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2章
7階
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部屋の温度がふいに下がった。
佐々木はその変化に身をすくめ、次の瞬間、フロアがまた変わったことを察した。
足元には、見覚えのある紙片が落ちている。
しゃがみ込み、それを拾い上げる。いつもの招待状だった。
裏返すと、そこには藍色のハンコがひとつ、静かに押されていた。
佐々木はしばらく、その濃い色を黙って見つめていた。
今いる部屋を合わせて、残りあと二部屋。
それを実感したとき、佐々木の口元にふと笑みがこぼれた。
ここまで来た――その思いが胸にあふれたのだ。
だが同時に、あの〈八枚の絵〉の姿がまだ見えないことが、心に影を落とした。
本当に、あの絵は自分のもとに戻ってくるのか。
完成された幻の八作が、この館のどこかで待っているのか。
それを考えるたび、胸の奥にじんわりと広がる不安を、佐々木は振り払うことができなかった。
現実から目を背けるように、佐々木は展示されているはずの絵を見ようと顔を上げた。
だが、視界には何もなかった。白い壁、冷たい空気、ただそれだけがそこにあった。
「……?」
違和感に駆られ、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには巨大なキャンバスが、壁一面を覆うようにして掲げられていた。
描かれていたのは、宇宙へと飛び立つ一基のロケットだった。
暗い背景に浮かぶ白い機体は、すでに発射の直前で、巨大な噴射口からは眩しい光と煙が噴き出していた。
地上では、その様子を見送る人々が描かれている。スーツを着た者、家族連れ、小さな子ども。
彼らの表情は一様に感動と希望に満ちていた。
だがそのロケットの胴体――側面のあたりに、あり得ない光景があった。
数人の男女が、まるでしがみつくようにロケットに取りついているのだ。
顔は青ざめ、髪は乱れ、風圧で服がはためいていた。
助けを求めるように口を開けている者、必死に誰かを押しのけている者もいた。
その異様な姿が、地上の静かな群像とあまりにも対照的で、見る者の神経を逆なでるような不協和音を生んでいた。
「……一枚だけか」
佐々木はぽつりとつぶやいた。
その声は、自分自身に言い聞かせるような、深い溜息のような響きを含んでいた。
佐々木はその一枚の絵を凝視した。
このフロアには他に何もない。
つまり、この絵一枚だけで、ここに込められた意図――朝比奈の謎を読み解かなければならないのだ。
彼は絵の前に歩み寄り、紙質を指先でなぞり、光にかざす。
インクの染み具合、筆致の揺らぎ、余白の取り方。
あらゆる細部に目を凝らし、メモを取りながら丁寧に確認していく。
だが、何も――何ひとつ――わからなかった。
破綻も矛盾もない。絵の表現としては完成されており、違和感らしきものは微塵も見つからない。
むしろ、朝比奈映司の典型とも言える作品だった。
技巧、構図、色彩、全てが見慣れたもの。
そう、「いつもの朝比奈の絵」――それ以上でも、それ以下でもない。
もう一度、最初から考え直す。
意味を探す。文脈を組み立てる。
だが、その都度、彼の思考は静かに空振りしていく。
佐々木は、軽く眉をひそめながらメモを閉じた。
絵は、ただそこに在る。
語ろうとせず、拒むでもなく、沈黙のまま佇んでいた。
佐々木は、何も掲げられていない壁面や床に目を凝らし、念入りに確認し始めた。
以前のフロアで見たような、隠された切れ目や仕掛けがあるのではと探ったが、どこにも異変は見つからない。
――もう、手がかりはないのか。
そう思いながら、佐々木は掲示されている一枚の絵に手を伸ばし、そっと外してみた。
その瞬間、絵の裏側に金庫の扉のようなものが現れた。
鍵はかかっていなかった。佐々木が手をかけると、それは音もなく簡単に開いた。
中には、三枚の金属プレートが並べて納められていた。
それぞれのプレートには、あのロケットの絵に対する異なる解釈が刻まれていた。
【プレート1】
――この絵は、希望と進歩の象徴である。
地上に残る者たちの姿は、飛び立つ未来への期待を抱いた「見送り人」として描かれている。ロケットは人類の叡智の結晶であり、その旅立ちは夢と挑戦への賛歌だ。
しがみつく人々の存在もまた、向上心と欲望の象徴である。彼らはリスクを承知で飛び乗ろうとしているのだ。愚かではあっても、そこには「追いつきたい」という純粋な衝動がある。人類の発展とは、常にこうした愚かさと勇気のせめぎ合いによって成り立ってきたのではないか。
この絵は、その二面性ごと、祝福している。
佐々木はプレートをそっと置いた。これは、最も一般的な美術館の解説だ。安全で、希望を語る解釈。だが、あの顔――しがみついた者たちの絶望を、美化しているように思えてならなかった。
⸻
【プレート2】
――この絵は、人間の醜さを描いたものである。
地上にいる者たちは、誰一人として異常に気づかない。見送る者たちは誰も、ロケットにすがりつく者の存在に目を向けていない。彼らは感動に酔い、現実を見ようとしない。
一方、ロケットに取りついた人間たちは、他者を蹴落とし、我先に未来に縋りつこうとしている。
この絵におけるロケットとは、幸福、成功、逃避、あるいは名誉の象徴である。
そこに群がる人々の姿は、限られたチャンスに過剰に群がり、理性を失った現代人そのものだ。
この絵は、「勝者の物語」の裏にある、見たくもない真実を暴き出す。
読み終えた佐々木は息を呑んだ。これは、間違いなく朝比奈が抱いていた「世間」への苛立ちと一致する。見えているのに、見えていないふりをする無関心。そこに満ちるのは「感動」の皮をかぶった無知だ。
⸻
【プレート3】
――この絵は、現代社会に対する鋭い風刺である。
ロケットは国家や資本、テクノロジーなど、権力の象徴だ。地上の人々はそれを無批判に礼賛し、祝福する。だが、本来その「未来」に乗るべきだった人間は、選ばれなかった。
描かれたしがみつく者たちは、取り残された者、排除された者たちだ。
彼らは、正式な搭乗口からではなく、命を懸けて未来にすがろうとしている。だがその姿は滑稽で、異物であり、誰の同情も得られない。
これは「進歩」の名のもとに切り捨てられていく人間の姿である。
画面の中心にはいないが、真に目を向けるべきは彼らなのだ。
佐々木はその言葉に心をえぐられるような感覚を覚えた。朝比奈がこのプレートを書いたのか、あるいは彼の言葉を誰かが代筆したのか――それはわからない。
⸻
続けて、佐々木は3枚のプレートを見比べながら、ゆっくりと立ち上がった。
一つの絵に三つの解釈。それは鑑賞者に試されているようでもあり、同時に「どれを選んでも間違いではない」と語りかけているようでもあった。
彼の脳裏に、かつての朝比奈の言葉が蘇る。
――「評価って、誰が決めるんだろうな」
それがまさに、今目の前に突きつけられていた。
佐々木は絵をそっと元の位置に戻した。
そのとき、絵のすぐ下、壁の一部にわずかなくぼみがあることに気がついた。ちょうどプレートがぴったりはまりそうな大きさだった。
佐々木はすぐに悟った。この三枚のうち、どれか一枚が正解で、それをはめることでこの部屋の謎は解けるのだと。だが、どれも間違いには思えなかった。希望を描いたもの、絶望を示したもの、そして社会への風刺を込めたもの。いずれも、あのロケットの絵に通じていた。
慎重に、一枚ずつ試してみることにした。
まず一枚目。くぼみに差し込んでみるが、何も起こらない。
続いて二枚目。やはり、部屋に変化はなかった。
「運が悪いな」
佐々木はそうつぶやき、最後の三枚目をはめ込んだ。
……しかし、沈黙。
部屋はぴくりとも動かない。音も光も、何の反応もない。
佐々木は驚き、そして戸惑った。どれも外れだったのか。だが、このくぼみには一度に一枚しかはめられない。重ねることも、同時に複数を使うこともできない構造になっている。
「他に……何がある?」
声に出してみたが、返ってくるのは静寂だけだった。まるで部屋そのものが答えを秘めたまま、彼を見つめ返しているようだった。
佐々木は手がかりを求めて、もう一度絵の裏にある扉を開いた。
中を覗き込むと、奥の隅に一枚、取り残されたプレートがあるのが目に入った。
「ああ、こんなところに……」
小さくため息をつきながら手を伸ばし、そのプレートを取り出す。
今度こそ、と期待を込めて文言を読もうとした瞬間、佐々木は眉をひそめた。
何も書かれていない。
一文字も、題名すらもない。完全な空白のプレートだった。
「……どういうことだ?」
不審に思いながらも、念のためその無字のプレートを壁の枠にはめ込んでみる。だが、やはり何も起こらない。
部屋は沈黙を保ったままだ。
佐々木はふと、胸ポケットに手をやる。あの時からずっと肌身離さず持ち歩いていた招待状を確認するように指でなぞった。
紙の感触は確かにそこにあった。しっかりと、今も彼の手で握られている。
佐々木がふと後ろを振り返ると、そこには巨大な機械が置かれていた。
どう考えても、人の手で音もなく運び込めるような代物ではない。鋼鉄の塊のような重厚な外装に、無数のパイプと計器、そして中心には扉のような構造があった。
それが、いつ、どのタイミングで部屋に現れたのかはまったくわからなかった。
つい先ほどまで確かに何もなかった場所に、いまは確固たる存在感をもってその機械が佇んでいる。
佐々木は戸惑いながらも、もはや疑問を抱くことすら意味がないように思えた。
この館において「理解不能」は常態であり、理屈を捨てた先にしか進めないのだということを、彼はすでに学んでいた。
佐々木は静かに息をつき、無言でその機械に歩み寄っていった。
佐々木は慎重にその機械に近づいた。
間近で見ると、その構造はますます異様だった。表面は鈍く光る金属で覆われており、どこか古びた印象を与える一方で、現代的な冷たさも感じさせた。
前面には小さな台座のような窪みがあり、その奥に格子状のスリットと、円形のくぼみが並んでいる。上部には小さなパネルがあり、黒く沈黙したまま光を放ってはいない。
佐々木は手を伸ばし、そのくぼみにそっと触れてみた。
金属は意外にも温かく、まるで長時間誰かの手の熱を受けていたかのようだった。
ふと、彼の視線が台座の横に刻まれた小さな文字列にとまる。
英語だった。――「Insert plate for inscription.」
佐々木は息をのんだ。
inscription――刻印。つまりこの機械は、プレートに文字を刻むための装置だということなのだろう。
手にしていた無地のプレートを思い出し、彼はポケットからそれを取り出した。重さは他のプレートと変わらず、表面はわずかにざらついている。文字を受け止めることを前提にした素材、そう思わせる質感だった。
佐々木はその無字のプレートを機械の窪みにそっとはめてみた。カチリ、と乾いた音がして、プレートはぴたりと機械に収まった。
すると、沈黙していた上部のパネルが、ふっと淡い光を灯した。液晶らしき画面には、入力を促すかのようにカーソルが瞬いている。
佐々木は理解した。
自分がすべきことは、この無字のプレートに「意味」を与えることなのだ。
それも、このフロアを終わらせるにふさわしい、言葉を。
佐々木はもう一度、ロケットの絵をじっくりと見つめた。
あらためて観察してみると、それは解釈の幅を持った不思議な絵だった。飛び立つ火の粉は情熱のようでもあり、逃避にも見える。空に向かうロケットは希望にも、あるいは決別のようにも受け取れる。プレートに書かれていた三つの視点――希望、孤独、無常――どれも間違っているとは思えなかった。けれど、どれも決定打ではないような気がした。
ならば、自分なりの言葉で、この絵にもうひとつの意味を与えてみてはどうか。
佐々木は胸ポケットからペンを取り出し、手帳のページを開いた。絵の隅々に目を走らせ、色合いや構図、ロケットの角度や火花の流れを細かく書き留めていく。どこかで見た宇宙船の写真、子どもの頃に見た打ち上げのニュース、アトリエで画家と交わしたわずかな言葉。次々と思考がつながり、筆が止まらなかった。
気がつけばページはぎっしりと埋まっていた。
佐々木はそっと息を吐き、手にしていた無字のプレートを機械のスロットに差し込んだ。そしてキーボードに手を置き、ゆっくりと打ち込みを始めた。文字が一文字ずつ刻まれていく音が、やけに静かな部屋に心地よく響いた。
やがて打ち終えると、プレートを取り出し、壁の窪みにそっとはめ込んだ。
「カチッ」
乾いた音とともに、プレートがわずかに震えたかと思うと、吸い込まれるようにして奥へと滑り消えた。
佐々木は思わず胸ポケットに手をやった。
そこには、いつもと変わらぬ感触――招待状が、まだそこにある。
終わったのではなかった。
首を傾げ、再び絵のほうを振り返る。
そこには、さきほど自分が打ち込んだはずのプレートの代わりに、再び無字のプレートがはめ込まれていた。
佐々木は目を見開き、そのプレートを手に取った。
何も書かれていない。ただの無地――にもかかわらず、それはどこか、自分の言葉を飲み込んだあとの静けさを湛えていた。
佐々木はプレートを見つめたまま、動けなくなっていた。
なぜ、再び無字になったのか。なぜ、戻されたのか。
あれほど自分なりに深く考え、絵の意味を掘り下げて書いたというのに、あっさりと打ち消される。まるで、何かに「ちがう」と言われたかのようだった。
単なる機械的な動作ではない。プレートは「拒否」された。そうとしか思えなかった。
だが、それならば何が正しいというのか。何をもって「正解」とするのか。誰が、どの基準で。
考えても答えは出なかった。それでも、あきらめるわけにはいかなかった。
佐々木はまた絵に向き合った。画面を何度も舐めるように見渡し、光の当たり方、影の落ち方、余白、筆致、色の選び方に意味を見出そうとする。背景の黒は宇宙か、夜か、それとも人間の心の闇か。ロケットの軌道は未来か、逃避か、犠牲か。
新しい文章を書き始める。
「この作品は、夢への希求と、それを手放す悲しみを同時に描いている」
いや違う。
「画家はここに、現代における孤独と自己喪失の問題を重ねているのではないか」
やや強引か。
「この炎は、人間が抱える破壊と創造の二面性の象徴だ」
それもどこか借り物のように響く。
何度も書いては読み返し、打ち込み、プレートをはめ込む。
そのたびに「カチッ」という音とともに、プレートは奥へと吸い込まれて消えた。
そして数秒後、再び無字のプレートが戻ってくる。
それは冷たい拒絶だった。
評価もされない。ただ、無視される。まるで存在すらなかったかのように、白紙で返ってくる。
佐々木は焦りと苛立ちを覚え始めていた。
「違う? じゃあ、何が正しいんだ?」
声には出さなかったが、喉の奥で言葉が渦巻いた。
自分の目、自分の感性が試されている。だが、その評価者が誰なのかもわからない。
機械か? この館か? あるいは――朝比奈映司か。
佐々木は筆を止めた。
これ以上、自分だけの目で絵を切り取って言葉にするのは違うのではないか。ふと、そう思ったのだ。
朝比奈映司――彼が、生前、何を伝えたがっていたのか。何を感じながら、キャンバスに向かっていたのか。
記憶の底から、かつての会話がゆっくりと浮かび上がってくる。
「世界の朝比奈なんて言われてるけど、私はもっとアートは誰にでも開けてる、そういうものであって欲しいんだよな。私は誰にでも楽しく見ることができる、そんな絵を描きたい。」
穏やかな笑顔で、そう語っていた。照れくさそうに紅茶のカップを指先でなぞりながら、何気なく口にした言葉だった。だが、佐々木の記憶には妙に強く残っている。
多くの人が彼を天才と呼び、難解な言葉で作品を褒め称えた。けれど、当の本人は、そんな持ち上げ方にどこか居心地の悪さを感じていたのだろう。
もしかすると、いろんな解釈ができる絵を描いたのも、見る人の自由を尊重したかったからかもしれない。
「正しい見方」など存在しない。誰が見ても、自分なりに楽しんでもらえればそれでいい。朝比奈は、そう願っていたのではないか。
佐々木は無地のプレートを手のひらにのせ、そっと息を吐いた。
いま自分がしていることは、あの朝比奈の想いに逆行しているのではないか。ひとつの「正解」を押しつけようとしているのではないか。
彼の絵は、決して「解かれる」ことを望んでいない。
むしろ、誰かの心に自由なまま届くことを願っているのだ。
佐々木は、プレートに書くべき言葉をようやく見つけたような気がした。
佐々木は静かに腰を下ろし、無地のプレートをもう一度手に取った。
手のひらに乗せると、それはまるで冷たい紙片のように軽く、それでいて妙な重みをもっていた。精神的な重みだ。責任、と言ってもいいかもしれない。
目の前にある機械は先ほどと変わらず、ただじっと待っていた。まるで何も言わずにこちらを見ているようだった。
佐々木はゆっくりとプレートをセットし、カタリと音を立てて収めた。
機械の前面にある小さな打鍵盤に手を添える。よく見ると、キーひとつひとつに薄く擦れた跡があり、過去にも誰かがここで何かを打ち込んでいたことが伺える。
そして、佐々木は一文字ずつ、打ち始めた。
——カチャ。カチャ。カチャ。
「この絵を描いたのは、画家の朝比奈映司さんです。」
まず、誰が描いたのか。そこから始めるのが自然だ。
できるだけ明快に。まるで子ども向けの図鑑の説明文のように、淡々と、しかし丁寧に。
「この絵は、キャンバスに油絵の具を使って描かれています。使われている色はとてもやわらかく、混ざりあうように塗られています。」
画材、色の使い方——それらは事実としてそこにある。誰が見ても違わないことだけを書く。
「線は細くてなめらかです。でも、よく見るとところどころに、わざとぼかしたような部分があります。」
カチャ、カチャ。
佐々木の指は、思った以上に滑らかに動いた。
「この絵では、遠くのものがうすく、近くのものがはっきり見えるようになっています。これは『空気遠近法』と呼ばれる技法です。」
言葉が少し難しくなったと感じると、佐々木はすぐ補足を入れた。
「空気遠近法というのは、遠くにあるものが少しかすんで見えるように描くことです。そうすると、絵の中に奥行きがあるように見えます。」
打鍵の音がリズムを持ち始める。
「光のあたり方にも工夫があります。光は左上から当たっているように描かれています。そのため、右下の部分には影ができています。」
「絵の中にある人物は、顔の細かいところまでは描かれていません。でも、しぐさや姿勢で何をしているのかがわかるようになっています。」
佐々木は一度手を止め、モニタのような画面に表示された文章を読み返した。
簡単な言葉で、客観的に。
今の自分は、あくまで案内人であり、解釈者ではない。ただ目に見えることを、見たとおりに伝えるだけ。
再び手を動かす。
「絵に使われている色は、青や灰色が多く使われています。でも、よく見るとほんのすこしだけ赤や黄色が混ざっていて、それが絵の中にあたたかさを感じさせます。」
「全体のバランスがよく、上のほうと下のほう、右と左の重さがだいたい同じになるように描かれています。」
カチャ、カチャ。
文章がひとつ、またひとつと刻まれていく。
まるで、目に見える事実がひとつずつ静かに浮かび上がっていくようだ。
「この絵は、見る人がいろんなことを想像できるようになっています。でも、ここではその想像については何も書きません。」
その一文を書いたとき、佐々木の口元にほんのわずかな笑みが浮かんだ。
解釈は書かない。書かないことを、あえて書く。それは朝比奈への敬意でもあった。
「これは、朝比奈さんが見たものを、丁寧に、やさしい気持ちで描いた絵です。」
最後の文を書き終えると、佐々木はキーから手を離し、深く息を吐いた。
文章は長くはない。しかし、そこに込めた意識は、この館に来て以来もっとも研ぎ澄まされていた。
「……これでいい。」
プレートを機械から取り出すと、そこにはくっきりと文字が刻まれていた。まるで、紙ではなく金属に焼きつけたような、確かな文字列。
佐々木はそのプレートを展示台の枠にゆっくりとはめ込んだ。
「カチッ」と、前と同じ音がした。
次の瞬間、プレートが静かに、しかし確実に奥へと沈み、吸い込まれるようにして姿を消した。
プレートが奥に沈み込んだ後、しばらくの間、何の音もなかった。
機械は無言で停止しており、展示台の表面には何も表示されていない。ただの木の台に戻ったかのような静けさだった。
佐々木はもう一度、展示されていた絵を見つめた。
それはただ、そこに在るだけだった。何かを語ろうともせず、訴えかけもせず、まるで静かな湖のように佇んでいた。
すでにプレートは姿を消し、誰にも説明されない状態に戻っている。だが、佐々木にはもう、その理由がわかっていた。
——この部屋では、朝比奈は何も決めなかったのだ。
この絵が何を意味するか、どう解釈されるべきか。そういったことを、絵の中に固定しようとはしなかった。
観る人が、ただその人自身の目で、感じるままに受け取ること。
朝比奈はそれを望んでいた。むしろ、それしか望んでいなかったのではないか。
だからこの部屋では、解釈が押しつけられることがなかった。語りすぎることは、正解を遠ざけることだったのだ。
「……なるほどな。」
佐々木は、肩の力が抜けていくのを感じた。
長い時間、何かを読み取らねばと目を凝らしていたが、それがどれだけ不毛だったかがようやく理解できた。
目の前のものを、ただ見ること。
感じたことに、正しいも間違いもないこと。
そのあたりまえの自由を、朝比奈は尊重したのだ。
静かに椅子を引き、絵の正面から少し離れた場所に腰を下ろす。
深く座り込むと、椅子の背もたれが想像よりも柔らかく身体を受け止めた。
その瞬間、自分がどれほど疲れていたかを、初めて自覚する。
館に入ってからずっと、神経を張り詰め、足を動かし、目をこらし、思考を巡らせてきた。
それでもなお、この部屋の前では“何かに正しくたどり着こう”とする欲があった。
だがそれすら、今はもう溶けてしまっている。
「ここでは何も決めつけなくていい」という事実が、こんなにも心を軽くするとは思わなかった。
部屋の空気はやわらかく、ほのかに甘い絵の具の匂いがまだ残っていた。
照明も一段だけ落ち、まるで空が暮れていくような、薄暗くて穏やかな光が空間を満たしている。
風は吹かないが、静寂そのものが身体をなでるように感じられた。
佐々木は目を閉じた。
何かを考えようとするが、思考はすぐに水底へ沈んでいく。
深く考える必要はなかった。ただ、いまここにいるということを受け入れるだけで十分だった。
「……少しだけ、休ませてもらおうか。」
声に出すというよりは、吐息のようにその言葉は漏れた。
首を少し傾け、背もたれに身をあずける。
まぶたの裏はやさしい黒。耳に入ってくるのは、絵の具の乾いた匂いと、心臓の音だけだった。
時計の音もない。足音もない。
ただ時間だけが、誰にも気づかれずに滑っていく。
この空間は、彼にとってようやく与えられた「停止」の場所だった。
意識の輪郭がぼやけていく。
まどろみが訪れる。
それは逃避ではなく、祝福に近かった。
まるで、朝比奈の絵に包まれて眠るような、静かな安らぎだった。
しばらくして、館のどこかでごく微かな機械音が鳴り、壁の奥で何かが動き始めた。
しかし佐々木はそれに気づかなかった。
彼はすでに、小さな深い眠りの中へと沈んでいた。
佐々木はその変化に身をすくめ、次の瞬間、フロアがまた変わったことを察した。
足元には、見覚えのある紙片が落ちている。
しゃがみ込み、それを拾い上げる。いつもの招待状だった。
裏返すと、そこには藍色のハンコがひとつ、静かに押されていた。
佐々木はしばらく、その濃い色を黙って見つめていた。
今いる部屋を合わせて、残りあと二部屋。
それを実感したとき、佐々木の口元にふと笑みがこぼれた。
ここまで来た――その思いが胸にあふれたのだ。
だが同時に、あの〈八枚の絵〉の姿がまだ見えないことが、心に影を落とした。
本当に、あの絵は自分のもとに戻ってくるのか。
完成された幻の八作が、この館のどこかで待っているのか。
それを考えるたび、胸の奥にじんわりと広がる不安を、佐々木は振り払うことができなかった。
現実から目を背けるように、佐々木は展示されているはずの絵を見ようと顔を上げた。
だが、視界には何もなかった。白い壁、冷たい空気、ただそれだけがそこにあった。
「……?」
違和感に駆られ、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには巨大なキャンバスが、壁一面を覆うようにして掲げられていた。
描かれていたのは、宇宙へと飛び立つ一基のロケットだった。
暗い背景に浮かぶ白い機体は、すでに発射の直前で、巨大な噴射口からは眩しい光と煙が噴き出していた。
地上では、その様子を見送る人々が描かれている。スーツを着た者、家族連れ、小さな子ども。
彼らの表情は一様に感動と希望に満ちていた。
だがそのロケットの胴体――側面のあたりに、あり得ない光景があった。
数人の男女が、まるでしがみつくようにロケットに取りついているのだ。
顔は青ざめ、髪は乱れ、風圧で服がはためいていた。
助けを求めるように口を開けている者、必死に誰かを押しのけている者もいた。
その異様な姿が、地上の静かな群像とあまりにも対照的で、見る者の神経を逆なでるような不協和音を生んでいた。
「……一枚だけか」
佐々木はぽつりとつぶやいた。
その声は、自分自身に言い聞かせるような、深い溜息のような響きを含んでいた。
佐々木はその一枚の絵を凝視した。
このフロアには他に何もない。
つまり、この絵一枚だけで、ここに込められた意図――朝比奈の謎を読み解かなければならないのだ。
彼は絵の前に歩み寄り、紙質を指先でなぞり、光にかざす。
インクの染み具合、筆致の揺らぎ、余白の取り方。
あらゆる細部に目を凝らし、メモを取りながら丁寧に確認していく。
だが、何も――何ひとつ――わからなかった。
破綻も矛盾もない。絵の表現としては完成されており、違和感らしきものは微塵も見つからない。
むしろ、朝比奈映司の典型とも言える作品だった。
技巧、構図、色彩、全てが見慣れたもの。
そう、「いつもの朝比奈の絵」――それ以上でも、それ以下でもない。
もう一度、最初から考え直す。
意味を探す。文脈を組み立てる。
だが、その都度、彼の思考は静かに空振りしていく。
佐々木は、軽く眉をひそめながらメモを閉じた。
絵は、ただそこに在る。
語ろうとせず、拒むでもなく、沈黙のまま佇んでいた。
佐々木は、何も掲げられていない壁面や床に目を凝らし、念入りに確認し始めた。
以前のフロアで見たような、隠された切れ目や仕掛けがあるのではと探ったが、どこにも異変は見つからない。
――もう、手がかりはないのか。
そう思いながら、佐々木は掲示されている一枚の絵に手を伸ばし、そっと外してみた。
その瞬間、絵の裏側に金庫の扉のようなものが現れた。
鍵はかかっていなかった。佐々木が手をかけると、それは音もなく簡単に開いた。
中には、三枚の金属プレートが並べて納められていた。
それぞれのプレートには、あのロケットの絵に対する異なる解釈が刻まれていた。
【プレート1】
――この絵は、希望と進歩の象徴である。
地上に残る者たちの姿は、飛び立つ未来への期待を抱いた「見送り人」として描かれている。ロケットは人類の叡智の結晶であり、その旅立ちは夢と挑戦への賛歌だ。
しがみつく人々の存在もまた、向上心と欲望の象徴である。彼らはリスクを承知で飛び乗ろうとしているのだ。愚かではあっても、そこには「追いつきたい」という純粋な衝動がある。人類の発展とは、常にこうした愚かさと勇気のせめぎ合いによって成り立ってきたのではないか。
この絵は、その二面性ごと、祝福している。
佐々木はプレートをそっと置いた。これは、最も一般的な美術館の解説だ。安全で、希望を語る解釈。だが、あの顔――しがみついた者たちの絶望を、美化しているように思えてならなかった。
⸻
【プレート2】
――この絵は、人間の醜さを描いたものである。
地上にいる者たちは、誰一人として異常に気づかない。見送る者たちは誰も、ロケットにすがりつく者の存在に目を向けていない。彼らは感動に酔い、現実を見ようとしない。
一方、ロケットに取りついた人間たちは、他者を蹴落とし、我先に未来に縋りつこうとしている。
この絵におけるロケットとは、幸福、成功、逃避、あるいは名誉の象徴である。
そこに群がる人々の姿は、限られたチャンスに過剰に群がり、理性を失った現代人そのものだ。
この絵は、「勝者の物語」の裏にある、見たくもない真実を暴き出す。
読み終えた佐々木は息を呑んだ。これは、間違いなく朝比奈が抱いていた「世間」への苛立ちと一致する。見えているのに、見えていないふりをする無関心。そこに満ちるのは「感動」の皮をかぶった無知だ。
⸻
【プレート3】
――この絵は、現代社会に対する鋭い風刺である。
ロケットは国家や資本、テクノロジーなど、権力の象徴だ。地上の人々はそれを無批判に礼賛し、祝福する。だが、本来その「未来」に乗るべきだった人間は、選ばれなかった。
描かれたしがみつく者たちは、取り残された者、排除された者たちだ。
彼らは、正式な搭乗口からではなく、命を懸けて未来にすがろうとしている。だがその姿は滑稽で、異物であり、誰の同情も得られない。
これは「進歩」の名のもとに切り捨てられていく人間の姿である。
画面の中心にはいないが、真に目を向けるべきは彼らなのだ。
佐々木はその言葉に心をえぐられるような感覚を覚えた。朝比奈がこのプレートを書いたのか、あるいは彼の言葉を誰かが代筆したのか――それはわからない。
⸻
続けて、佐々木は3枚のプレートを見比べながら、ゆっくりと立ち上がった。
一つの絵に三つの解釈。それは鑑賞者に試されているようでもあり、同時に「どれを選んでも間違いではない」と語りかけているようでもあった。
彼の脳裏に、かつての朝比奈の言葉が蘇る。
――「評価って、誰が決めるんだろうな」
それがまさに、今目の前に突きつけられていた。
佐々木は絵をそっと元の位置に戻した。
そのとき、絵のすぐ下、壁の一部にわずかなくぼみがあることに気がついた。ちょうどプレートがぴったりはまりそうな大きさだった。
佐々木はすぐに悟った。この三枚のうち、どれか一枚が正解で、それをはめることでこの部屋の謎は解けるのだと。だが、どれも間違いには思えなかった。希望を描いたもの、絶望を示したもの、そして社会への風刺を込めたもの。いずれも、あのロケットの絵に通じていた。
慎重に、一枚ずつ試してみることにした。
まず一枚目。くぼみに差し込んでみるが、何も起こらない。
続いて二枚目。やはり、部屋に変化はなかった。
「運が悪いな」
佐々木はそうつぶやき、最後の三枚目をはめ込んだ。
……しかし、沈黙。
部屋はぴくりとも動かない。音も光も、何の反応もない。
佐々木は驚き、そして戸惑った。どれも外れだったのか。だが、このくぼみには一度に一枚しかはめられない。重ねることも、同時に複数を使うこともできない構造になっている。
「他に……何がある?」
声に出してみたが、返ってくるのは静寂だけだった。まるで部屋そのものが答えを秘めたまま、彼を見つめ返しているようだった。
佐々木は手がかりを求めて、もう一度絵の裏にある扉を開いた。
中を覗き込むと、奥の隅に一枚、取り残されたプレートがあるのが目に入った。
「ああ、こんなところに……」
小さくため息をつきながら手を伸ばし、そのプレートを取り出す。
今度こそ、と期待を込めて文言を読もうとした瞬間、佐々木は眉をひそめた。
何も書かれていない。
一文字も、題名すらもない。完全な空白のプレートだった。
「……どういうことだ?」
不審に思いながらも、念のためその無字のプレートを壁の枠にはめ込んでみる。だが、やはり何も起こらない。
部屋は沈黙を保ったままだ。
佐々木はふと、胸ポケットに手をやる。あの時からずっと肌身離さず持ち歩いていた招待状を確認するように指でなぞった。
紙の感触は確かにそこにあった。しっかりと、今も彼の手で握られている。
佐々木がふと後ろを振り返ると、そこには巨大な機械が置かれていた。
どう考えても、人の手で音もなく運び込めるような代物ではない。鋼鉄の塊のような重厚な外装に、無数のパイプと計器、そして中心には扉のような構造があった。
それが、いつ、どのタイミングで部屋に現れたのかはまったくわからなかった。
つい先ほどまで確かに何もなかった場所に、いまは確固たる存在感をもってその機械が佇んでいる。
佐々木は戸惑いながらも、もはや疑問を抱くことすら意味がないように思えた。
この館において「理解不能」は常態であり、理屈を捨てた先にしか進めないのだということを、彼はすでに学んでいた。
佐々木は静かに息をつき、無言でその機械に歩み寄っていった。
佐々木は慎重にその機械に近づいた。
間近で見ると、その構造はますます異様だった。表面は鈍く光る金属で覆われており、どこか古びた印象を与える一方で、現代的な冷たさも感じさせた。
前面には小さな台座のような窪みがあり、その奥に格子状のスリットと、円形のくぼみが並んでいる。上部には小さなパネルがあり、黒く沈黙したまま光を放ってはいない。
佐々木は手を伸ばし、そのくぼみにそっと触れてみた。
金属は意外にも温かく、まるで長時間誰かの手の熱を受けていたかのようだった。
ふと、彼の視線が台座の横に刻まれた小さな文字列にとまる。
英語だった。――「Insert plate for inscription.」
佐々木は息をのんだ。
inscription――刻印。つまりこの機械は、プレートに文字を刻むための装置だということなのだろう。
手にしていた無地のプレートを思い出し、彼はポケットからそれを取り出した。重さは他のプレートと変わらず、表面はわずかにざらついている。文字を受け止めることを前提にした素材、そう思わせる質感だった。
佐々木はその無字のプレートを機械の窪みにそっとはめてみた。カチリ、と乾いた音がして、プレートはぴたりと機械に収まった。
すると、沈黙していた上部のパネルが、ふっと淡い光を灯した。液晶らしき画面には、入力を促すかのようにカーソルが瞬いている。
佐々木は理解した。
自分がすべきことは、この無字のプレートに「意味」を与えることなのだ。
それも、このフロアを終わらせるにふさわしい、言葉を。
佐々木はもう一度、ロケットの絵をじっくりと見つめた。
あらためて観察してみると、それは解釈の幅を持った不思議な絵だった。飛び立つ火の粉は情熱のようでもあり、逃避にも見える。空に向かうロケットは希望にも、あるいは決別のようにも受け取れる。プレートに書かれていた三つの視点――希望、孤独、無常――どれも間違っているとは思えなかった。けれど、どれも決定打ではないような気がした。
ならば、自分なりの言葉で、この絵にもうひとつの意味を与えてみてはどうか。
佐々木は胸ポケットからペンを取り出し、手帳のページを開いた。絵の隅々に目を走らせ、色合いや構図、ロケットの角度や火花の流れを細かく書き留めていく。どこかで見た宇宙船の写真、子どもの頃に見た打ち上げのニュース、アトリエで画家と交わしたわずかな言葉。次々と思考がつながり、筆が止まらなかった。
気がつけばページはぎっしりと埋まっていた。
佐々木はそっと息を吐き、手にしていた無字のプレートを機械のスロットに差し込んだ。そしてキーボードに手を置き、ゆっくりと打ち込みを始めた。文字が一文字ずつ刻まれていく音が、やけに静かな部屋に心地よく響いた。
やがて打ち終えると、プレートを取り出し、壁の窪みにそっとはめ込んだ。
「カチッ」
乾いた音とともに、プレートがわずかに震えたかと思うと、吸い込まれるようにして奥へと滑り消えた。
佐々木は思わず胸ポケットに手をやった。
そこには、いつもと変わらぬ感触――招待状が、まだそこにある。
終わったのではなかった。
首を傾げ、再び絵のほうを振り返る。
そこには、さきほど自分が打ち込んだはずのプレートの代わりに、再び無字のプレートがはめ込まれていた。
佐々木は目を見開き、そのプレートを手に取った。
何も書かれていない。ただの無地――にもかかわらず、それはどこか、自分の言葉を飲み込んだあとの静けさを湛えていた。
佐々木はプレートを見つめたまま、動けなくなっていた。
なぜ、再び無字になったのか。なぜ、戻されたのか。
あれほど自分なりに深く考え、絵の意味を掘り下げて書いたというのに、あっさりと打ち消される。まるで、何かに「ちがう」と言われたかのようだった。
単なる機械的な動作ではない。プレートは「拒否」された。そうとしか思えなかった。
だが、それならば何が正しいというのか。何をもって「正解」とするのか。誰が、どの基準で。
考えても答えは出なかった。それでも、あきらめるわけにはいかなかった。
佐々木はまた絵に向き合った。画面を何度も舐めるように見渡し、光の当たり方、影の落ち方、余白、筆致、色の選び方に意味を見出そうとする。背景の黒は宇宙か、夜か、それとも人間の心の闇か。ロケットの軌道は未来か、逃避か、犠牲か。
新しい文章を書き始める。
「この作品は、夢への希求と、それを手放す悲しみを同時に描いている」
いや違う。
「画家はここに、現代における孤独と自己喪失の問題を重ねているのではないか」
やや強引か。
「この炎は、人間が抱える破壊と創造の二面性の象徴だ」
それもどこか借り物のように響く。
何度も書いては読み返し、打ち込み、プレートをはめ込む。
そのたびに「カチッ」という音とともに、プレートは奥へと吸い込まれて消えた。
そして数秒後、再び無字のプレートが戻ってくる。
それは冷たい拒絶だった。
評価もされない。ただ、無視される。まるで存在すらなかったかのように、白紙で返ってくる。
佐々木は焦りと苛立ちを覚え始めていた。
「違う? じゃあ、何が正しいんだ?」
声には出さなかったが、喉の奥で言葉が渦巻いた。
自分の目、自分の感性が試されている。だが、その評価者が誰なのかもわからない。
機械か? この館か? あるいは――朝比奈映司か。
佐々木は筆を止めた。
これ以上、自分だけの目で絵を切り取って言葉にするのは違うのではないか。ふと、そう思ったのだ。
朝比奈映司――彼が、生前、何を伝えたがっていたのか。何を感じながら、キャンバスに向かっていたのか。
記憶の底から、かつての会話がゆっくりと浮かび上がってくる。
「世界の朝比奈なんて言われてるけど、私はもっとアートは誰にでも開けてる、そういうものであって欲しいんだよな。私は誰にでも楽しく見ることができる、そんな絵を描きたい。」
穏やかな笑顔で、そう語っていた。照れくさそうに紅茶のカップを指先でなぞりながら、何気なく口にした言葉だった。だが、佐々木の記憶には妙に強く残っている。
多くの人が彼を天才と呼び、難解な言葉で作品を褒め称えた。けれど、当の本人は、そんな持ち上げ方にどこか居心地の悪さを感じていたのだろう。
もしかすると、いろんな解釈ができる絵を描いたのも、見る人の自由を尊重したかったからかもしれない。
「正しい見方」など存在しない。誰が見ても、自分なりに楽しんでもらえればそれでいい。朝比奈は、そう願っていたのではないか。
佐々木は無地のプレートを手のひらにのせ、そっと息を吐いた。
いま自分がしていることは、あの朝比奈の想いに逆行しているのではないか。ひとつの「正解」を押しつけようとしているのではないか。
彼の絵は、決して「解かれる」ことを望んでいない。
むしろ、誰かの心に自由なまま届くことを願っているのだ。
佐々木は、プレートに書くべき言葉をようやく見つけたような気がした。
佐々木は静かに腰を下ろし、無地のプレートをもう一度手に取った。
手のひらに乗せると、それはまるで冷たい紙片のように軽く、それでいて妙な重みをもっていた。精神的な重みだ。責任、と言ってもいいかもしれない。
目の前にある機械は先ほどと変わらず、ただじっと待っていた。まるで何も言わずにこちらを見ているようだった。
佐々木はゆっくりとプレートをセットし、カタリと音を立てて収めた。
機械の前面にある小さな打鍵盤に手を添える。よく見ると、キーひとつひとつに薄く擦れた跡があり、過去にも誰かがここで何かを打ち込んでいたことが伺える。
そして、佐々木は一文字ずつ、打ち始めた。
——カチャ。カチャ。カチャ。
「この絵を描いたのは、画家の朝比奈映司さんです。」
まず、誰が描いたのか。そこから始めるのが自然だ。
できるだけ明快に。まるで子ども向けの図鑑の説明文のように、淡々と、しかし丁寧に。
「この絵は、キャンバスに油絵の具を使って描かれています。使われている色はとてもやわらかく、混ざりあうように塗られています。」
画材、色の使い方——それらは事実としてそこにある。誰が見ても違わないことだけを書く。
「線は細くてなめらかです。でも、よく見るとところどころに、わざとぼかしたような部分があります。」
カチャ、カチャ。
佐々木の指は、思った以上に滑らかに動いた。
「この絵では、遠くのものがうすく、近くのものがはっきり見えるようになっています。これは『空気遠近法』と呼ばれる技法です。」
言葉が少し難しくなったと感じると、佐々木はすぐ補足を入れた。
「空気遠近法というのは、遠くにあるものが少しかすんで見えるように描くことです。そうすると、絵の中に奥行きがあるように見えます。」
打鍵の音がリズムを持ち始める。
「光のあたり方にも工夫があります。光は左上から当たっているように描かれています。そのため、右下の部分には影ができています。」
「絵の中にある人物は、顔の細かいところまでは描かれていません。でも、しぐさや姿勢で何をしているのかがわかるようになっています。」
佐々木は一度手を止め、モニタのような画面に表示された文章を読み返した。
簡単な言葉で、客観的に。
今の自分は、あくまで案内人であり、解釈者ではない。ただ目に見えることを、見たとおりに伝えるだけ。
再び手を動かす。
「絵に使われている色は、青や灰色が多く使われています。でも、よく見るとほんのすこしだけ赤や黄色が混ざっていて、それが絵の中にあたたかさを感じさせます。」
「全体のバランスがよく、上のほうと下のほう、右と左の重さがだいたい同じになるように描かれています。」
カチャ、カチャ。
文章がひとつ、またひとつと刻まれていく。
まるで、目に見える事実がひとつずつ静かに浮かび上がっていくようだ。
「この絵は、見る人がいろんなことを想像できるようになっています。でも、ここではその想像については何も書きません。」
その一文を書いたとき、佐々木の口元にほんのわずかな笑みが浮かんだ。
解釈は書かない。書かないことを、あえて書く。それは朝比奈への敬意でもあった。
「これは、朝比奈さんが見たものを、丁寧に、やさしい気持ちで描いた絵です。」
最後の文を書き終えると、佐々木はキーから手を離し、深く息を吐いた。
文章は長くはない。しかし、そこに込めた意識は、この館に来て以来もっとも研ぎ澄まされていた。
「……これでいい。」
プレートを機械から取り出すと、そこにはくっきりと文字が刻まれていた。まるで、紙ではなく金属に焼きつけたような、確かな文字列。
佐々木はそのプレートを展示台の枠にゆっくりとはめ込んだ。
「カチッ」と、前と同じ音がした。
次の瞬間、プレートが静かに、しかし確実に奥へと沈み、吸い込まれるようにして姿を消した。
プレートが奥に沈み込んだ後、しばらくの間、何の音もなかった。
機械は無言で停止しており、展示台の表面には何も表示されていない。ただの木の台に戻ったかのような静けさだった。
佐々木はもう一度、展示されていた絵を見つめた。
それはただ、そこに在るだけだった。何かを語ろうともせず、訴えかけもせず、まるで静かな湖のように佇んでいた。
すでにプレートは姿を消し、誰にも説明されない状態に戻っている。だが、佐々木にはもう、その理由がわかっていた。
——この部屋では、朝比奈は何も決めなかったのだ。
この絵が何を意味するか、どう解釈されるべきか。そういったことを、絵の中に固定しようとはしなかった。
観る人が、ただその人自身の目で、感じるままに受け取ること。
朝比奈はそれを望んでいた。むしろ、それしか望んでいなかったのではないか。
だからこの部屋では、解釈が押しつけられることがなかった。語りすぎることは、正解を遠ざけることだったのだ。
「……なるほどな。」
佐々木は、肩の力が抜けていくのを感じた。
長い時間、何かを読み取らねばと目を凝らしていたが、それがどれだけ不毛だったかがようやく理解できた。
目の前のものを、ただ見ること。
感じたことに、正しいも間違いもないこと。
そのあたりまえの自由を、朝比奈は尊重したのだ。
静かに椅子を引き、絵の正面から少し離れた場所に腰を下ろす。
深く座り込むと、椅子の背もたれが想像よりも柔らかく身体を受け止めた。
その瞬間、自分がどれほど疲れていたかを、初めて自覚する。
館に入ってからずっと、神経を張り詰め、足を動かし、目をこらし、思考を巡らせてきた。
それでもなお、この部屋の前では“何かに正しくたどり着こう”とする欲があった。
だがそれすら、今はもう溶けてしまっている。
「ここでは何も決めつけなくていい」という事実が、こんなにも心を軽くするとは思わなかった。
部屋の空気はやわらかく、ほのかに甘い絵の具の匂いがまだ残っていた。
照明も一段だけ落ち、まるで空が暮れていくような、薄暗くて穏やかな光が空間を満たしている。
風は吹かないが、静寂そのものが身体をなでるように感じられた。
佐々木は目を閉じた。
何かを考えようとするが、思考はすぐに水底へ沈んでいく。
深く考える必要はなかった。ただ、いまここにいるということを受け入れるだけで十分だった。
「……少しだけ、休ませてもらおうか。」
声に出すというよりは、吐息のようにその言葉は漏れた。
首を少し傾け、背もたれに身をあずける。
まぶたの裏はやさしい黒。耳に入ってくるのは、絵の具の乾いた匂いと、心臓の音だけだった。
時計の音もない。足音もない。
ただ時間だけが、誰にも気づかれずに滑っていく。
この空間は、彼にとってようやく与えられた「停止」の場所だった。
意識の輪郭がぼやけていく。
まどろみが訪れる。
それは逃避ではなく、祝福に近かった。
まるで、朝比奈の絵に包まれて眠るような、静かな安らぎだった。
しばらくして、館のどこかでごく微かな機械音が鳴り、壁の奥で何かが動き始めた。
しかし佐々木はそれに気づかなかった。
彼はすでに、小さな深い眠りの中へと沈んでいた。
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