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2章
4階
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佐々木は、これまでのように無理に動かず、ただ静かに待つことにした。
床にあぐらをかき、膝の上でノートを開きながら、ゆっくりとそのページをめくっていく。
光に照らされた紙面には、これまでに見たこともないほどの訂正の跡が並んでいた。
一文ごとに引かれた二重線。書いては消し、訂正してはまた迷い、書き直してはやめている。
乱雑ではない。だが確実に、筆致にはいつもと違う“躊躇”が滲んでいた。
「……まるで、自分が書いた記録を、自分で信じきれていないみたいだな」
そう独りごちて、彼は眉をひそめる。
特に「構図が絶妙」や「光源の巧みな演出」といった常套句は、ことごとく線で潰されていた。
上下反転された絵――それは、よくあるテレビ番組や展覧会で見かける“トリックアート”の類に見えなくもない。
だが、違った。
「違う。そんなものじゃない……」
あれは、意識の構造そのものに干渉してくる絵だった。
ひとつの視点から見る限りにおいては完璧に自然で、技術的にも圧倒的に優れていた。
しかし反転させることで、初めて“本来描かれていたもの”が見えてくるような構造――
つまりは、「反転後」の世界が本物であり、それまでは仮面のようなイメージを見せられていただけだったのかもしれない。
それが佐々木にとって、何よりも恐ろしかった。
「朝比奈は……自分の絵に、こんな仕掛けを施していたのか……?」
これまで彼が語ってきた芸術評論は、すべて表層を撫でていただけだったのではないか――
そう思うと、訂正だらけのこのメモこそが、自分の“敗北”の記録のようにも見えてくる。
目の前の空間には何の変化もなかった。
音も光も、さっきと同じままだ。
だが、佐々木の中には確実に変化が起きていた。
彼は再び、ペン先で一行に小さく書き足した。
「芸術が、こちらを見ている」
その瞬間、空気がほんのわずかに揺れた気がした。
体の奥に、耳では聴き取れない“何かの音”が沈んできた。
佐々木はペンを置き、ゆっくりと顔を上げる。
部屋の空気が、変わり始めていた。
気づいたとき、床に広げていた絵は跡形もなく消えていた。
まるで誰かが、佐々木の背を向けた隙に全てを片づけたかのように、痕跡ひとつ残っていない。
いや、そもそも最初からなかったのではないか、とすら思わせるほど、空間は整然としていた。
代わりに壁には、新しい絵がずらりと並んでいた。
先ほどまでの絵とは明らかに異なる筆致。色味も、構図も、額の意匠も、全てが変わっている。
佐々木はすぐに床を見下ろした。
予感があった。――いや、確信だった。
やはりそこには、白い封筒が置かれていた。
変わらぬ大きさ。変わらぬ質感。
ただひとつ、真紅の封蝋だけが、圧倒的な存在感を放っていた。
それを手に取ると、裏面の幾何学模様の上に、新しい印が増えていることに気づいた。
前の階で確認したオレンジ色のスタンプの隣に、くっきりと黄色のインクで押された同じ紋章――
曲線と棘の入り混じる、不気味な装飾的図形。
「……黄色、か」
封筒の素材は上質な厚紙で、スタンプはきれいに染み込んでいる。
既に三色目。赤、オレンジ、黄色。
順序に、意味があるのかはわからない。
だがこの押印が、館の“深度”を示しているのは間違いないようだった。
佐々木はスタンプの色を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「どこまで行くんだ……俺は」
言葉は、誰に向けるでもなく、ただ空間に溶けて消えた。
再び壁に視線を移す。
そこには、朝比奈の名を冠していても不思議ではない、しかしどこか異質な絵画が並んでいる。
先ほどまでの階層が“空間”や“視覚”の狂いをテーマとしていたのなら、
今度は――もっと“深い層”に踏み込んでいくのではないか。
佐々木は、手の中の封筒を静かに折りたたみ、内ポケットにしまった。
新たな階。新たな絵。新たな錯誤の始まり。
覚悟を決めるには、もう遅い。
進むしかないのだ。
佐々木は、すぐに絵に歩み寄っていた。
もう体が自然と動いている。繰り返しの中で習得された、本能のような動作。
まずは「偽物」を見つける。それが最優先事項だった。
紙の質感。絵の具の厚み。筆のタッチ。額の合わせ。
朝比奈の絵を誰よりも見続けてきた佐々木にとって、それらの“わずかな違和感”は決して曖昧なものではない。
数センチ離れていようが、指先に触れずとも、わかるはずだった。
だが――今回は違った。
一枚目。完璧。
二枚目。……完璧。
三枚目。四枚目。五枚目――
どこを見ても、違和感がない。
紙質も、塗料の乾き方も、表面に浮かぶ微細な筆の跳ねまで、
それは、まぎれもなく「本物」だった。
十枚目を見たあたりで、佐々木の額にじんわりと汗がにじみ出す。
手のひらも、じっとりと湿っていた。
「……おかしい。何かが、違うはずなんだ……」
もう一度、一枚目からやり直す。
目を凝らし、微細な歪みを探す。
あらゆる角度から、逆光で輪郭をなぞるように目を滑らせる。
だが――何も、見つからない。
全てが完璧だった。
紙も、絵具も、構図も、空気も――朝比奈そのものだった。
「……ヒントが、ない……」
その言葉が、呆然と漏れる。
そして次の瞬間、ずしりとした重力のような感覚が胸に落ちてきた。
──今回ばかりは、見抜けない。
それがどれほど恐ろしいことか、佐々木にはよくわかっていた。
見抜けなければ、解けない。
解けなければ、この階層は抜けられない。
進めない。戻れない。閉じ込められたまま、時間だけが擦り減っていく。
「……絶望、か」
その言葉が出たとき、ようやく彼は立ち尽くしている自分に気づいた。
立っているのか、座っているのかさえ曖昧な感覚。
まるで体が絵の中に吸い込まれそうだった。
今までは“解くべきパズル”だった。
だが今回は、“答えがあるかすらわからない謎”になっていた。
佐々木は静かに目を閉じた。
そして、絵の中から、自分が崩れていく音を聞いたような気がした。
仕方なく、佐々木はすべての絵に対して評価を書き始めた。
最初は迷いもあったが、途中からはいつもどおりの筆が走った。
紙質の異常はない。塗料も本物。構図も、主題も、朝比奈映司の作品として申し分のない出来だ。
ならば、ひとつずつ、正面から向き合っていくしかない――
それが自分にできる唯一の仕事だと信じて、ペンを握った。
彼の手元のメモには、次第にぎっしりと文字が埋まり始めた。
「本作は人物の表情と背景の色彩が調和しており~」
「初期の画風を彷彿とさせる構図。だが中期特有の光の扱いが見られる~」
「この“留まる風”の描写は、過去作《山の呼吸》と明確に通じている~」
いつも通りだ。
佐々木尚吾は、ただ誠実に作品と向き合っていた。
この階に入ってから、少なくとも一時間以上は経っていたかもしれない。
何度か喉が乾いたことに気づいたが、時間感覚も、空腹も、やがて意識から消えていた。
そして、最後の一枚の評価を書き終えたときだった。
ふと、佐々木は今、自分がどこにいるのかを見失った。
目の前の壁には絵が整然と並び、静かで落ち着いた照明が空間を包んでいる。
館内は静かで、空調も整っており、足音すら吸い込むようなカーペットが敷かれている。
美術展らしい気配。知っている空気感。
“これは……ただの美術館じゃないか?”――
そんな錯覚に、彼は取り憑かれそうになった。
「……あれ?」
自分が、今、何をしていたか。
なぜここに来たのか。
そもそも、これは“あの館”なのか?
ペンを持つ手が、ほんのわずかに震えた。
メモを見直しても、そこには常と変わらぬ評論の文字列が並んでいる。
いつもの書体。いつもの語彙。いつもの佐々木尚吾。
なのに、何かが、おかしい。
佐々木は静かにメモ帳をめくりながら、自分の文字をひとつずつ読み返していた。
絵の完成度は高い。技術的な破綻はない。
全ての作品に対して、彼はいつも通りの手つきで言葉を選んできた――はずだった。
だが、数ページをめくったところで、佐々木の指が止まる。
「……?」
自分が書いたとは思えない、妙に素直すぎる文面がそこにあった。
「構図のバランスが良く、色彩も穏やか。落ち着いた空気感が心地よい」
「人物の表情が柔らかく、背景との調和が美しい」
「まさに“良い絵”だ」
間違いではない。実際、その通りの印象を受けた。
だが――それだけだ。
佐々木は、ふと先ほど感じていた“違和感”を思い出した。
評価を終えた瞬間、まるで普通の美術展に紛れ込んだような感覚。
朝比奈の狂気に満ちた絵画世界を忘れかけ、
美術館特有の静けさや品の良さに包まれ、
気づけばどこか“日常”の空気に足をつけていた。
あの感覚――
それは、この「普通に良い絵」のせいだったのだ。
佐々木は、該当する評価のページを次々にめくった。
不思議なことに、それらの絵の評価だけが、驚くほど平凡だった。
他のページでは、「芸術の臨界点」「視覚の暴力」「言語化不能な狂気」など、
彼自身が筆を走らせずにはいられなかった、過剰で、鋭く、どこか不気味な賛辞が並んでいる。
だが数枚――ほんの数枚だけ、彼はそこに何の衝動も抱かずに言葉を並べていた。
「これだ……」
佐々木は、ゆっくりと顔を上げ、壁に並んだ絵を見渡した。
すぐに、自分が書いた“無難な評価”の絵がどれか、思い出せた。
視覚的には異常はない。技巧も問題ない。
だが、それらの絵だけが、“彼の心を狂わせなかった”。
それこそが、朝比奈映司の絵ではありえないことだった。
朝比奈の作品は、理性に亀裂を入れてくる。
美術という枠を壊すことでしか生まれ得なかったものだ。
どれだけ穏やかな情景であろうと、その筆跡には常に“違和感”があった。
それが、なかった。
「……偽物だ」
今度こそ確信を持って言えた。
違和感のなさこそが、違和感だったのだ。
佐々木は、何も言わずにメモ帳の“普通”なページを折り曲げ、
その番号に対応する絵の前へと歩み寄った。
目を細める。
どれだけ似せてあっても、言葉の中にだけ、真実は浮かび上がっていた。
佐々木は、その「普通に良い」絵の前に立ち止まった。
そして、無言のまま額縁に手を伸ばし、慎重に壁から外す。
ひとつ、またひとつ。
手元のメモで“異常な感動が欠落している”と記された数枚を丁寧に取り外し、
部屋の床に、少しずつ間隔をあけて並べていった。
美術館でそんなことをすれば即刻係員に止められるような行為だったが、
この館には、誰ひとりとして止める者はいなかった。
佐々木は、並べ終えた五枚の絵を、静かに見下ろした。
悪い絵ではない――どころか、極めて高水準の作品だった。
構図は精巧、色彩の選び方も的確、光の表現には確かな訓練の跡があった。
美術学校の優秀な学生が全力で描いたとしても、ここまでの完成度にはまず達しないだろう。
むしろ、佐々木に「良い絵」と言わしめる画家など、世界にほんの一握りしかいない。
だからこそ、彼は混乱していた。
「……誰が、こんなものを描いた?」
その疑問が、静かに胸を満たしていく。
朝比奈映司ではない。だが、朝比奈の文法を理解している。
ただ似せているだけではなく、技術的に昇華された“解釈”がここにはある。
「模倣ではない。これは……“読まれた”んだ」
朝比奈の狂気に満ちた筆致を、言語のように読み解き、模倣ではなく構築し直している。
そうでなければ、ここまで“美しく整った朝比奈風”の作品が生まれるはずがなかった。
佐々木はふと、自分の中に生まれた興味に気づく。
これは芸術家の狂気ではない。
解析者の理性が描いた絵だ。
だからこそ、見事で、しかし致命的に「何かが欠けている」。
「俺の“いい絵”という評価は、なまじ信頼に足るものなんだな」
乾いた笑みを浮かべて、佐々木は膝を折り、
並べた五枚の絵の筆致を、目を凝らして順に追っていく。
異常を冷静に“正しく描こうとした”跡が、そこには感じられた。
ただ静かに、絵に宿った名もなき画家の意図を読むように、佐々木はその場に座り込んだ。
この絵を描いたのは誰か。
なぜ、ここに混ざっているのか。
そして――なぜ、朝比奈の絵をこれほどまでに“解釈”できてしまっているのか。
その答えは、まだこの館のどこかにある。
佐々木は、並べられた偽の傑作たちを見つめながら、
この館がただならぬ仕組みを持っていることを、改めて確信した。
佐々木は、再び壁際へと歩を進めた。
床に並べた「普通に良い絵」――偽作――を背にして、取り外されず残った、あの狂った傑作たちへと視線を向けた。
どれもが、尋常ではなかった。
常軌を逸した構図、光源のない光、視線を外そうとしても心に刺さって離れない異物感。
それらはまさに、朝比奈映司が遺した本物の絵画だった。
「……素晴らしい」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと口にした。
それは単なる賛辞ではない。
佐々木の中に巣くう、批評家としての矜持と、純粋な鑑賞者としての悦びと、
そして何より、“この異常さを理解できる自分”への誇りがないまぜになった言葉だった。
彼は、もうこの館から出ようとは思っていなかった。
扉が存在しないことも、招待状が毎階層ごとに勝手に消えることも、
そして、絵を解かないと階が変わらないことも――
それらすべてを、館そのものが仕掛けた芸術作品の一部として、
彼は受け入れ始めていた。
「この部屋ごとが、インスタレーションか……」
そう呟いた瞬間、自分の中で何かが静かに外れた気がした。
恐怖も焦りも、とうの昔にどこかへ消えていた。
残っているのは、ただ一つ。
芸術を、解き明かしたいという欲望。
佐々木は壁に向かって歩きながら、残された絵を一枚一枚、深く鑑賞していった。
最初の一枚では立ち止まり、構図を全体から細部へと観察する。
光が不自然に捩れている。だがそれが、現実の歪みを生んでいた。
次の一枚では、視線の誘導線があまりにも不自然な角度を描いていた。
その絵は、遠近法を破綻させながらも、見る者を一点に釘づけにする。
「これは……解剖図だな。人体でもなく、風景でもない。“空間”そのものの」
佐々木の口元に、わずかに笑みが浮かぶ。
まるで、自分が朝比奈の精神を読み解き、再構築していく共同制作者にでもなったような錯覚。
この部屋は、ただ見るための空間ではない。
見ることそのものを強要する空間だ。
視線の動き、意識の偏り、精神の傾斜――すべてが計算され尽くしている。
もはや、これは絵画ではない。
一歩進んだ、次元を越えた美術表現。
それが、朝比奈映司の最期の到達点だった。
佐々木は、夢中でノートを走らせていた。
評価というより、翻訳だった。
朝比奈の狂気を、文字という秩序で封じ込めるように。
壁にある絵があと三枚になったとき、ふと佐々木は立ち止まり、
一歩下がって部屋全体を眺めた。
「……部屋そのものが、額縁なんだな」
理解が、腑に落ちた。
一枚一枚の絵はそのパーツにすぎない。
この空間全体が、“一枚の絵”だったのだ。
そして、その中央に立って絵を見上げる自分は、
もはや鑑賞者ではない。
作品の一部になっている。
佐々木は初めて、自分がこの館に「吸い込まれている」ことを、否定しなかった。
三枚目の絵を見終えたとき、佐々木は静かに溜息をついた。
言葉にならない満足感が胸に広がっていた。
朝比奈映司が遺したこの世界に、自分は少しでも追いつけただろうか――
そんな問いすら自然と浮かぶほどだった。
だが、そこまで来て、彼の批評眼がある一点に引っかかった。
「……額だな」
壁に並ぶすべての絵――それらを縁取る額縁に、明らかな“設計ミス”が存在していた。
絵画と額縁の不整合。
それは、描かれた絵そのものの質とは無関係の、しかし展示空間としては致命的ともいえる違和感だった。
質素な風景画に、金彩を施された過剰に豪奢な額。
一方で、濃密な色彩で塗りこまれた人物画には、無垢な白木の額。
どちらも美術館で用いられるような上質な額ではあるが、“選ばれ方”に明確な美的逸脱があった。
「惜しい……惜しいな……」
思わず呟いた言葉は、まるで誰かに届くことを期待するような声だった。
額縁とは、絵画を閉じ込める檻であると同時に、
その“意味”や“距離感”を観客に対して調律する装置でもある。
作品の力を殺してしまうこともあれば、十全に引き出すこともある。
だからこそ、画廊も美術館も、額縁の選定には細心の注意を払う。
だが、この空間はどうだ。
まるでわざと逆を突いているようにしか思えなかった。
額縁は一流だ。木の継ぎ目がどこにも見えないものや、
まるで最初からその形で木が育ってきたような滑らかな曲線。
表面に漆のような輝きがありながら、手触りは絹のように柔らかいものまであった。
それなのに――似合っていない。
いや、もっと正確に言えば、
合っていないように“見えるように”配置されているようだった。
この不協和音は、単なる展示ミスではない。
ここまで計算され尽くされた館で、それはあり得ない。
「……意図的だ」
佐々木は壁を見渡した。
乱れのない配置、絵ごとの微妙な間隔の違い、照明の角度。
すべてが完璧に設計されている。
その中で、額縁だけが“調和からわずかにずれて”いた。
絵と額――どちらかが本物で、どちらかが偽物なのか?
あるいは、組み合わせを変えることがこの階の謎なのか?
あるいは、これは「展示ではなく比喩」なのかもしれない――
すなわち、絵と額は“人物と環境”、“魂と身体”、“真実と外見”といった対比そのものを表しているのではないか。
佐々木は顎に手を当てた。
「この“ちぐはぐ”が、館の次の扉かもしれない……」
再び謎が現れた――そう思った瞬間、
彼の思考は、再び熱を帯びていくのだった。
佐々木は、壁に並ぶ絵を一枚ずつ丁寧に外していった。
額縁と画布とを分離し、それぞれにふさわしい“伴侶”を探すように目を凝らす。
作業は細心かつ繊細を要した。
だが彼の手には迷いがなかった。
まず、赤子を抱きかかえる母親の絵。
柔らかい陽の光が画面を包み込み、母の視線がどこまでも穏やかだった。
佐々木は、迷うことなく温かみのある木目の額縁を選び、それに収めた。
どこか蜂蜜を思わせるような色合いと、滑らかに研がれた曲線が、絵の情感と見事に溶け合っていた。
続いて、金貨を両腕に抱え込み、満面の笑みを浮かべる中年女性の絵。
俗悪さと狂喜が混ざり合ったその表情には、少しばかり嫌悪感すら覚えたが――
その圧倒的な存在感には、贅沢な金箔と濃色の木を組み合わせた額が似合った。
派手なものが、派手なものを引き立てることもある。
縄跳びを飛ぶ少女の絵には、少しくすんだピンク色の額縁をあてがった。
幼さと無垢、その奥にある奇妙な静寂。
それを、この柔らかい額縁が優しく包んでくれているように思えた。
――この他に、どんな組み合わせがあり得ようか?
佐々木はしばらくその場に立ち尽くしていた。
正面の壁、左右、振り返って奥。
すべての絵が、それぞれ最適としか言いようのない額縁に収められていた。
整然として、美しかった。
彼は胸ポケットから例の招待状を取り出した。
あるいは、新たな色のハンコが押されているかもしれない。
あるいは、何かが消えているかもしれない。
だが――
「……普通に入ってる」
白地に、以前押された赤、オレンジ、黄色の紋章のインクだけが淡く残っている。
新たな印も、変化も、何もない。
「……なぜだ」
佐々木はもう一度、絵を見渡した。
絵と額の“合い方”において、これ以上の選択肢は考えられなかった。
視覚的にも、情緒的にも、すべてが噛み合っていた。
それなのに――この部屋は沈黙したままだった。
静かだった。
まるで、試されたのが自分ではなく、絵の方だったかのように。
佐々木は額縁の木肌にそっと指を滑らせた。
温もりがあった。
機械的なものではない。確かに“人の手”が込められていると感じる質感だった。
「……本当に、これで合っているのか?」
疑念が、ふいに差し込んだ。
もしかすると、“整ったもの”が正解ではないのかもしれない――
けれど、今のところは他に解が見えない。
佐々木は額装された絵たちを見上げたまま、
じわりと胸の奥に広がる奇妙な沈黙と向き合っていた。
静かな部屋に佐々木の靴音が柔らかく響いていた。
額縁を入れ替え、どの絵にも非の打ちどころがない展示が完成した――はずだった。
それなのに、何も起きなかった。
だが、長く展示空間に身を置いてきた佐々木の目は、ふと別の角度からその空間を眺め直す。
この建物がどれほど「展示そのもの」に異様なまでのこだわりを見せてきたか。
それを思い返したとき、彼は――**絵そのものだけではなく、その「並び順」**に目を向けた。
「……絵が、それぞれ“孤立”しているように見えるな」
どの絵も、それ単体で完成された傑作だ。
額も合っている。色も構図も申し分ない。
しかし、それらが横に並んでいるにもかかわらず――繋がりが、ない。
何かが足りない。
そう思いながら、佐々木は一枚一枚の絵を改めて見直し始めた。
そして、気づく。
どの絵にも、女性が描かれている。
年齢も服装も表情も異なるが、それはすべて――
一人の“人生”の連なりに見えたのだ。
赤子を抱えられ眠る少女。
縄跳びを飛ぶ幼い少女。
机に向かい本を読む学生服の少女。
濃密なメイクを施し、煙草をくゆらせる若い女。
恋人らしき男性と笑う女性。
金を抱える中年女の狂気。
虚無を湛えたままテレビを見続ける老女。
そして、白髪の老婆が抱きかかえる、かつての自分の姿であるかのような少女――。
佐々木は、部屋をぐるりと一周した。
そして、再び始点に戻ってきたとき、背筋が震えた。
これは――ひとつの人生だったのだ。
それぞれの絵が点であり、順序づけることで一本の時間軸が見えてくる。
その時間軸を「円」の構造のなかでたどることで、物語は閉じ、再び開かれる。
生と死、始まりと終わりがひとつに輪をなしている。
「……完璧だ……」
思わず口から漏れた。
今、この展示空間は完全だった。
額も、絵も、順序もすべてがあるべきところにある。
しかも、そこには朝比奈映司のこれまでの傾向にはなかった、語りの構造があった。
単なる連作ではない。
絵画そのものが語り手であり、時間の語り部なのだ。
佐々木は円形の壁をもう一度、ゆっくりと歩いた。
目の端に映る絵が、先ほどよりもずっと意味を持って迫ってくる。
少女の視点から始まり、老女の視点で閉じるその世界。
人生の循環。
誰もが同じように進むのではないが、誰もがどこかで通る道――。
これは、「彼女」の一生であり、朝比奈映司の“死後の物語”だった。
そう思った瞬間、佐々木の手が自然と胸ポケットに伸びた。
そこには……やはり、あの招待状がなかった。
ただ、今はもう驚かなかった。
心のどこかで「こうなる」と理解していた気がする。
床にあぐらをかき、膝の上でノートを開きながら、ゆっくりとそのページをめくっていく。
光に照らされた紙面には、これまでに見たこともないほどの訂正の跡が並んでいた。
一文ごとに引かれた二重線。書いては消し、訂正してはまた迷い、書き直してはやめている。
乱雑ではない。だが確実に、筆致にはいつもと違う“躊躇”が滲んでいた。
「……まるで、自分が書いた記録を、自分で信じきれていないみたいだな」
そう独りごちて、彼は眉をひそめる。
特に「構図が絶妙」や「光源の巧みな演出」といった常套句は、ことごとく線で潰されていた。
上下反転された絵――それは、よくあるテレビ番組や展覧会で見かける“トリックアート”の類に見えなくもない。
だが、違った。
「違う。そんなものじゃない……」
あれは、意識の構造そのものに干渉してくる絵だった。
ひとつの視点から見る限りにおいては完璧に自然で、技術的にも圧倒的に優れていた。
しかし反転させることで、初めて“本来描かれていたもの”が見えてくるような構造――
つまりは、「反転後」の世界が本物であり、それまでは仮面のようなイメージを見せられていただけだったのかもしれない。
それが佐々木にとって、何よりも恐ろしかった。
「朝比奈は……自分の絵に、こんな仕掛けを施していたのか……?」
これまで彼が語ってきた芸術評論は、すべて表層を撫でていただけだったのではないか――
そう思うと、訂正だらけのこのメモこそが、自分の“敗北”の記録のようにも見えてくる。
目の前の空間には何の変化もなかった。
音も光も、さっきと同じままだ。
だが、佐々木の中には確実に変化が起きていた。
彼は再び、ペン先で一行に小さく書き足した。
「芸術が、こちらを見ている」
その瞬間、空気がほんのわずかに揺れた気がした。
体の奥に、耳では聴き取れない“何かの音”が沈んできた。
佐々木はペンを置き、ゆっくりと顔を上げる。
部屋の空気が、変わり始めていた。
気づいたとき、床に広げていた絵は跡形もなく消えていた。
まるで誰かが、佐々木の背を向けた隙に全てを片づけたかのように、痕跡ひとつ残っていない。
いや、そもそも最初からなかったのではないか、とすら思わせるほど、空間は整然としていた。
代わりに壁には、新しい絵がずらりと並んでいた。
先ほどまでの絵とは明らかに異なる筆致。色味も、構図も、額の意匠も、全てが変わっている。
佐々木はすぐに床を見下ろした。
予感があった。――いや、確信だった。
やはりそこには、白い封筒が置かれていた。
変わらぬ大きさ。変わらぬ質感。
ただひとつ、真紅の封蝋だけが、圧倒的な存在感を放っていた。
それを手に取ると、裏面の幾何学模様の上に、新しい印が増えていることに気づいた。
前の階で確認したオレンジ色のスタンプの隣に、くっきりと黄色のインクで押された同じ紋章――
曲線と棘の入り混じる、不気味な装飾的図形。
「……黄色、か」
封筒の素材は上質な厚紙で、スタンプはきれいに染み込んでいる。
既に三色目。赤、オレンジ、黄色。
順序に、意味があるのかはわからない。
だがこの押印が、館の“深度”を示しているのは間違いないようだった。
佐々木はスタンプの色を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「どこまで行くんだ……俺は」
言葉は、誰に向けるでもなく、ただ空間に溶けて消えた。
再び壁に視線を移す。
そこには、朝比奈の名を冠していても不思議ではない、しかしどこか異質な絵画が並んでいる。
先ほどまでの階層が“空間”や“視覚”の狂いをテーマとしていたのなら、
今度は――もっと“深い層”に踏み込んでいくのではないか。
佐々木は、手の中の封筒を静かに折りたたみ、内ポケットにしまった。
新たな階。新たな絵。新たな錯誤の始まり。
覚悟を決めるには、もう遅い。
進むしかないのだ。
佐々木は、すぐに絵に歩み寄っていた。
もう体が自然と動いている。繰り返しの中で習得された、本能のような動作。
まずは「偽物」を見つける。それが最優先事項だった。
紙の質感。絵の具の厚み。筆のタッチ。額の合わせ。
朝比奈の絵を誰よりも見続けてきた佐々木にとって、それらの“わずかな違和感”は決して曖昧なものではない。
数センチ離れていようが、指先に触れずとも、わかるはずだった。
だが――今回は違った。
一枚目。完璧。
二枚目。……完璧。
三枚目。四枚目。五枚目――
どこを見ても、違和感がない。
紙質も、塗料の乾き方も、表面に浮かぶ微細な筆の跳ねまで、
それは、まぎれもなく「本物」だった。
十枚目を見たあたりで、佐々木の額にじんわりと汗がにじみ出す。
手のひらも、じっとりと湿っていた。
「……おかしい。何かが、違うはずなんだ……」
もう一度、一枚目からやり直す。
目を凝らし、微細な歪みを探す。
あらゆる角度から、逆光で輪郭をなぞるように目を滑らせる。
だが――何も、見つからない。
全てが完璧だった。
紙も、絵具も、構図も、空気も――朝比奈そのものだった。
「……ヒントが、ない……」
その言葉が、呆然と漏れる。
そして次の瞬間、ずしりとした重力のような感覚が胸に落ちてきた。
──今回ばかりは、見抜けない。
それがどれほど恐ろしいことか、佐々木にはよくわかっていた。
見抜けなければ、解けない。
解けなければ、この階層は抜けられない。
進めない。戻れない。閉じ込められたまま、時間だけが擦り減っていく。
「……絶望、か」
その言葉が出たとき、ようやく彼は立ち尽くしている自分に気づいた。
立っているのか、座っているのかさえ曖昧な感覚。
まるで体が絵の中に吸い込まれそうだった。
今までは“解くべきパズル”だった。
だが今回は、“答えがあるかすらわからない謎”になっていた。
佐々木は静かに目を閉じた。
そして、絵の中から、自分が崩れていく音を聞いたような気がした。
仕方なく、佐々木はすべての絵に対して評価を書き始めた。
最初は迷いもあったが、途中からはいつもどおりの筆が走った。
紙質の異常はない。塗料も本物。構図も、主題も、朝比奈映司の作品として申し分のない出来だ。
ならば、ひとつずつ、正面から向き合っていくしかない――
それが自分にできる唯一の仕事だと信じて、ペンを握った。
彼の手元のメモには、次第にぎっしりと文字が埋まり始めた。
「本作は人物の表情と背景の色彩が調和しており~」
「初期の画風を彷彿とさせる構図。だが中期特有の光の扱いが見られる~」
「この“留まる風”の描写は、過去作《山の呼吸》と明確に通じている~」
いつも通りだ。
佐々木尚吾は、ただ誠実に作品と向き合っていた。
この階に入ってから、少なくとも一時間以上は経っていたかもしれない。
何度か喉が乾いたことに気づいたが、時間感覚も、空腹も、やがて意識から消えていた。
そして、最後の一枚の評価を書き終えたときだった。
ふと、佐々木は今、自分がどこにいるのかを見失った。
目の前の壁には絵が整然と並び、静かで落ち着いた照明が空間を包んでいる。
館内は静かで、空調も整っており、足音すら吸い込むようなカーペットが敷かれている。
美術展らしい気配。知っている空気感。
“これは……ただの美術館じゃないか?”――
そんな錯覚に、彼は取り憑かれそうになった。
「……あれ?」
自分が、今、何をしていたか。
なぜここに来たのか。
そもそも、これは“あの館”なのか?
ペンを持つ手が、ほんのわずかに震えた。
メモを見直しても、そこには常と変わらぬ評論の文字列が並んでいる。
いつもの書体。いつもの語彙。いつもの佐々木尚吾。
なのに、何かが、おかしい。
佐々木は静かにメモ帳をめくりながら、自分の文字をひとつずつ読み返していた。
絵の完成度は高い。技術的な破綻はない。
全ての作品に対して、彼はいつも通りの手つきで言葉を選んできた――はずだった。
だが、数ページをめくったところで、佐々木の指が止まる。
「……?」
自分が書いたとは思えない、妙に素直すぎる文面がそこにあった。
「構図のバランスが良く、色彩も穏やか。落ち着いた空気感が心地よい」
「人物の表情が柔らかく、背景との調和が美しい」
「まさに“良い絵”だ」
間違いではない。実際、その通りの印象を受けた。
だが――それだけだ。
佐々木は、ふと先ほど感じていた“違和感”を思い出した。
評価を終えた瞬間、まるで普通の美術展に紛れ込んだような感覚。
朝比奈の狂気に満ちた絵画世界を忘れかけ、
美術館特有の静けさや品の良さに包まれ、
気づけばどこか“日常”の空気に足をつけていた。
あの感覚――
それは、この「普通に良い絵」のせいだったのだ。
佐々木は、該当する評価のページを次々にめくった。
不思議なことに、それらの絵の評価だけが、驚くほど平凡だった。
他のページでは、「芸術の臨界点」「視覚の暴力」「言語化不能な狂気」など、
彼自身が筆を走らせずにはいられなかった、過剰で、鋭く、どこか不気味な賛辞が並んでいる。
だが数枚――ほんの数枚だけ、彼はそこに何の衝動も抱かずに言葉を並べていた。
「これだ……」
佐々木は、ゆっくりと顔を上げ、壁に並んだ絵を見渡した。
すぐに、自分が書いた“無難な評価”の絵がどれか、思い出せた。
視覚的には異常はない。技巧も問題ない。
だが、それらの絵だけが、“彼の心を狂わせなかった”。
それこそが、朝比奈映司の絵ではありえないことだった。
朝比奈の作品は、理性に亀裂を入れてくる。
美術という枠を壊すことでしか生まれ得なかったものだ。
どれだけ穏やかな情景であろうと、その筆跡には常に“違和感”があった。
それが、なかった。
「……偽物だ」
今度こそ確信を持って言えた。
違和感のなさこそが、違和感だったのだ。
佐々木は、何も言わずにメモ帳の“普通”なページを折り曲げ、
その番号に対応する絵の前へと歩み寄った。
目を細める。
どれだけ似せてあっても、言葉の中にだけ、真実は浮かび上がっていた。
佐々木は、その「普通に良い」絵の前に立ち止まった。
そして、無言のまま額縁に手を伸ばし、慎重に壁から外す。
ひとつ、またひとつ。
手元のメモで“異常な感動が欠落している”と記された数枚を丁寧に取り外し、
部屋の床に、少しずつ間隔をあけて並べていった。
美術館でそんなことをすれば即刻係員に止められるような行為だったが、
この館には、誰ひとりとして止める者はいなかった。
佐々木は、並べ終えた五枚の絵を、静かに見下ろした。
悪い絵ではない――どころか、極めて高水準の作品だった。
構図は精巧、色彩の選び方も的確、光の表現には確かな訓練の跡があった。
美術学校の優秀な学生が全力で描いたとしても、ここまでの完成度にはまず達しないだろう。
むしろ、佐々木に「良い絵」と言わしめる画家など、世界にほんの一握りしかいない。
だからこそ、彼は混乱していた。
「……誰が、こんなものを描いた?」
その疑問が、静かに胸を満たしていく。
朝比奈映司ではない。だが、朝比奈の文法を理解している。
ただ似せているだけではなく、技術的に昇華された“解釈”がここにはある。
「模倣ではない。これは……“読まれた”んだ」
朝比奈の狂気に満ちた筆致を、言語のように読み解き、模倣ではなく構築し直している。
そうでなければ、ここまで“美しく整った朝比奈風”の作品が生まれるはずがなかった。
佐々木はふと、自分の中に生まれた興味に気づく。
これは芸術家の狂気ではない。
解析者の理性が描いた絵だ。
だからこそ、見事で、しかし致命的に「何かが欠けている」。
「俺の“いい絵”という評価は、なまじ信頼に足るものなんだな」
乾いた笑みを浮かべて、佐々木は膝を折り、
並べた五枚の絵の筆致を、目を凝らして順に追っていく。
異常を冷静に“正しく描こうとした”跡が、そこには感じられた。
ただ静かに、絵に宿った名もなき画家の意図を読むように、佐々木はその場に座り込んだ。
この絵を描いたのは誰か。
なぜ、ここに混ざっているのか。
そして――なぜ、朝比奈の絵をこれほどまでに“解釈”できてしまっているのか。
その答えは、まだこの館のどこかにある。
佐々木は、並べられた偽の傑作たちを見つめながら、
この館がただならぬ仕組みを持っていることを、改めて確信した。
佐々木は、再び壁際へと歩を進めた。
床に並べた「普通に良い絵」――偽作――を背にして、取り外されず残った、あの狂った傑作たちへと視線を向けた。
どれもが、尋常ではなかった。
常軌を逸した構図、光源のない光、視線を外そうとしても心に刺さって離れない異物感。
それらはまさに、朝比奈映司が遺した本物の絵画だった。
「……素晴らしい」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと口にした。
それは単なる賛辞ではない。
佐々木の中に巣くう、批評家としての矜持と、純粋な鑑賞者としての悦びと、
そして何より、“この異常さを理解できる自分”への誇りがないまぜになった言葉だった。
彼は、もうこの館から出ようとは思っていなかった。
扉が存在しないことも、招待状が毎階層ごとに勝手に消えることも、
そして、絵を解かないと階が変わらないことも――
それらすべてを、館そのものが仕掛けた芸術作品の一部として、
彼は受け入れ始めていた。
「この部屋ごとが、インスタレーションか……」
そう呟いた瞬間、自分の中で何かが静かに外れた気がした。
恐怖も焦りも、とうの昔にどこかへ消えていた。
残っているのは、ただ一つ。
芸術を、解き明かしたいという欲望。
佐々木は壁に向かって歩きながら、残された絵を一枚一枚、深く鑑賞していった。
最初の一枚では立ち止まり、構図を全体から細部へと観察する。
光が不自然に捩れている。だがそれが、現実の歪みを生んでいた。
次の一枚では、視線の誘導線があまりにも不自然な角度を描いていた。
その絵は、遠近法を破綻させながらも、見る者を一点に釘づけにする。
「これは……解剖図だな。人体でもなく、風景でもない。“空間”そのものの」
佐々木の口元に、わずかに笑みが浮かぶ。
まるで、自分が朝比奈の精神を読み解き、再構築していく共同制作者にでもなったような錯覚。
この部屋は、ただ見るための空間ではない。
見ることそのものを強要する空間だ。
視線の動き、意識の偏り、精神の傾斜――すべてが計算され尽くしている。
もはや、これは絵画ではない。
一歩進んだ、次元を越えた美術表現。
それが、朝比奈映司の最期の到達点だった。
佐々木は、夢中でノートを走らせていた。
評価というより、翻訳だった。
朝比奈の狂気を、文字という秩序で封じ込めるように。
壁にある絵があと三枚になったとき、ふと佐々木は立ち止まり、
一歩下がって部屋全体を眺めた。
「……部屋そのものが、額縁なんだな」
理解が、腑に落ちた。
一枚一枚の絵はそのパーツにすぎない。
この空間全体が、“一枚の絵”だったのだ。
そして、その中央に立って絵を見上げる自分は、
もはや鑑賞者ではない。
作品の一部になっている。
佐々木は初めて、自分がこの館に「吸い込まれている」ことを、否定しなかった。
三枚目の絵を見終えたとき、佐々木は静かに溜息をついた。
言葉にならない満足感が胸に広がっていた。
朝比奈映司が遺したこの世界に、自分は少しでも追いつけただろうか――
そんな問いすら自然と浮かぶほどだった。
だが、そこまで来て、彼の批評眼がある一点に引っかかった。
「……額だな」
壁に並ぶすべての絵――それらを縁取る額縁に、明らかな“設計ミス”が存在していた。
絵画と額縁の不整合。
それは、描かれた絵そのものの質とは無関係の、しかし展示空間としては致命的ともいえる違和感だった。
質素な風景画に、金彩を施された過剰に豪奢な額。
一方で、濃密な色彩で塗りこまれた人物画には、無垢な白木の額。
どちらも美術館で用いられるような上質な額ではあるが、“選ばれ方”に明確な美的逸脱があった。
「惜しい……惜しいな……」
思わず呟いた言葉は、まるで誰かに届くことを期待するような声だった。
額縁とは、絵画を閉じ込める檻であると同時に、
その“意味”や“距離感”を観客に対して調律する装置でもある。
作品の力を殺してしまうこともあれば、十全に引き出すこともある。
だからこそ、画廊も美術館も、額縁の選定には細心の注意を払う。
だが、この空間はどうだ。
まるでわざと逆を突いているようにしか思えなかった。
額縁は一流だ。木の継ぎ目がどこにも見えないものや、
まるで最初からその形で木が育ってきたような滑らかな曲線。
表面に漆のような輝きがありながら、手触りは絹のように柔らかいものまであった。
それなのに――似合っていない。
いや、もっと正確に言えば、
合っていないように“見えるように”配置されているようだった。
この不協和音は、単なる展示ミスではない。
ここまで計算され尽くされた館で、それはあり得ない。
「……意図的だ」
佐々木は壁を見渡した。
乱れのない配置、絵ごとの微妙な間隔の違い、照明の角度。
すべてが完璧に設計されている。
その中で、額縁だけが“調和からわずかにずれて”いた。
絵と額――どちらかが本物で、どちらかが偽物なのか?
あるいは、組み合わせを変えることがこの階の謎なのか?
あるいは、これは「展示ではなく比喩」なのかもしれない――
すなわち、絵と額は“人物と環境”、“魂と身体”、“真実と外見”といった対比そのものを表しているのではないか。
佐々木は顎に手を当てた。
「この“ちぐはぐ”が、館の次の扉かもしれない……」
再び謎が現れた――そう思った瞬間、
彼の思考は、再び熱を帯びていくのだった。
佐々木は、壁に並ぶ絵を一枚ずつ丁寧に外していった。
額縁と画布とを分離し、それぞれにふさわしい“伴侶”を探すように目を凝らす。
作業は細心かつ繊細を要した。
だが彼の手には迷いがなかった。
まず、赤子を抱きかかえる母親の絵。
柔らかい陽の光が画面を包み込み、母の視線がどこまでも穏やかだった。
佐々木は、迷うことなく温かみのある木目の額縁を選び、それに収めた。
どこか蜂蜜を思わせるような色合いと、滑らかに研がれた曲線が、絵の情感と見事に溶け合っていた。
続いて、金貨を両腕に抱え込み、満面の笑みを浮かべる中年女性の絵。
俗悪さと狂喜が混ざり合ったその表情には、少しばかり嫌悪感すら覚えたが――
その圧倒的な存在感には、贅沢な金箔と濃色の木を組み合わせた額が似合った。
派手なものが、派手なものを引き立てることもある。
縄跳びを飛ぶ少女の絵には、少しくすんだピンク色の額縁をあてがった。
幼さと無垢、その奥にある奇妙な静寂。
それを、この柔らかい額縁が優しく包んでくれているように思えた。
――この他に、どんな組み合わせがあり得ようか?
佐々木はしばらくその場に立ち尽くしていた。
正面の壁、左右、振り返って奥。
すべての絵が、それぞれ最適としか言いようのない額縁に収められていた。
整然として、美しかった。
彼は胸ポケットから例の招待状を取り出した。
あるいは、新たな色のハンコが押されているかもしれない。
あるいは、何かが消えているかもしれない。
だが――
「……普通に入ってる」
白地に、以前押された赤、オレンジ、黄色の紋章のインクだけが淡く残っている。
新たな印も、変化も、何もない。
「……なぜだ」
佐々木はもう一度、絵を見渡した。
絵と額の“合い方”において、これ以上の選択肢は考えられなかった。
視覚的にも、情緒的にも、すべてが噛み合っていた。
それなのに――この部屋は沈黙したままだった。
静かだった。
まるで、試されたのが自分ではなく、絵の方だったかのように。
佐々木は額縁の木肌にそっと指を滑らせた。
温もりがあった。
機械的なものではない。確かに“人の手”が込められていると感じる質感だった。
「……本当に、これで合っているのか?」
疑念が、ふいに差し込んだ。
もしかすると、“整ったもの”が正解ではないのかもしれない――
けれど、今のところは他に解が見えない。
佐々木は額装された絵たちを見上げたまま、
じわりと胸の奥に広がる奇妙な沈黙と向き合っていた。
静かな部屋に佐々木の靴音が柔らかく響いていた。
額縁を入れ替え、どの絵にも非の打ちどころがない展示が完成した――はずだった。
それなのに、何も起きなかった。
だが、長く展示空間に身を置いてきた佐々木の目は、ふと別の角度からその空間を眺め直す。
この建物がどれほど「展示そのもの」に異様なまでのこだわりを見せてきたか。
それを思い返したとき、彼は――**絵そのものだけではなく、その「並び順」**に目を向けた。
「……絵が、それぞれ“孤立”しているように見えるな」
どの絵も、それ単体で完成された傑作だ。
額も合っている。色も構図も申し分ない。
しかし、それらが横に並んでいるにもかかわらず――繋がりが、ない。
何かが足りない。
そう思いながら、佐々木は一枚一枚の絵を改めて見直し始めた。
そして、気づく。
どの絵にも、女性が描かれている。
年齢も服装も表情も異なるが、それはすべて――
一人の“人生”の連なりに見えたのだ。
赤子を抱えられ眠る少女。
縄跳びを飛ぶ幼い少女。
机に向かい本を読む学生服の少女。
濃密なメイクを施し、煙草をくゆらせる若い女。
恋人らしき男性と笑う女性。
金を抱える中年女の狂気。
虚無を湛えたままテレビを見続ける老女。
そして、白髪の老婆が抱きかかえる、かつての自分の姿であるかのような少女――。
佐々木は、部屋をぐるりと一周した。
そして、再び始点に戻ってきたとき、背筋が震えた。
これは――ひとつの人生だったのだ。
それぞれの絵が点であり、順序づけることで一本の時間軸が見えてくる。
その時間軸を「円」の構造のなかでたどることで、物語は閉じ、再び開かれる。
生と死、始まりと終わりがひとつに輪をなしている。
「……完璧だ……」
思わず口から漏れた。
今、この展示空間は完全だった。
額も、絵も、順序もすべてがあるべきところにある。
しかも、そこには朝比奈映司のこれまでの傾向にはなかった、語りの構造があった。
単なる連作ではない。
絵画そのものが語り手であり、時間の語り部なのだ。
佐々木は円形の壁をもう一度、ゆっくりと歩いた。
目の端に映る絵が、先ほどよりもずっと意味を持って迫ってくる。
少女の視点から始まり、老女の視点で閉じるその世界。
人生の循環。
誰もが同じように進むのではないが、誰もがどこかで通る道――。
これは、「彼女」の一生であり、朝比奈映司の“死後の物語”だった。
そう思った瞬間、佐々木の手が自然と胸ポケットに伸びた。
そこには……やはり、あの招待状がなかった。
ただ、今はもう驚かなかった。
心のどこかで「こうなる」と理解していた気がする。
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