段差なき館

電柱サンダー

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2章

5階

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佐々木は、足元に置かれていた白い封筒を拾い上げた。
裏返すとそこには、見覚えのある紋章が――今度は緑色のインクで、くっきりと押されていた。

これで四色目。
赤、橙、黄、そして緑。

どの階層でも、必ずその「色」が最後に示されてきた。
最初の赤い封蝋、次はオレンジのスタンプ、そして黄色、いまは緑。

「……赤、オレンジ、黄色、緑……」

口の中で呟いて、佐々木ははっと目を見開いた。

虹の色だ。

誰かが、あるいはこの建物そのものが、虹の色順にスタンプを刻んでいる――。
ならば、残っている色は青、藍、紫。
あと、三つ。

つまり、この空間には全七部屋があるのではないか。
そして、今はちょうどその折り返しを過ぎたところ。

そんな単純なことに、なぜ今まで気づかなかったのか。
だが、それが意図的に“気づかせないよう“にされていたのか、それともただ自分の注意がそこまで届いていなかったのかはわからない。

佐々木は封筒を静かに見つめる。
この紙は同じものだ。手触りも、質感も、書かれている内容も変わらない。
変わっていくのは、裏に押された色だけ。

それが、この美術展の“進行度”を示している。

スタンプは四つ目。
虹は七色。

あと、三つ。

どこかで、深く息をつく音が聞こえたような気がした。
それは自分のものだったのか、それとも――

この館が、彼の気づきを歓迎している音だったのかもしれない。

絵画が飾られている――
まず、そこに佐々木はひとつの安心を覚えた。

展示があるということは、この部屋にもルールがあるということだ。
そして、それを見抜くことができれば、次へ進むための道筋が見えてくる。

彼は絵の前に立ち止まり、息を整えた。
この部屋が四階層目であるなら、最初の階層――あのホテルのようなフロント空間――は、ただこの美術展が「異常」であることを告げるための序章だったのだろう。
展示が始まったのは二階層目から。そして今は、四つ目の展示空間。

四色目、緑の部屋。

佐々木は、展示されている一枚目の絵に目を向けた。
一見、何の変哲もない――しかしそれは、すでに過去の階層で否定されてきた「油断」だった。
この館の絵は、見た目の印象とは裏腹に、必ずどこかに意図と仕掛けがある。

それは素材か、描かれた内容か、あるいは配置か。

「さて……この階層は、どういう仕掛けだ?」

佐々木は、自らにそう問いかけながら、ゆっくりと一枚目の絵を見つめた。
ただ美しい、というだけでは終わらせない。
どの階層でも共通していたのは、“違和感”の発見から道が開かれていくということだ。

それが視覚的なものか、空間構造に関わるものか、あるいは意味の組み合わせかは毎回異なる。
だが、必ずこの展示空間には「問い」がある。
そして佐々木の役割は、それに批評家として答えることだ。

今回の絵の数は、これまでより多いように見えた。
壁は一周しているが、中央にもパネルが設けられており、ぐるりと複雑な流れを描いている。

すべての絵に共通する特徴はあるのか?
あるいは、逆に一枚だけ逸脱した作品が紛れているのか?

緑という色に込められた意味――自然、再生、成長、あるいは擬態。

この空間が模しているものはなんだ?

佐々木は静かに、ペンを取り出し、ノートの端に小さく記した。

「第四階層・緑」
展示作品数:多数。構造複雑。テーマ未定。
ルール探査中。

そして、再び一歩を踏み出した。
今度もまた、この空間と静かな知恵比べが始まる。

約二時間をかけて、佐々木は全ての絵画を見終えた。
まだ明確な法則も見つからず、手応えのようなものも得られないまま、彼は最後の一枚の前に立ち尽くしていた。

静かだった。
長い沈黙と絵との対話の果てに、ようやくこの部屋の空気に馴染んだような気さえしていた。

――そのときだった。
背後で、わずかに空気が揺れる音がした。
絨毯の上を軽い足音がすべる。くぐもった会話。子どもの小さな笑い声。

ギョッとして振り向いた佐々木の目に飛び込んできたのは、三人の人物だった。

男と女、そしてそのあいだを走り回る幼い男の子。
どこにでもいるような、ごく普通の家族だった。

父親と思われる男がひとつ絵の前で立ち止まり、ふと佐々木の存在に気づく。
にこやかに声をかけてきた。

「こんにちは。ここの絵は素晴らしいですね。」

佐々木は一瞬、返事に詰まった。
目の前にある“ありふれた日常”のような光景が、この異常な空間とあまりにも食い違っていた。

ようやく喉から出た言葉は、ほんの短い同意の音だった。
小さく、頷くしかできなかった。

ここは普通の美術館ではない。
出入り口は消え、階層ごとに世界が変わり、消える招待状と増える紋章が進行を告げる――
そんな場所に、どうしてこんなにも無防備な家族がいる?

佐々木はひとつ、ためすように呟いた。

「……ここは、招待制の美術館ではなかったでしたっけ?」

家族はしばらく顔を見合わせたあと、母親と見られる女性がバッグの中を探り始めた。
すぐに、見慣れた白い封筒が彼女の手に現れた。

それには、佐々木の知っているものと同じく、赤い封蝋が施されている。
女性はその中から、きれいに揃えられた三枚の招待状を取り出し、佐々木に見せた。

「これが突然、家のポストに入ってたんですよ。あなたも、そうですか?」

その何気ない問いかけに、佐々木の心はひどくかき乱された。
この場所に、そんな風にピクニックにでも来るような家族が呼ばれているなど、想像すらしていなかった。
純粋に絵を楽しむために来た人々が、ここに存在する。

その事実が、佐々木には言いようのない恐怖と、深い悲しみをもたらした。

この家族が何を見て、何に巻き込まれ、何を失っていくのか。
想像するだけで、胸の奥が重く沈んでいく。

佐々木はもう一度、封筒の赤い封蝋を見つめた。
彼らも、あの赤い色から始まったのだ。

何も知らずに――

「佐々木尚吾といいます。……芸術評論をやってます。」

黙っているわけにもいかず、佐々木は小さく頭を下げた。
どういうわけか、こんな空間にこの家族はいる。そして――何よりも自然に、当たり前のようにこの空間を受け入れている。

「尚吾さん。なんだか知的そうな方ですねぇ」

母親と見られる女性がにこやかに返し、続けて息子の背中を軽く押した。

「ほら、あんたもちゃんとご挨拶しなさい」

恥ずかしがって背中に隠れる子どもが、小さく顔だけ出して「たかしです」と言った。
父親も笑いながら名乗り、気づけばその場は、まるで公園で出会った親子連れとの立ち話のような空気に包まれていた。

……だが佐々木は違った。
ここは、そんな場所ではない。
彼は沈黙を数秒おいたあと、静かに口を開いた。

「ここは――普通の美術館じゃありません。」

家族の三人が、同時に佐々木の方を見た。
その視線の奥にあるのは、警戒でも恐怖でもない。ただの興味だった。

「この美術館は、《朝比奈映司》という画家の作品を展示しています。……先日、亡くなった画家です。おそらく、この展示には、朝比奈が最後に描いた八枚の絵も含まれている。私は……その遺作を正式に受け取るはずだった人間です。」

言いながら、佐々木は三人の表情を観察していた。
だが、父親は「へぇ」と素朴に頷き、子どもは展示の絵から目を離さず、母親は鞄を抱え直すだけだった。

佐々木は言葉を続けた。

「誰がこの美術館を作ったのか、運営しているのか……全てが謎です。
入った扉は消え、招待状が導くままに階層を登らされ、外界との接触もできない。
これは……普通じゃない。
お三方も、ここに“招待”されたのなら……おそらく、すでに同じような体験をしているはずです。」

沈黙。
今度は少しだけ長く感じられた。

やがて、母親がぽつりと漏らす。

「……なんか変だとは思ったんですよね」

それは、ただの感想のように響いた。

「ほら、最初の部屋、ホテルのフロントみたいだったじゃないですか?
でも誰もいなくて。あと、帰り道もなかったし……。なんだか、へんてこな作りだなぁって」

佐々木は、返す言葉を見つけられなかった。
絶句するしかなかった。

異常な空間で出会った家族が、まるでショッピングモールの館内装飾の奇妙さを話すような調子で、この空間の異常さを語っている――

それが、恐ろしかった。

人が異常に気づかず、あるいは異常に慣れてしまうときの、あの不気味な違和感。
無垢な受容が、佐々木の中にぞっとするような寒気を呼び起こす。

(……彼らは、無事に帰れるのか?)

それは、佐々木自身に対する問いでもあった。

佐々木はふたたび手元のノートに目を落とした。
これまでの階層とは違い、今回の展示に「違和感」は一切見当たらない。
素材、厚み、額の配置――どれをとっても完璧だ。
だが、その“完璧さ”こそが、かえって不気味にも感じられる。

ページをめくる。
書き残したメモの行間に、何かヒントはないかと探るが、文字の羅列はただ淡々と作品を賞賛しているばかりだった。

そのとき、不意に小さな声がすぐ傍から聞こえた。

「なに見てるの? 絵を見ないと、もったいないよ」

顔を上げると、そこには男の子――たかしくんが、佐々木のすぐそばに立っていた。
さっきまで両親の背中に隠れていたはずの彼が、いつの間にか自然に近づいていたのだ。

「……評価をしているんだよ。僕の仕事みたいなものでね」

佐々木がそう言うと、たかしは佐々木のノートを覗き込んだ。
そして笑いながら一言。

「ミミズみたいな文字!」

すぐに母親が慌てて近づき、子どもの肩を軽く引き寄せながら謝った。

「ごめんなさい、この子、無遠慮で……」

だが佐々木は微笑みながら、静かに首を振った。

「いいですよ。字が汚いのは事実ですから」

ページを見返せば、自分でも判読に苦労するほどの殴り書きが並んでいる。
行間はぎゅうぎゅうで、思考と感情と直感がぶつかり合っているような文字列だ。
“芸術と狂気の境界”を歩くとき、文字すらもその輪郭を曖昧にするのかもしれない――そんな皮肉を、ふと胸に浮かべた。

たかしは、佐々木の言葉に満足したようににっこり笑うと、またひょこひょこと展示の方へ戻っていった。
その背中を見つめながら、佐々木は目を細めた。

この美術館は、何を選び、誰を導こうとしているのだろう。
あの無垢な背中も、何かの“意図”に巻き込まれているーーー

絵の前に立ち尽くし、佐々木はじっと視線を注ぎ続けていた。
そこには何かがある。だが、それが“何”かを掴めない。
ただ、言葉にできない違和が胸の奥で鈍く鳴っていた。

と、そのときだった。小さな足音が近づいてきた。

「その絵、気に入ったの?」

声に振り向くと、先ほどの男の子――たかしくんがまたそこにいた。
屈託のない笑顔で、佐々木の横に並び、同じ絵を見上げている。

佐々木がずっとその絵を見つめていたから、たかしはそれが“お気に入り”だと自然に思ったのだろう。

すぐに、父親と見られる男性が少し焦ったように歩み寄ってくる。

「こら、たかし。お仕事の邪魔しちゃだめだぞ」

言いながら、たかしの手を引こうとする。
だが佐々木は軽く片手を上げて、それを制した。

「いいです、いいです。……絵はね、純粋に楽しまないとダメなんですよ」

その言葉に、たかしの目がぱっと輝いた。
そして間髪入れずに新しい質問を投げかけてきた。

「おじさんはどんなお仕事してるの?」

佐々木は少しだけ考えてから、できるだけわかりやすい言葉で答えた。

「絵を見てね、どこが素晴らしいかを見つけて、どうしてその絵がすごいのかを考える。……そういうお仕事だよ」

たかしは「ふーん」と言って、また少し絵に目をやる。

「じゃあ、この中で一番いい絵ってどれ?」

その無邪気な問いに、佐々木はふっと微笑んだ。
けれど、答えはすぐには返さなかった。

ほんのわずかの沈黙の後、佐々木はやさしい口調で言った。

「この中の絵はね、どれも素晴らしいんだ。だから“一番”とかは、決まらないんだよ」

たかしは口をとがらせ、不服そうな顔で佐々木を見上げた。

「つまんない答え」

そう呟いた声が、なんとなく館内に響いた気がして、佐々木は小さく笑って誤魔化した。

「よければ……この部屋の絵について、私が少し解説しましょうか?」

ふとそう言うと、たかしくんの両親は目を丸くして喜んだ。

「えっ、本当ですか? プロの方の説明を伺いながら絵を見られるなんて……ありがとうございます!」

両親は何度も頭を下げた。
その反応に佐々木は、内心、少しだけ誇らしい気持ちになった。
自身の評価眼が認められることは、芸術評論家として何よりの報酬だった。

「それじゃあ、まずこの絵から」

佐々木は一枚の絵の前に立ち、家族三人を導くようにして身振りで促した。
描かれていたのは、雪の積もる山間の小さな町――路地に灯る明かりと、そこを歩く二人の男女の後ろ姿。


「これはね、遠近法の処理と色の階調が非常に優れているんです。
この雪の白――一見単色のように見えるでしょう?
でも、よく見るとごくわずかに青、紫、灰、それに人肌のような赤みが差し込まれていて、光の温度が感じられるように構成されているんです。
さらに注目してほしいのはこの建物の輪郭線。見てください、手前の家は明瞭に描かれているのに、奥にいくほど線が空気に溶け込んでいるように曖昧になっている。
この“異質さ”と“自然さ”の同居こそが朝比奈の真骨頂で、現実のなかに夢の輪郭を紛れ込ませるような筆致なんです――」

語っているうちに、佐々木の声は次第に熱を帯びていく。
まるで自分がその絵のなかに入っていくかのように。
身振り手振りも加え、語彙は湧き上がるように流れ出した。

しかし――

「……よくわかんない」

たかしくんがぽつりと呟いた。

言葉は小さかったが、空気を裂くように真っ直ぐだった。

両親はすぐに気まずそうに視線を交わし、母親が「あら……」と小声を漏らす。
父親は「こら、たかし……」と嗜めかけたが、その口調には本気の咎めはなかった。
どこか、内心では「自分たちも同じかもしれない」と思っているようだった。

佐々木は一瞬だけ黙り、口元にわずかな笑みを浮かべた。

(そりゃそうだな……これは絵を“見たい人”への言葉じゃなかった。絵を“語りたい自分”の言葉だった)

解説とは時に、感動の共有ではなく、自己満足になりがちだ。
それに気づかせたのは、この小さな鑑賞者だった。

佐々木はたかしの方へ目を向け、軽く目線を合わせた。

「わかりにくかったね。じゃあ、もっと簡単に話してみようか」

たかしは小さく頷いて、また絵を見上げた。
その横顔には、純粋に“いい絵”を見つけたいという、無垢な眼差しが宿っていた。

佐々木は一息ついて、今度は腰を少し落とした。
たかしくんと、同じ目線で絵を見上げるようにしてから、穏やかに口を開いた。

「白いものを描くときにね、本当に“白”だけで描いちゃうと、のっぺりしてしまうんです。
 でも、そこにほんの少し、たとえば水色やピンクやグレーを混ぜてみると……白さが、もっと白く見えてくる。
 色を重ねることで、逆に“白”の明るさが際立つんですよ」

たかしくんは素直に目を丸くした。

「ふうん……白に、白じゃない色を使うと、もっと白く見えるの?」

佐々木は笑ってうなずいた。

「そう、だけど、何を混ぜるかがとっても大事なんです。
 そこに使う色は、“どれだけ白く見せたいか”“どんな光が当たってるか”“その白がどんな気持ちなのか”――そういうことを感じながら選ばなくちゃいけない。
 だから、センスが必要なんですよ。白を“ただの白”じゃなくて、“意味のある白”に変えるためのセンスです」

それから佐々木は、絵から絵へとゆっくり歩きながら、そのフロアに飾られたすべての絵について、できる限り平易な言葉で解説していった。
「ここは、お母さんと子どもが向かい合ってるでしょう。だけど間に影が落ちてる。これは“言葉じゃない距離”を描いてるんです」とか、
「この空の色、普通の青じゃないでしょう? 少し紫がかってる。それは、この人の気持ちが“寂しい夕方”なんだって教えてくれてる」とか――。

とてつもない時間がかかった。
喉も渇いたし、足も痛んできた。
だが、佐々木の心はどこか穏やかで、熱を帯びていた。

これは、ただの解説ではない。
目の前の子どもに、美術という名の扉を――その向こうの世界を、そっと押し開いてやること。
それができるのは、長年この世界に生きてきた自分にしかできないことだ。
そう思うと、自然に言葉が溢れてくるのだった。

そんなときだった。
たかしくんが、ふと、ある絵の前で立ち止まり、首をかしげた。

「ねぇ、おじさん。さっき、白にいろんな色を混ぜてたのが良かったって言ってたけど――
 この絵、全部真っ白のままなのに、これはいいの? 色、いらないの?」

その問いに、佐々木は目を細めた。
ああ、ちゃんと聞いて、ちゃんと考えている。
子どもは、大人が思っているより、ずっと深く感じ取っている。

「うん、いい質問ですね」

佐々木は一拍おいてから答えた。

「その通りでね、この絵は“色を使わない”ことで白の力を引き出してるんです。
 たとえば雪の日、世界が全部真っ白になったみたいな朝を思い出してみてください。
 そこに色があったら、静けさが壊れちゃうでしょう?
 だから、この絵は“白のまま”であることが正解なんです。
 逆に言えば、どの絵に色を足すべきで、どの絵はあえて足さないのか――それを選ぶのが“センス”ってやつなんですよ」

たかしくんは、しばらくじっと絵を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。

「……なんかわかった気がする」

その言葉に、佐々木の胸の奥で、何か温かなものが静かに灯った。
それは絵を描く者でもなく、評価する者でもない、ただ“伝える者”としての小さな誇りだった。

すべての絵の説明を終えたとき、静かに、しかし確かな余韻がその場に残っていた。
佐々木は長く喋りすぎたかもしれないと内心思いながら、そっと一歩引いた。

すると、たかしくんの両親が深く頭を下げた。
その動作には、礼儀や形式だけではない、誠実な感謝の気持ちがこもっていた。

「本当に、ありがとうございました」
「まさかこんな体験ができるなんて……」

佐々木も思わず姿勢を正し、頭を下げ返した。

「いえ……私の自己満足な話に、最後まで付き合っていただいて……こちらこそ、すみませんでした」

すると、たかしくんが、ぱっと顔を輝かせて佐々木の前に立った。

「おじさんのお話、おもしろかった! お仕事、がんばってね!」

それは、心からの声だった。何の打算も、気遣いもない、純粋な言葉。
佐々木は一瞬言葉を失い、しかしすぐにほほ笑みを返した。

「ありがとう。君も、好きなものをいっぱい見つけてね」

たかしくんはうんと頷き、両親のもとに駆け戻っていった。

母親がそっと言った。

「絵のこと、いろいろ教えてもらえて……見方が変わりました。
 何が“いい絵”なのか、少しわかった気がします。こんな贅沢な時間、なかなかないです」

父親も続けて深く頷いた。

「まさかこんなに楽しくて、奥が深いとは思いませんでした。
 本当に、感謝しています」

佐々木は静かに息を吐いた。
自分の言葉が、誰かの中に確かに届いたこと。
それが、今の彼にとって何よりの報いだった。

ああ、これが「芸術を伝える」ということか――
そんな思いが、胸の奥で、静かに波紋を広げていた。

佐々木はふと、胸元に手をやった。
ポケットに入れていたはずの招待状――あの白い紙と、色とりどりの印が刻まれたその手紙が、そこにない。
まさぐる指が空をつかみ、ようやくそれが「消えている」という事実に触れた。

「……まだ、何もしていないのに」

呟きは誰にも届かない。
この階層では、謎らしい謎にすら出会っていなかった。ただ絵を見て、話して、誰かと時間を共有しただけだ。
それなのに、なぜ――。

佐々木はポケットの奥をもう一度探ったが、招待状はやはりどこにもなかった。
絵の裏も、床の隙間も見た。だが何もない。
今までなら、必ず「解決」の瞬間に現れたり消えたりしたはずだった。それが今回は、理由もなく、ただ失われていた。

静かな空間に、館内の空調音だけが流れている。
あの家族はもう、どこかに行ったらしい。足音も声も、もう聞こえない。
この階に残されているのは、自分ひとり――それだけだ。

佐々木は絵に背を向け、壁際のベンチに腰を下ろした。
この先に進む条件が満たされたのか、それとも何かを見逃しているのか。
わからない。わからないまま、ただ待つしかない。

「……次の部屋を」

そう小さく呟いて、佐々木は椅子の背にもたれた。
変化はすぐに訪れるかもしれないし、何時間経っても起こらないかもしれない。
それでも、彼は逃げなかった。
この館の“意志”のようなものが、次の扉を開く時を、ただじっと待っていた。
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