鳳花春閨伝―死に戻りの皇帝は四人の妃に愛される―

鮎川アキ

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第1話

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「なにをしている、今すぐ離せ! っ……小瓊シャオケイ、嫣寧を殺さないでくれ!」
 狼狽して叫ぶんだものの、この場にいる侍従たちが全員瓊祥の命令しか聞かないことを思い出し、紗琰は瓊祥へ取りすがる。
 だが、瓊祥はくちびるに笑みを刷いたまま、紗琰ではなく温太監へ「早くしろ」と言い放った。
 短い返答とともに、呼吸がつぶれたような、泡がひしゃげてはじけたような音が響く。
「嫣寧……っ!」
 呼んだ声はほとんど音にならなかった。
 紗琰は抱きしめようとしてくる瓊祥の腕を無茶苦茶に払いのけ、嫣寧のもとへ向かおうと牀榻から転がり落ちる。
 萎えた手足を必死に動かし、絨毯へ爪をたてた時、宦官の振りあげた刃が嫣寧の胸を背中から貫いた。
「ぁ、あ……っ」
 うつ伏せた嫣寧の下に、じわじわと血溜まりが広がっていく。
 紗琰はどうにか這い進み、色の失せていく頬に手を伸ばした。
「皇后……、沈郎シェンラン……」
 指先で頬を撫でれば、目の前の双眸が一瞬だけ見開かれ、昏く濁っていく。
 こちらを見つめる瞳に最早精気はなく、紗琰はくちびるを戦慄かせた。
 胸が詰まって、息もできない。嗚咽を漏らしながら、今更どっと後悔が押し寄せてくるのを感じた。
 ――なぜ、愛すべき相手を見誤ったのか。雨嫻と嫣寧、おのれを慕ってくれていた二人が道を誤るほど追い詰めてしまったのか。
「……沈郎」
 恋しさを込めて紡いでも、嫣寧からいらえが返ってくることはない。
「沈郎、っ……しぇんらん」
 動かなくなった躰を抱きしめようとしたところで、うしろからひっぱり起こされた。
 瓊祥は、紗琰の躰を閉じ込めるように腕の中に押し込み、耳朶にくちづけてくる。湿った吐息が鼓膜を濡らし、紗琰は無意識に身ぶるいした。
「あんなに冷たくしていたくせに、今になってこの男が恋しくなったのですか?」
 嘲るような笑声が身の内に響く。
「こいつが俺と関係を持ったのは誰のせいだと? あなたがそう仕向けたのでしょう?」
「っ、っ……」
 返す言葉もないまま、紗琰はくちびるを噛んだ。
 嫣寧を疎んじ、瓊祥の手を取りたくなるほど追い詰めたのは他でもない紗琰自身だ。それが揺るぎのない事実であるとわかっているからこそ、不甲斐ないおのれも、嫣寧を陥れた瓊祥も、憎たらしくて仕方がない。
「お可哀そうなにいさま。愛してくれる相手も、愛するはずだった相手も失ったあなたはもう、俺に愛されているしかないのですよ」
 血のように赫い丹唇が甘く囁く。
 頬に押しつけられるくちびるの熱にぞわりと皮膚が粟立ち、紗琰は反射的に身をよじった。
「はなせ……っ」
 出ない声をどうにか絞り出して拒否する。
 瓊祥がなにか言おうとした時、臥室の扉が勢いよくひらき、宦官が駆け込んできた。
「帝君、大変です! 京師に兵が押し寄せてきました!」
 ひざまずくなりそう述べた宦官は、嫣寧の死体に気づき、青褪めていた顔をいっそう青くする。
「う、右丞相様が戻ってこない間に、孝賢王殿下が峯珠帝君のことをひどく侮辱なさったのです。そうしたら、峯珠の大使だけでなく、左丞相と大司馬などほとんどの臣下たちが怒り出して。そのうえ、……っ」
「そのうえなんだ」
 生唾を飲み込んだ宦官に、瓊祥が苛々した口調で問う。
「た、太妃となられ、峯珠へお帰りになったはずの希月様が、なんと大使の従者に化けておられたのです。希月様は、孝賢王殿下が……他ならぬ帝君のお父君が、その、皇族の血を引いていないと仰って! そうして、孝賢王殿下の異母兄であらせられた、先々代の陛下を毒殺した咎を認めろと糾弾しはじめたのです。挙句の果てに、包太医が正庁へ引っ立てられ、毒殺について洗いざらい証言を――」
「それで、どうして京師に兵が押し寄せてくるのだ! もっと簡潔に話せ!」
 温太監が怒鳴りつける。
 足蹴にされた宦官は、びくびくしながら続けた。
「だ、大司馬が……っ、花大司馬が、兵権を取り戻していたのです! 孝賢王殿下の屋敷にあるはずの虎符こふが、いつの間にか花大司馬の手に渡っていたのです! それだけでなく、孝賢王殿下に従った兵士たちは皆捕らえられており、すでに軍部は大司馬や左丞相を支持する者たちに掌握されておりました……っ! そこに峯珠の兵が加わって、京師を……皇城を包囲しようとしているのです! 玉座を簒奪し、民を蹂躙した大逆人を捕えろと、市民まで集まってすごい騒ぎになっているのですよ!」
 最後はほとんど泣きわめくような声だった。
 温太監は嫣寧に突き刺していた剣を引き抜くと、他の宦官に急いで瓊祥の上衣を取ってこさせる。
「帝君、こやつの話が事実なのでしたら、すぐにここへも兵がやって来るでしょう。早くお逃げになってください」
 だが、慌てはじめた温太監に反し、瓊祥は可笑しそうに鼻を鳴らした。
「異族の権高男があれの罪を嗅ぎつけたか。峯珠の奴らは走狗を大量に送り込んでいるから、なにもかも暴かれるのは時間の問題だろうな。……あれが凌遅に処されるのはさぞ見物だろう」
 皇族殺しは誅九族。民に対して犯した罪の数を鑑みても、孝賢王は生きながらに肉を削がれる凌遅刑となるだろう。
 このまま瓊祥が逃げるにしても、追手からいつまで逃れられるか。どちらにせよ、足手まといにしかならない紗琰はこのまま捨て置かれるはずだ。
 延々と身體を貪られる日々からようやく解放されるのだと思うと喜ばしいが、返す返すも、こうなる前に叔父の正体に気づけなかったことが悔やまれる。
「悪事は天下にさらされ、咎人は然るべき罰を受ける」
 呟きは小さなものだったが、すぐ傍にいる瓊祥には届いたのだろう。顔をつかんで無理やりに目を合わせられたかと思うと、妖艶な美貌がほころぶ。
「にいさまの仰るとおりですね。ですが、玉座があなたのもとへ戻れば、また他の男たちがこの身に群がることになる。それを俺は望みません。にいさまにとっての最後の男は、俺でなければいけませんから」
「小瓊……」
「愛するにいさまを、誰にも渡しはしません。大丈夫、俺もあの男の最期を見届けたら、すぐにそちらへまいりますからね。黄泉路で待っていてください」
 言うや否や、瓊祥の指が紗琰の首にかかる。
 細くしなやかな、けれども確かに力強い男の手が、白い喉を絞めていった。
「ッ、か、ひゅ……っ」
 わずかに残った隙間さえ赦されないほど圧迫され、喘いだ喉からつぶれた悲鳴が漏れる。
 ただでさえ、倦んで弱っていた躰だ。嫣寧を助けることすらできなかったのだから、自分のために抵抗する力など残っているはずもなかった。瓊祥の手の甲を引っ搔くように動いていた指が、引き攣れた音を漏らしていた喉が、痙攣する。
 歪んだ視界が塗りつぶされていき、痛いほどの耳鳴りが脳を刺した。
 自分が目をつぶっているのか、ひらいているのかすらよくわからなくなってくる。
「――にいさま」
 瓊祥がなにか言った気がした。
 同時に、複数の足音や怒声、武器がぶつかり合う音が響いたようにも思ったけれど、紗琰の意識はもう、汚泥の中へ沈んでいた。
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