ピュロス伝ープルターク英雄伝よりー

N2

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9.和平交渉

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ローマはラエウィヌスから執政官の職権を剥奪しなかった。それどころかガイウス・ファブリキウス※1などは、「エピロスがローマを破ったのではない。ピュロスがラエウィヌスを打ち負かしただけだ」と豪語したと伝わっている。ファブリキウスに言わせれば、このたびの敗因は軍にあるわけではなく、指揮官の用兵に帰すべきということらしい。

ローマは時を置かず兵力を補充し、新しく軍団を編成して、つぎの戦に向けて敗北者にあるまじき大胆不敵な演説をしてピュロスを驚かせた。そこでまずピュロスは使者を送り、彼らが和睦を受け入れる意思があるかを探ろうとした。ローマの市街ぜんたいを占領してこの民族を完全に屈服せしめることは、現有戦力ではとうてい叶わないと悟ったのである。むしろ勝利をおさめてから友好和親につとめたほうが、自らの評判と名誉を高めるのに役立つ、という考えである。

こうしてキネアスがローマへの使者に立った。キネアスは有力者たちと会合を重ね、彼らの妻子に王からの贈り物を渡すのを欠かさなかった。ところが受け取るものは誰ひとりおらず、男も女もみな口を揃えて、「では和平が正式に成った暁に、私どもから王様へこたびの御好意の返礼をいたします」と答えるばかりだった。

さらにキネアスは元老院に赴いて、ローマに利のある様々な提案を示した。――たとえば捕虜にした兵士を身代金なしで返還すること、ローマのイタリア征服事業に協力すること、そしてこの見返りには、ピュロスとの友好関係とタレントゥム市の安全と不可侵以外の何をも求めないこと――などである。しかしこれほど魅力的な約束にもかかわらず、元老院議員らは喜ぶ顔を見せず、わずかな条項さえ受け入れようとしなかった。

とはいえ多くの議員は、さきの大敗を受けイタリアに住むギリシア人がピュロス陣営に参集して兵力が膨れ上がっていることを認めていた。つまり戦えば先にまさる損害を覚悟せねばならず、実際のところはみな和睦やむなしという心境だったようだ。


さて、アッピウス・クラウディウスという高名な政治家があった。老齢と視力の衰えのため一切の公務から退いていたが、ピュロスがわの条件が明らかになり元老院が和平案に傾きつつあるとの噂が広まると、どうにもじっとしていられなくなった。そこで従者におぶられて邸を出ると、輿に乗って中央広場を抜け、議場に赴かんとした。

彼の姿が正門ちかくに見えると、息子や娘婿たちが抱き支えながら奥へと運んだ。老政治家のひさびさの登院に敬意を表し、議場は静まりかえってしわぶきひとつなかった。アッピウスはその場で身を起こし、こう言った。

「ローマの諸君、ご存知だろうがわしは以前より眼疾という災難にずいぶん苦しめられてきた。だが、近ごろローマの栄光をないがしろにするような腐り切った決議の噂を聞くにつけ、いっそ耳も聴こえなければどんなにか良かろうと思うばかりだ。お前たちは常々天下のひとに何と吹聴ふうちょうしていた?――アレクサンドロスは運のいい奴よ、もし東に向かわずこのイタリアに攻めてきて、若い我々と油の乗り切った親父や爺さまたちとはち合わせしていたなら、今ごろは無敵とうたわれることもない、尻尾を巻いて逃げ去るか、野末にかばねをさらして我がローマをさらに輝かせてくれたものを――というのは、ありゃ嘘か。カオニア人だかモロッソイ人だか知らぬが、昨日までマケドニアについばまれていたような連中にびくつく様では、やはり虚仮こけ威しの自慢ばなしに過ぎなかったか。だいたい諸君が怖がるピュロスなんぞも、元をただせばアレクサンドロスの取り巻きのそのまた取り巻きであろう。それが今やイタリアをふらふらとうろつき回っている。表向きはここに住むギリシア人を救うためというが、そのじつ本土の敵に追われて来たに過ぎん。マケドニアの寸土さえ保てなかった程度の軍隊で、偉そうにこの地で覇権をとる手伝いをしようなどと吠えおる。お前たちは兎にも角にも仲直りしてひとまずこの厄介な男にお帰りいただこう、というのだろうがそれは甘い。他国の者の目に我々はどう映るだろう。誰にでも易々と膝をつくような人間が攻撃のにならぬ道理があるか。奴に侮辱の代償を払わせ、大恥をかかせて帰さぬかぎり、ローマはいつまでたってもタレントゥムやサムニウムに馬鹿にされっぱなしだぞ」

アッピウスが演説を締めくくると、聴衆のなかに戦争継続への熱意がめらめらと燃え上がった。かくして元老院においてキネアスへの返答文が起草された。

――ピュロスはまずイタリアよりすみやかに撤兵さるべし。そうして初めて、望むならばローマは和親と同盟についての交渉につくであろう。しかしピュロスが武装を解かずイタリアにあるうちは、たとえ一万人のラエウィヌスを失うとも、我々は変わらず全力でもって戦い抜くつもりだ――

いっぽうキネアスは使者の任務をこなしながらローマ人の生活や習俗を観察し、その政治体制の優れた点を学ぶことを怠らなかったという。彼はローマのなかでも特に力ある人々と会談し、多くのことをピュロスに伝えた。

なかでも特筆すべきは、元老院と民衆についての所感だろう。キネアスの眼には、元老院は議員の集会というより王の集会に映ったというのである。また、すでに執政官がさきの決戦に参加した数に倍する兵士を徴募済みであり、武装可能な市民にいたってはさらに何倍もいる、という事実はキネアスを大いに驚かせた。彼はローマの民衆と戦うのは、レルネの沼のヒュドラ※2とやり合うようなものだと述懐している。


しばらく後、捕虜に関する交渉のためローマから陣営へ使節団が送られてきた。特使はガイウス・ファブリキウス※1という男で、キネアスの報告によれば彼は優秀な戦士であり、ローマでも特に高潔な人物で通っているが、そのため大変貧乏していたという。

そこでピュロスは親切心から、こっそり金品を渡してやろうとした。けして卑怯な工作ではなく、純粋に友情と歓待の印のつもりである。しかしファブリキウスは頑として受け取らない。その日はお流れとなったが、翌日こんどはいたずら心で象を見たことのない彼を驚かせてやろうと、連れてきたなかで最も大きな象を会談中に陣幕の後ろに立たせるよう命じた。さて、いざ合図とともに幕が引かれると、象は鼻を持ち上げてファブリキウスの頭上にかざし、聞いたこともない恐ろしげな鳴き声を上げた。ところがファブリキウスは泰然自若として振り返り、微笑みながらピュロスに言った。「昨日の黄金も、今日の獣も、動じるほどのものではありませんよ」

晩餐の席ではさまざまな議論が交わされた。偶然話題がギリシアの哲学者に及んだとき、キネアスはエピクロス※3派の学説を引用して、神々や政治、そして“最高善”に関する教義を説明することになった。この学派においては人間にとって快楽の追求こそが“最高善”であり、政治はそこから遊離した存在である。政治というものは本質的に有害で、幸福な人生の邪魔をするからである。また神は我々人類には大して関心を持っておらず、善意や悪意といった感情からは遠い境地にあって何ひとつ憂いのない安楽な生活を送っている、というのである。

ファブリキウスが大声でおどけてみせたのは、ちょうどキネアスの話しが終わろうかという頃だった。「おお、ヘラクレス神にお願いもうす!ピュロス殿にせよサムニウム人にせよ、我らと戦する間だけはそのとびきり立派な教えを守らせたまえ!」
 
ピュロスはこの男の真っ直ぐな心根と飾らない人がらに感嘆した。この都市の人間とは干戈を交えるより仲良くやっていきたい、という気持ちは俄然増すばかりだった。ピュロスは、「もし和平が成ったなら、友人や将軍の中で第一人者の席を用意するから自分のもとで働かないか」と彼を密かに誘いさえしたのである。しかし、ファブリキウスは静かにこう言ったと伝わっている。「王よ、それは貴方のおん為になりませんぞ。いま貴方を愛し心服している者たちも、私という人間を知ればたちまち宗旨がえして“あのひとを王にしたい”と言い始めるでしょうから」
 
ファブリキウスとは徹頭徹尾こういう人物であった。ピュロスはこの発言に何らの怒りも見せず、また暴君のような仕打ちもせず、むしろ友人らにファブリキウスの性格がいかに雄大かを説いて、ローマ兵の捕虜を彼に引き渡して故郷へ返してやることにした。ただし元老院が和睦を承認しなかったときは、捕虜は親類縁者に顔を見せに行くこととサトゥルヌスの祭りを祝うことはできるが、そのあとギリシア方の陣営に送り返すという条件付きであった。はたして祭りが終わると、捕虜たちはピュロスのもとへ帰っていった。元老院が残ろうとする者は死刑に処す、と宣告したためである。



※1:ルスキヌス(隻眼)の副名をもつローマの政治家。ピュロス来攻の数年まえから軍をひきいて南イタリアを転戦している
※2:英雄へラクレスの「十二功業」として知られる伝説のひとつ。アルゴス地方のレルネ沼に住まう水蛇の怪物でその首は斬られるたび再生する力をもっていた
※3:同時代のアテナイで活躍した哲学者、思想家。アテナイ郊外の庭園で弟子たちとともに集団生活し、俗世や政治との関わりを絶って暮らした
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