ピュロス伝ープルターク英雄伝よりー

N2

文字の大きさ
8 / 9

8.ヘラクレイアの戦い

しおりを挟む
ピュロスはまず、キネアスに兵士3000を預けてタレントゥムに派遣した。しばらくするとタレントゥムから多数の輸送船――馬を運ぶもの、堅固な板張りをしたもの――など様々な船がやって来た。これらの軍船には象20頭、騎兵3000、重装歩兵20000、弓兵2000、投石兵500が乗せられた。

準備がすべて整うといよいよ出帆となったが、イオニア海を半ばほど渡ったところで、船団は季節外れの激しい北風にさらされた。猛烈な突風に苦しみながらも、船長や乗組員らの勇気と頑張りによってピュロスの船は何とか持ちこたえ、ほうほうの態でおかに進路をとった。

だが、ほかの船は互いを見失い散り散りになってしまった。そのうち何隻かはイタリア行きの航路を逸れてリビュアやシチリアのある海域まで流された。残りの艦隊はイアピュギオン岬※1で回頭できぬまま夜をむかえ、荒れ狂う波のせいで桟橋ひとつない浅瀬へ押し出されて座礁した。こうして輸送船はことごとく海の藻屑と消えていった。

ただ一隻、王の御座船だけが無事だったが、この船は特別大きく丈夫で、横あいから打ち寄せる波や海のうねりにもよく耐えた。ところが風向きが変わって岸から吹き付けてくると、船首はちょうど風上を向いて突風に逆らうような格好だったため、船は激しい逆波につぶされ今にも大破しそうになった。さりとて外洋に戻って、もう一度荒れ狂う海や縦横無尽に吹いてくる風に苛まれるのは、いまの状況よりもずっと恐ろしいと思われた。

そこでピュロスは意を決し、甲板から勢いよく海に身を投じた。驚いた友人や護衛たちもすぐに後を追って飛び込み、王の周りに泳いで行ったが、たださえ闇夜で明かりもなし、寄せては返す大波にみな浮きつ沈みつして、救助などほとんど覚束おぼつかなかった。

ピュロスはというと、夜が明けて風が弱まるのを待って、ようやく岸まで泳ぎつくことが出来た。五体は疲れ切ってしばらく動けなかったが、持ち前の豪胆な精神でこの危難を乗り切ったといえよう。漂着したメッサピアの住民たちもすぐ駆けつけて、できる限りの手当てを施してくれた。同じころ嵐を逃れた味方の船がいく隻かふらふらとやって来た。しかしここに乗っていたのは若干の騎兵とせいぜい2000にも満たぬ歩兵、そして象が2頭きりでしかなかった。


それでもピュロスはこの戦力を率いてタレントゥムへ向かった。主君が近づきつつあると知ったキネアスが、先に送った部隊を連れて出迎えに来てくれた。市内に入ったピュロスは、当初タレントゥムの住人の意に反することは一切せず、またいかなる圧迫も加えなかった。彼は無事に戻って来た船と、そこに乗った軍勢の大半が集まるまでじっと時を待つことになった。

ところがこの街の民衆とくれば、よそから強制でもされない限りは自らも隣人も守る気などさらさらないといった連中ばかり、戦はぜんぶピュロスに丸投げで、自分たちは城壁の中で入浴やら社交やらを楽しもうとするのだった。

そこでピュロスは、まず体操場と遊歩道を立ち入り禁止にした。市民らはここでうろつきながら他人事のように作戦を論じ、太平楽を並べていたのである。また酒盛りや宴会、お祭りなども“時局に相応ふさわしからず”として中止し、男たちには武器を取って戦うよう呼びかけ、徴兵にあたっては手心を加えずどんどん入隊させた。住民らはたまらず列をなして街から去っていった。多くの者が為政者の命令を受けることに慣れぬたちで、自由気ままに生きられないなら奴隷と同じだと考えていたのである。

そのころピュロスの陣営に、ローマ軍の動きについて情報が届いた。執政官コンスルラエウィヌスが大兵でもって攻め寄せ、ルカニアの地を掠奪しているという。約束したはずの同盟軍はいまだ姿を見せなかったが、彼は敵の侵攻をむざむざ指を咥えて見過ごすのを恥だと考え、軍勢を率いて出撃した。

そしてまずローマ軍にこんな内容の伝令を送った。――戦になだれ込む前にひとつ聞いておきたい。諸君らとイタリアに住まうギリシア人とは、まだ和解の目が残っている。私ピュロスを調停者に雇ってみる気はないか――

しかしラエウィヌスの返答は――我がローマ軍はピュロスを仲介役として選ばず、また敵としても恐れはしない――というものだった。それを受けてピュロスは軍を進め、パンドシアとヘラクレイアの間に広がる平野部に陣を張った。


彼はローマ軍がシリス川の向こう岸に着陣したと知って、みずから偵察してやろうと馬で川べりへ急いだ。一望したところローマ兵の様子は、物見の配置、隊形、兵営までどれをとっても整然たるもので、ピュロスを驚嘆させた。彼は傍らの友人にこう呟いた。「メガクレスよ、どうもこの蛮族※3の陣立てはさして野蛮な風ではないな。まあ、ひと戦すればどれ程のものか分かるだろう」

とはいえいささか自信を失ったピュロスは、しばらくとどまって同盟軍の到着を待つことにした。それまでに万一ローマ軍が渡河をこころみた場合に備え、川岸に守備隊を置いて牽制することも忘れなかった。

ところがローマ軍はピュロスのもとへ味方が来着する前に勝敗を決せんと、はやくも強行して渡河作戦に訴えた。歩兵は渡し場から、騎兵はあちこちの浅瀬を一気に走り抜けてきたのである。見張り程度の気持ちでいたギリシア勢は包囲を恐れて逃げ帰ってしまった。

ピュロスはこれを見て大いに驚いたが、いそぎ幕僚に命じて歩兵に武器を持たせ隊列を整えみずからは騎兵3000を率いて出撃した。ローマ軍がまだ河を渡る途上ならば、散り散りになって統制が効かない場所を見つけてやろうと考えたのだ。しかし、彼が目にしたのは川岸に無数の盾が煌めき、敵の騎兵が整然と進軍してくる姿だった。

ピュロスは兵士らに密集陣ファランクスを組ませて攻撃を開始した。彼は美々しく彩られた豪奢なつくりの甲冑ですでに目立っていたが、名声に恥じぬだけの武勇を備えていることをその行動で示した。ピュロスは斬り合いに加わり危険に身をさらして敵を撃退する一方で、慌てず騒がず冷静さを失わず、つねに鳥の目でもって戦場全体を統率してあちこちを飛び回り、押し込まれている戦列があればそこへ行って援けてやった。

この時マケドニアの人レオンナトスは、イタリア人の騎馬武者がひとり、不審な動きをしているのを見出した。どうやらピュロスに近づかんとするらしく、彼の動きに合わせて右へ左へしているのだ。レオンナトスは叫んだ。「わが君、あすこにいる脚の白い黒馬に乗った蛮人をご覧なさい。なにか大胆不敵なことを企みおるものと見受けます。さきほどよりわが君だけをはったと見据みすえてつけ狙い、他の誰にも注意を払いません。どうかお気をつけあそばされよ」ピュロスは答えた。「レオンナトス、そうなった時は運命だろうよ。だが奴にせよ他のイタリア人にせよ、そう易々とこのピュロスと刺し違えるなど出来まいて」

二人がこんな会話を交わしている最中である。かのイタリア人は槍をかざして馬を急旋回させ、ピュロスへ向かって突撃をしかけた。蛮族の槍先が王の愛馬に突き立つのと、敵の馬をレオンナトスの槍が貫くのはまったく同時であった。両馬ともどうと倒れて、ピュロスはすぐ供回りの者に救い出された。イタリア人はなおも奮戦著しかったが、ついに力尽き討ち取られた。この男はフレンタニ族出身の騎兵隊長で、オプラクスという者だった。

この出来事にはさしものピュロスも警戒心を強めた。騎兵が退却するのを受け、歩兵を集めてふたたび密集陣形を整えたが、鎧兜と外套マントを幕僚のメガクレスに押しつけてみずからは部下の背後に身を隠したまま敵に攻めかかった。

ローマ方もこれを迎え撃ち、両軍ともに譲らず長々と決着がつかなかった。互いに追いつ追われつするなか、七たび攻守が入れ替わったとまで伝わっている。このとき王が甲冑を交換したことは結果的には身の安全に大いに貢献したものの、形勢をひっくり返されて危うく勝利を失う寸前まで陥ってしまった。

というのも敵の攻撃がメガクレスにばかり集中したからである。やがて先陣にあったデクシウスなる戦士がメガクレスを殺し、例の兜と外套マントをはぎ取ると司令官ラエウィヌスのもとへ馳せつけ、高々と掲げながら「総大将ピュロス討ち取ったり!」と声を張り上げた。この戦利品は隊列のなかを兵士の手から手へ回されたため、またたく間にローマ軍は歓喜と雄叫びに満ち満ち、いっぽうギリシア勢は意気消沈はなはだしかった。

事態を察したピュロスは、戦列から飛び出すと素顔をあらわにして兵隊たちに手を差し伸べ「われはここにあり」と声で王の健在を知らしめた。

ここにいたり、ついにローマ軍は象兵の力に圧倒されはじめた。象を前にした馬は恐怖にすくんで近づくことが出来ず、騎手を乗せたまま明後日の方向へ逃げ散ったのである。ピュロスはテッサリア騎兵を率いて壊乱をきたした場所に攻め込むと、四角八面に斬りまわって敵を敗走させ、大いに撃滅した。


ディオニュシオス※2はこの戦におけるローマの戦死者を15000近くとしているが、ヒエロニュモス※3の記すところでは7000ほどに過ぎない。ピュロス方の死者については、ディオニュシオスによれば13000、ヒエロニュモスは4000弱だという。いずれにせよピュロスの人的損失の多くは精鋭部隊であり、そのうえ彼は信頼あつく、長年にわたり用いてきた友人や将軍を失うことになった。

その一方で得るものも大きかった。彼はローマ軍が放棄した陣営を奪い、同盟市のいくつかを離反させて味方に引き入れた。さらには多くの土地を掠奪しながら北上し、ローマから300スタディオン※4の距離まで迫ったのである。戦の趨勢が定まったこの頃になって、ようやくルカニアとサムニウムからまとまった数の援軍が合流してきた。ピュロスは遅参を責めはしたが、手勢とタレントゥム兵のみでローマの大軍を打ち負かしたことを喜び、誇りにしているのは誰の目にも明らかだった。



※1:イタリア半島の長靴のかかと部の先端
※2:帝政ローマ初期の歴史家
※3:アンティゴノス家三代に仕え、同時代人としてディアドコイ戦争期の歴史を記録した人物
※4:約54km
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

小日本帝国

ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。 大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく… 戦線拡大が甚だしいですが、何卒!

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

痩せたがりの姫言(ひめごと)

エフ=宝泉薫
青春
ヒロインは痩せ姫。 姫自身、あるいは周囲の人たちが密かな本音をつぶやきます。 だから「姫言」と書いてひめごと。 別サイト(カクヨム)で書いている「隠し部屋のシルフィーたち」もテイストが似ているので、混ぜることにしました。 語り手も、語られる対象も、作品ごとに異なります。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

処理中です...