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五章「異端たちの夜」

豺狼

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  長い沈黙……。

  雨粒が教会を叩いている音がはっきりと聞こえた。

  その沈黙を破ったのは――胸のつかえを吐き出すように、続きを口にしたのはマーティンだった。

「グエフの妹がいなくなった。グエフがその相談に俺のところへ来た。日中は村に来るなと言っていたんだがな。まあそのせいで緊急性がよく分かった。もしかしたら妹は昼間から教会に行ったのかと、ふたりで教会に行った。そこには先生がいた――当然だけどな。ただ様子がおかしかったんだ。前日に誰かが訪ねて来たとかで、グエフの妹が危険だと」
「神父が口にした訪問者の格好を聞いた俺はすぐに誰だかを悟った。あの占い師だとな」
「……占い師?」

  メルティとアルトは顔を見合わせた。するとアルトはこくりとうなずきを返す。

「ああ。半月ほどまえに魔属の村にそいつは来た。自分は占術を生業なりわいにしている魔属で、都市で身分を隠しながら住んでいたが素性がばれてしまい、安心して生活できる場所を探してこの土地に流れてきた……おさはそいつを受け入れた。だがそいつが神父のところへ行き、なにかが変わった」
「先生が俺の家に来たのは、妹が失踪したその日の夕刻に近い時間だ。様子がおかしいどころじゃなかった。目は血走り大声で怒鳴り散らした。すぐに村人を避難させろってな。親父は先生の言葉を信じなかった。なぜかは分かるよな?」

  マーティンの問いにメルティは即答する。

「宗派の違いね」
「そう、三十年の月日を経てもふたりは平行線で、けして交わらなかった。そして先生は急に家を飛び出した。牧場のほうへ走って……追いかけた俺に先生は言った。来るな、そして実行するんだ」
「……実行しろ?」

  アルトの問いにマーティンはただうなずき、そして続けた。

「……先生はギャロムの家を通り過ぎ、あの現場で娘たちを殺した。腕のひと振りで二頭、そして逃げようとした一頭を……そして先生は林のなかへと消えた。変わってしまえば人間は破壊衝動を抑えられなくなるんだ。そしていつしか本物になる。そのすぐ後にグエフが来た。言葉はいらなかった。先生がやったとは悟られないように、あんたが説明した通りのことをした」
「俺は兄弟たちを連れて妹と占い師を探していた。牧場のしたの林のなか……現場の近くにいたのは偶然だったが、神父が空から降ってきた。あの顔は……なんと説明していいか分からないな。顔をしわちくちゃにして、目を見開いて、口が裂けそうなくらいに歯を剥き出しにして、空腹で発狂した野犬のようだった……」

  ……また、沈黙。

  メルティは頭のなかでペンを走らせた。暴れだした神父が雌牛を殺して逃走。グエフはマーティンが心配になり、牧場へ行くと雌牛の遺体があった。ギャロムの介入は想定外。犯人が神父だと分からぬように遺体を捨てた。

「と言うことは都市の大教会に調査を依頼したのはあなたじゃない。村長の独断だったのね」
「さいわい親父は先生の蛮行ばんこうを目撃してなかったからな。怪事件ということで神官による調査を依頼した。俺は反対しなかった。異議を唱えれば怪しまれると考えた」
「だがずさんだった。異常性が現場にあるせいで、むしろ神父が疑われる可能性が高くなってしまった。神父はあのときわめき散らしたりしていたし、村人のなかの数名が、様子のおかしい神父を目撃していた。なんなら村長は目のまえで見ている。蛮行を知られなかったのは不幸中のさいわいだ」

  グエフはそう言いながら十字を切った。神の思し召しだと感じているのだろう。メルティにとってはただの偶然に過ぎないことだが……。

「神父がなにかを隠していることは誰もが知っていたし、様子がおかしい神父が飛び出した直後の出来事だからな。ともすれば魔属がいるとばれてしまう。さらにマーティンの親父が神父がいたことを神官に伝えては意味がない。神官が村に来れば、隠しておきたいことのすべてが明るみになる」

  メルティはそこでなるほどと呟き、うなずいてから、

「だからマーティンはグエフの弟が見た怪物の特徴を利用してインクを垂らした。あなたが能無し呼ばわりをしてわたしを挑発したのも、政治的な社交辞令による神官の派遣だと苦言をていしたのも、わたしに現場をくまなく見てもらうためだった。見落としがあれば黒い染みイコール森の怪物という図式が成り立たなくなってしまうから。加えてその行為は村長の証言を封じる効果もあった」
「最後のは深読みしすぎだ。親父が神父と揉めました、なんて神官に言えるわけがない。それが大教会に知れたら村の評判が悪くなるだけだからな」

  自然派は正道聖女派の信教国からすれば外様だが、一度認可されてしまえばその地位は正道と同じような位置づけとなる。立宗りっしゅうの権利が認可されれば、その宗派を正道と近しいものとして管理、または保護をしなければ迫害されかねない。村長はその制約を知っていたからこそ、村外れの教会を黙認していたのだろう。

「事件の筋は把握できたわ。でも神父が言った実行という言葉とあなたたちの礼の意味は分からないわ」
「先生は俺とグエフに言い聞かせて来たんだ。三十年近くものあいだ……ようするにその年月のぶん、先生はさいなまれてきた。先生が言い聞かせたのはひとつ、
「神父は言っていた。変わったら殺せ……だが俺とマーティンには足りなかった。人狼を殺す手段も、その覚悟もなかったんだ!」

  グエフが膝のうえに置いた拳を、ギリギリと握り締める。

「……なるほどな。あれはロワア神父だったのか……あの人狼は」

  アルトは哀しそうな目でふたりの男を見つめていた。

  最愛の者からの頼み。だからと言ってそれが実行できるだろうか。アルトが殺せと言ったら自分は殺せるだろうか。いや、悩むべくもない。自分にはそんなことはできない。だからこれは、神父の罪だ。神父の犯した最大の罪だ。

「神父はあなたたちを信頼し、そんなことを言ったのね。でも愛する人を手にかけるなんてことは絶対に無理だわ」
「だからこそ礼を言いたかった。先生は死を望んでいた。自決を選ばなかった理由は分からない。だが俺たちにはもう、先生に答えを聞くことはできない」
「感謝する……神官よ。魔属である俺がおまえたちに礼を口にするのは、おかしいのかもしれないがな……」

  グエフは自嘲気味じちょうぎみに微笑むと、改めて感謝を口にした。ありがとう、と――

       ※

  教会の礼拝堂へは四人でおりた。礼拝堂は暗く、聖女の彫像の足元にある祭壇で、二本の蝋燭がゆらゆらと頼りない光を発していた。そのか弱い光のなかで、人狼が横たわっている姿がぼうっと浮かびあがっていた。それと数人の魔属たち。彼らは人狼に手を組み合わせて冥福を祈りながら涙をこぼす。

「略式だが葬式をやったんだ。構わないだろ?」

  マーティンとグエフは晴れやかな笑顔をつくった。涙を流すまいと瞬間的に頬が動く。それが心に響くほどいたましかった。

  人狼の元へ向かうと、魔属たちが礼と謝辞をのべた。自分たちでは叶えられなかった神父の望みを、メルティとアルトが叶えたからだった。

「本当にいいのか?」
「ええ、構わないわ。大教会には神父のことは報告しないから。あなたにも魔属たちにも、そのほうがいい。人狼がいたことを伝えでもしたら山狩りが始まるかもしれない」
「あんたらへ感謝しなくちゃならないことが増えたな」

  グエフが笑い、魔属たちへ人狼を運び出すように指示を出した。魔属の村へ移動することを許可したからだった。ふたりの男の願いは、神父が生きた大地で安らかに眠ること。

  作業はほどなく終了した。あるじの去った礼拝堂はひどくがらんとした印象になった。メルティとアルトを残し、皆が大扉を出ていく。マーティンとグエフは振り返り、再度礼を言った。だがアルトは聞きたいことがあるとグエフを呼び止めた。

「神官を頼ったくせにあたしと一戦やらかしたのはなんでなんだ?」
「歴史はくつがえらない。神官は敵だ。だが戦って負けたのならおまえたちの力を認めざるをえないだろう?  俺たちには可能性が必要だったんだよ。神父を葬ることのできる可能性がな」
「妹さんのことはどう考えているの?」
「妹だけじゃない。おまえたちの話を聞いたあの日以来、弟も姿が見えない……捜索は続けるが……神父が手にかけたのなら俺たちは……」

  グエフは最後まで言い切らずに、すまないと言った。そして去っていく。それに続こうとしたマーティンを、今度はメルティが呼び止めた。

「スウィードという名前に心当たりはある?」
「ああ、あるぜ。先生のミドルネームだ。ロワア・スウィード・キシュイル。それがフルネームだ」

  マーティンは答えると手を挙げた。またなと。

  大扉が音をたてて閉じられた。暗闇に近い礼拝堂には、静寂が満ちている。雨音はしていない。いつのまにか嵐は過ぎ去っていた。静寂を破るようにアルトが呟く。

「なあメルティ。首謀者が誰なのか見当ついたのか?」
「ええ……スウィードがロワア神父だったのならひとりしかいないわ。まんまと騙された」
「覚悟は?」

  聞かれ、メルティは振り返った。視線は隣にいるアルトを通過し、聖女の彫像へと向けられる。

「聖女はいない……だからわたしが決めるの。信仰は個を置き去りにする。判断を神に任せればそれだけ個は不鮮明になる。わたしはそのかすみを払うために神官になった。わたしがわたしでいるために神官になった。正しさはいつも自己決定にある……わたしはわたしの決断を神になんかゆだねない」
「そうだな。ロワア神父が自決できなかったのは、災いになるだろう自分を殺すことができなかったのは……自然派の教義に自己を捧げてたからだよな。自分の命を軽んじることができなかった。だから人狼になってしまった罪を背負い、悩み苦しむ人生っていう罰を課した。だけどそれを、神父の決意を壊したやつがいる……!」

  頼りない蝋燭の灯が、彫像に影を作りだしていた。と、その影が突然浮かび出てひとの形になった。影は祭壇のうえに立ち、両手を広げた。魔術――

「……あなたがたは優秀です。頭脳や技量に優れた神官です……この僕をたった二日足らずで特定した……」
「子供たちをどこにやりやがった!」

  影はアルトの怒声に肩を揺らして笑った。

「あの子たちはロワア神父が手にかけたのでしょう?  そういうことにしておかなければグエフさんが悲しむのでは?  自然派は弱肉強食を認めています。自然の営みに異議を唱えては教えに反する。だからそういうことにしていたほうが幸福ですよ」
「あなたに道義を語る資格はないわ!」
「もちろんですよ。道義は聖女の御言葉のなかにある 。僕は聖女の代弁者に過ぎないのです。もちろんロワア神父もね……僕という強者に屈したのだからロワア神父も納得済みのはずですよ。彼は弱かったのです。若き命を守るに値しない弱者だったんですよ!」

  影は腕を振り払う。すると蝋燭の炎が猛り、影を飲みこんだ。後にはなにも残らない。蝋燭は消えて、ステンドグラスからの月光に、聖女だけが照らしだされる。

「奴はどこにいる!」
「うえよ、屋上!」

  メルティは階段を目指して走る。駆けあがるとアルトが背後から聞いてくる。

「どうして屋上なんだ?  他にも儀式ができそうな場所はある」
「縄ばしごの残骸についていた黒い染みとスウィードさんの落下。あれだけは未解決」

  メルティの言葉にアルトは納得したようだった。

  魔属と神父の繋がりが分かった今、アルトが追いかけた魔属は怪物を追っていたのではなく、教会の様子を見に来ていたのだと推理できた。神父の姿を見失った彼らは人狼を探していたはずだ。だからこその教会の監視だった。

  魔属はアルトから逃げたように見えたが、スウィードはロワア神父という事実をみんなが知っていた。ならば彼が落下で死ぬのも不本意ながら悪い話ではない。

  魔属がした逃走の意味はふたつ。神官に存在を悟られないことと、スウィードが落下したという報告である。彼らの望みは戻れぬ変異が始まってしまったロワア神父の死だ。それはロワア神父が彼らに託した望みでもある。とどめを刺すならばあのタイミングを逃そうとはしない。まだ人間だった彼が瀕死のときが、マーティンやグエフや魔属にとっては望みを叶える絶好の機会だったはずだ。

  とまれ、スウィードの落下があったあのときに怪物はいなかった。これは当て推量ではなく確信だった。

  あの縄ばしごの残骸に残された黒い染みが語るのは、なにかの目的でインクが使われたという事実だ。だがスウィードを――つまり本物のロワア神父をあの男と運んだとき、インクは持っていなかった。

  メルティはインクを怪物の痕跡と読み間違え、伝書鳩の世話をしていたスウィードが怪物に襲われたのだと思った。開けたままの鳩舎から伝書鳩が飛びたったのだと。だがアルトが屋上に行くまえ(あの日でもそれ以前でもいいが)、あの時点で伝書鳩がいたかどうかなど調べようがない。

  メルティとアルトは屋上への階段を駆けあがる。小部屋のドアは開いていた。嵐の過ぎ去った濡れた屋上へ飛び出し、メルティは愕然と立ち尽くした。

「来ましたね……さすがです。証拠を消すことを失敗したのですかね。漆で塗られた屋上の板では目立たない、魔術の陣を敷いたはずなのに……」
「間に……合わなかった……」

  アルトが背後で呟くのが耳に入る。広い屋上のやや絶壁のほうに、男は立っていた。

  ロワアの名を語った、神父の格好をした男の足元には二つの小さな命があった。肉体のほとんどが腐敗した褐色肌の少女と、手を伸ばして助けを求める褐色肌の少年。

  そしてふたつの命を飲み込もうとする黒い塊がうごめいていた。闇夜のなかでその塊は、異様なる異形だった。

「助けて……!」

  少年が涙ながらに訴えてくる。アルトが動いた。

そう現出うつせ!」

  アルトのかざした右手から黒煙が疾った。自ら封じていたはずの魔術が、アルトの覚悟を示していた。魔術は道具を用いなければ、術者からにえとしてのなにかを奪う。魔術と引き替えにアルトは右手の五指ごしの爪を根本から失い、ボタボタと血がしたたり落ちていた。男が哄笑こうしょうした。

「無駄です。魔狼の召喚はすでに終えている」

  アルトの放った魔術は、儀式の陣から発した黒い閃光に阻まれて掻き消えた。縄ばしごにあったインクの正体である魔術の陣――だがそれが分かったところでもう――

  アルトが悔しげに呻く。

「くそ!  こうなったら直接叩く!」
「……ダメよアルト……もう遅い。遅かった……」

  黒い塊が少女を完全に取りこむ。そして少年の表情が半分になった。黒い塊が飲みこもうとして蠢いている。少年のその突き出した右手は空を切る……すでに遅かった。全部が遅すぎた。真実を捉えることに時間をかけすぎた。メルティの胸中を後悔と自責が埋めていった。

  メルティは膝を落とし、ただその残酷な光景を見続けていた。

  死にたくない。

  少年はそう言い残し、黒い塊に飲まれ、完全に見えなくなった。
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