ピュロス伝ープルターク英雄伝よりー

N2

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7.キネアスの諫言

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ピュロスはマケドニアを捨てエピロスに追い返されてしまったが、まだ運命に見放されてはいなかった。彼は平和な暮らしと王として自らの国民を統治する幸福を、誰に邪魔されることもなく享受できたのである。しかしピュロスという男は他人と命のやり取りをするような世界から離れてしまうと、途端に吐き気を催すほどの退屈を感じる人間だった。それはあたかもアキレウスが安逸の日々に耐えられず、“じっとしたままでは気が滅入り、合戦の雄叫びを聴きたくてしようがない”※1のと同様である。そうして戦を渇望するあまり、次のような状況を見つけて来て、さっそく企てを巡らしはじめた。

このころ、ローマ人はタレントゥムと係争の最中にあった。タレントゥムの市民は、煽動政治家デマゴーゴスらによる愚かな無軌道政治のために戦争を続けることも終わらせることも出来なくなっていた。

そこで人々は、ピュロスを指揮官として戦に呼び込もうと考えた。王たちの中でピュロスはいま手が空いているし、何より最も腕利きの将軍であると信じられていたからである。幾人もの分別ある年寄りがこの計画に真っ向から反対したとされるが、こういった意見は主戦派の荒々しい大声と暴力にかき消され、それを見て民会を欠席する者さえあった。

しかしこの街にひとり、メトンという立派な志の男がいた。エピロスへの援軍要請がいよいよ議決されようという日、住民らが集会場に座っていると、彼は笛吹き女の後ろについて踊りながら入ってきた。しおれた花冠と松明を手にしてまるで宴会芸のようないでたちである。

すると彼を目にした民衆は――これは礼節をしらぬ自由放埒な連中にはよくあることだが――手を叩いて喜ぶ者もいれば笑う者もいる一方で、誰ひとり止めようとはしなかった。むしろ女には笛を吹け、メトンにはもっと前に出て歌えと騒ぐ始末だったし、じっさい彼もそうするように見うけられた。ところが一同が静まり返ると、メトンはこんなことを言ったのである。

「タレントゥムの人々よ、どうか眉をひそめるのをおやめくだされ。こんな乱痴気らんちき騒ぎを楽しめるのも今のうちだ。思慮ある者こそ、自由をめいっぱい味わっておくべきでしょう。ピュロスがこの都市に入城した日には、我々の生活は一変してしまうだろうから」

これにはタレントゥムの市民らも心を動かされ、議場にはざわめきと拍手が広がった。しかし主戦派の住人は、講和が成れば身柄をローマに引き渡されるのではないかと恐れていた。彼らは「たかが酔っ払いの無礼な世迷言よまいごとに耳を貸すな」と民衆の弱気を責め、衆を頼んでメトンを街から追放してしまった。

かくして方針は議決され、ピュロスに対して使節団が遣わされた。そこにはタレントゥムにとどまらずイタリア半島のギリシア系都市からも使節が加わった。使者たちはみなピュロスへの贈り物を携え、「我々は名誉と叡智を兼ね備えた指導者を求めている、陛下がお出ましあれば、ルカニア、メッサピア、サムニウム、タレントゥムから集結した騎兵20000、歩兵350000の大軍勢をお任せしたい」などと説いた。これはピュロス自身を奮い立たせただけでなく、エピロスの男たちの遠征に賭ける冒険心も大いにくすぐったのである。


さて、ここにテッサリアの人でキネアスという者がいる。弁論家デモステネス※2の弟子にあたり、たいへんな賢人として評判であった。彼が演壇に立てば、聴衆はデモステネスの偉大な弁舌の才能を、まるで彫像を前にしたように思い起こしたという――世に説客は数あれど、かような芸当が出来るのはキネアスひとりだったのである。

彼はピュロスに仕えてギリシア諸都市への大使として派遣され、まさにエウリピデス※3が語るところの“雄弁は何ものにも優る。剣で出来るようなことには全て勝ちうる”という言葉を体現してみせた。

ピュロスはつねづね、自分の兵隊よりもキネアスの弁舌によって多くの都市を陥落させてきたことを誇っていたし、キネアスを特別に尊い、助力を仰いだ。このキネアスがピュロスがイタリア遠征の準備に熱を挙げていると知って、ある日宮廷でくつろぐ彼の前に参上し、次のような会話をしたことが伝わっている。

「王様、ローマ人は戦に長けた武士の集まりで、まわりの獰猛な諸部族をことごとく屈服させて今あると聞いております。もし神が、我々をして彼らを倒すことを許したもうなら、その勝利をどう活かせば良いとお考えですか」
ピュロスは言った。「キネアスよ、それは愚問ではないか。ローマを征服することが出来れば、あの辺りで我らに刃向かえるような連中は蛮族にもギリシア殖民市にもいない。イタリア全土の制圧はすぐにでも可能だろう。かの地の広さ、豊かさ、そして重要性を余人ならともかく、お前ほどの者が心得ぬはずがない」

少しだけ間を置いて、キネアスは尋ねた。「では王様、イタリアを領有したあと、我々は何をすべきでしょう」ピュロスはまだ彼の意図を測りかねていた。「つぎはシチリアへ行こう。すぐ隣りで我らを手招きしているようなもんだからな。あの島は資源が豊富で人も兵も多いが、占領するのはわけもない。アガトクレス※4が死んだいま、どの街も党派に分かれて争い、煽動屋どもに牛耳られてほとんど無政府状態に等しいと聞くぞ」

キネアスは答えた。「王様の仰せはごもっともです。さすればシチリアを獲れた暁には、戦はめにしてよろしゅうございますか」
「いやいや、ここまで運良く勝ち続けたならば」ピュロスは言う。「それまでの戦いなんぞは、大事業のまえの足場がために過ぎなくなるぞ。いいか、リビュアやカルタゴはもう目と鼻のさきだ。アガトクレスがシラクサを逃れたときは、数隻の艦で海を渡って攻め、あと一歩で落城というところまで迫ったのだ。ここへ来て誰が手を出さずにいられよう。カルタゴまで支配を広げれば、いま我らを侮り軽んじているような奴らなど、みな抵抗する気を無くすに決まっている。どうだ違うか」

「まったく御意にございます」キネアスは言った。「かほどに強大な軍事力があれば、ふたたびマケドニアを奪還し、ギリシアも易々と征服できることは確実です。ですが、全てを滅ぼし四海を平らげたあとは、どうすれば良いのでしょう」
ピュロスは笑って言った。「それはお前、もう何の心配もいらないんだから、毎日酒盛りでもして気分よく過ごそうじゃないか。そうしてお互い楽しかった日々を語り合おう」

ようやくここまでピュロスに喋らせてから、キネアスは告げた。「王様、いま酒盛りをなさいませ。誰も邪魔などいたしません。我々は欲しいものをもう手にしているのです。他人を傷つけ、また自らも散々な目にあい、おびただしい血と苦しみと危険の果てに得られる筈のものがすぐ楽しめるというのに、一体何のさわりがありましょうや」

キネアスの言葉は確かにピュロスの心の水面みなもに一石を投じたが、さりとてここで思い止まる彼ではなかった。いまは彼も、自分がいかに大きな幸福を後に残してゆくのかをはっきり理解したが、心の底から湧きあがる希望をどうしても捨てることが出来なかったのである。



※1:『イーリアス』にみられる表現
※2:アテナイの政治家。古代ギリシアを代表する弁論家でもある
※3:アテナイの劇作家。ギリシア三大悲劇詩人のひとり
※4:シラクサの僭主
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