んだようだ。

 板で出来た壁に背中を預けながら、荷物袋を手繰り寄せる。レンがずっと背負い続けてくれたこの袋の中には、細々としたものが入っていた。絵筆や、帳面。食べかけの焼餅までもが入れられている。手拭いを見つけたが、当然ずぶ濡れになっていて使い物にはならない。その中でも、使えそうなものを懐に入れて私は荷物袋を手放す。

 寒さに晒され続けたこの体は、疲れ果てていた。思えば、王都シンリンを出てからずっと、私は気力だけで進んでいたのだ。それが尽きた。こんな場所にいてはいけないということは分かっているのに、立ち上がって突破口を見つけることも出来なかった。疲労は限界に達し、考えることも、必死になってここから逃れることも出来ずに目を閉じる。

 仄かな温かさ。それを感じ取って閉じた目を開く。体が少し乾き始めていることに気付いて、しばらくの間眠っていたことを知る。視界には、ゆらゆらと揺れる炎が見えた。古びた火桶の中で、火が踊っている。それが温かさを生んでいるのだ。火桶のそばに人がいることに気付いたのは、その時だった。

 首の後ろで一つに結ばれる長い赤毛。こちらを見る眼差しは、酷く鋭利。私はこの男を知っている。それは、ズーユンが死んだあの夜に出会った赤毛の男だった。ヘイグァンの頭目であるとされる男。私の掌を切りつけたその人だ。体に恐怖が走る。川に落ちた私が何故、この小屋の中にいるのだろうと思っていたが、その答えを得る。この男が私を見つけ、もしくは救い出し、ここに運んだのだ。その行いが全て善意に基づいているとは思えず、私は警戒する。

 怯えて強張る私の方に、男がやって来た。ゆっくりとした歩みで私のそばまでやって来ては、手を伸ばす。身を捩ってその手から逃れようとするが、逃げ切ることは出来なかった。私は抱き上げられ、火桶のそばに連れてこられる。温かさが私を包んだ。強張っていた体が、少しばかり解きほぐされる。

「……何故……、こんなことを」

 この男の目的が、何一つ分からない。火のそばに私を運ぶという行為は、凍え死にそうな私を救う行為だ。だが、何故そのようなことをするのかが理解出来ない。私はバイユエに連なる者で、この男はバイユエに敵対するヘイグァンの頭なのだ。

「お前に死なれると困る」
「前は、私を……殺そうとしていたのに」
「別に、殺したかったわけじゃない。お前を捕らえたかっただけだ」
「どう……して」
「お前を手に入れれば、バイユエの頭目が必ずやってくる」

 愚かな私でも、そこまで言われれば理解する。私は人質だったのだ。ズーユンを使って私を誘き出したのも、雨の中のこのこと外を出歩いていた私を襲撃したのも、そして、川に落ちた私を助け出しのも、全ては人質にするためだった。私がいれば、スイは必ず救いに来てくれる。どれだけ危険な状態でも、どれほど不利な状況でも、スイは来てしまうのだ。

 私は男を睨む。火にしっかり当たれるようにと、男は私を背後から包み込むようにして座っていたが、そんな男を私は手で押し退けて距離を取った。弟を狙うような男の施しなど、受けたくない。だが、私の力などでは突き飛ばす事さえできず、逆に手首を掴まれ逃げられないようにされてしまう。

「俺は、バイユエを潰したい」

 血のように真っ赤な瞳。温もりを感じることの出来ないその眼差しで、この人は今まで一体何を見て来たのだろう。まるで、一振りの剣のようだ。バイユエを傷つけることだけを使命とした生き物であるように、私の目に映る。何故、という疑問が私の胸に生じるのは当然のことだった。この男のことを知ることが、何かの手掛かりになるような気がして、問う。

「バイユエに、恨みがあるんですか」
「恨み? まぁ、そうだな。恨みはある。……バイユエに復讐すること。俺にはもう、それくらいしかやることがない」

 寡黙な風貌に反して、その口は言葉を多く語る。まるで、こうして私を言葉を交わす日を心待ちにしていたかのようで、私は驚く。復讐以外にやることがない。男はそう言った。確かに、バイユエのような背の者の組織は恨みを買うことが多いだろう。復讐心を抱く者がいてもおかしくはない。実際に、そういった復讐者を見たこともある。だが、何故だろうか。この男からは、他の復讐者と異なる何かを感じるのだ。

「俺はバイユエの頭目を苦しめたくて、バイユエを潰したい。それ以外のことをごちゃごちゃ考えることはない。ヘイグァンの他の連中も、そういう考えを持つ奴が多い。……俺たちは、バイユエを苦しめるためだけに徒党を組んだんだ」

 命を投げ捨てるような生き方だ。誰かを苦しめるために生きるなんて、真っ当ではない。けれどきっと、それ以外の生き方が出来なかったのだろう。薄暗い一本道を進むような人生だったのかもしれない。その道が、バイユエに恨みとぶつける道だったということだろうか。男は、私の手首を掴んで火桶の前に翳す。照らされた皮膚の下に、うっすらと血管が透けて見えた。そして、男は鼻で笑う。それは明確な嘲笑だった。

「おかしいよな。俺たちの血の色は皆赤いっていうのに、俺たちはこんなにも違う」

 何かを嘆くような声。そこはかとない悲しみも感じ取れる。私は背後の男をゆっくりと振り返った。こんなに近い距離にいて、いつ殺されるかも分からないような状況だというのに、私はこの男の存在そのもののに恐怖を抱いていない。それどころか、振り返りみたその表情が、どことなく見慣れた人のものに似ているように感じてしまう。

「あなたは……もしかして」

 口が勝手に開く。心が感じた何かを、自分自身でも理解しないうちに唇が語ろうとした。けれど、それは最後まで言葉になりきらず、何が言いたかったのか、何を思ったのかが分からないまま、中途半端な声が霧散していく。

「聞いた。お前、あの男のものになったんだろ?」

 火に当たるために私の体を支えていた男の手が動く。強い力で私を背後から抱きしめ、顎を掴んだ。それは抱擁というよりも、羽交い締めという方が正しい。身を捩っても、私は逃れられない。あの男、という言葉はスイを指すのだろう。私はスイの所有物になった覚えは無い。けれど、他人から見ればそう見えるらしい。

「あいつの前で犯してやろうか」

 視界が揺れる。気付いたときには、固い地面に押し倒されていた。小屋の中には、石畳の床も、板張りの床もなく、押し固められた地面だけがある。そこに背中をつけて、真上から見下ろされていた。

「そうすれば、あいつは深く深く苦しむ。死ぬことすらぬるく感じるほどに」

 恐ろしい言葉を投げかけられているが、この人にその気が無いことは感じ取れる。私を脅かしているだけなのだ。満足してくれるのなら、私に何をしてもいい。そうすることで、スイを傷つけたり、苦しめずにいてくれるのであれば、私を殺したっていい。男をまっすぐに見つめながら、私はそんなことを考えていた。

「ジャンイン」

 誰かの声が聞こえる。この小屋の外から。おそらく、似たような形の小屋が連接されており、隣の小屋とこの小屋は扉一枚で隔てられているだけなのだろう。そして、そんな隣から誰かが声をかけて来たのだ。ジャンイン。そう呼ばれ顔を上げた、私の真上にいる男。それがこの男の名なのか。

「奴が来た。一人だ」

 その声を聞いた瞬間、ジャンインの口元に残忍な笑みが浮かんだ。体はもう十分に温まったはずだというのに、私は悪寒に震えた。誰が来たのかを、誰何せずとも分かる。ジャンインはそのために、私を捕らえているのだから。スイが来たのだ。しかも、一人で。

「俺も鬼じゃない。お前をあいつの前で犯すのはやめてやる。……その代わりに、お前の前であいつを殺す」

 手首を掴まれたまま私は引き上げられる。足に力が入らず倒れ込みそうになるが、ジャンインは私に肩を回して歩くことを強いた。引きずられるような形で、私は火桶から離れる。温もりから遠ざかり、冷え冷えとした空気が私を覆った。恐怖に慄いている場合ではない。私はこの男を止めなければならなかった。ジャンインの胸元をぎゅっと掴み、縋り付く。

「ジャンイン! お願い……! スイに、何もしないで!」

 名前を呼んだ瞬間に、ジャンインが少しだけ動きを止めた。何かに驚いたような、衝撃を受けたような。そんなおもてをして私を見る。一体何なのか。その視線の真意を探る前に、ジャンインの目は私から離れてしまった。そして、歩みは再開される。私はまた、引きずられながら歩かなければならなかった。

「待って! お願いだから、スイを傷つけないで!」

 私の手首を掴むジャンインの手を私が掴み、引き留めようと足に力を入れる。私の脚力での抵抗など、無駄な足掻きでしか無い。それでも私は必死になって抗った。スイは強く、聡明だ。そんなスイが、害されるわけがない。死ぬはずがない。そう思いながらも、嫌な想像が頭の中に駆け巡る。

 ヘイグァンに追われ川に落ちた私は、こうして今、ヘイグァンの頭目であるジャンインに囚われている。スイは、私を助けるためにここに来たのだ。おそらくジャンインがスイを誘き出している。ならば、それは必ずスイにとって不利な状況となっているはずだ。私が人質にされていれば、スイはどんな条件でも飲んでしまうことだろう。私にはそれが分かる。

「スイ……っ、いやだよ、絶対に……絶対に、いや」

 恐ろしくて、心細くて、涙が溢れた。どうしてこんなことになってしまったのだろう。どうして私は間抜けにも、あんな場所で足を滑らせて川に落ちてしまったのだろうか。落ちたのならば、そのまま溺れ死んでいればよかった。そうすれば、少なくともスイが誘き出されることはなかったのに。

「逃げて、スイ……!」

 引きずられながら、私は叫んだ。これから向かう場所で何が起こるのか。それを知ることは出来ないが、良くないことが起こることだけは分かる。ジャンインの手が、この小屋の扉を開く。その先には、別の小屋が。やはり、ここはいくつもの小屋が長屋のように繋がっている長屋に似た構造であったようだ。一体、どれほどの大きさを持つ建物なのだろう。少しでも自分が置かれた状況を理解しようと、私は涙で濡れた瞳で周囲を伺った。

 振り続けた酷い雨は止んでいる。代わりに、吹き荒れる風が小屋を揺らしている。全てが不穏で、恐ろしい。恐怖に支配される私の体は、ジャンインの手に引きずられるまま、隣の小屋へと運ばれた。
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