段差なき館

電柱サンダー

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2章

館の到着

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翌朝、佐々木尚吾はホテルを出た。空はまだ薄暗く、雨は止んでいたが、濡れたアスファルトが足元に重たく光っていた。

手には、あの手紙と“地図”と呼ぶにはあまりに曖昧な紙。昨日の夜から何度も見返したが、道筋も方角も書かれていない。だが不思議と、迷いはなかった。地図が意味を成していないにもかかわらず、“どこへ向かうべきか”だけははっきりと心に浮かんでいた。

佐々木は地下鉄に乗り、郊外へ向かう。何度も乗り換えを重ねるたび、乗客の数は減っていった。最後に乗ったローカル線では、車内に他の客の姿はなかった。窓の外に広がる景色は徐々に変わり、住宅地を抜け、山に囲まれた人里離れた集落へと入っていく。

何時間が経っただろう。時計を見る気にもならなかった。
ふと、車窓の外に奇妙な建物が見えた。

それは、山肌にそって立つ螺旋状の構造物だった。高さはそれほどでもないが、輪を描くようにぐるぐると上昇している。遠くからでも分かるほど、異様な存在感を放っていた。外壁は石造りのようでいて、部分的に金属のような光沢を反射している。建築様式は何かの時代にも属しておらず、まるで現実の建築理論から逸脱しているように見えた。

佐々木は確信した。
あれが――段差なき館だ。

螺旋の内部に、階段は見えなかった。段差も、斜面も、窓もない。だが、あの構造は明らかに“登っている”。
館へ向かうには、ここで降りるしかない。

列車が停まる気配はなかった。だが、なぜか扉が開いた。

誰の指示もなく、駅名の標識もなく、アナウンスもない。けれども佐々木は躊躇わずに席を立ち、降車した。

冷たい風が、顔を撫でた。螺旋の建物は、目の前に静かに待っていた。まるで、来ることを最初から知っていたかのように。

列車を降りたのは、駅とも言えないような無人の土の空間だった。プラットホームもなければ案内板もない。背後の列車は音もなく扉を閉じ、次の瞬間には霧の向こうへと消えていた。振り返っても線路さえ見えない。ただ、湿った土と名もなき草が足元を覆っているばかりだった。

佐々木は前を向いた。目の先に、螺旋状の建物――段差なき館が、木々の隙間からわずかに覗いていた。その奇怪な輪郭は、朝比奈映司の絵に通じる何かを孕んでいるように思えた。

朝比奈の絵が見られる。失われたはずの八枚が、本当にあの館に展示されているのなら。そう思うだけで、佐々木の胸は高鳴っていた。あの絵をもう一度見ることができるという事実だけが、今や彼をこの異様な世界の中に繋ぎ止めていた。

だが、そこへ辿り着くまでの道は想像以上に不快だった。

舗装はされていない。むしろ、これは“道”と呼べるのかも怪しい。踏み固められた痕跡はなく、草むらとぬかるんだ泥の間を縫うように、細く踏み跡が続いているだけだった。背丈を超えるような雑草が両脇から生い茂り、露に濡れた葉が足や肩を叩くたびに、ぞわりとした嫌悪感が皮膚に走った。

ときおり、耳に届くのは風の音ではなかった。
――アオオォ……
遠くから、狼のような声が響いた。獣の鳴き声にしては長く、湿った咆哮だった。振り返っても、草が揺れるだけで姿は見えない。空気は妙に冷たく、どこか甘ったるい土の匂いが鼻につく。

足元をふと見ると、黒いものが横切った。
拳ほどの大きさの昆虫だった。見たことのない種だ。
甲虫のような光沢のある外骨格に、異様に長い脚。だが何よりも目を引いたのは、背中に浮かぶ幾何学的な模様だった。規則的な六角形がびっしりと連なり、その中心に赤い点が一つだけ刻まれていた。

佐々木は思わず後ずさった。吐き気を催すような造形に、寒気が這い上がる。だが目を逸らしても、同じような虫が周囲の草むらで何匹も蠢いているのが見えた。ガサリ、ガサリと乾いた音が絶えず足元を撫でていた。

「……気にするな。気にするな……」

声に出して自分を落ち着かせようとした。だが一歩ごとに靴の底は泥に沈み、肌を撫でる空気はぬるくなっていく。森の密度が増し、空の光がほとんど届かなくなってきた。

なのに、奇妙なことに、佐々木の中の“期待”は消えていなかった。

あの八枚の絵が、ここにあるのだ。
そのために自分は来た。
この道がどれほど不快で、常識から逸脱していても、たどり着いた先にあの絵があるのなら――

そう思うことでしか、この道の異常性に正気を保てなかった。

前方に、螺旋の建物が輪郭を強めてきた。
その構造は、近づくにつれてますます現実味を失っていった。

目の前にそびえるその建物は、どこからどう見ても美術館には見えなかった。

円筒状の外壁が螺旋を描いて絡まり合い、ところどころ苔むした石と金属が継ぎ接ぎのように組み合わさっている。ガラスもなければ、看板もない。人の気配もなく、窓というものすら存在しない。唯一あるのは、建物の根元に空いた黒い裂け目のような開口部――入口と思しき穴だけだった。

ここまで来て、佐々木はようやく足を止めた。

――本当に、ここなのか?

朝比奈の絵があるはずの場所。段差なき館。
だが、どうにも「美術館」という印象とは結びつかない。
建築としての意匠は奇抜だが、看板一つないというのは異常だった。

佐々木は無意識のうちに、コートの内ポケットから紙を取り出していた。
招待状と、あの“地図”。

地図というにはあまりにも情報が欠けている。線路も道路もなく、地名もない。描かれているのは、雑に描かれた円や楕円、うねるような曲線ばかり。
昨日の夜も何度も見返したが、意味はわからなかった。

だが今、螺旋状の建物を目の前にした佐々木は、ふと紙に視線を落とし、そして――言葉を失った。

地図に描かれた“ランダムに見えた曲線”たちは、まさにこの建物の構造そのものだった。

外壁の湾曲。内部へと向かう回転。層の重なり。曲線の収束する中心。
それらは単なる装飾ではなかった。
“図形”と“建築”とが、完全に一致していた。

建物を見上げる。
地図を見下ろす。

何度も視線を往復させるうちに、佐々木の中の不安は静かに裏返り、別の感情へと形を変えていった。

この地図は、ただの案内ではない。
これは、建物そのものの構造を写した“設計図”だったのだ。
あるいは、それ以上の何か。
見る者にしか意味を持たない、知覚の鍵。

佐々木は口の奥で小さく息を吐いた。
そして地図を畳むと、黒く口を開けた建物の入口へと、一歩、足を踏み出した。

足を踏み入れた瞬間、佐々木は一瞬だけ目を細めた。
黒い穴のようだった入口の中は、外からはまったく想像もできないほど明るかった。

暗闇に包まれているはずの建物の中には、まるでホテルのフロントロビーのような空間が広がっていた。白い石の床は光を柔らかく反射し、壁は淡いクリーム色で塗られていた。天井にはモールディングが施され、間接照明が一定のリズムで空間を照らしている。どこにも埃一つなく、音もない。

その静けさは、不自然なほどだった。
誰もいない。受付もなければ、警備員の姿もない。
ただ、空間だけが整えられている。
人の不在を完璧に装った、無人の美。

佐々木は、片手に招待状を握ったまま、ゆっくりとその空間を歩きはじめた。
まるで、この明るさが幻想であることを確かめるように、端から端まで、一歩ずつ床を踏みしめていく。

滑らかな石の感触が靴底を通じて伝わってくる。
ロビーのような造りではあったが、ソファも観葉植物も存在しない。無機的な静けさが、反響しない空気の中に閉じ込められている。

外観からはまるで予想できなかった。
あの歪んだ螺旋、苔と金属の入り混じる異形の建築。
だがこの内部は、整然としすぎていた。完璧に均された空間。あまりに整っていて、むしろ不気味だった。

壁に飾られているものは、何もなかった。
絵画が並んでいるわけでもなく、展示されている彫刻もない。

なのに、どこか“展示室”に近い印象があった。
そう思わせるのは、照明の当たり方だった。
まるで壁に何かが飾られていた“名残”のような光の配置。
そこにあったはずの何かを照らし続けているような錯覚。

佐々木は壁際に立ち、指先でそっと表面を撫でてみた。
滑らかな手触り。だが、その冷たさにどこか嫌な粘りがあった。

「本当に……ここが……」

思わず呟いた声が、空間に吸い込まれていった。
返事はない。音も、揺らぎもない。
ただ、自分の足音だけが、床に静かに残っている。

だが、その無音の静寂の中で、佐々木の中の高揚は消えていなかった。

朝比奈の絵は、ここにある――
そう信じるには、十分だった。
この異様な整然さも、人の不在も、あの絵の“延長”としてならば、納得できる気がした。

招待状を握る手に、汗が滲んでいた。

一通り、空間を歩き尽くした。

ロビーのようなその広間は、完璧に整えられていたが、何ひとつ展示されているものはなかった。壁には絵画の痕跡すらなく、空気は匂いも温度も持たず、ただ無機質に満ちているだけだった。

佐々木は中央に立ち尽くしていた。

興奮は冷めていた。最初に足を踏み入れたときの、あの高揚感はもうどこにもなかった。
代わりに、ふとした違和感が背筋を這っていた。

――扉は、どこにある?

そう気づいた瞬間、心拍がわずかに跳ね上がった。
先に進むための扉が見当たらない。螺旋状の構造だったはずの建物に、上へ続く階段も、回廊も、隠し扉のような継ぎ目もなかった。

まさか、と思い振り返った。
だがそこにも、何もなかった。

自分が入ってきたはずの入口が、消えていた。

扉の形跡も、隙間も、段差すらなく、壁は滑らかな一枚の板のように繋がっていた。
正面の壁も、側面も、天井も、すべてが同じ構造で、同じ色で、同じ“無”だった。

全身が冷たくなっていくのがはっきりとわかった。
汗ではなく、血が一気に引いていくような感覚。
外気は穏やかだったはずなのに、体温だけが一人凍えていく。

「……え……?」

ようやく声が出た。だがそれは、まるで他人の声のようだった。
響きはなく、返答もない。
そしてそのとき、ふと指先に違和感を覚えた。

手の中にあったはずの、招待状が――ない。

いつ手放したのか、まったく覚えていない。
紙の感触は確かに手のひらにあった。館に入るときも、歩き回るときも、ずっと握っていたはずだ。だが今、何もない。

コートのポケットを探り、鞄を開け、内側の書類ケースをめくる。だが、どこにも見当たらない。
紙切れ一枚なのに、その存在が消えているだけで、なぜか思考の中心がぐらついた。

この場所は、明らかに異常だった。
何かが狂っている。空間の構造か、時間の流れか、それとも自分自身の感覚か。

佐々木は震える手で額を押さえ、深く息を吸った。
しかしこの密閉された空間には、深呼吸をするだけの“空気の流れ”すらなかった。

どこかへ進まなければ。だが、どこにも“先”が存在していない。

そして、気づいてしまった。

――自分は、この建物に閉じ込められたのだ。

展示もない空間。出口も入口もない館。
ここが本当に“段差なき館”であるならば、この状況は必然なのかもしれない。

佐々木は、壁に手を当てた。
冷たい石の感触が掌を刺すようだった。
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