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2章
8階
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佐々木は目を覚ますと部屋が変わっていることに気がついた。何時間寝ていたかわからない。もしかしたら数分しか寝ていないのかもしれない。頭はぼんやりしていたが、どこかすっきりとしていた。
足元に何かがあるのに気づき、佐々木はそっと身体を起こしてそれを拾い上げた。見慣れた招待状だった。めくって裏返すと、そこには新たにひとつ、紫色のハンコが押されていた。七色目の印。赤、橙、黄、緑、青、藍、そして紫——ついに最後の色が揃ったのだ。佐々木は小さく息を呑んだ。長く不思議な旅路の終着点が、いよいよ近づいているのを感じた。
身を起こしてあたりを見渡すと、そこには見覚えのある絵が、ひとつひとつ丁寧に飾られていた。失われたはずの八枚の絵だった。
一枚目:《手のない肖像》
薄暗い部屋の中、椅子に座る老女が描かれている。だが両腕の先が描かれていない。袖口から先が空白のまま、まるで途中で絵具を断たれたように、手が消えている。
二枚目:《裏返しの家》
木造の平屋の家。よく見ると、屋根と床が反転している。家具が天井に貼りつき、玄関は空へと開いている。
三枚目:《鏡を見ない少女》
画面の中央に立つ少女は大きな鏡の前にいるが、鏡には何も映っていない。少女の目線は鑑の中ではなく、鑑の向こう——つまり、こちら側を見ているように描かれている。
四枚目:《湖に沈む街》
水面に浮かぶ街の輪郭が描かれている。建物は逆さまに反射しているが、実際には水面の中の方が細部まで描き込まれており、現実と写しの境が曖昧になっている。
五枚目:《眠る男》
白い寝台に横たわる中年の男。目を閉じて眠っているようだが、背景の時計が異様に歪んでおり、男の影も何重にも分裂している。
六枚目:《言葉を失った部屋》
本棚、机、書類棚が整然と並ぶ書斎の絵だが、書物の背表紙はすべて白紙で、壁には何語かわからない記号が刻まれている。明確な意味を持たない情報の圧力が視覚を乱す。
七枚目:《反転する階段》
石造りのらせん階段が描かれている。よく見ると、上に昇っているはずの階段が途中から下に続いている。視線を追えば追うほど、どちらが上でどちらが下かがわからなくなる。
八枚目:《観る者》
一見すると黒いキャンバス。だが光の角度によって、ごく薄く、輪郭だけが浮かび上がる人物像がある。顔は描かれていない。絵を眺める視線の角度によって、微かに変化するような錯覚を与える。
八枚の絵が、壁一面を使って、規則正しく並べられていた。まるで佐々木を迎えるために、長い時を超えて姿を現したかのようだった。
佐々木が八枚の絵を凝視していたとき、突然それらが音もなく宙へと浮かび上がった。
重さを持つはずのキャンバスが、羽根のように軽やかに空間を漂う。八枚の絵は彼を中心に円を描き、まるで儀式のために集うように回転を始めた。
やがて、一枚ずつ、絵が裏返った。
そこには、朝比奈映司が描き残した言葉が、細い筆跡でびっしりと刻まれていた。
⸻
一枚目:《手のない肖像》の裏
「人はいつも“手”にばかり目を向ける。働いた手、創る手、奪う手。だが私は、そこに人間の本質を見いだせなかった。
だから手を描くことをやめた。描かないことで、かえってその人の在りようを表したかった。
けれど、批評家たちは『欠落』と呼んだ。彼らは“ないもの”を見抜けない。彼らは“あるもの”しか信じない。
本当に欠けているのは、私ではなく、あなたたちの目だ。」
⸻
二枚目:《裏返しの家》の裏
「世界は最初から逆さまにできている。
正しいと呼ばれるものは、しばしば最も不自然で歪んでいる。
私は屋根と床を入れ替えた。家具を天井に貼りつけ、玄関を空に向けた。
すると皆が言った——『奇怪だ』『理解不能だ』。
だが、私は静かに笑った。あなたたちが“普通”と呼んでいる現実こそ、本当は倒立しているのだと。
この絵はただ、私の目に映ったままの“世界”にすぎない。」
⸻
三枚目:《鏡を見ない少女》の裏
「人は鏡を恐れる。そこに自分が映るからだ。
だがこの少女は、鏡を見ない。鏡の奥を透かして、観ている者をじっと見つめている。
そう、鏡に映るのはあなたの顔だ。あなたは鏡を覗き込む勇気があるか?
もし映らなければ、それはあなたが“存在しない”からではないか?
私は絵を描いたのではない。私は鏡をこちらへ差し出しただけなのだ。」
⸻
四枚目:《湖に沈む街》の裏
「人々は水面の上を現実だと信じ、映り込みを幻だと切り捨てる。
だが私は、逆さの街にこそ真実を描いた。細部まで正確に、記憶の奥に焼きつくほどに。
上にある街は虚ろな幻影、下にある街が真の姿。
だが批評家は『錯覚』『技巧』と呼んだ。
錯覚?技巧?
違う。
私が見ている現実が、あなたの常識と食い違っているだけだ。」
⸻
五枚目:《眠る男》の裏
「私は眠っている男を描いた。
だが眠りの中には、時間がひとつではないことを知っていた。
ひとりの男は三人、四人となり、異なる時刻に同時に存在する。
人間は過去と未来の影をまとって眠る。
それを見た批評家は『時間の混乱』『悪夢の具現化』と書いた。
ちがう。
これは夢ではない。
これこそが私の目に映る“現実の眠り”なのだ。」
⸻
六枚目:《言葉を失った部屋》の裏
「私は言葉に絶望した。
本は、机は、壁は、すべて記号で満ちている。
人は記号を意味だと錯覚する。だが、そこに意味などどこにもない。
書き殴られた文字、積み上げられた知識の山、それらはすべて“音のしない叫び”だ。
私はそれを白紙として描いた。
空っぽの背表紙こそが、世界をもっとも正確に写す。
それでもあなたは、なお言葉にすがるのか?」
⸻
七枚目:《反転する階段》の裏
「私は階段を描いた。昇るほどに、降りていく階段を。
人は進んでいるつもりで、同じ場所をぐるぐると回っている。
上へ行く者は、結局下へ行き、下へ降りる者はいつか上に辿り着く。
その構造は残酷だ。努力はすべて円環に囚われ、どこにも出口はない。
批評家はこれを『パラドックス』『遊戯』と評した。
遊戯?違う。
これは人間そのものの縮図だ。逃げ場のない、生の構造だ。」
⸻
八枚目の《観る者》がくるりと反転した。
その裏に刻まれていた文字を見た瞬間、佐々木は思わず息を呑んだ。そこに記されていたのは、朝比奈映司が生涯を通じて胸に秘めてきた、最後の言葉だった。
⸻
「私はもう、誰のためにも描かない。
世界は私を『天才』と呼んだ。だが、その称号は私の手を縛り、心を削った。
評価は名前に降り注ぎ、作品は名前の影に隠された。『朝比奈映司』という三文字だけが歩き出し、絵は取り残された。
だから、私は最後に描かなかった。
真っ黒なキャンバスに、わずかな筆跡だけを残した。
それは“観る者”に委ねられる。私が何を思ったかではない。あなたが何を感じるかだ。
絵は語らない。語るのは観る者だ。
正しい解釈も、間違った見方も存在しない。すべては観る人間の心に映し出される。
それこそが私が生涯をかけて伝えたかったこと。
この絵の題名は《観る者》。
観ているのは私ではない。あなたがあなた自身を観ているのだ。
そして——これを見ている“あなた”は、いったい誰なのですか?」
⸻
最後の一文を読んだ瞬間、筆跡が炎のように揺らめき始めた。黒いインクが光を帯び、生きているかのように蠢く。
次の瞬間、八枚すべての絵が同時に強烈な光を放ち、佐々木の視界を白く塗りつぶした。
光は壁から、床から、天井から溢れ出し、部屋全体がひとつの巨大なキャンバスと化す。
そして——絵そのものが、佐々木の胸の中へと突き刺さるように、吸い込まれていった。
佐々木は思った。
これは朝比奈の“遺作”ではない。
これは朝比奈自身なのだ、と。
白い閃光が視界を覆った。
佐々木は反射的に目を閉じたが、まぶたの裏にまで光が突き刺さってくる。皮膚を透過し、頭蓋の奥まで灼きつけるようだった。
耳鳴りが広がった。最初はかすかな低音の唸りに過ぎなかったが、やがて全身を震わせる轟音に変わり、身体の輪郭が崩れていくように感じられた。床に立っているはずなのに、足の裏から確かな感覚が消えていく。重力を失ったように膝が震え、ついには支えをなくした糸人形のように膝を折った。
「……っ」
声をあげようとしたが、喉が塞がったように音にならない。呼吸さえ、胸の奥で空気が逆流しているかのように乱れた。
心臓は恐ろしい速さで打ち、血流が耳の奥で轟音となり、身体のすべての穴から力が抜け落ちていく。
頭の中で言葉がばらばらに散った。
――あなたは誰ですか?
あの最後の一行が、脳裏で何度も何度もこだまし、佐々木自身の輪郭を削り取っていく。自分は誰なのか。佐々木尚吾という名は本当に自分のものなのか。思考は重さを失い、絡まった糸のようにほどけていった。
指先が震え、持っていたはずのメモ帳が手から落ちる。乾いた音を立てて床に散らばる紙の束。だが彼にはもう拾い上げる力もなかった。
代わりに、自分の全身が絵の中へ吸い込まれていく感覚に囚われた。皮膚が透きとおり、血管がインクの線になり、骨格すら画布の下地に塗りこめられていく。
「……あさ、ひな……」
掠れた声が唇から零れた。それは名前なのか、祈りなのか、自分でもわからなかった。
次の瞬間、足元の感覚が完全に途絶えた。
前のめりに倒れ込む。だが、床の冷たさはない。受け止める衝撃もない。ただ、深い闇の懐にすべてを委ねるように、佐々木の意識はふっと途切れた。
その身体は静かに横たわり、胸の上下もゆるやかに沈み込んでいった。
最後に彼の耳に残ったのは、誰の声ともわからない、微かな囁きだった。
――「あなたは、観る者だ。」
そして、佐々木の世界は完全に暗転した。
足元に何かがあるのに気づき、佐々木はそっと身体を起こしてそれを拾い上げた。見慣れた招待状だった。めくって裏返すと、そこには新たにひとつ、紫色のハンコが押されていた。七色目の印。赤、橙、黄、緑、青、藍、そして紫——ついに最後の色が揃ったのだ。佐々木は小さく息を呑んだ。長く不思議な旅路の終着点が、いよいよ近づいているのを感じた。
身を起こしてあたりを見渡すと、そこには見覚えのある絵が、ひとつひとつ丁寧に飾られていた。失われたはずの八枚の絵だった。
一枚目:《手のない肖像》
薄暗い部屋の中、椅子に座る老女が描かれている。だが両腕の先が描かれていない。袖口から先が空白のまま、まるで途中で絵具を断たれたように、手が消えている。
二枚目:《裏返しの家》
木造の平屋の家。よく見ると、屋根と床が反転している。家具が天井に貼りつき、玄関は空へと開いている。
三枚目:《鏡を見ない少女》
画面の中央に立つ少女は大きな鏡の前にいるが、鏡には何も映っていない。少女の目線は鑑の中ではなく、鑑の向こう——つまり、こちら側を見ているように描かれている。
四枚目:《湖に沈む街》
水面に浮かぶ街の輪郭が描かれている。建物は逆さまに反射しているが、実際には水面の中の方が細部まで描き込まれており、現実と写しの境が曖昧になっている。
五枚目:《眠る男》
白い寝台に横たわる中年の男。目を閉じて眠っているようだが、背景の時計が異様に歪んでおり、男の影も何重にも分裂している。
六枚目:《言葉を失った部屋》
本棚、机、書類棚が整然と並ぶ書斎の絵だが、書物の背表紙はすべて白紙で、壁には何語かわからない記号が刻まれている。明確な意味を持たない情報の圧力が視覚を乱す。
七枚目:《反転する階段》
石造りのらせん階段が描かれている。よく見ると、上に昇っているはずの階段が途中から下に続いている。視線を追えば追うほど、どちらが上でどちらが下かがわからなくなる。
八枚目:《観る者》
一見すると黒いキャンバス。だが光の角度によって、ごく薄く、輪郭だけが浮かび上がる人物像がある。顔は描かれていない。絵を眺める視線の角度によって、微かに変化するような錯覚を与える。
八枚の絵が、壁一面を使って、規則正しく並べられていた。まるで佐々木を迎えるために、長い時を超えて姿を現したかのようだった。
佐々木が八枚の絵を凝視していたとき、突然それらが音もなく宙へと浮かび上がった。
重さを持つはずのキャンバスが、羽根のように軽やかに空間を漂う。八枚の絵は彼を中心に円を描き、まるで儀式のために集うように回転を始めた。
やがて、一枚ずつ、絵が裏返った。
そこには、朝比奈映司が描き残した言葉が、細い筆跡でびっしりと刻まれていた。
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一枚目:《手のない肖像》の裏
「人はいつも“手”にばかり目を向ける。働いた手、創る手、奪う手。だが私は、そこに人間の本質を見いだせなかった。
だから手を描くことをやめた。描かないことで、かえってその人の在りようを表したかった。
けれど、批評家たちは『欠落』と呼んだ。彼らは“ないもの”を見抜けない。彼らは“あるもの”しか信じない。
本当に欠けているのは、私ではなく、あなたたちの目だ。」
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二枚目:《裏返しの家》の裏
「世界は最初から逆さまにできている。
正しいと呼ばれるものは、しばしば最も不自然で歪んでいる。
私は屋根と床を入れ替えた。家具を天井に貼りつけ、玄関を空に向けた。
すると皆が言った——『奇怪だ』『理解不能だ』。
だが、私は静かに笑った。あなたたちが“普通”と呼んでいる現実こそ、本当は倒立しているのだと。
この絵はただ、私の目に映ったままの“世界”にすぎない。」
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三枚目:《鏡を見ない少女》の裏
「人は鏡を恐れる。そこに自分が映るからだ。
だがこの少女は、鏡を見ない。鏡の奥を透かして、観ている者をじっと見つめている。
そう、鏡に映るのはあなたの顔だ。あなたは鏡を覗き込む勇気があるか?
もし映らなければ、それはあなたが“存在しない”からではないか?
私は絵を描いたのではない。私は鏡をこちらへ差し出しただけなのだ。」
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四枚目:《湖に沈む街》の裏
「人々は水面の上を現実だと信じ、映り込みを幻だと切り捨てる。
だが私は、逆さの街にこそ真実を描いた。細部まで正確に、記憶の奥に焼きつくほどに。
上にある街は虚ろな幻影、下にある街が真の姿。
だが批評家は『錯覚』『技巧』と呼んだ。
錯覚?技巧?
違う。
私が見ている現実が、あなたの常識と食い違っているだけだ。」
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五枚目:《眠る男》の裏
「私は眠っている男を描いた。
だが眠りの中には、時間がひとつではないことを知っていた。
ひとりの男は三人、四人となり、異なる時刻に同時に存在する。
人間は過去と未来の影をまとって眠る。
それを見た批評家は『時間の混乱』『悪夢の具現化』と書いた。
ちがう。
これは夢ではない。
これこそが私の目に映る“現実の眠り”なのだ。」
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六枚目:《言葉を失った部屋》の裏
「私は言葉に絶望した。
本は、机は、壁は、すべて記号で満ちている。
人は記号を意味だと錯覚する。だが、そこに意味などどこにもない。
書き殴られた文字、積み上げられた知識の山、それらはすべて“音のしない叫び”だ。
私はそれを白紙として描いた。
空っぽの背表紙こそが、世界をもっとも正確に写す。
それでもあなたは、なお言葉にすがるのか?」
⸻
七枚目:《反転する階段》の裏
「私は階段を描いた。昇るほどに、降りていく階段を。
人は進んでいるつもりで、同じ場所をぐるぐると回っている。
上へ行く者は、結局下へ行き、下へ降りる者はいつか上に辿り着く。
その構造は残酷だ。努力はすべて円環に囚われ、どこにも出口はない。
批評家はこれを『パラドックス』『遊戯』と評した。
遊戯?違う。
これは人間そのものの縮図だ。逃げ場のない、生の構造だ。」
⸻
八枚目の《観る者》がくるりと反転した。
その裏に刻まれていた文字を見た瞬間、佐々木は思わず息を呑んだ。そこに記されていたのは、朝比奈映司が生涯を通じて胸に秘めてきた、最後の言葉だった。
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「私はもう、誰のためにも描かない。
世界は私を『天才』と呼んだ。だが、その称号は私の手を縛り、心を削った。
評価は名前に降り注ぎ、作品は名前の影に隠された。『朝比奈映司』という三文字だけが歩き出し、絵は取り残された。
だから、私は最後に描かなかった。
真っ黒なキャンバスに、わずかな筆跡だけを残した。
それは“観る者”に委ねられる。私が何を思ったかではない。あなたが何を感じるかだ。
絵は語らない。語るのは観る者だ。
正しい解釈も、間違った見方も存在しない。すべては観る人間の心に映し出される。
それこそが私が生涯をかけて伝えたかったこと。
この絵の題名は《観る者》。
観ているのは私ではない。あなたがあなた自身を観ているのだ。
そして——これを見ている“あなた”は、いったい誰なのですか?」
⸻
最後の一文を読んだ瞬間、筆跡が炎のように揺らめき始めた。黒いインクが光を帯び、生きているかのように蠢く。
次の瞬間、八枚すべての絵が同時に強烈な光を放ち、佐々木の視界を白く塗りつぶした。
光は壁から、床から、天井から溢れ出し、部屋全体がひとつの巨大なキャンバスと化す。
そして——絵そのものが、佐々木の胸の中へと突き刺さるように、吸い込まれていった。
佐々木は思った。
これは朝比奈の“遺作”ではない。
これは朝比奈自身なのだ、と。
白い閃光が視界を覆った。
佐々木は反射的に目を閉じたが、まぶたの裏にまで光が突き刺さってくる。皮膚を透過し、頭蓋の奥まで灼きつけるようだった。
耳鳴りが広がった。最初はかすかな低音の唸りに過ぎなかったが、やがて全身を震わせる轟音に変わり、身体の輪郭が崩れていくように感じられた。床に立っているはずなのに、足の裏から確かな感覚が消えていく。重力を失ったように膝が震え、ついには支えをなくした糸人形のように膝を折った。
「……っ」
声をあげようとしたが、喉が塞がったように音にならない。呼吸さえ、胸の奥で空気が逆流しているかのように乱れた。
心臓は恐ろしい速さで打ち、血流が耳の奥で轟音となり、身体のすべての穴から力が抜け落ちていく。
頭の中で言葉がばらばらに散った。
――あなたは誰ですか?
あの最後の一行が、脳裏で何度も何度もこだまし、佐々木自身の輪郭を削り取っていく。自分は誰なのか。佐々木尚吾という名は本当に自分のものなのか。思考は重さを失い、絡まった糸のようにほどけていった。
指先が震え、持っていたはずのメモ帳が手から落ちる。乾いた音を立てて床に散らばる紙の束。だが彼にはもう拾い上げる力もなかった。
代わりに、自分の全身が絵の中へ吸い込まれていく感覚に囚われた。皮膚が透きとおり、血管がインクの線になり、骨格すら画布の下地に塗りこめられていく。
「……あさ、ひな……」
掠れた声が唇から零れた。それは名前なのか、祈りなのか、自分でもわからなかった。
次の瞬間、足元の感覚が完全に途絶えた。
前のめりに倒れ込む。だが、床の冷たさはない。受け止める衝撃もない。ただ、深い闇の懐にすべてを委ねるように、佐々木の意識はふっと途切れた。
その身体は静かに横たわり、胸の上下もゆるやかに沈み込んでいった。
最後に彼の耳に残ったのは、誰の声ともわからない、微かな囁きだった。
――「あなたは、観る者だ。」
そして、佐々木の世界は完全に暗転した。
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