俺はどうなろうとも彼女を愛することをやめられない

イヌカミ

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another

Harf year ago……

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「あれ?  芦屋……?」

  確かあれは二月の終わり――俺達は高校生活一年目を終えようとしていた。

  俺は駅前のコンビニで立ち読みしている時に、制服姿の芦屋桜子を見かけた。金曜の夜、時間は十時をすぎていて、それくらいになると空海の都市には人通りがほとんどなくなる。まあ田舎だからな。

  そのくせ都市部はなかなか眠りにつかない。飲み屋のネオンがちらほらと点灯して、終電がなくなるまでは飲み歩くサラリーマンなんかが騒ぎながら通りすぎていく。都会にくらべたらその数が少ないってだけだ。

  芦屋はなんだか普段とは違う雰囲気だった。なにが違うのかはさっぱりだったが、明るさが足りない気がした。まあ一人でバカみたいに笑ってる奴もいないだろうけどな。芦屋はコンビニの目の前をそうやって通りすぎた。

  俺は芦屋が気になって週刊少年ホップを棚に突っ込んだ。読み途中で先が気になる……いやしかし芦屋が気になる……!  巻末マンガのラガーさんが気になる!  しかし芦屋が気になるんだ!

  俺はうしろ髪を引っ張られながらコンビニを出た。オッサン数人がおネエ言葉で歩き去るのを待ち、芦屋をキョロキョロと探す。とりあえず姿が見えなかった。都市のなかで探しだすのは困難だろう。しかたない……ここは諦めよう。

  春とか言っときながらまだまだ寒い詐欺みたいな季節。俺はスウェットにダウンという格好だった。こんな姿で夜の都市を歩いてたら補導されちまう。携帯と財布、そして学生証という身分証は財布に入っている。

  俺は安心して芦屋を追うぞ!  身分はきっちり証明できる!  さらばラガーさん……明日また立ち読んであげるからねっ!

  俺はラガーさんを諦めて、芦屋が向かった方向へと歩きだした。車がパラパラと走り去っていく大通りの歩道を進み、芦屋の姿が見えてこないか緊張しながらキョロキョロとしていた。

  しかし寒い……田舎だからな。今年は雪が降らなくてよかったよ。寒いの嫌いなんだよ。だって着ても着ても寒いじゃん?  早く帰ってコタツ入りたいわー。くっそぉ……なんかこんな遅い時間に女子と話したい願望なんだコレ?  なんか昼に会うときとは違う風に見えるんだよ。夏祭りに偶然会ったりするとすげーテンション上がるんだよ!  なんかテンション上がってきた!  芦屋さーん!  夜の君を見てあげるからぁ!

  あー……こっちは確か、いかがわしい店がたくさんあった気がするんだよな。空海高校へ行くのとは逆の方向には、都市の裏のほうにキャバクラとかホストクラブとか……あ、あと……お金を払えばいろんなことをしてくれるあのお店が!    え……まじかよ……芦屋はまさかそんなお店でお仕事を!?

  学校ではかなり評判の芦屋だった。だが寮に入っていて家族はいるんだかいないんだか……中学も同じだったけど、あいつの親が来てるのは見たことないんだよな……ま、まさか!

  だからか?  だからなのか芦屋!  その体育の時に揺れないかな?  揺れないかな?  って男子が注目しているその体を売ってるのか!?  あーくっそおぉぉぉぉぉぉ!  財布にいくら入ってるかな俺!  なんとか十八歳を越えてるように見えるかな俺!  一万二千円入ってた!  イケる?  これくらいで足りる?  指名料とか絡むってアニキが言ってた気がする!  うおぉぉぉぉぉぉ!  足りろおぉぉぉぉぉぉぉ!

  俺の妄想はとどまることを知らず、なんかスウェット失敗かなってなりそうになっていた。とりあえずその暗黒街だか天国だかの方向にそそくさと歩いていく。しかし寒いな……芦屋はお店か?  それとも立ちんぼってやつか?  寒いよーそれじゃあ寒いよ?  オジサンが暖かいとこ連れていってあげるからね! 

  ……って、待てよ。芦屋さっき制服じゃなかったか?  こんなに寒いのにコートもなしか?  いまから店のほうに行くとして……いや、おかしいだろ。

  俺の吐く息は凍りついたように白かった。いくらそういうプレイをするんだとしても、制服姿じゃソッコー補導される。田舎だからって警察は甘くない。どっかからの帰りかとも思ったが、そもそも学校の方向に寮がある。ていうか外出時間も過ぎてるし。なんだ?  なんでこんな時間に……?

  俺はなんだか胸騒ぎがしていた。芦屋が事件に巻きこまれてるんじゃないかと変な想像がよぎった。まあ具体的に事件てなにと聞かれたらまったく想像はつかないんだが。

「お……芦屋!」

  胸騒ぎと一緒に挙動不審でキョロキョロしていると芦屋の姿を見つけた。だがタイミングを謀ったように一台のタクシーが通りすぎ、俺の声を描き消した。芦屋は反対側の歩道を歩いていて、大通りの交差点の角に消えていった。確かその先には大きめの公園があって、噂によれば援助交際のスポットになってるなら早く追いついて客になれえぇぇぇぇぇ!

  俺はマジで全力で走った。冗談はさておき、芦屋がそんなことをもしもしてるなら、止めに入りたかった。俺は中学のときから芦屋に惚れている。正直そういうむにゃむにゃをしてみたい願望はあるが、金でどうこうってのは違う。そんなことを変なオッサンとしてるなら、俺はオッサンを殺さないでいる自信はなかった。  

  俺は大通りの信号に阻まれ、落ち着けずにうろうろした。早く早く!  見失うだろ!  俺は歩行者信号のボタンを連打した。エレベーターのボタンを連打するのと一緒で、まったく効果はないけどな。そのあいだに芦屋の背中はどんどん遠くなっていく。その歩き方には躊躇いってのがない。つまり目的があるってことだろう。

「車がまったくいないくせに、なんで変わらないんだこの信号は!」

  道は片側二車線の広い道路。たまに酔っぱらいが帰宅するためのタクシーが通るくらいだ。やるか。赤信号、みんなで渡れば恐くない理論で行くか!  まあ俺は一人だけどねっ!

  さあ行くぞ……というときに最終っぽいバスが駅のほうから来やがった。しかも行きたい方向とは違う歩行者信号が点滅を始めた。信号変わんのかよ。俺の覚悟はなんだった!?  空海市が俺をもてあそんでんのか?  そういう条令が出来たか!  すげえな俺ハンパねえ!

  信号が青になり、俺はダッシュで芦屋の背中を追いかけた。あれ……背中?  芦屋がいない。さっきまで歩道を歩いてたんだぞ?  芦屋が歩いていた付近には、マンションなんだかちっさいビルなんだか分からない建物が並んでいる。俺が必ず見ているあの番組『ポリス24H!』によれば、そういう援助をやっている店はこういう怪しいビルの一室を借りておこなわれているのもある。くそ……どれだ。どれに芦屋は入ったんだ。性犯罪は撲滅しなければなりません!  あわよくば俺がひと晩だけ撲滅してあげる!  

「……え?」

   必要以上にどきどきしながらビルの群れを見上げたりしていると、影のようななにかが屋上から飛び去るのが見えた。七階建てくらいのビルから飛んだのは一つじゃない。二つだ。都合よく都市の光が届かないせいで、それは鳥かなにかにしか見えなかった。でもなんか……鳥にしてはでかくないか?

  いきなり頭のなかでカメラオタクの功太が喋った。斗真くん、UMAユーマはどこにでもいるのだよ……うっそマジか!  あれが空海市に潜んでいると言われている米の化身コメリマスヨさまっ!?  ありがてえぇぇぇぇ!

「見ちまったよ……絶対コメリマスヨさまだよあれ。だって鳴き声してたよ。ソンナコトイワレテモ、コメリマスヨーって言ってた!」

  俺はヒーローショーを見に行った少年達のように高揚していた。芦屋が気になる。しかしコメリマスヨさまの実態も気になる。俺はコメリマスヨさまが飛んでいった夜空を見上げていた。すると、

「あ……?」

  なんかヒラヒラと宙を舞う物体があった。それは落ち葉のようにふわふわと舞い、大通りの真んなかに落ちた。おいおい、見つけた瞬間にもう物的証拠が?  噂によればコメリマスヨさまは実りを象徴する稲穂を常備、手にしている。それを口にすれば、一生を米にだけは苦労せずに生きていけると言う――欲しい!  それ欲しい!  いいんだよ朝昼晩に米があれば!  おかずが欲しい奴はチャーハンと合わせろ!  汁物?  んなもんは米のポタージュにしろ!  米は無限だ!  おやつ?  煎餅せんべいでいいんだよ!  何度も言わせんな!  デザートはおかゆだよっ!

「うおぉぉぉぉ!  コメリマスヨさまの恩恵ぃぃぃぃぃぃ!」 

  俺は車道を左右確認して走り出した。すまん芦屋、この瞬間は逃せない!  ちょっと待ってて!  あの人生のバランスブレイカー(稲)を手にいれたら助け出すから!  あの伝説のアイテムを手にしてね!

  伝説の稲を掲げた勇者俺……?  すげえぇぇぇぇぇカッコいいぃぃぃぃぃ!  稲が武器とかマジでカッコいい!  敵はなんだろうな。やっぱり麦だろうな。その世界ではパンとか邪道なんだよ。あとビールね。酒の戦士長が俺を鍛え、ビール魔軍長との決戦に片膝をついてしまう俺を酒戦士長が命をかけて助け出す!  あ……なんか泣けてきた。かっけぇよ酒戦士長……俺が倒します!  絶対倒しますよ!  うおぉぉぉぉビール許さな――

「あれ?  稲穂じゃない……」

  俺は車道に落ちたものが稲ではないことを知ってガックリしていた。まあ……伝説の稲がそんな簡単には見つからないよな。いやそれよりも、

「布……だな。切れはしか?」

  なんか本当に破けましたみたいな布切れが落ちていた。ダイヤのマークの形に近く、黒っぽい赤色の布だ。ちょ待っ……!  このはしっこだけ色が濃いけど、血じゃないかこれ?  そこで閃く。

「制服の切れはし……に見えるんだが。こんなところに?  まさか芦屋の制服が破けましたってことか?  じゃあもうパンチラどころかパンモロ!?  いいのかそれ、いいんですか!  もうコメリマスヨさまは後回しだ!  芦屋を追うぞ!」

  食欲、性欲――純朴な少年のココロに俺は翻弄ほんろうされる!  制服が破けたってことは事件だよな。そう、これはあくまでも芦屋が心配だからだよ。べつに期待はしてないし、ラッキーのフラグが立ったとは思っていない。断じて!

  俺は制服の切れはしを拾って影が飛んでいった方向に走った――ん?  飛んでたんだよな……切れはしは空からヒラヒラってしてたんだから。は?  芦屋が飛んでた?  んなバカな……。

  まさか芦屋は昔テレビアニメでやっていた月夜からの使者『ネイビームーン』だったのでは……月にかわって大テロル!  の決まり文句で有名なあれだ。あれの必殺技スゴかったなぁ……なんせ主力艦を肩にかついで一斉掃射してたもんなぁ……月の力ってスゲェよって騒いだよ。あと、どこからともなくあらわれるオフィサー仮面様が良かったよな。

  それはともかく、影が飛んでいったのは例のいかがわしい噂のある公園のほうだった。その公園はけっこう広めで、森になっている丘をチョチョイといじって造られている。そのせいで死角が多いし、それが隠れて犯罪が起きている原因のようになっているのだ。まあ噂だけど。

  ある意味その公園は別世界への入り口だった。なにせ都市のスパイクヒルズにいきなり自然の丘が配置されているんだ。なかにはいればうっそうとした森。電線も引いてあるが、遊具なんかがある中央広場にしか電灯がないからかなり暗い。なんでそこに行くまで電灯がないのか意味が分からない。予算を渋りやがったのかもしれない。

  とにかく俺は公園に着くと石段を登り始めた。なんて言うのかその雰囲気は神社っぽい。心霊関係が苦手な俺はそういうことを考えると進めなくなる――いつもはな。しかし俺は飛んでいった影が芦屋かどうかを確認しないことには、どうにも落ち着かなくなっていた。

  暗い森に俺の足音が反響している。すげえ恐い。鳥も虫も鳴いていない。そして寒い。石段を一つ登るたびに冷気が増していく気がした。森のなかは闇に埋もれていてなにも見えなかった。なにかがいるんじゃないかという恐怖……一人で来るんじゃなかったか?  と長い石段を登っていく。

  そもそも確信があるってわけじゃない。現実的に考えて人間が空を飛ぶってアホかって感じだが、芦屋の姿を見た直後だったし、空海高校の制服っぽい切れはしだって持ってる。しかも血に見える染み……いや、そこまでそろってても馬鹿げてるんだが……。

  結局はまあ、好きな女子を見かけちまって、その相手がなんでこんな夜に出歩いてんだ?  ていう疑心暗鬼だった。なんかやじゃん。想いを寄せてる女の子に実は彼氏いました、みたいな展開は嫌じゃん。

  しかも相手が大学生とかでさ。車とか金銭面で負けててさ。アイツのどこがいいんだよって聞くと、『大人だしカッコいい』とか言われてさ。それはムリだわ、うん、敵わないよね。だって君と僕は同い年だもんねっ。いきなり年齢三つ増しとか出来ないしね。そんなラーメンのトッピングみたいにマシマシでっ!  とかいきなりムリだし。

  え?  嘘……そうなのか芦屋?  大学生とお付き合いしてんのか?   うわぁどうしよう俺。勝てる見込みないんですけど。だって気持ち以外に武器ないもの。ただのしがないエロ高校生以外の取り柄ないもの!

  俺はどこか重い足どりで石段を登っていった。石段を登りきると固くした土の地面が真っ直ぐの道になり、周囲は相変わらずの暗い森だ。だが俺にはもはや芦屋と大学生がどこまでの関係なのか、それを考えるほうが恐ろしくなっていて、真っ暗で不気味な自然など眼中にない。

  ざっざっと歩きながら、芦屋の初めてはどこまで初めてじゃなくなっているのかを考える。どのくらいまで初めてを終えたのか――いや違うぜ斗真!  まだ芦屋は清いはずだ!  まだ勇気がないとか言って断ってるよいろんな初めてをね!

  夜空のお星様を見上げてガッツポーズし、理想と可能性を追い求めて俺は広場になっている場所へと向かった。その広場というのは夏とか正月くらいになると、祭りをやるようなスペースだった。学校の校庭くらいの広さがあり、やぐらを建てたりキャンプファイヤーのような篝火かがりびを焚いたり、女の体目当ての男が色々とタテたりする場所だ。あと二十メートルほどすればたどり着く――という場所でそれは聞こえた。ドスンッ……!

「……えーとぉ?」

  芦屋への想いよりも心霊系への恐怖が勝った。今しがた背後から聞こえた物音は?  妖怪とかか?  上から妖怪ラッカサンか?  どんな妖怪か聞かれても思いつきだから説明は出来ない。あう……でもポルターガイスト現象とか、そんなんだったらもう死にたいぞ……?

  説明すると恐いから言いたくなかったが、ドスンッ!  のあとから、ずっとさっきからはぁはぁ言ってるんだよね。あっちのはぁはぁならともかく、このはぁはぁは俺は嫌いだなっ。あームリ、マジムリ!  いろんなの思い出しちゃうから!  毎晩押し入れから這い出てくる髪の長い女とか、うーうー唸って歩き回る髪の長い女とか、天井からだらんと逆さまに出てくる髪の長い女とか……なんで髪型のバリエーション統一なんだよ!  季節ごとに髪型くらい変えろよ!   色気ねーなー!  

  俺は金縛りにあったように体を動かすことが出来なくなっていた。心臓がオーバーロード寸前と言わんばかりにドキドキしている。顔は自然と、いぃ~!  っていう感じになっていた。恐いぃぃぃぃ……!  帰りたい……もう帰りたい……。

「……うぬは……?  人の子か……」

  喋った!  よく分からないけどお婆さんみたいな声!  心霊系の信憑性が増してきた……そんなトッピングいらないよ!

ね……いぶせしものぞと、いとものしなり……」

  何言ってるか分からねえ!  余計に恐さがマシマシだ!  でも最初は分かった……稲、だろ?  いぶせしものぞと……つまりは稲をいぶしてる。いとものしなり?  古来から伝わる稲作の技かなにかか?  まさか!

「コメリマスヨさまが俺に秘伝の稲作の技法を伝えているのか!?」

  俺はテンションが上がり思わず振り向いていた――が、それが失敗だった。そんなことをしなければ、俺は普通の高校生でいられたはずだ。そのまま恐怖で走り去ってしまえばよかった――でも、それがなければ俺は、本当のことを知ることなんて出来なかった。

「あ……芦屋……?」
「……ドーマくん……!」

  そこにいたのは――俺にわけの分からない言葉で話しかけていたのは芦屋だった。夕陽のような赤髪、炎のような紅い瞳、血のような真っ赤な唇――そして赤い雫をポタポタと垂らす凶悪な爪。俺の知る芦屋とはまったく別の何かは、驚愕して目を見開いていた。

「おま……おまえこんな時間にコスプレ?  ああ、いや……俺たまたま散歩してて――」
「すぐにここから離れて――死にたくなければ去るがいい、小僧」

  はい?  なんだなんだ!  俺は目をゴシゴシと擦った。俺には芦屋と被るようにして、変な女が見えていた。真っ白な十二単じゅうにひとえのような着物を着た、銀髪の女だ。そして芦屋の声音は、その女が見えたり消えたりするたびに変化していた。

「わたしのことは――忘れるがいい――ドーマくんはなにも――見ておらぬ……そう立ち回らねばわらわが――クイモノがあなたを手にかける!」
「待て……さっぱり分からない……それはなんなんだよ……それ、幽霊かなんかか?」
「!  ニエが漏れ――て来てるみたい。ドーマくん――アレは人をむモノゆえ――逃げないとあいつにも狙われる!  早く!」

  芦屋はそう言い残すとダンッ!  と飛んで森の奥へと消えた。なんだ……なにが起きてるんだ……芦屋!

  俺がなにを考えていたか。それは芦屋への心配だった。俺は芦屋を追うように森のなかへと分け入った。暗闇に飲み込まれていくような、不安しか与えてこない森を、手探りで進んでいく。

  俺は酷く焦っていた。あれは、あの爪から垂れていたのは間違いなく血だった。制服の切れはしに付着していたのが血痕だとしたら、芦屋はどこか怪我をしているはずだ。いや、考えなきゃいけないのはそこじゃない。クイモノ?  贄?  なんだそれ……なにしてんだよ芦屋……いったいなにが起きてんだよ!

  森のなかにいると方向感覚ってもんがなくなる。目印もなければ二メートル先も見えない。まったくの勘で言うなら、だいたい広場に向かっているはずだ。俺は木の幹に頭をぶつけたり、飛び出した根っこに足を取られたりしながら進んでいった。

  何分もさ迷い、遭難者の気分で進んでいくと灯りが見えた。この公園には唯一、広場に電灯がある。丸く空中に浮かぶ灯りが、電灯のものに見えた。俺はその目印に進んだ。進んで進んで……視界が開けると、そこは思った通りの広場があった。砂を敷き詰めた広場のはしっこに一本の木が生えていて、その足元にはベンチがあり、それを電灯が照らしている。そして――

「芦……屋?  芦屋……芦屋!  なに……やってんだよ……!  そんなことやめてくれよ……芦屋あぁぁぁぁぁ!」

  ――最初は野良犬かなんかだろうと思っていた。野良犬が持ち帰った餌を食べてるんだろうと思った。だけどそれは野良犬じゃなかった……ましてや餌なんかじゃなかった。四つん這いになっていたのは芦屋だった。そして餌なんかじゃなかった。餌だと思っていたのは、人間だった。

  俺は呼吸がまともに出来なくなり、喘息の発作のようにヒューヒューと喉が鳴った。理解が追いつかずに足だけが動いていて、少しずつ芦屋に近づいていく――

「芦屋……芦屋!  なんでそんなこと……なんで人間なんか食ってんだよ!」

  わけが分からないうちに、俺はボロボロと涙をこぼしていた。なんだか無性にムカついたし、なんだか無性に哀しくなった……。

  芦屋は学校じゃあすげえ人気者で、いつも笑顔で明るくて……とにかくすげえ可愛い奴だった。その笑顔は俺の記憶に鮮明に残ってる。突如として失われた一年間の記憶――だが芦屋の笑顔で俺はまた人間になれた。その一年の俺は――俺の世話をしていた看護師から聞いた話だが――俺は無表情で過ごし、そして誰彼構わずに暴力を振るっていた。首を絞められて殺されかけた人もいたらしかった。さらに自傷行為もやめられず、拘束衣で日々を送っていた――それが空白の一年の俺だ。まるで悪魔が憑いたみたいだと言われた。

  芦屋は俺のことを学校で聞いて、お見舞いに行くと言った女子生徒だった。そんな危篤な奴は芦屋くらいだった。中学三年になろうとしていたその時には、俺の噂はとっくに流れていたからだ。そしてその笑顔が奇跡を起こした――それがあの、俺が芦屋に惚れるようになったあの笑顔だ。だけど――

  その顔はいま、食事によって赤く禍々しく染まっていた。俺は芦屋に近づいていき、クチャクチャという音を聞いて足を止めた。電灯に照らされた芦屋の姿は、映画なんかで見るゾンビそのものだった。

  俺は恐怖よりもなによりも、そんな芦屋の姿がとても哀しかった。好きな相手が人間を無我夢中で食ってるんだ……なんでそんなことしなくちゃいけないんだ?  なんで芦屋がそんなことするんだ?  芦屋は……俺のなかの芦屋は……!

  ……俺は半狂乱てやつになってたんだろう。うぐ……うぅ……とか言いながらただ歯を食いしばって泣いていた。芦屋は倒れた人間の腹に顔を埋めて、ぐちゃぐちゃと中身を漁っていた。そこからは赤くヌメヌメとした肌色のロープ(?)が飛び出している。それを噛み千切り、芦屋は俺のことなど気にもせずに続けていた――

「もうやめてくれ!  芦屋なんだよな?  おまえは俺の知ってる芦屋なんだよな?」

  どうせなにも聞こえてない……そう思った瞬間に、芦屋は俺の顔を直視した。肉片と血がこびりつく口を制服の袖で拭い、こくりと頷いた。だがその顔には感情が無いように見えた。なにかに憑かれてるのか?  さっきの女に……!

「やめろ……な?  そんなことしないでくれよ……頼むからぁ!」
「ダメ……お腹空いた……」

  俺の懇願を一言で拒み、芦屋はぽっかりと開いている人間の内側に顔を近づけた。お腹空いた――その言葉に俺は寒気を覚えた。腹が減って人間を食べる。その異常性にようやく気づいた。芦屋じゃない……これは芦屋じゃない!

  頭を抱えて、地面に膝を着く。その咀嚼そしゃくの音がいつまでも響く――そこで、芦屋はこれまでとは違うことをした。上体を起こし、赤い爪を勢いをつけて振り降ろした。ぐちゃぐちゃと中身を掻き回し、なにかを見つけたのか手を止める。そして引き抜いた――ゴグンッ!  と人間の体がいちどだけ揺れ、俺は意味が分からない光景を見ていた。

  人間を囲むように、球状の闇が出現した。それはまるでブラックホールみたいだった。その人間にあった闇は、すぐに収縮して消えた。芦屋の手には内側に明滅する光が見える黒い玉があった。それを芦屋はゆっくりと口に近づけていった。

   芦屋が果実を頬張るように黒い玉にかじりつく。そして芦屋は黒い玉を頭の上くらいに持ち上げた。舌を出して、滴り落ちてきた黒い液体のような、黒い霧のようななにかを受け止める。芦屋は喉を鳴らしてそれを飲み込み始めた。ごく……ごく……という音をたてて、その眼には恍惚が浮かんでいた。俺は――

  俺は、その光景を見て美しいと感じていた。なんでかは分からない。本当に頭がイカれてしまったのかもしれない。電灯の光の中で、その光景は神秘的にキラキラと輝いているようにすら見えた。前面が血に染まった芦屋は不気味だったし、お世辞にも褒め言葉みたいなものが浮かんでくるような有り様じゃなかった。どちらかと言えば化物だと罵られるんじゃないか。普通ならそうなるんだろう……でも俺はまるで、月光に照らし出された女神を見ているような感覚だった。すげえ……芦屋は綺麗だった。

  芦屋は雫が無くなると、その殻を放り投げた。果汁が口のまわりに付着したと言わんばかりに袖で拭い取る。芦屋の口のまわりには血の縞模様が出来た。そしてその眼が俺へと向けられた。

「ドーマくん……どうして逃げなかったの?」
「逃げる……?  何から逃げるんだ……?」
「クイモノ。わたしからだよ」
「クイモノって……?」
「見られたら、見られてしまったら……」

  芦屋はどこか哀しそうだった。俺はどうやら殺されてしまうようだ。でもなんだかどうでも良かった。

  芦屋はゆっくりと俺に近づいてきた。なるほど……その獰猛な爪で切り裂くのか……芦屋の赤い爪が一瞬で十センチほど伸びた。

「どうして逃げなかったの?  どうして逃げてくれなかったの?」

  そういや逃げる気なんか無かったな……芦屋のことが心配で、それ以外はどうでも良かった。芦屋が目の前に立って、俺を見下ろしていた。その顔は血で汚れていたが、芦屋は芦屋だ……すげえ可愛い。

  そうだな……これは芦屋なんだよ。普通じゃないだけで芦屋であることに変わりはない。なんだかそう考えると、別に人間食ってようがなんだろうがどうでも良くなっていた。

「ドーマくん死ぬんだよ。これからドーマくんはわたしに殺されるんだよ?」
「ああ……殺せばいいじゃねーか。最後にいいもの見れた」
「なにそれ?  終わるんだよ……全部終わっちゃうんだよ?」
「いや……だからさ……」

  やっぱり気が狂っていたとしか思えない。あまりにもショックが強すぎて、俺はまた笑えなくなった時と同じように、どこかが壊れたのかもしれない。

「本当の芦屋が見れたから……俺はそれでいいわ。別に死ぬのとかどうでもいい。俺はだって……おまえのこと……」
「どうしてそんな顔が出来るの?  死ぬんだよ?  わたしが殺さなくちゃいけないんだよ……?」

  その言葉の意味は何だったんだろう……。

  芦屋は哀しそうで、そして俺を殺そうとしていた。でもその言葉はどこか、わたしに殺させないでと言っているように聞こえた。だから哀しいのか……?  まあ、死ぬんだからどうでもいい。

「おまえのそんな姿……見てるのはちょっと辛い……だから死んでもいい」
「ドーマくん変だよ……絶対に変だよ!」

  変だよな。確かにおかしいと思う。芦屋になら殺されてもいいみたいなことなんだろうか。そうだな。おまえに必要ならやればいいよ。こういうのを惚れた弱味とか言うんだろうな……。

  でも変なのはおまえもだぜ?  なんでさっさと殺さないんだ?  見られたからには捨て置けないってやつなんだろ?  なんでそんなに躊躇うんだ……やらなきゃいけないのに、なんでそんなに困った顔してるんだよ。

「ぐ……明日、時間を作って。話があるから……!」

  芦屋は苛立たしげにそう言うと、砂を巻き上げながら飛んだ。一陣の風は渦を巻き、冷たい風が通り過ぎていった。

  芦屋が消えた広場には、虚しい電灯の光が射していた。一本木と、その下にあるベンチと、誰だか知らない死体が横たわっていた。俺はただ呆然とその風景を眺めていた。今のところ混乱してるんだろう。何がなんだかさっぱり分からないまま、俺は脱力から尻餅を着いて、その風景を眺めていた。

  ――そして俺はその翌日、芦屋と契約を交わした。
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