エウメネス伝―プルタルコス対比列伝より―

N2

文字の大きさ
10 / 11

ガビエネの戦い

しおりを挟む
時間かせぎが功を奏して、エウメネスの方の軍勢は大部分が無事集結していた。兵たちはこぞって彼の知謀を称え、総司令官として采配をふるってくれるよう頼んだ。銀盾隊の将アンティゲネスとテウタモスはこれを耳にするや激しい怒りと嫉妬に狂わされ、ひそかに太守や将軍を呼んでエウメネスの命を狙う計画を巡らし、いつ、いかにして暗殺すべきか謀議に及んだ。

指揮官たちの出した結論は、目前の戦ではエウメネスを利用できるだけ利用し、戦闘が済みしだい直ちに彼を除こうというものだった。ところが戦象隊の隊長エウダモスとパイディモスがこの計画をエウメネスに漏らしてしまった。むろん好意や親切心ではなく、貸し付けた大金を失うことを恐れたためである。

エウメネスはふたりを褒めて下がらせると幕営に戻り、慨嘆がいたんして左右に言った。
「これでは野獣の闊歩かっぽするなかで暮らしているのと変わりない」
彼は遺言状をしたため、書簡のたぐいを破って火にべた。自らの死後、そこに書かれた機密のために差出人らが中傷にさらされ詮議せんぎに掛けられることのないように――


文書の破却が済んだあと、幕営ではしばし討議が繰り返された。味方が信用ならぬ以上、ここは一旦引いて勝利を敵にれてやろうか、そしてメディア、アルメニアを抜けカッパドキアを再占領すべきではないか。周囲にひとのいる間は決断できなかったが、彼は目まぐるしく動く運命のなかで磨かれてきた己の将才と知恵を総動員して思案したあげく、ついにとどまって闘うことを選んだ。

そこで改めて陣立てを整え、中でもギリシア人と蛮族から成る傭兵部隊を鼓舞しに出かけたのだが、かえってマケドニア歩兵や銀盾隊の面々から「敵は我々が一蹴してやろうから心配はいらない」などと励まされることになった。

この銀盾隊はフィリッポス、アレクサンドロスの大王二代につかえた最古参の戦士である。不敗神話を築きあげてきた熟達のエリート部隊で、大多数がよわい七十を越え、六十歳を下回る者はひとりもいなかったという。

「愚か者ども、悪童めら、父親に槍を向けているのがわからんか」彼らはこう罵りざまアンティゴノスの部隊に襲いかかり、その密集陣をただの一撃で粉砕してしまった。銀盾隊を押し留められる者はなく、敵はことごとくその場で殺戮されていった。

この時点でアンティゴノスの歩兵は完敗に近かったが、逆に騎兵隊では優勢を占めた。ペウケスタスの惰弱で緩慢な采配のすきをついて、相手の輜重しちょうをすべて奪うことに成功したためである。

彼は危機にひんしても冷静さを失わない男であったが、ここでは何より地の利が味方した。戦場になった平原は広大で土壌は柔らかく、一帯は塩分を含んだ細かい砂が浅く堆積していた。大勢の人馬が疾駆すると乾燥した砂は石灰のように舞い上がってあたりは真っ白、煙か霧かとばかり兵士の視界をさえぎった。アンティゴノスは覚られることなく回り込んで、ゆうゆう敵の後方部隊を手中に収めたのである。


戦局が落ち着くと、まもなくテウタモスは軍使を送って輜重隊を返してくれるよう求めた。そこでアンティゴノスが返還にとどまらず様々の利益をちらつかせると、おぞましいことに銀盾隊はエウメネスを生きたまま敵に譲り渡す陰謀をくわだてたのである。

彼らはエウメネスに疑念を抱かせぬために、ある者は奪われた財物について不満を述べ、ある者は「勝利は疑いない」などと言って勇気づけ、さらには他の将軍の不手際をなじってみせる者さえいた。そうして十分近づいてから突然彼に襲いかかり、剣を取り上げると腰帯で両手を縛りあげた。

アンティゴノスからはニカノルという男が身柄を受け取りにつかわされて来たが、兵士たちの間を通って引きたてられてゆくとき、エウメネスは彼に願い出た。「時間をくれ、マケドニア人に言っておきたいことがある。断じて命乞いなどしない。他ならぬ彼ら自身の今後にかかわることなのだ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

影武者の天下盗り

井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」 百姓の男が“信長”を演じ続けた。 やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。 貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。 戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。 炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。 家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。 偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。 「俺が、信長だ」 虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。 時は戦国。 貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。 そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。 その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。 歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。 (このドラマは史実を基にしたフィクションです)

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

処理中です...