段差なき館

電柱サンダー

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1章

手紙

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諦めたのは、三度目の問い合わせの後だった。

警察、地元の文化財団、果ては葬儀を担当した業者にまで連絡を取った。だが、八枚の絵を見た者も、それを持ち出した者も、誰ひとりいなかった。あらゆる可能性が潰え、情報の網の目をすり抜けたように――朝比奈映司の絵画は、この世界から完全に姿を消していた。

佐々木尚吾は、静かに椅子にもたれかかり、深く息をついた。
胸の奥が、どこまでも空虚だった。
あれほど鮮烈に記憶に焼き付いた八枚の絵が、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せた。幻想を追いかけていたのは、もしかすると自分のほうだったのではないか――そんな考えすら浮かんできた。

その翌朝、ポストに一通の手紙が届いていた。

封蝋付きの手紙だった。
今時、こんなものを送ってくる者がいるのかと訝しんだ。
濃い赤の蝋に押された、見たこともない紋章。鳥か、樹か、あるいは人間の顔にも見える抽象的な図案。差出人の名前は記されておらず、裏返してみても宛先の住所すらなかった。

どのようにして届いたのか、まるでわからなかった。
切手も、スタンプもない。郵便局を経由した形跡が一切ない。まるで誰かが直接、ポストに差し込んだようにしか思えなかった。

佐々木は眉をひそめた。
芸術の評論家という立場上、恨みや皮肉を買うことは少なくない。無言の抗議や意味不明な怪文書の類も、過去に何度か受け取ったことがある。
不気味な美術関係者、嫉妬に狂った作家、あるいは精神を病んだコレクター――想定できる相手は少なくない。

念のため封を切ることもせず、そのままゴミ箱に捨てた。

だが、次の日。

再び、同じ封蝋、同じ紋章の手紙が、ポストに入っていた。
差出人不明。郵送痕なし。内容は不明のまま。

背筋に、わずかに冷たいものが走る。
偶然か、執着か。だがどちらにせよ、まともではない。
佐々木は何も言わずにその手紙を手に取り、昨日と同じようにゴミ箱に投げ入れた。

その日の夜、仕事から帰宅したときのことだった。
部屋に灯りをつける前から、彼は何かがおかしいと感じていた。
暗がりの中、窓越しに入った街灯の光が、机の上の一点だけをわずかに照らしている。

そこに、それはあった。
真紅の封蝋が、ぼんやりと浮かび上がっていた。

紛れもなく、あの手紙だった。
ポストにも、ゴミ箱にも捨てたはずの、それが、何の説明もなく、今――彼の書斎の中心に鎮座している。

佐々木は一歩、また一歩と、慎重に近づいた。
封筒の紙は分厚く、滑らかな手触りがある。
蝋印には、やはり奇怪な紋章が封じられていた。やや強めの香水のような、しかし鉱物のようにも思える香りがかすかに漂っている。

彼はしばらく、ただそれを見下ろしていた。

――誰かが、入った。

その考えが頭をよぎった瞬間、佐々木の背筋に冷たいものが走った。
ポストからではない。玄関の内側でもない。
真っ暗な家の中、電気をつける前の書斎の机の上――そこに、例の手紙は置かれていたのだ。

昨日も、今日も、自分はそれをゴミ箱に捨てた。封も開けずに。
だからこそ、今目の前にあるそれは、どう考えても「第三の手紙」だった。しかも今度は、明らかに自分の生活圏の内側に、侵入してきている。

佐々木は、震える指でスマートフォンを取り出し、自宅のセキュリティアプリを開いた。
玄関、窓、バルコニー、通気口、その他全12カ所のセンサー。全ての表示が「水色」の安全を示していた。

侵入の形跡は一切なし。カメラにも動体反応の記録はない。
だが、今ここに「それ」があるという事実が、すべてを裏切っていた。

「……なんだ、これは……」

声は喉の奥で途切れ、息が浅くなる。胸が詰まり、思考がまとまらない。
背後を確認し、廊下に誰もいないことを確かめてから、佐々木は荷物を手早くまとめた。財布、スマホ、充電器、ノートPC――最低限のものだけを手提げ鞄に突っ込んで、ドアに駆け寄った。

靴も完全には履かないまま、玄関の扉を開け放ち、夜の街へ飛び出す。
後ろから、誰かが静かにこちらを見ている気がして、ドアは振り返らずに閉めた。鍵は掛けない。もう、そんなものに意味があるとは思えなかった。

佐々木はそのままタクシーを拾い、最寄りの警察署へと向かった。

深夜にもかかわらず、警察署の受付は明るく、生活の残り香がある。だが、その明かりすら、今の彼には異常に冷たく感じられた。

「すみません。家の中に、誰かが……いや、何かが……入った形跡があるんです。セキュリティは作動していませんが……絶対に、自分以外の手で何かが“置かれた”んです」

佐々木の訴えに、若い警官は最初、やや戸惑った表情を見せた。
だが「第三者が室内に手紙を持ち込んだ可能性がある」と聞くと、すぐに上司を呼び出し、事実確認に動き出した。

その手紙の内容は?
脅迫文か、差出人の記名はあるか?
開封していないと知ると、警官たちはかえって警戒を強めた。

「念のため、中を確認させていただけますか?」

佐々木は、ためらった。
だが、うなずくしかなかった。

“それ”は、今でも――彼の家の、あの机の上に、赤い印を携えて静かに置かれている。

警察署の一室に、奇妙な静寂が流れていた。

佐々木の目の前に、あの手紙が置かれている。
赤い封蝋には、やはり見たことのない紋章。鳥のようで、木の枝のようでもあり、よく見ると顔のようにも思える――捉えどころのない文様が封を固く塞いでいた。

机の向こうには、若い刑事と上席の警部補が座っていた。二人とも顔を曇らせながら、白手袋をはめ、封筒にそっとナイフを滑り込ませた。

蝋が割れる、鈍く湿った音が室内に響く。
封筒の中から取り出されたのは、古めかしい羊皮紙のような手触りの紙だった。薄茶の繊維が浮き出たそれは、どこか時代を感じさせる香りを放っている。




佐々木尚吾 様へ

あなたの目が、まだ世界を視ていることを私たちは知っています。

ここに「段差なき館」へのご招待を申し上げます。

本館は、一般公開されておらず、場所もまた明示されることはありません。
ただし、招待状をお持ちの方のみ、本館への入場が許可されます。

ご案内は、指定の時刻に指定の場所までお越しください。
封筒内の地図に従って、時間通りにお進みください。

遅刻・辞退・第三者への譲渡は一切認められません。
本状は、佐々木尚吾様個人に対してのみ有効です。

展示作品は、すでにあなたの記憶にあるはずです。
失われた絵画は、本館にてすべて展示されております。

どうかご確認ください。
これは、最後の審美となります。

  ──段差なき館 館主より

警部補が紙面をのぞきこみ、眉をひそめた。
若い刑事も肩越しに覗いたが、首をかしげるばかりだった。

「文字……ですか、これ?」

「いや……何語だこれ? 文字化け? 何かのコード?」

二人の表情が困惑から苛立ちに変わっていくのを横目に、佐々木尚吾は紙を手に取った。

「……読めるのか?」

警部補の声が、まるで遠くから聞こえるようだった。
佐々木は、思わずうなずいた。

「日本語……ですよ。ちゃんと……文章になっています」

警部補は目を細めた。「冗談じゃない。見てみろ、これが?」

佐々木は、自分が静かに孤立していくのを感じていた。
この招待状は、彼にしか見えず、彼にしか読めない。

封筒の中には、もう一枚の紙が折り込まれていた。
手に取ると、それは“地図”と呼ぶにはあまりに曖昧だった。方角も地名もなく、抽象的な円や曲線が幾重にも重なり、その中心に、たった一文だけが記されていた。

> 「立体のない階へ、登ってきてください」

それは、確かに“段差なき館”からの呼び声だった。
佐々木の記憶に焼き付いた、あの絵たちの気配が、紙の奥から滲み出ていた。

「……イタズラでしょう、たぶん」

警部補は、明らかにそう信じている口ぶりだった。だが、彼自身もどこか腑に落ちていないようだった。室内への侵入の痕跡はなく、警備システムも反応していない――だが、確かにその手紙は机の上にあったのだ。

「内容は……まあ、支離滅裂ですね。ですが、私有地への不法侵入の可能性はありますから、いったんこちらで調査します」

警察は佐々木の申し出を受け、今夜に限って安全確保のため近くのビジネスホテルを手配してくれた。駅前にある、窓の狭い静かなホテル。外観はくたびれていたが、館内は清潔で、人の気配がほとんどなかった。

部屋に入った佐々木は、荷物を投げ出すと、迷わずあの手紙を取り出した。
そして机の上にそれを広げ、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

外は雨。駅前のネオンが、窓に濡れた色を滲ませている。

蛍光灯の白い光が、羊皮紙のような手触りの手紙を照らしている。読めるのは、自分だけだ。あの警部補も若い刑事も、これを“意味のない文字の羅列”としか見なかった。

今となっては、それすらもう現実のことだったのか、夢の中の出来事だったのか曖昧だった。
それほどまでに、招待状の文面は彼の思考を支配しはじめていた。

数分おきに、彼は同じ文章へと視線を戻す。
すでに十度以上は読み返しただろう。だが、その一文だけは読むたびに違う重みで胸に沈んでくる。

「失われた絵画は、本館にて全て展示されております。」

失われた絵画。
それは、朝比奈映司の最後の八枚。
突如として消え、誰にも行方がつかめず、世界中が幻として語りはじめた、あの絵たち。

まさか。まさかそんなはずはない、と最初は思った。
だが、この招待状は、彼にしか読めない。
その手紙に、確かにそう書かれている。
あの絵画が、「本館にて展示されている」と。

机の上に、朝比奈の記憶が蘇る。
反転した階段。空っぽの部屋。見つめ返してこない少女の目。
あの絵たちは、単なる“作品”ではなかった。
何かを映し、何かを告げ、現実に割り込んでくるような、異常な存在感があった。

それが、今も“展示されている”というのなら……
その“館”は、現実のどこかに存在しているということになる。
あるいは、現実のどこかではない場所に。

佐々木はゆっくりと椅子にもたれた。
視界の端で、机の上の封筒が揺れもせず鎮座している。
中には、あの地図のようでいて、何も示していない紙――それもまた、“呼んで”いる。

「本当に……あるのか……?」

――もし、あるのだとすれば。
この目で確かめなければ、評論家としての言葉は意味を持たない。
芸術に狂いを感じたことはあった。だが今、自分の思考がどこへ向かっているのか、自分でも把握しきれていなかった。

だが、心のどこかではもう決まっていた。

行くしかないのだ。
その“館”が現実か幻想かは問題ではない。
あの絵に再び出会える可能性があるなら、それだけで十分だった。
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