段差なき館

電柱サンダー

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1章

芸術家

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静かな山あいに、一軒の古びたアトリエがあった。
街から遠く離れたその場所で、ひとりの画家が黙々と筆を動かしていた。

名は、朝比奈映司(あさひな・えいじ)。
日本出身ながら、いまやその名は世界中の美術館で語られている。
彼の作品は、写実の極致とも言える正確さを備えていた。それでいて、見る者に奇妙な違和感を残す。どこまでも本物らしい風景や人物が、どこか現実からわずかにずれているような……まるで夢と現実の境界をすり抜けたかのような感覚。人々はそれを「写実の幻影」と呼び、賛美した。

朝比奈の描く絵には、理屈では説明のつかない力があった。
どれほど理知的な批評家であっても、その絵の前に立てば、しばし言葉を失った。まるで、絵の中に自分の記憶の断片が埋め込まれているかのようだった。

この日もまた、朝比奈は一枚の絵に取りかかっていた。
それが彼の人生を締めくくる一作になるとは、誰も知らなかった。

朝比奈映司が八枚目の絵を描き終えたのは、夜の帳がすっかり山を包んだ頃だった。
アトリエの外では、まるで山そのものが唸るような風が吹き荒れ、戸板を叩く音が不規則に鳴り響いていた。けれど、彼の筆先は一度たりとも揺るがなかった。

最後の絵に署名を入れると、朝比奈は静かに立ち上がり、部屋の隅に寄せていた七枚の絵の前にそれを並べた。古い電球の淡い光に照らされ、八つの絵は横一列に並び、壁を埋めた。

彼は椅子に腰を下ろし、ゆっくりと煙草に火を点ける。
窓の外では雷が光った。
だが彼の表情は、どこまでも穏やかだった。

一見、なんの脈絡もない八枚の絵だった。
人物も、風景も、抽象的な形さえ混ざり合い、まるで別々の画家が描いたようにも見える。だが朝比奈は、その混沌の中に何かを見ていた。

絵の内容は、以下の通りである。



一枚目:
《手のない肖像》
薄暗い部屋の中、椅子に座る老女が描かれている。だが両腕の先が描かれていない。袖口から先が空白のまま、まるで途中で絵具を断たれたように消えている。

二枚目:
《裏返しの家》
木造の平屋の家。よく見ると、屋根と床が反転している。家具が天井に貼りつき、玄関は空へと開いている。

三枚目:
《鏡を見ない少女》
画面の中央に立つ少女は大きな鏡の前にいるが、鏡には何も映っていない。少女の目線は鑑の中ではなく、鑑の向こう――つまり、こちら側を見ているように描かれている。

四枚目:
《湖に沈む街》
水面に浮かぶ街の輪郭が描かれている。建物は逆さまに反射しているが、実際には水面の中の方が細部まで描き込まれており、現実と写しの境が曖昧になっている。

五枚目:
《眠る男》
白い寝台に横たわる中年の男。目を閉じて眠っているようだが、背景の時計が異様に歪んでおり、男の影も何重にも分裂している。

六枚目:
《言葉を失った部屋》
本棚、机、書類棚が整然と並ぶ書斎の絵だが、書物の背表紙はすべて白紙で、壁には何語かわからない記号が刻まれている。明確な意味を持たない情報の圧力が視覚を乱す。

七枚目:
《反転する階段》
石造りのらせん階段が描かれている。よく見ると、上に昇っているはずの階段が途中から下に続いている。視線を追えば追うほど、どちらが上でどちらが下かがわからなくなる。

八枚目:
《観る者》
一見すると黒いキャンバス。だが光の角度によって、ごく薄く、輪郭だけが浮かび上がる人物像がある。顔は描かれていない。絵を眺める視線の角度によって、微かに変化するような錯覚を与える。



朝比奈は、すべての絵をしばらく眺めていた。
それは、まるで何かが「揃った」ことを確認しているようだった。
彼の表情に、満足の色が浮かぶ。長い旅を終えた者のような、どこか安堵したような――そんな微笑。

窓の外では、風がさらに強さを増していた。
八枚の絵の前で、朝比奈映司は静かに立ち上がる。
そしてそのまま、アトリエの奥の扉を開けて、闇の中へと消えていった。


数日後、彼の消息が途絶えたという知らせが関係者の間に広まった。どこへ行ったのかも、何の連絡もなく姿を消したことも、すべてが彼の性格からすれば「ありうる」ことだった。しかし、次第に不穏な気配が広がり始める。

最初に騒ぎ始めたのは欧州の美術界だった。スイスのバーゼル美術館で予定されていた特別展示が突如延期となり、現地入りしていたはずの朝比奈が空港にすら現れていなかったことが明らかになった。
続いて、ニューヨーク、パリ、ロンドンの新聞やオンラインメディアが一斉に報じる。

《“幻想の写実”――巨匠・朝比奈映司、行方不明に》
《最後のアトリエから消えた画家》
《遺作は完成していたのか? 》

報道が過熱する中、朝比奈のアトリエは地元警察によって調査された。鍵は中からかけられ、荒らされた形跡もなかった。8枚の絵は整然と壁に並べられたまま残っていた。だが、画家の姿だけが、どこにもなかった。

そして、行方不明から二週間後――事態は急変する。

発見されたのは、朝比奈のアトリエから十数キロ離れた山中だった。山肌の岩場にひっそりと開いた小さな洞窟。その奥で、彼のものとみられる遺体が発見されたのだ。白いシャツと絵具の染みついた作業ズボン。靴は履いておらず、足には土と苔がこびりついていた。

死亡時刻は、おそらく失踪当夜。外傷はなく、争った形跡もない。ただ、不自然なことが一つあった。

遺体の周囲には、何もなかった。
地面も、壁も、洞窟の内部すべてが、異様なまでに「空白」だったのだ。
落ち葉も、石も、風に巻き上げられるような埃一つすらなかった。まるで何かが――いや、「何かの絵の中」に彼が入り込んでしまったかのような、そんな静寂がそこにあった。

朝比奈映司の死は、世界中のメディアによって報じられた。だが彼の死の真相について、誰も明確な説明をすることはできなかった。

ただ一つ、彼の死後に明らかになったことがある。
アトリエに残された八枚の絵は、どれも未発表のものであり――それらを展示する権利が、ある一人の人物に遺贈されていたのだ。

芸術評論家・佐々木尚吾。
かつて朝比奈と短いながらも濃密な交流を持ったとされる、唯一の証人である。

朝比奈映司の訃報が報じられてから、ちょうど十日が経った頃だった。

佐々木尚吾は、重い足取りで長野の山道を歩いていた。東京から車で五時間、さらに舗装のない山道を二十分。彼は過去に一度だけこのアトリエを訪れたことがある。そのときと変わらず、木々に囲まれた小屋はひっそりと森の中に佇んでいた。

――八枚の遺作がそこにあるはずだった。

朝比奈が遺言で「この絵を託す」と指名したのは、佐々木ただ一人だった。遺言の中には、絵を公にするか否かは佐々木の裁量に任せる、とまで記されていた。何の血縁もない彼に、朝比奈はなぜそれほどの信頼を寄せたのか。その答えすら、今となっては聞きようがなかった。

木の扉を開けると、埃と油絵具の匂いが鼻をついた。
だが次の瞬間、佐々木は違和感を覚えた。

部屋が、妙に「空っぽ」なのだ。

壁――何もかかっていない。
床――何も立てかけられていない。
イーゼルすら片付けられたかのように端に寄せられ、キャンバスも画材も、見当たらない。かつてこの部屋いっぱいに広がっていたはずの絵たちが、跡形もなく消えている。

佐々木は奥の部屋も確認した。が、同じだった。どの壁も白く、乾いた木肌をさらしているだけ。まるで最初から何一つ描かれていなかったかのように。

おかしい。あの八枚の絵は、朝比奈の死の直後に警察がアトリエに立ち入った際、確かにその場にあったと報道されている。彼自身もその記事を見た。作品の画像こそ公開されていなかったものの、「八枚の未発表作が壁に並んでいた」と、信頼できる複数の媒体が明記していた。

念のため、彼は県警に連絡を取ることにした。
電話口の担当者は、事務的な口調で答えた。

「申し訳ありませんが、当方がアトリエから絵画を押収したという事実はありません。検視と現場確認の際、撮影記録はありますが、物品は一切移動させておりません。そもそも遺言で美術評論家の佐々木様に譲渡される旨が明記されており、私どもが介入する理由もありません」

信じがたい思いで、佐々木は警察の記録に基づく写真提供を依頼した。後日送られてきたデータには、確かに壁に並べられた八枚の絵が写っていた。だが、そのすべてが、今は忽然と消えていた。

盗難だろうか。だが、侵入の痕跡はない。鍵は閉まっており、窓も割られていない。朝比奈には親戚もいない。弟子も取っていなかった。誰が、何のために、どうやって――。

やがて、「朝比奈映司の遺作、忽然と消える」というニュースは世界を駆け巡った。

《失われた八枚――朝比奈映司の最後の絵、所在不明》
《作品ともに姿を消したアトリエの幻》
《佐々木尚吾氏、“受け継がれなかった遺言”を語る》

メディアは連日騒ぎ立て、真贋論争や陰謀論すら飛び交った。ある欧州の新聞は、「絵は最初から存在しなかったのではないか」とまで報じた。

だが佐々木は確かに覚えている。十年前、アトリエで彼が偶然見てしまった、まだ誰にも見せていなかったあの奇妙な絵――反転する階段、鏡を見ない少女、空虚な部屋。あれらは、確かに存在していた。記憶の中にこびりついている色彩と構図が、それを否応なく証明していた。

そして、ふとよぎった考えがあった。
――あの絵は、そもそも「この世界」に属していたのだろうか?

このとき佐々木はまだ知らなかった。数日後、ある招待状が彼の元に届くことを。「段差なき館」という、聞いたこともない美術館からの、封蝋つきの手紙が。
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