段差なき館

電柱サンダー

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2章

2階

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先ほどまでいたはずの部屋が――変わっていた。

最初に違和感を覚えたのは、壁に触れていた手のひらだった。
冷たいはずの石の感触に、わずかにざらついた感覚が混じっている。まるで材質そのものが変わってしまったような。

佐々木は静かに手を離し、視線を巡らせた。
そして、思わず足を止める。

そこには、絵画があった。
三方の壁に、均等に間隔を空けて飾られた作品の数々。大小さまざまな額縁が、明るく整えられた照明の下で、沈黙を保ちながら彼を迎えていた。

「……なかった、はずだ……」

つい先ほどまで、ここには何もなかった。
白い壁、無音の空間、装飾も装置も存在しない、ただの部屋だった。

だが今、まるで最初から“展示”の意図を持って作られたかのように、空間は変化していた。
いや、違う。

佐々木の中に、ふと奇妙な確信が生まれる。
これは“同じ部屋”ではない。
同じ広さに見えて、壁の角度が微妙に違う。天井にあった照明の数も、床材の色も、静かに異なっていた。

「……上に来てる……?」

自分の口から漏れた言葉に、自分自身が驚いた。
階段も、エレベーターもなかった。
あの構造では、垂直移動は不可能のはずだ。

それでも、この空間の“密度”が違う。
先ほどより空気が澄み、音が反響しやすくなっている。
そして何より――飾られた絵画。

一歩、また一歩と絵に近づくにつれ、佐々木の中にじわじわとした確信が満ちていく。

これは、朝比奈映司の絵だ。

筆致の荒さと繊細さが共存する、矛盾めいた筆の動き。
写実の中に忍ばせた異形の輪郭、静けさの中に満ちる不穏な生命力。
遠目にはどこか普通の風景にも見えるのに、じっと見つめていると、心の奥底に何かが這い寄ってくる。

間違いない――どの作品も、朝比奈のものだった。

だが、その瞬間、佐々木の期待は別の感情へと急降下する。

あの八枚の絵が、ない。

朝比奈が最期に描き、失踪前に完成させたという八枚。
この館に存在していると明言されていた、“失われた絵画”。
どれも、この中には含まれていなかった。

「……どこだ……」

思わず唇が震えた。
確かに朝比奈の絵は目の前にある。だが、それらは過去にどこかで見たことのある旧作ばかりだ。

あの八枚――あの“最も恐ろしい傑作”は、まだどこかに隠されている。

あるいは、もっと深い場所に。

もしくは、もっと高い場所に。

佐々木は再び館の奥へと視線を向けた。
そこに、階段も扉もないことを、今はもう当然のように受け入れていた。

仕方なく、佐々木は壁に並ぶ絵画の一つに視線を向けた。
求めていた八枚の絵はなかったが、ここまで来て、何も見ずに立ち去るわけにもいかない。

じっと見つめると、絵の中で佇む人物の瞳がこちらを見ているような錯覚に陥る。だがその一瞬の緊張を打ち消すように、床の上で何かが目に留まった。

紙だ。

床に、何かが落ちている。
佐々木は眉をひそめ、しゃがみ込んだ。

それは――招待状だった。

「……なんで……」

思わず声が漏れた。
ついさっきまで、あれほど探しても見つからなかったものだ。コートのポケットにも、鞄の中にも、展示室の隅々まで目を配ったはずだった。なのに今、それはまるで最初からそこに置かれていたかのように、何気なく足元に存在していた。

拾い上げた紙の表面には、見覚えのある文面が並んでいる。だが、ひとつだけ決定的に“違う”ものがあった。

――赤いハンコ。

その印は、封蝋に使われていたあの紋章と同じものだった。
精緻な意匠の中央に、獣とも人ともつかない異形の顔が浮かんでいる。仄かに光沢を帯びた真紅のインクは、今しがた押されたばかりのように鮮やかだった。

佐々木はそのハンコが、招待状の裏面に押されていることに気づき、そちらを返した。

幾何学模様――それが初めて目にした時の印象だった。
意味も脈絡もない、ただのデザインだと思っていた線の群れ。
だが、赤いハンコが押されたことで、その全貌が初めて明らかになった。

それは、スタンプラリーのような構造だった。

規則的に並んだ円。分岐する線。一部の箇所には微かに色の変化がある。
そのうちの一つに、赤い紋章が重なるように押されていた。

「……ここは“チェックポイント”だった……?」

思考が徐々に整理されていく。
この館を訪れた意味。この空間の構造。この招待状の役割。
そして、自分がこの館に導かれていること。

まるで、何者かが佐々木の行動を“把握”しているかのようだった。

歩いた場所に印が押されていく。
まるで迷路を進む子どもに、到達を示す目印のように。

佐々木は、招待状をもう一度裏返し、残された空白のマスを見つめた。

まだ、道は続く。
そして、次の印は――きっとまた“いつの間にか”押されている。

佐々木は絵に近づき、静かに息を吐いた。

間違いない。
この筆触、この空気、この“隙間”――やはり朝比奈映司のものだ。
生前に何度も目にしてきたはずの絵だが、今こうして静謐な空間で一対一に向き合うと、まるで初めて対峙するかのような緊張感が走る。

彼の絵には、常に空白があった。
余白という意味ではない。何かが“描かれていない”ことで、逆にそこに意味が生まれる。
それは見る者の想像に委ねられた“間”であり、無言の問いかけであり、ある種の挑発だった。

佐々木は思わず、頬が緩むのを感じた。

「……相変わらずだな、朝比奈……」

思わずつぶやいた声は、小さな展示室に優しく反響した。
この空間の主はもういない。だが、彼の意志はまだこうして残っているのだ。

そう思うと、嬉しくもあり、同時にどこか寂しかった。

しばらくのあいだ、ただ静かに絵を見ていたが、やがて佐々木の中で職業的な思考が立ち上がってきた。

無意識のうちに、胸ポケットから小さなノートとペンを取り出す。

いつもの癖だ。展覧会でも、個展でも、常に冷静な第三者の目で絵と向き合う。それが評論家という職業の業でもある。

佐々木は小声で独り言を交えながら、メモを取っていく。
感情と評価のバランスを保ち、あくまで作品としての“価値”を冷静に判断する。それは朝比奈に対しても変わらぬ姿勢だった。

一枚、また一枚と見ていくうちに、時間の感覚が失われていった。
この部屋に時計はない。音もない。ただ照明だけが、一定の静けさで空間を照らしていた。

掲載されている絵の半分ほどを見終えた頃だった。

佐々木はふと、ペンを止めた。

説明のつかない妙なざわめきが胸の奥に生まれてきた。

絵が悪いのではない。
それぞれの作品は完結しており、構図も主題も申し分ない。色彩も質感も、記憶の中の朝比奈と寸分違わぬものだった。
それでも、次の一枚を見て、また次の一枚に進むたびに、その違和感は積もるように静かに増していく。

「……?」

佐々木は歩みを止めた。
何に引っかかっているのか、自分でもうまく言語化できなかった。
ただ、芸術的な何かが、連続しているはずのこの展示の中で、わずかに軋んでいる。

たとえば――音楽でいうなら、完璧な演奏の中に微かに混じる異音のような。
たとえば――詩の中で、文脈には合っていても“語感”だけが浮いてしまう単語のような。

そんな違和感だ。

目の前の一枚にはおかしな点は見当たらない。
それでも、前に見たあの作品と、今見ているこれとを思い返すと、何かが噛み合っていないように思える。

連作ではない。
だが、朝比奈映司が残した作品たちは、無意識のうちに“呼応”し合う傾向があった。
過去の展示でも、それは顕著だった。何気ない構図が、別の作品の視点として機能していたり、色彩の余韻が時系列を超えて響き合ったり。
それが、ない。

いや――むしろ、呼応しすぎているのだ。

どの絵も、“個”であるはずなのに、何か見えない指示系に従って配置されているような気配がある。
計算され尽くしている。朝比奈なら、そこまで露骨な意図は見せないはずだ。

佐々木は腕を組み、少し距離を取って壁を眺めた。
均一な間隔、均一なフレーミング、均一な主題性。
それぞれが際立っているはずの絵が、どこかで足並みを揃えてしまっている。

「……これは……」

そこまで言いかけて、口をつぐんだ。

“整いすぎている”
それは一見すると賞賛に近いが、芸術という生き物においては、必ずしも美点とは言えない。

展示された作品群が、まるで誰かの見えない手で“配列”され、“統制”されているような奇妙な感覚――。

佐々木はゆっくりとペンを下ろし、招待状のスタンプ面をふと見つめた。

一つ目の赤い印が、そこにしっかりと刻まれている。

次に進め、と――誰かに告げられているような気がして、彼は無意識に背筋を伸ばした。

残りの絵を、見よう。
例え途中でどれだけ“見るに耐えない”ものであったとしても、個展の最後までは必ず目を通す。
それが佐々木尚吾の矜持だった。

無論、朝比奈映司の絵に限って言えば、「見るに耐えない」などということはない。
むしろ、あらゆる意味で見る者を試す、見る価値を持った作品ばかりだった。
それでも、今ここで自分の中に生まれつつあるものは、ただの“好み”や“気分”とは異質のものだ。

違和感。それは明確にあった。

佐々木はひとつ息を整え、再び壁際に立った。
残りの作品群へと視線を移し、丹念に見ていく。

幾枚かを見終えるうちに、その確信は深まっていく。
どの絵も、素晴らしかった。

構図の妙、色彩の調和、視線の導線、モチーフの意味付け――。
あらゆる観点から見て、朝比奈映司の絵は一枚一枚が「完結して」いた。
そしてそれらは、佐々木がこれまで出会ってきたどの絵と比べても、文句なしに「最高レベル」に達している。

だが、それでもだ。
どうしても、引っかかる。

佐々木の評価には点数がない。
あえて数値化を避けることで、芸術の持つ“体温”や“距離”を守ろうとしてきた。
そのかわり、心の中にははっきりとしたランク付けがある。

高い作品、突き抜けた作品、そして稀に――孤高の作品。

朝比奈の絵は、そのいずれをも越えていた。
一枚として“中途半端”なものはなかった。全てが極端で、洗練されていて、血が通っていた。

それでもなお、佐々木の胸の内には、どこか“白い空白”のようなものがじっと居座っていた。

なぜだ?

これだけ優れていて、心を打たれるはずなのに。
なのに、この全体を包むような落ち着かなさは、一体なんなのか。

佐々木は、筆致を読み取りながらも、頭のどこかでずっと考えていた。

違和感の正体。
それはもしかすると、絵そのものではなく――もっと別の“次元”にあるものではないのか。

例えば、作品の出現の順番。
あるいは展示の構成意図。
あるいは、それを見ている自分の感情の変化そのもの。

見終えた絵はすべて記憶に焼きついた。
それでも、この心の奥底に積もる微かなざらつきだけが、どうしても消えてくれない。

佐々木は、最後の絵の前で足を止めた。

その一枚にも、疑うべき点はなかった。
だが、見終えた瞬間に胸の内に芽生えたものは――やはり奇妙な沈黙だった。

それは、感動とは違う。畏怖とも、賞賛とも違う。

ただ静かに、心の奥に“余白”が残ったような感覚だった。

佐々木は一枚一枚を丁寧に見ながら、ノートへ静かにペンを走らせていった。
その文字は几帳面に並び、どの絵にも的確な言葉を残していく。
ある一頁には、こんな記述があった。

「光源が朝日か夕日か判然としないことが、かえって時間の境界を曖昧にしていてよい。寺社の構図は遠近に優れ、主観的な視線誘導を行わずに自然と奥へ導く。
参拝する人々の動きがほとんど停止しているにもかかわらず、祈りという行為が生む静的な動勢が、画面に微細な流れを作っている。
とりわけ、七五三の少女を抱く父親の構図が秀逸。眠りかけた子どもが父の肩に顔を埋めている。あまりにありふれた一場面であるにもかかわらず、そこに宿る崇高さは一枚の宗教画にも匹敵する。
構成に迷いがなく、人物の重心と衣装の重なりから“静けさ”が伝わる。
朝比奈の絵が得意とする“語らないままに語る力”が、もっとも純粋な形で現れている作品の一つ。」

ノートに書き終えた数行を眺めているうちに、佐々木の眉がほんのわずかに動いた。
「光源が朝日か夕日か判然としない」と記したその文言に、ふと違和感が生じたのだ。

七五三の少女が、父親に抱かれたまま眠っている。
参拝を終えての帰路か、それとも疲れ果てての一時の休息か――どちらにせよ、構図全体が語る物語は、終わりに向かう静けさに満ちている。

ならば、それは朝日ではなく、むしろ夕陽ではないのか?
そう考える方が自然ではないか?
それなのに、なぜ私は“判然としない”と記したのだ――?

その疑問が胸に浮かんだ瞬間、佐々木はすっと立ち上がり、絵の前へと再び足を運んだ。

距離をとって、じっと見つめる。
今度は色彩の分布、影の落ち方、空の微妙なトーン、すべてに意識を向けるようにして。

だが、それでも――やはり断定できなかった。

確かに、色調は夕暮れのようにも見える。
けれども、空気に満ちる透明さや、光の角度はどこか夜明け前の柔らかさを思わせる。

夕方のようでありながら、夜明け前の気配も確かに漂っている。
佐々木の眼が狂っているとは思えなかった。だがこの絵は、見る者の判断をほんのわずかに鈍らせるような、時刻の曖昧さを意図的に忍ばせている。

「……やはり……判然としない、か……」

佐々木は絵の前からゆっくりと離れ、再びノートを開いた。
記した文章の最後の行、その「判然としない」の言葉の横に、小さく、しかししっかりとクエスチョンマークを付け加えた。

それ以上は書き足さなかった。

理由は、わからない。
だが、それでよかった。
わからないままにしておくことが、この絵に対する正しい応答であるように思えた。

すべての絵を見終えた瞬間、佐々木の中にひやりとしたものが広がった。

ああ、そうだ。
ここには――出口が、ないのだった。

階段も扉もなく、ただ美しく飾られた絵画の壁に囲まれている。
夢中で作品を追っていたせいで、そのことをすっかり忘れていた。

ひとつ息を吐く。
この場の異常さに再び意識を戻すのは、思っていた以上に恐ろしかった。

だからこそ佐々木は、もう一度ノートを開いた。
書き留めた文章の一つ一つを確認するように目でなぞり、それらが指し示す絵を、またじっくりと見直していった。

現実から逃げるように、彼は思考を分析へと切り替えた。
評論家としての習性が、自動的に彼を救おうとしていた。

ノートには十数枚の絵画に関するコメントが記されている。
それらをひとつひとつ照合していく作業は、孤独な牢獄の中で唯一の“秩序”だった。

しばらく経った頃、佐々木はある絵の前で足を止めた。
一度は「朝比奈の作風を完璧に継いだ」と高く評価した一枚――
それを改めて見つめるうちに、どこかに微かな違和感があることに気づいた。

……これは、本当に朝比奈の手によるものだっただろうか?

筆致は正確だ。色彩の調和も取れている。構図にも乱れはない。
それでも、何かが“違う”と身体が訴えてくる。

佐々木は身をかがめ、作品に目を近づけた。
顔を寄せ、照明の角度を変えて、表面に浮かぶわずかな陰影を凝視する。

そして、ようやく気づいた。

絵肌の“密度”が違う。
絵具の塗りに、かすかに厚みが足りない。
いや、むしろ全体に“滑らかすぎる”といった方が近い。

使われている紙も、どこかおかしい。
朝比奈が好んで使っていたあの独特のざらついた質感が、微妙に薄れている。

さらに複数の絵で同じ傾向があることを確認するにつれて、佐々木の表情は徐々に険しくなっていった。

三割――いや、それ以上かもしれない。
この展示室に飾られている絵の中には、“何かが違う”ものが混じっている。

見た目には判別できない。
だが、紙の繊維、インクの厚み、光の吸い込み方……そういった質感の領域で、確実に差異が存在していた。

これは、贋作か?
それとも――複製か?
だが、ここまでの精度のものを一体誰が、何のために――?

佐々木はもう一度、自分のノートを見返した。
そこには確かに、“高い評価”が書かれている。
だが、その評価のいくつかが、いまや急速に揺らいでいる。

「見えていたものは……本当に“見えていた”のか……?」

自問しながら、佐々木は改めて展示室の全体を見渡した。

絵画たちは、変わらず静かにそこにある。
だがその沈黙の奥には、意図的な並びが存在しているようにも感じられた。
まるで“本物”と“何か”を混ぜ、それを通じて鑑賞者の認識を試しているかのように――。

再び、背筋が冷たくなった。

朝比奈の作品とは、どこかが違う。
それでも、明確に誤っているわけではなかった。

佐々木は、絵の前でしばらく佇みながら、ただ黙ってその筆致を目で追い続けていた。
光の入り方、色彩の流れ、構図の安定感――どれも模倣としては極めて高い完成度にあった。
けれど、やはりわずかに違う。

まるで、誰かが朝比奈を「完璧に理解したうえで」描いたような、そんな感じだ。

迷いを含んだまま、佐々木はふと絵に手を伸ばした。
額の縁をそっと持ち、掲示されている壁から引き外す。
その裏に何があるとも思わずに。

しかし――絵のあった壁面に、数字があった。

「……五?」

薄く、しかし確かに「5」という数字が鉛筆で書かれていた。
誰かがこっそりと書き残したようなその痕跡に、佐々木の心臓がどくりと脈打った。

まさかと思いながら、他の“少し違う”と感じた絵にも順に手を伸ばす。
同じようにして外していくと、そこには次々と数字が現れた。

「3」「1」「2」「6」「4」

規則性は不明だが、共通していたのは、どの絵も“違和感のあるもの”だったということ。
逆に言えば、壁に残った絵――すなわち朝比奈の“本物”には、数字が書かれていなかった。

それを見た佐々木は、はっと息を飲む。

これらの数字は、並び順を示しているのではないか?

何の順番か――絵を見るべき順序。
それが、ここに示されているというのか。

残された“本物”の絵の中から、「1」から「6」までの数字の場所に対応する絵を順にたどっていく。
最初は手がかりもないまま始めたが、その並びで絵を鑑賞しなおすうち、佐々木の中にある感覚が徐々に明確になっていった。

それは、まるで一冊の“絵のない物語”を読み進めるような感覚だった。

第一の絵が、ある“始まり”の静けさを。
第二の絵が、ささやかな違和を。
第三の絵が、不穏なざわめきを。
第四、第五、そして第六の絵へと進むごとに、視線の方向、色の選び、光の意味が、次第に重層的に響き合い始める。

単体では完結していたはずの絵たちが、順に見ていくことで意味を紡ぎ始めるのだ。

「……そうか……これだったのか……」

佐々木は、声を上げずにはいられなかった。

一枚一枚は完璧だった。
それでも、展示としての順序が乱れていたせいで、彼の感性は正確にそれを捉えることができなかったのだ。

違和感の正体は、順序の破壊だった。

順序を取り戻した今、作品たちは朝比奈映司の精神の軌跡をなぞるように、生きて語り出した。
絵画が、ただの静止画ではなく、“時間と共に進行する構築物”であることを、あらためて佐々木は知った。

不気味な美術館の中、閉ざされた空間の中央で、佐々木尚吾は深く深く頷いた。
そして、初めてこの部屋にいることへの安堵にも似た納得を覚えた。

これが、“本当の展示”だったのだ。

朝比奈の絵の並び順を解き、意味のつながりを見出したことで、佐々木の中にあった重たい違和感は徐々に晴れていった。

改めてノートを開き、先ほどの評価をなぞるように目を通す。
とくにあの山寺の絵――七五三の少女が父親に抱かれて眠る、あの一枚についての記述に目が止まった。

「光源が朝日か夕日か判然としない?」

記憶をたどれば、確かにあのときはどちらとも判断がつかなかった。
だが、いまならはっきりとわかる。

絵の意味を、並び順の中で見直したとき、あれは明確に“始まり”の光だった。
朝比奈は、あの絵で物語の幕開けを告げていたのだ。

佐々木は、ゆっくりとペンを走らせ、その一行の末尾につけた疑問符を力強く二重線で消した。
そしてその下に、はっきりとこう記した。

「これは朝日である。」

確信だった。迷いはもうなかった。

だが、ちょうどそのとき――
何気なく視線を落とした自分の手元に、あるものがないことに気づいた。

招待状が、またしても、消えていた。

つい先ほどまで、ノートの隣に置かれていたはずだ。
自分の視界の端に、それが封蝋を上にしたまま置かれていたのを確かに覚えている。
見間違いではない。佐々木の記憶力は、こうした場面では疑いようもなかった。

しかし今、そこには何もなかった。

静かだった。
風も音もない。だが、皮膚の表面がじわじわと冷えていくのがわかる。

まるで、誰かが気配を残さずに手を伸ばしたかのような、そんな喪失だった。

「……また、か……」

低く呟き、辺りを見回しても、やはり招待状の姿はどこにもない。

封蝋に押されていた、あの不気味な紋章。
裏面に並んでいたスタンプラリーのような幾何学模様。
それらが、まるで最初から存在していなかったかのように消えていた。

佐々木は、そっとノートを閉じた。

招待状の出現と消失。それが何を意味するのかは、まだ見えてこない。
だが、明らかにこれは“何かの意志”によって制御されている。
そんな予感が、確かな輪郭を持ち始めていた。

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