7 / 47
第五話 伝わらない気持ちと理解したい気持ち
しおりを挟む
「聖夜、いつまで寝てるの? 朝だよ。いい天気だよ」
とびきり明るい声と、窓からの陽射しに刺激されて、聖夜は目を覚ました。
「え、あれ?」
視界に飛び込んできたのは葉月の顔だ。その距離十センチという近さだ。
聖夜は部屋をぐるりと見まわし、状況を把握する。
どうやらベッドの横におかれた椅子に座り、そのまま眠ったようだ。だがいつ眠りについたのか覚えていない。
どこまでが現実で、どこからが夢なのか。昨夜のことを思い出そうとしても、頭に霧がかかったようではっきりしない。
額に手を当てて考えていると、葉月が聖夜の目をじっと覗き込んできた。
「ずいぶんすてきな夢を見てたようね」
にらむような視線に加えて、なぜか口調が厳しい。理由が思い当たらない聖夜は、どういう反応をしたらよいのか解らないまま、葉月を見返す。
「ルカってだあれ? 女の人じゃないの?」
葉月は両手を腰にあてて、わずかに口を尖らせている。やきもちを焼いているのが解ったとたん、聖夜はつい吹き出してしまった。
「ねえってば。笑ってないで答えてよ」
「ごめん。流香は母さんの名前だよ」
頬を少しふくらませた葉月に、聖夜は微笑みながら答えた。
「お母さんって、たしか、聖夜が小さいころに死んだっていう?」
うなずく聖夜を見て葉月は顔をくもらせ、申し訳なさそうに窓のそばに移動する。
「ごめんなさい……」
「謝ることないよ。気にしないで」
聖夜にしてみれば、軽いジェラシーを感じてもらえたことが嬉しかった。
朝日を背にして窓際に立つ葉月を、聖夜は目を細めて見つめた。いつもはポニーテールに束ねた髪がほどかれて、葉月の細い肩にかかっている。
「夕べは遅い時間までおしゃべりにつきあわせてごめんね。すっかり勉強の邪魔しちゃった」
「おしゃべり?」
聖夜の記憶には残っていない。昨夜はなにをしていたのだろう。
テーブルに目をやると、持ってきたサンドイッチを食べた跡が残っている。いつ一緒に食事をしたのだろう。あの夢の前か?
あいまいなことだらけで、なにがどうなっているのか解らない。
あごに手を当てて考えこんでいると、葉月はまた不機嫌そうに聖夜をにらむ。
「忘れたの? 受験終わったら、美奈子たちも誘って卒業旅行しようって約束したじゃない」
「いや、覚えてる。覚えてるよ」
聖夜は慌てて葉月に会話をあわせた。だが、そのような約束をした覚えがない。
酒を飲みすぎると記憶が欠落するというが、今がその状態に近いのだろう。だが酔うどころかアルコール一滴すら口にしていない。
狐につままれた気がする。
不規則な生活が原因だろうか。休養が必要なのは自分の方かもしれない。
腕組みして考えている聖夜の横で、葉月は三つ編みを始めた。ポニーテールと違って、少し幼げに見える。
手を動かしながら、葉月はつぶやくように言った。
「早く良くなればいいのに。美奈子のいない卒業旅行なんてつまらない」
ここ一年は、なにをするのも四人が一緒だった。卒業旅行は、そんな仲間とともにすごす最後のチャンスかもしれない。
それぞれの夢を選んで進む四人の道は、今後も重なることがあるだろうか。
「孝則くんと交替したら、どこかでモーニング食べてかない? でね、少しショッピングにつきあってもらえたらうれしいんだけどな」
「いいよ。午前中だけになるけど、葉月のために時間をあけるよ」
「本当? うれしい」
無邪気に微笑む葉月は、いつもよりずっとかわいく見えた。思わず抱き寄せてすばやくキスをすると、葉月は聖夜の肩に腕をまわし、身体を密着してくる。
予想もしなかった行動に驚いた瞬間、ドアをノックする音がした。閉じた目を開き横目で見ると、孝則が頬を赤くし、扉に寄りかかるようにして立っていた。
「すまない。覗き見するつもりはなかったんだけど、ドアが開いてたから……」
ふたりは反発する磁石のように勢いよく身体を離した。
「あ、あたし、売店に行ってくる」
葉月は真っ赤になり、孝則の顔も見ないで病室を飛び出した。
「ごめん、ここでやることじゃなかったね」
「なあに、そんなこと気にすんなって」
バツの悪そうに謝る聖夜の肩に腕をまわし、孝則は耳元で問いかけた。
「それより聖夜、ゆうべ葉月と寝たのか?」
とっさになんのことか理解できなかったが、言わんとすることが解ったとたん、
「な……」
今度は聖夜が真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと。葉月とはまだ、キスだけ、だよ」
「じゃあ、首筋のキスマークは? 動かぬ証拠に見えっけどさ」
孝則は聖夜を鏡の前に立たせた。
「あっ」
聖夜の首筋に、赤い痣が残っている。強く吸われたときにできるような痕だ。
キスマークと言われても反論できない。
夢の一部がおぼろげによみがえる。
母に似た少女が出てきて、聖夜の首筋に触れた。赤い痣はちょうどそのあたりに残っている。
「あれは夢じゃなかったってこと?」
聖夜がだれに言うでもなくつぶやくと、
「夢? ああ、そうかい。夢みたいによかったってことか」
ヒューと口笛を吹き、孝則がからかう。
「ち、違うって。誤解だよ」
「照れんなって。クラスでも公認のカップルなのに、今さら無理して隠すことねえだろ」
と言うと孝則は言葉を切り、廊下に目をやった。外にだれもいないことを確認すると、聖夜の耳元に口を近づけ、小声で告げる。
「実はおれと美奈子も……」
「ええっ? いつのまに?」
病室から響く聖夜の大声に、通りすがりの看護婦が怪訝そうに中を覗いた。孝則は慌てて聖夜の口をふさぐ。
「ごめん。つい」
謝る聖夜を横に、孝則はベッドに横たわる美奈子を見つめた。伏せられた瞳からは、笑みが消えている。
「事件の前の日だよ。卒業後のことを話していたら、急に黙っちまって、とうとう泣きだしたんだ」
美奈子は涙の理由を語ろうとしなかった。でも孝則には解っていた。
「不安を消して、思いを伝えたかった。だからおれは……」
孝則は眠っている美奈子の頬にそっと触れる。
「でも美奈子の不安は消えなかった。今が幸せだから、今のままでいたいって言うんだ」
——今が幸せだから……。
孝則たちだけの問題ではなかった。
高校を卒業したら聖夜も葉月とは離れなければならない。ふたりの少女は、そのことで互いをなぐさめあっていたのだろう。
「それが元で喧嘩になって、美奈子は店を飛び出した。その結果がこうさ」
孝則はひざまずき、美奈子の頬に顔を寄せた。
「初めての相手だぞ。好きでもない女を抱けるわけがないだろ。だけど美奈子には、解ってもらえなかったんだ」
孝則の肩が小刻みに震える。聖夜よりも体格がいいのに、ずっと小さく見えた。
「気持ちがつながっていれば、距離なんて関係ない。でも美奈子にはおれの思いが伝わってないんだ。もしこのまま目覚めなかったら、どうすればいいんだ?」
「美奈ちゃんは解ってるよ。孝則の本当の気持ちが」
聖夜は軽く孝則の肩をたたいた。今はなにを言ってもなぐさめにならないだろう。それでも聖夜は、言葉をかけずにはいられなかった。
病室を出て待合室に行くと、葉月がいすに座ってテレビを見ていた。手元には缶コーヒーが三本ある。近づく聖夜に気づき、顔を上げた。
「孝則くん、大丈夫?」
「うん、多分ね」
葉月の隣に座りながら、聖夜は続けた。
「美奈ちゃん、早く目を覚ますといいね。そしたら孝則も元気になって、また前のようになにもかもうまくいくだろうな」
「そうね」
葉月は聖夜から視線をはずし、弱々しくうなずいた。聖夜の胸を、鈍い痛みが走り抜ける。
「葉月はぼくと離れてしまうのが、つらくない?」
葉月は一度聖夜の目を見てなにかを言いかけたが、視線を足元に落とし、口をつぐんだ。
テレビのワイドショーが、「ヴァンパイア殺人事件」と名づけた猟奇事件の続報を伝える。
一週間たった今も新たな情報が見つからないこと。唯一の目撃者は意識不明であること。世間の関心が高いわりには、捜査が進んでいないこと。それらの苛立ちをなにかにぶつけるように報道していた。
「美奈子は……」
つぶやくような声だった。
「孝則くんの気持ちが離れるんじゃないかって不安がってた。本当に彼が好きだから」
「葉月はどうなの?」
「あたしはね……」
葉月は窓の外に視線を向ける。
「美奈子の気持ちは痛いほど解る。でもね、あたしは物理的な距離が、心の距離になるとは思ってないの」
視線を聖夜に戻し、葉月はにっこりと微笑んだ。
「大昔じゃないのよ。声が聞きたければ電話がある。会いたくなったら、新幹線でも飛行機でも使えばすぐにでも会える。ネットを使えばみんなとチャットできるし、顔を見ながらだって話せるのよ。
今どき遠距離恋愛くらい、なんてことないんだから。そうでしょ?」
意外にも元気な姿に、聖夜は少し拍子抜けした。葉月は葉月で気持ちの整理をつけているようだ。ただ本音を言うと、もう少し寂しがってほしかった。
小さなため息を吐いたあとで、聖夜は窓の外を見る。
冬の空が広がっている。灰色の雲が立ちこめ、青空は途切れ途切れにしか見えない。
今年ももうじき終わる。時間の流れを拒否することはできない。流れる季節はすべてのものに等しく訪れる。
そして春が来たとき、四人は離ればなれに歩き始める。それぞれの未来に向かって。
解って選んだ道だったが、今だけは感傷的になるのを抑えられそうにない。
聖夜とて幸せな時間を手放したくなかった。
でも、いつまでもここにはいられない。雛が巣立ちのときを迎えるように、自分の翼で羽ばたかなくてはならない。そのときはもう目の前に迫っている。
テレビの画面がクリスマスにちなんだCMを流していた。その日聖夜は十八歳になる。
時間の流れを拒否できないのは、聖夜も同じだった。
* * *
時間が止まればいい。幸せな今のまま、ときが止まればいい。
それが願いだった。それが望みだった。ときの流れを拒否できないと解っていても、祈らずにはいられなかった。
そんな少女に、彼は囁きかけた。
——夜の世界に来るがいい……。
そこでは時間は流れない。
人々はいつまでも今を保ち続けている。幸せだったときのままで。
——もしも望むなら、おまえを夜の住人にしよう。そして、永遠の命と若さを約束しよう。その赤き血と引き替えに……。
耳元でだれかの囁きが聞こえた。それに刺激された美奈子は、真夜中過ぎに目を覚ました。
病室の灯りは消えている。隣のベッドに目をやると、孝則が静かな寝息をたてて眠っている。
美奈子は無表情のままで、ゆっくりと起き上がり、静かにベッドから出た。
冬の凍えた空気が、薄いネグリジェだけをまとう身体を刺す。それでも行かなければならない。
——夜の世界に来るがいい……。
頭の中で声が響いた。闇が美奈子を招待する。
——早く来るがいい。迷うことなどないのだから。
美奈子は扉を開けて廊下に出た。
病院は寝静まっている。非常灯やナースステーションの灯りすら消えて、すべてが闇に包まれていた。
真っ暗な廊下を、美奈子は進んだ。
声に導かれるように。
闇の中から響いてくる、甘く囁く声に——。
美奈子は夜の中に姿を消した。
とびきり明るい声と、窓からの陽射しに刺激されて、聖夜は目を覚ました。
「え、あれ?」
視界に飛び込んできたのは葉月の顔だ。その距離十センチという近さだ。
聖夜は部屋をぐるりと見まわし、状況を把握する。
どうやらベッドの横におかれた椅子に座り、そのまま眠ったようだ。だがいつ眠りについたのか覚えていない。
どこまでが現実で、どこからが夢なのか。昨夜のことを思い出そうとしても、頭に霧がかかったようではっきりしない。
額に手を当てて考えていると、葉月が聖夜の目をじっと覗き込んできた。
「ずいぶんすてきな夢を見てたようね」
にらむような視線に加えて、なぜか口調が厳しい。理由が思い当たらない聖夜は、どういう反応をしたらよいのか解らないまま、葉月を見返す。
「ルカってだあれ? 女の人じゃないの?」
葉月は両手を腰にあてて、わずかに口を尖らせている。やきもちを焼いているのが解ったとたん、聖夜はつい吹き出してしまった。
「ねえってば。笑ってないで答えてよ」
「ごめん。流香は母さんの名前だよ」
頬を少しふくらませた葉月に、聖夜は微笑みながら答えた。
「お母さんって、たしか、聖夜が小さいころに死んだっていう?」
うなずく聖夜を見て葉月は顔をくもらせ、申し訳なさそうに窓のそばに移動する。
「ごめんなさい……」
「謝ることないよ。気にしないで」
聖夜にしてみれば、軽いジェラシーを感じてもらえたことが嬉しかった。
朝日を背にして窓際に立つ葉月を、聖夜は目を細めて見つめた。いつもはポニーテールに束ねた髪がほどかれて、葉月の細い肩にかかっている。
「夕べは遅い時間までおしゃべりにつきあわせてごめんね。すっかり勉強の邪魔しちゃった」
「おしゃべり?」
聖夜の記憶には残っていない。昨夜はなにをしていたのだろう。
テーブルに目をやると、持ってきたサンドイッチを食べた跡が残っている。いつ一緒に食事をしたのだろう。あの夢の前か?
あいまいなことだらけで、なにがどうなっているのか解らない。
あごに手を当てて考えこんでいると、葉月はまた不機嫌そうに聖夜をにらむ。
「忘れたの? 受験終わったら、美奈子たちも誘って卒業旅行しようって約束したじゃない」
「いや、覚えてる。覚えてるよ」
聖夜は慌てて葉月に会話をあわせた。だが、そのような約束をした覚えがない。
酒を飲みすぎると記憶が欠落するというが、今がその状態に近いのだろう。だが酔うどころかアルコール一滴すら口にしていない。
狐につままれた気がする。
不規則な生活が原因だろうか。休養が必要なのは自分の方かもしれない。
腕組みして考えている聖夜の横で、葉月は三つ編みを始めた。ポニーテールと違って、少し幼げに見える。
手を動かしながら、葉月はつぶやくように言った。
「早く良くなればいいのに。美奈子のいない卒業旅行なんてつまらない」
ここ一年は、なにをするのも四人が一緒だった。卒業旅行は、そんな仲間とともにすごす最後のチャンスかもしれない。
それぞれの夢を選んで進む四人の道は、今後も重なることがあるだろうか。
「孝則くんと交替したら、どこかでモーニング食べてかない? でね、少しショッピングにつきあってもらえたらうれしいんだけどな」
「いいよ。午前中だけになるけど、葉月のために時間をあけるよ」
「本当? うれしい」
無邪気に微笑む葉月は、いつもよりずっとかわいく見えた。思わず抱き寄せてすばやくキスをすると、葉月は聖夜の肩に腕をまわし、身体を密着してくる。
予想もしなかった行動に驚いた瞬間、ドアをノックする音がした。閉じた目を開き横目で見ると、孝則が頬を赤くし、扉に寄りかかるようにして立っていた。
「すまない。覗き見するつもりはなかったんだけど、ドアが開いてたから……」
ふたりは反発する磁石のように勢いよく身体を離した。
「あ、あたし、売店に行ってくる」
葉月は真っ赤になり、孝則の顔も見ないで病室を飛び出した。
「ごめん、ここでやることじゃなかったね」
「なあに、そんなこと気にすんなって」
バツの悪そうに謝る聖夜の肩に腕をまわし、孝則は耳元で問いかけた。
「それより聖夜、ゆうべ葉月と寝たのか?」
とっさになんのことか理解できなかったが、言わんとすることが解ったとたん、
「な……」
今度は聖夜が真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと。葉月とはまだ、キスだけ、だよ」
「じゃあ、首筋のキスマークは? 動かぬ証拠に見えっけどさ」
孝則は聖夜を鏡の前に立たせた。
「あっ」
聖夜の首筋に、赤い痣が残っている。強く吸われたときにできるような痕だ。
キスマークと言われても反論できない。
夢の一部がおぼろげによみがえる。
母に似た少女が出てきて、聖夜の首筋に触れた。赤い痣はちょうどそのあたりに残っている。
「あれは夢じゃなかったってこと?」
聖夜がだれに言うでもなくつぶやくと、
「夢? ああ、そうかい。夢みたいによかったってことか」
ヒューと口笛を吹き、孝則がからかう。
「ち、違うって。誤解だよ」
「照れんなって。クラスでも公認のカップルなのに、今さら無理して隠すことねえだろ」
と言うと孝則は言葉を切り、廊下に目をやった。外にだれもいないことを確認すると、聖夜の耳元に口を近づけ、小声で告げる。
「実はおれと美奈子も……」
「ええっ? いつのまに?」
病室から響く聖夜の大声に、通りすがりの看護婦が怪訝そうに中を覗いた。孝則は慌てて聖夜の口をふさぐ。
「ごめん。つい」
謝る聖夜を横に、孝則はベッドに横たわる美奈子を見つめた。伏せられた瞳からは、笑みが消えている。
「事件の前の日だよ。卒業後のことを話していたら、急に黙っちまって、とうとう泣きだしたんだ」
美奈子は涙の理由を語ろうとしなかった。でも孝則には解っていた。
「不安を消して、思いを伝えたかった。だからおれは……」
孝則は眠っている美奈子の頬にそっと触れる。
「でも美奈子の不安は消えなかった。今が幸せだから、今のままでいたいって言うんだ」
——今が幸せだから……。
孝則たちだけの問題ではなかった。
高校を卒業したら聖夜も葉月とは離れなければならない。ふたりの少女は、そのことで互いをなぐさめあっていたのだろう。
「それが元で喧嘩になって、美奈子は店を飛び出した。その結果がこうさ」
孝則はひざまずき、美奈子の頬に顔を寄せた。
「初めての相手だぞ。好きでもない女を抱けるわけがないだろ。だけど美奈子には、解ってもらえなかったんだ」
孝則の肩が小刻みに震える。聖夜よりも体格がいいのに、ずっと小さく見えた。
「気持ちがつながっていれば、距離なんて関係ない。でも美奈子にはおれの思いが伝わってないんだ。もしこのまま目覚めなかったら、どうすればいいんだ?」
「美奈ちゃんは解ってるよ。孝則の本当の気持ちが」
聖夜は軽く孝則の肩をたたいた。今はなにを言ってもなぐさめにならないだろう。それでも聖夜は、言葉をかけずにはいられなかった。
病室を出て待合室に行くと、葉月がいすに座ってテレビを見ていた。手元には缶コーヒーが三本ある。近づく聖夜に気づき、顔を上げた。
「孝則くん、大丈夫?」
「うん、多分ね」
葉月の隣に座りながら、聖夜は続けた。
「美奈ちゃん、早く目を覚ますといいね。そしたら孝則も元気になって、また前のようになにもかもうまくいくだろうな」
「そうね」
葉月は聖夜から視線をはずし、弱々しくうなずいた。聖夜の胸を、鈍い痛みが走り抜ける。
「葉月はぼくと離れてしまうのが、つらくない?」
葉月は一度聖夜の目を見てなにかを言いかけたが、視線を足元に落とし、口をつぐんだ。
テレビのワイドショーが、「ヴァンパイア殺人事件」と名づけた猟奇事件の続報を伝える。
一週間たった今も新たな情報が見つからないこと。唯一の目撃者は意識不明であること。世間の関心が高いわりには、捜査が進んでいないこと。それらの苛立ちをなにかにぶつけるように報道していた。
「美奈子は……」
つぶやくような声だった。
「孝則くんの気持ちが離れるんじゃないかって不安がってた。本当に彼が好きだから」
「葉月はどうなの?」
「あたしはね……」
葉月は窓の外に視線を向ける。
「美奈子の気持ちは痛いほど解る。でもね、あたしは物理的な距離が、心の距離になるとは思ってないの」
視線を聖夜に戻し、葉月はにっこりと微笑んだ。
「大昔じゃないのよ。声が聞きたければ電話がある。会いたくなったら、新幹線でも飛行機でも使えばすぐにでも会える。ネットを使えばみんなとチャットできるし、顔を見ながらだって話せるのよ。
今どき遠距離恋愛くらい、なんてことないんだから。そうでしょ?」
意外にも元気な姿に、聖夜は少し拍子抜けした。葉月は葉月で気持ちの整理をつけているようだ。ただ本音を言うと、もう少し寂しがってほしかった。
小さなため息を吐いたあとで、聖夜は窓の外を見る。
冬の空が広がっている。灰色の雲が立ちこめ、青空は途切れ途切れにしか見えない。
今年ももうじき終わる。時間の流れを拒否することはできない。流れる季節はすべてのものに等しく訪れる。
そして春が来たとき、四人は離ればなれに歩き始める。それぞれの未来に向かって。
解って選んだ道だったが、今だけは感傷的になるのを抑えられそうにない。
聖夜とて幸せな時間を手放したくなかった。
でも、いつまでもここにはいられない。雛が巣立ちのときを迎えるように、自分の翼で羽ばたかなくてはならない。そのときはもう目の前に迫っている。
テレビの画面がクリスマスにちなんだCMを流していた。その日聖夜は十八歳になる。
時間の流れを拒否できないのは、聖夜も同じだった。
* * *
時間が止まればいい。幸せな今のまま、ときが止まればいい。
それが願いだった。それが望みだった。ときの流れを拒否できないと解っていても、祈らずにはいられなかった。
そんな少女に、彼は囁きかけた。
——夜の世界に来るがいい……。
そこでは時間は流れない。
人々はいつまでも今を保ち続けている。幸せだったときのままで。
——もしも望むなら、おまえを夜の住人にしよう。そして、永遠の命と若さを約束しよう。その赤き血と引き替えに……。
耳元でだれかの囁きが聞こえた。それに刺激された美奈子は、真夜中過ぎに目を覚ました。
病室の灯りは消えている。隣のベッドに目をやると、孝則が静かな寝息をたてて眠っている。
美奈子は無表情のままで、ゆっくりと起き上がり、静かにベッドから出た。
冬の凍えた空気が、薄いネグリジェだけをまとう身体を刺す。それでも行かなければならない。
——夜の世界に来るがいい……。
頭の中で声が響いた。闇が美奈子を招待する。
——早く来るがいい。迷うことなどないのだから。
美奈子は扉を開けて廊下に出た。
病院は寝静まっている。非常灯やナースステーションの灯りすら消えて、すべてが闇に包まれていた。
真っ暗な廊下を、美奈子は進んだ。
声に導かれるように。
闇の中から響いてくる、甘く囁く声に——。
美奈子は夜の中に姿を消した。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
罰ゲームから始まった、五人のヒロインと僕の隣の物語
ノン・タロー
恋愛
高校2年の夏……友達同士で行った小テストの点を競う勝負に負けた僕、御堂 彼方(みどう かなた)は、罰ゲームとしてクラスで人気のある女子・風原 亜希(かざはら あき)に告白する。
だが亜希は、彼方が特に好みでもなく、それをあっさりと振る。
それで終わるはずだった――なのに。
ひょんな事情で、彼方は亜希と共に"同居”することに。
さらに新しく出来た、甘えん坊な義妹・由奈(ゆな)。
そして教室では静かに恋を仕掛けてくる寡黙なクラス委員長の柊 澪(ひいらぎ みお)、特に接点の無かった早乙女 瀬玲奈(さおとめ せれな)、おまけに生徒会長の如月(きさらぎ)先輩まで現れて、彼方の周囲は急速に騒がしくなっていく。
由奈は「お兄ちゃん!」と懐き、澪は「一緒に帰らない……?」と静かに距離を詰める。
一方の瀬玲奈は友達感覚で、如月先輩は不器用ながらも接してくる。
そんな中、亜希は「別に好きじゃないし」と言いながら、彼方が誰かと仲良くするたびに心がざわついていく。
罰ゲームから始まった関係は、日常の中で少しずつ形を変えていく。
ツンデレな同居人、甘えたがりな義妹、寡黙な同クラ女子、恋愛に不器用な生徒会長、ギャル気質な同クラ女子……。
そして、無自覚に優しい彼方が、彼女たちの心を少しずつほどいていく。
これは、恋と居場所と感情の距離をめぐる、ちょっと不器用で、でも確かな青春の物語。
皆さんは呪われました
禰津エソラ
ホラー
あなたは呪いたい相手はいますか?
お勧めの呪いがありますよ。
効果は絶大です。
ぜひ、試してみてください……
その呪いの因果は果てしなく絡みつく。呪いは誰のものになるのか。
最後に残るのは誰だ……
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*本編完結しました
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる