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第4話
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雨嫻ははやる鼓動を抑え、急いで遊廊を駆け戻る。そうして自室の前まで来ると、下女に身なりを直してもらった。おかしいところはないと言われたが、紗琰の前では少しでも美しくいたかったのだ。
わずかに乱れていた髪を整えてから、下女が室内に向かって声をかける。
扉がゆっくりとひらき、茶宴の時にも紗琰の傍に控えていた宦官が顔を出した。彼と下女は外で待機するようで、雨嫻が房室に入ると背後で扉が閉まってしまう。
(――帝君とふたりきり)
浮かんだ思考で頬が熱くなる。
ぎこちない足取りで衝立の奥へ向かうと、紗琰は羅漢牀にゆったりと腰を下ろしていた。
「帝君にご挨拶いたします」
声をかけて万福礼すれば、月洞窓の外を見つめていた紗琰がゆっくりと雨嫻を振り仰ぐ。
「急にお邪魔してしまったのは私なのですから、どうか緊張なさらないで。こちらへおかけに」
やわらかな口調で促され、雨嫻はおずおずと紗琰の隣に腰かけた。
傍に寄ったせいか、梔子の甘い香りがふんわりと漂ってくる。
「手の具合はいかがですか?」
紗琰は蛾眉をひそめ、心配そうに尋ねてくる。
雨嫻は寸の間なんのことかわからず、呆けてしまった。紗琰が手を伸ばし、確かめるように雨嫻の手に触れてくる。それでやっと、選秀花でのことを言われているのだと察した。
いたわるように手の甲を撫でられ、雨嫻は慌てて頷く。
「すぐに剣から手を離しましたので、大した怪我はしておりません」
「ですが、痛かったでしょう。よく効く軟膏を持ってきましたから、つけてあげましょうね」
「っ、……帝君」
紗琰は茶几に置いてあった小ぶりの軟膏壺の蓋をあけると、中身を指ですくい取り、雨嫻のてのひらに塗ってくれた。よい匂いのする軟膏はすぐに皮膚に馴染み、わずかに残っていた疼きを消し去っていく。
「帝君にお気遣いいただけるだけでも、身に余る幸福ですのに……。お手ずから薬を塗っていただくなど、畏れ多すぎてお礼の申しようもございません」
頬が熱を帯び、心臓が痛いほど脈打っていた。
恥じ入ってうつむいた雨嫻に、紗琰はすまなさそうに眉尻を下げる。
「そんなふうに言わないでください。選秀花ではあなたを選ばず、悲しませてしまったでしょう?」
どう返事をしてよいかわからず、雨嫻は口籠った。
剣術の審査では不可を得たものの、他の審査はすべて及第していた。
選秀花の原則では、一つでも不可があればそこで不合格となる。さりながら、審査の半数以上で不可とならない限り、帝君の裁量によって最終審査に残ることも可能だった。
もとより皇帝が妻を選ぶための試験である。その場には当然帝君も参加しているため、審査中に誰かを見初めないとも限らない。帝君の気を惹きさえすれば、審査の成績がどうであろうと関係ない、というのはあながち間違いでもないのである。
されど、紗琰は雨嫻を最終審査に残さなかった。だからこそ、雨嫻ははじめからおのれを選ぶつもりがなかったのだろうと判じたのだ。
「……なにかお考えあってのことだと、わかっておりますから」
悲しかったのは事実だが、それを口にしてしまえば、紗琰を信じていなかったと自白するようなものだ。
雨嫻は紗琰の気分を害してしまいたくなかった。
だから懸命に笑顔を浮かべてみせたのだけれど、紗琰は困ったふうに溜息をついた。
重なっていた手を強く握られ、雨嫻は思いがけない反応にびくりと肩が跳ねる。目をまるくして紗琰を見れば、どこか寂しそうに細められた金眼と視線が絡んだ。
「あなたを不安にさせたのは私なのですから、本当のことを言ってくれてかまわないのですよ」
「っ、そんな……」
「阿嫻」
不意に愛称で呼ばれて、雨嫻は息を呑む。
いつの間にか、すぐ近くに紗琰の顔があった。額が重なり、吐息が触れるほどの距離で見つめられる。
「今日は、あなたが安心できるようなものをあげましょうね」
「ぁ、っ……」
それはなにかと、問うよりも早くくちづけられた。やわらかなくちびるが雨嫻のくちびるを食み、ひらいて、とねだるようについばんでくる。
恋しいひとを拒めるはずもなく、雨嫻が両唇をそっとひらくと、待ちかねたふうに深くくちづけられた。
わずかに乱れていた髪を整えてから、下女が室内に向かって声をかける。
扉がゆっくりとひらき、茶宴の時にも紗琰の傍に控えていた宦官が顔を出した。彼と下女は外で待機するようで、雨嫻が房室に入ると背後で扉が閉まってしまう。
(――帝君とふたりきり)
浮かんだ思考で頬が熱くなる。
ぎこちない足取りで衝立の奥へ向かうと、紗琰は羅漢牀にゆったりと腰を下ろしていた。
「帝君にご挨拶いたします」
声をかけて万福礼すれば、月洞窓の外を見つめていた紗琰がゆっくりと雨嫻を振り仰ぐ。
「急にお邪魔してしまったのは私なのですから、どうか緊張なさらないで。こちらへおかけに」
やわらかな口調で促され、雨嫻はおずおずと紗琰の隣に腰かけた。
傍に寄ったせいか、梔子の甘い香りがふんわりと漂ってくる。
「手の具合はいかがですか?」
紗琰は蛾眉をひそめ、心配そうに尋ねてくる。
雨嫻は寸の間なんのことかわからず、呆けてしまった。紗琰が手を伸ばし、確かめるように雨嫻の手に触れてくる。それでやっと、選秀花でのことを言われているのだと察した。
いたわるように手の甲を撫でられ、雨嫻は慌てて頷く。
「すぐに剣から手を離しましたので、大した怪我はしておりません」
「ですが、痛かったでしょう。よく効く軟膏を持ってきましたから、つけてあげましょうね」
「っ、……帝君」
紗琰は茶几に置いてあった小ぶりの軟膏壺の蓋をあけると、中身を指ですくい取り、雨嫻のてのひらに塗ってくれた。よい匂いのする軟膏はすぐに皮膚に馴染み、わずかに残っていた疼きを消し去っていく。
「帝君にお気遣いいただけるだけでも、身に余る幸福ですのに……。お手ずから薬を塗っていただくなど、畏れ多すぎてお礼の申しようもございません」
頬が熱を帯び、心臓が痛いほど脈打っていた。
恥じ入ってうつむいた雨嫻に、紗琰はすまなさそうに眉尻を下げる。
「そんなふうに言わないでください。選秀花ではあなたを選ばず、悲しませてしまったでしょう?」
どう返事をしてよいかわからず、雨嫻は口籠った。
剣術の審査では不可を得たものの、他の審査はすべて及第していた。
選秀花の原則では、一つでも不可があればそこで不合格となる。さりながら、審査の半数以上で不可とならない限り、帝君の裁量によって最終審査に残ることも可能だった。
もとより皇帝が妻を選ぶための試験である。その場には当然帝君も参加しているため、審査中に誰かを見初めないとも限らない。帝君の気を惹きさえすれば、審査の成績がどうであろうと関係ない、というのはあながち間違いでもないのである。
されど、紗琰は雨嫻を最終審査に残さなかった。だからこそ、雨嫻ははじめからおのれを選ぶつもりがなかったのだろうと判じたのだ。
「……なにかお考えあってのことだと、わかっておりますから」
悲しかったのは事実だが、それを口にしてしまえば、紗琰を信じていなかったと自白するようなものだ。
雨嫻は紗琰の気分を害してしまいたくなかった。
だから懸命に笑顔を浮かべてみせたのだけれど、紗琰は困ったふうに溜息をついた。
重なっていた手を強く握られ、雨嫻は思いがけない反応にびくりと肩が跳ねる。目をまるくして紗琰を見れば、どこか寂しそうに細められた金眼と視線が絡んだ。
「あなたを不安にさせたのは私なのですから、本当のことを言ってくれてかまわないのですよ」
「っ、そんな……」
「阿嫻」
不意に愛称で呼ばれて、雨嫻は息を呑む。
いつの間にか、すぐ近くに紗琰の顔があった。額が重なり、吐息が触れるほどの距離で見つめられる。
「今日は、あなたが安心できるようなものをあげましょうね」
「ぁ、っ……」
それはなにかと、問うよりも早くくちづけられた。やわらかなくちびるが雨嫻のくちびるを食み、ひらいて、とねだるようについばんでくる。
恋しいひとを拒めるはずもなく、雨嫻が両唇をそっとひらくと、待ちかねたふうに深くくちづけられた。
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