ピュロス伝ープルターク英雄伝よりー

N2

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10.アスクルムの戦い

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さて、その後ファブリキウスが執政官コンスルに就任すると、彼宛ての書簡を携えてローマの陣営をたずねる者があった。送り主はピュロスの侍医で、「危険を冒すことなく戦を終える方法がある。相応の報酬をもらえるなら王を毒殺してみせよう」などと提案してきた。
 
しかしファブリキウスは書簡を読むなりこの男の卑怯さに怒りを露わにした。彼は同僚の執政官を説得すると急ぎピュロスに以下のような手紙を送って、陰謀に警戒するよう促した。
  
「ローマの執政官ガイウス・ファブリキウスとクィントゥス・アエミリウスがピュロス殿下の健勝をお祈りする。さて、我らは貴方が友人と敵とを見分ける目を持たぬことを悔やむものである。この手紙をお読みになれば、貴方はいま公正で信義を愛する人間と敵対して、卑劣きわまる連中を重用していることがお分かりいただけるであろう。我らがこの事実を明らかにするのは、なにも貴方への敬意からではない。いま貴方に破滅してもらってはローマの名誉に傷がつく。我らが戦争を武勇で終わらせる力がないために詭計きけいに頼った、などと世の人々に言われるのは心外だからである」

これを読んだピュロスは暗殺計画の証拠を掴むと例の侍医を処断し、ファブリキウスとローマ軍に感謝のしるしとして捕虜を解放することを決め、和平交渉のためふたたびキネアスを派遣した。
 
だがローマ人はそれがピュロスからの好意にせよ、暗殺に加担しなかったことへの褒美にせよ、ただで受け取ることを潔しとしなかった。帰って来た人数とぴったり同数のタレントゥム人、サムニウム人の捕虜をこちらも解き放ったのである。しかし和睦交渉に関しては、ピュロスが軍隊と武器をまとめてイタリアから撤退し、ふねでエピロスに戻るまではいっさい進めるつもりはない、と宣言した。


こうなってはピュロスはもういちど戦闘に訴えるほかなかった。そこで兵を増強し陣営を引きはらってアスクルムへと進軍し、そこでローマ軍と交戦に及んだ。ところが騎兵は森に誘い込まれて自由に動かせず、いっぽう流れの速い河岸は足もとが悪く、戦象も突撃のタイミングを失ってしまった。そのためエピロス方はローマの密集陣ファランクスあいてに多数の死傷者を出したが、日没に助けられてひとまず仕切り直しとなった。
 
翌日、ピュロスは状況を打開できるのは象部隊の投入しかないと考え、平地での決戦に持ち込もうと計画した。そこで別働隊を送って昨日の不利な地形をあらかじめ占領してしまうと象と象のあいだを多数の投石兵や弓兵で埋めた特殊な隊形を用意して、敵の密集陣を猛然と攻めたてた。ローマ兵は昨日やったような側面からの攻撃・反撃を封じられ、平地でピュロス勢と真正面からぶつかる羽目に追い込まれた。
 
彼らは象が突っ込んで来るまえに歩兵を撃退せねばと躍起になり、剣一本でマケドニア式の長槍兵に壮絶な戦いを挑んだ。わが方の被害も、自らの生命さえも気に留めず、ただ目の前の相手を殺傷することだけを望んだのである。
 
ローマ勢は長い時間よく敢闘していたが、やがて潰走が始まった。そこはピュロスがみずから獅子奮迅の戦いをしていた地点だと伝わっている。だがやはり戦列に決定的な崩壊をもたらしたのは象の猛威である。ローマの軍団の素晴らしい勇気も、さながら大津波や地震のごとく押し寄せる象の群れの前には無力だった。兵たちはこんなところで何の役にも立たず、犬死に同然の悲惨な目に遭うのは御免だと考えたようだ。
 
ローマ軍は短い逃走ののち陣地に辿り着いた。その損失は6000程であったという。いっぽうピュロス側だが王が残した備忘録では、討ち死には3505名としている。以上はヒエロニュモスの記述による。
 
しかしディオニュシオスはアスクルムで二度戦闘があったことも、ローマが敗北を認めたことも書いてはいない。『両軍は日が沈むまで激闘をくり広げ、最後には兵を引いた』と述べるのみである。彼によれば、ピュロスは投槍で腕に傷を負い、またダウニウムに集積してあった物資を現地の者に奪われたらしい。ピュロスとローマ、双方とも15000以上の兵士がたおれたという。
 
いずれにせよ両軍は分かたれた。ピュロスは勝利を寿ことほぐ者たちに囲まれながらこう言ったと伝わっている。「ローマ相手にもう一戦でもすれば、たとえ勝ったとて我らはまったく破滅するだろう」※1
 
すでに連れてきた軍勢の大半は死に、友人や幹部将校もわずかな者しか残っていなかった。さりとて本国からの補充兵もなし、イタリアの同盟諸軍が戦意を失いつつあるのも彼は悟っていた。いっぽうローマの軍団は汲めども尽きせぬ泉のように、またしても素早く欠員を埋めていた。彼らにとって敗北は勇気をくじくものではなく、むしろ怒りによって闘志と覚悟を倍加させているようであった。



※1:いわゆる「ピュロスの勝利(得るものがほとんどない苦しい勝利)」の由来となる言葉
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