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第4話
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紗琰はけして嫣寧ひとりだけの番になることはできず、嫣寧もまた、正室として選ばれた時点で後宮を纏める覚悟はしているだろう。この場で側室を増やしてもよいかと赦しを乞うことは、嫣寧の覚悟と技量を疑うに等しい。
「紗琰様が番にと望む者でしたら、わたくしが拒むはずがございません」
嫣寧は甘やかすような笑みを浮かべ、紗琰を見つめていた。
やさしい手つきで頭を撫でられ、そっとこめかみにくちづけられる。
「……ただ、たまにはわたくしのことも忘れずに、愛してくださいましね」
揶揄いまじりに囁かれ、紗琰は肩をすくめる。お返しのように嫣寧の頬にくちびるを寄せれば、目の前の花容がやわらかく染まった。
「沈郎を忘れるだなんてありえません。あなただけは、私の特別なのですから」
「嬉しゅうございます」
嫣寧が面映ゆそうに笑声を漏らす。
紗琰は愛しさを込めて嫣寧の額にくちづけると、静かに席を立った。
さやめく花朶の合間からは、金衣鳥の囀りが聞こえてくる。
友人同士や知人同士で集まって桜を観賞していた令息たちは、紗琰が来たことに気づくとすぐさま秋波を送ってきた。それらを笑みを浮かべて躱しつつ、花びらが飾る方塼の小径を歩いていく。園林の奥へ進んだところで、ようやく桜樹の近くでたたずんでいる雨嫻を見つけた。
ぼんやりと花朶を仰ぎ、優婉嫺雅な美貌を翳らせている姿に苦い思いがこみあげてくる。じっと見つめていると、淑やかな解語之花は眼差しに気づいたのだろう。はっとしたふうに振り返った。
「っ、……琳雨嫻が、帝君にご挨拶いたします」
慌てた仕草で礼を取った雨嫻に、楽にするよう声をかける。
物柔らかな雰囲気は寵妃だった頃と変わらず、紗琰は無意識のうちに微苦笑をこぼした。
「おひとりで観賞を?」
「はい。他の皆様は、わたしの家よりも高貴なかたばかりで」
少しだけ自嘲を含んだ答えに、紗琰は軽く頷いた。
琳家はかつて秋官長たる大司寇を輩出するほどの権門だったが、その後は没落の一途をたどり、現当主である雨嫻の父も下級貴族の位にとどまっている。
茶宴に参加しているのはいずれも左右丞相や六官の各長たちに連なる権門勢家の令息たちであり、琳家のような旧臣でも、衰退した家門の出身者は見当たらない。母后は十代から三十代までの未婚の男児がいる天陽種の家門すべてに招待状を送っているはずだが、辞退した者がほとんどなのだろう。おそらく彼らは、旧家であることしか誇れぬくせにと嘲弄されることを恥じたのだ。
さりながら、琳家だけは雨嫻を参内させた。他の一族のように恥を恐れて辞退することは、琳家当主の矜持が赦さなかったのだろうと、今ならば思う。前世では雨嫻の入宮時に顔を合わせたことがあるが、独立不羈という言葉がよく似合う男だった。
雨嫻が紗琰に毒を盛っていたと知らされた時、父親から妃となれるよう厳しく育てられてきたと言っていたのを思い出す。衰退していく家門を立て直すためにも、どうしても息子である雨嫻を入宮させたかったのかもしれない。
琳家当主がそんな考えを起こしたのも頷ける。嫣寧や希月に負けず劣らず、雨嫻の美貌も傾国と謳われるに相応しいものだったからだ。
とはいえ、皇宮には美人など掃いて捨てるほどいる。前世の紗琰は、雨嫻を単なる種馬の一人としてしか見ていなかった。
前世を経て雨嫻の激情を知った今だからこそ、濡羽の髪も菖蒲色の瞳も美しく思える。
「妃嬪は家門の格だけで決まるものではありません。ご自身を卑下する必要はない」
「ぁ、……」
「それに余は、絢爛な花よりも楚々とした花のほうが好ましい」
手を伸ばし、雨嫻の髪に触れる。濡羽色の長髪にとまっていた桜の花びらを取ってやると、雨嫻はほんのりと玉容を染めた。
軽やかな風が花朶を揺らす。梢のさやめきにまぎれるように、紗琰は声を低くして囁いた。
「阿嫻」
唐突に愛称で呼ばれ、驚いたのだろう。雨嫻が目をまるくして紗琰を見つめる。
「必ずあなたを娶ります。だからなにがあっても、余を信じていてください」
東風に散らされた花びらが、名残惜しそうに地面へ落ちていく。
紗琰は風で乱れた雨嫻の髪を直してやりながら、目の前の男にだけ聞こえるように紡いだ。
「もしも瓊祥があなたを訪ねたら、うちひしがれたふりをして、科挙を受けるつもりだと言いなさい」
「っ、帝君……?」
「どうか、余の言うとおりにしてほしい」
混乱したようにこちらを見つめてくる雨嫻に、紗琰は首肯を促すように眼差しを搦める。それで察するものがあったのだろう。雨嫻が小さく頷いた。
「承知いたしました、帝君の仰るとおりにいたします」
「……ありがとう」
謝意とともに、ひと掬いした髪の束へくちびるを寄せる。
甘やかな桜花の香りがして、雨嫻の頬が今度こそ林檎のように真っ赤に染まった。
「紗琰様が番にと望む者でしたら、わたくしが拒むはずがございません」
嫣寧は甘やかすような笑みを浮かべ、紗琰を見つめていた。
やさしい手つきで頭を撫でられ、そっとこめかみにくちづけられる。
「……ただ、たまにはわたくしのことも忘れずに、愛してくださいましね」
揶揄いまじりに囁かれ、紗琰は肩をすくめる。お返しのように嫣寧の頬にくちびるを寄せれば、目の前の花容がやわらかく染まった。
「沈郎を忘れるだなんてありえません。あなただけは、私の特別なのですから」
「嬉しゅうございます」
嫣寧が面映ゆそうに笑声を漏らす。
紗琰は愛しさを込めて嫣寧の額にくちづけると、静かに席を立った。
さやめく花朶の合間からは、金衣鳥の囀りが聞こえてくる。
友人同士や知人同士で集まって桜を観賞していた令息たちは、紗琰が来たことに気づくとすぐさま秋波を送ってきた。それらを笑みを浮かべて躱しつつ、花びらが飾る方塼の小径を歩いていく。園林の奥へ進んだところで、ようやく桜樹の近くでたたずんでいる雨嫻を見つけた。
ぼんやりと花朶を仰ぎ、優婉嫺雅な美貌を翳らせている姿に苦い思いがこみあげてくる。じっと見つめていると、淑やかな解語之花は眼差しに気づいたのだろう。はっとしたふうに振り返った。
「っ、……琳雨嫻が、帝君にご挨拶いたします」
慌てた仕草で礼を取った雨嫻に、楽にするよう声をかける。
物柔らかな雰囲気は寵妃だった頃と変わらず、紗琰は無意識のうちに微苦笑をこぼした。
「おひとりで観賞を?」
「はい。他の皆様は、わたしの家よりも高貴なかたばかりで」
少しだけ自嘲を含んだ答えに、紗琰は軽く頷いた。
琳家はかつて秋官長たる大司寇を輩出するほどの権門だったが、その後は没落の一途をたどり、現当主である雨嫻の父も下級貴族の位にとどまっている。
茶宴に参加しているのはいずれも左右丞相や六官の各長たちに連なる権門勢家の令息たちであり、琳家のような旧臣でも、衰退した家門の出身者は見当たらない。母后は十代から三十代までの未婚の男児がいる天陽種の家門すべてに招待状を送っているはずだが、辞退した者がほとんどなのだろう。おそらく彼らは、旧家であることしか誇れぬくせにと嘲弄されることを恥じたのだ。
さりながら、琳家だけは雨嫻を参内させた。他の一族のように恥を恐れて辞退することは、琳家当主の矜持が赦さなかったのだろうと、今ならば思う。前世では雨嫻の入宮時に顔を合わせたことがあるが、独立不羈という言葉がよく似合う男だった。
雨嫻が紗琰に毒を盛っていたと知らされた時、父親から妃となれるよう厳しく育てられてきたと言っていたのを思い出す。衰退していく家門を立て直すためにも、どうしても息子である雨嫻を入宮させたかったのかもしれない。
琳家当主がそんな考えを起こしたのも頷ける。嫣寧や希月に負けず劣らず、雨嫻の美貌も傾国と謳われるに相応しいものだったからだ。
とはいえ、皇宮には美人など掃いて捨てるほどいる。前世の紗琰は、雨嫻を単なる種馬の一人としてしか見ていなかった。
前世を経て雨嫻の激情を知った今だからこそ、濡羽の髪も菖蒲色の瞳も美しく思える。
「妃嬪は家門の格だけで決まるものではありません。ご自身を卑下する必要はない」
「ぁ、……」
「それに余は、絢爛な花よりも楚々とした花のほうが好ましい」
手を伸ばし、雨嫻の髪に触れる。濡羽色の長髪にとまっていた桜の花びらを取ってやると、雨嫻はほんのりと玉容を染めた。
軽やかな風が花朶を揺らす。梢のさやめきにまぎれるように、紗琰は声を低くして囁いた。
「阿嫻」
唐突に愛称で呼ばれ、驚いたのだろう。雨嫻が目をまるくして紗琰を見つめる。
「必ずあなたを娶ります。だからなにがあっても、余を信じていてください」
東風に散らされた花びらが、名残惜しそうに地面へ落ちていく。
紗琰は風で乱れた雨嫻の髪を直してやりながら、目の前の男にだけ聞こえるように紡いだ。
「もしも瓊祥があなたを訪ねたら、うちひしがれたふりをして、科挙を受けるつもりだと言いなさい」
「っ、帝君……?」
「どうか、余の言うとおりにしてほしい」
混乱したようにこちらを見つめてくる雨嫻に、紗琰は首肯を促すように眼差しを搦める。それで察するものがあったのだろう。雨嫻が小さく頷いた。
「承知いたしました、帝君の仰るとおりにいたします」
「……ありがとう」
謝意とともに、ひと掬いした髪の束へくちびるを寄せる。
甘やかな桜花の香りがして、雨嫻の頬が今度こそ林檎のように真っ赤に染まった。
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